仲源寺を退出して、四条大橋の西側から鴨川を眺めつつ、レイコさんが、仲源寺が創建された時の様子は分かるのですか、と尋ねてきました。
「本尊が地蔵であった事以外は何も分からないですね。鴨川の氾濫で被害を受けて荒れて廃絶同然になっていたのを、鎌倉時代に中原氏が再興したわけで、仲源寺の寺号そのものも、中原氏の姓からとっている」
「あ、そういえばそんな感じですよね。もとは中原寺、だったのですかね」
「いや、これは仏教では一般的な音読みに合わせたんでしょうね。中原はナカハラと読みますが、音読みにするとチュウゲンになる。これに鴨川の治水対策にあたった中原氏の職務を込めた漢字をあてて、中を仲、原を源にあてる。読みは同じチュウゲンですから、仲源寺と表記しても違和感は無い」
「それが中原氏が関わってからの寺号、ということは、それ以前の定朝創建の時の寺号は分からないわけですか?」
「はい、昔、私も色々調べたんですけどね。一度、住職にもお会いして古文書類も見せていただいた。でも鎌倉時代のものすら伝わってなくて、伝承類ばかりでした。寺が現在の状況に落ち着くまでに、戦国期の変転を経ていますから、失われた情報のほうがはるかに多いのですな」
「そうなんですか・・・」
「ただ、寺が鴨川の東岸に位置したことは間違いないようです。本尊が地蔵であるのは、おそらく死者の鎮魂と浄化のためでしょうね」
「やっぱり、このあたりも葬送の地だったんですか」
「そうです。この辺りはもともと天台宗の管轄域で、清水寺の支配下にあったらしいので、同系列の祇園観慶寺つまり今の八坂神社ですな、そこまでの範囲が平安京の東の墓地であったらしい。定朝が創建した地蔵の寺も、定朝が天台宗系の僧侶であったことをふまえますと、天台宗に属した筈です」
「その地蔵さんは、立派な仏像だったのですか?」
「定朝が彫ったというのが史実であればね。今に伝わっていたら、間違いなく国宝ですよ」
「国宝って、凄いじゃないですか。平等院の阿弥陀さんも国宝ですね。定朝って凄いんですね」
「凄いどころか、日本を代表する仏師ですよ。日本の長い歴史のなかで、天皇より勅を賜った唯一の職人です。運慶なんて足元にも及ばない、至高の存在です」
「星野さんは、その定朝をずうっと研究されていたわけですか・・・、なんか素敵ですね」
「いやいや、素敵なんてもんじゃない、分からない事が多すぎてどうにもならない部分が多くて辛かったですよ、歴史の彼方に失われて消えたものを取り戻すというのは、もともと無理がありますから・・・」
「そうなんですか・・・」
そこでなんとなく仲源寺に関する話も終わりました。鴨川の水音がさらさらと響くなか、橋上の雑踏に視線を送り、空を見上げ、再び水面を見下ろしました。
「では、行きますか」
「はい」
祇園四条駅から京阪電車に乗り、出町柳駅で叡山電車に乗り継いで、上図の修学院駅で降りました。この日は修学院界隈の「けいおん」スポット巡りをする予定だったからです。
もとは一人で行く積りでしたが、仲源寺の件があってレイコさんが同道していたため、修学院の件を話したところ、笑顔になって「行きます」と即答してくれました。
彼女は「けいおん」がテレビ放送していた時期に高校生で、2期の放送時には平沢唯たちと同じ三年生で受験生だったといいます。受験勉強の合間に息抜きと称して京都の「けいおん」聖地を歩き回り、ローソンのキャンペーンに必ず買い物に行き、アニメイトでけいおん文房具を買い集め、京阪電車のラッピング列車に何度か乗って、けいおん特別スタンプラリーにも参加したそうです。生粋の「けいおん」ファンです。
なので、修学院と聞いただけで目を輝かせていたのは、むしろ当然のことでした。
本来、私自身の「けいおん」聖地巡礼でまだ細かく回っていなかった最後のエリアが修学院でしたので、今回は重点的にスポットを探して撮影して回る筈でした。しかし、レイコさんが来てくれたおかげで、場所を探し回る必要が無くなりました。彼女が全部詳しく知っていて、教えてくれたからです。
「この踏切横の場所、ここに律ちゃんが居て澪ちゃんに電話かけたんですよ」
「第何話のシーンでしたか?」
「14話の「夏季講習」です」
「ああ、2期のか」
「そんでね、澪ちゃんに邪険に電話切られた後で、律ちゃんはこの方向にこう歩いて行くんです」
「それで、ムギの後姿を発見するわけですな・・・」
「そうですそうです」
「ここもあんまり変わってないですね」
「私が造形大に通っていた頃から変わっていませんな」
「それっていつ頃ですか?」
「2001年から2003年でしたかな。けいおん放送の6、7年前ですよ」
「この道は唯ちゃんやあずにゃんの通学路でもあったんですよね」
「ですな」
「あずにゃんが立ち寄ったペットショップはこの先にありますね」
「そうですな」
「それでね、ここの場所で、こういうアングルで写真撮ると、ムギちゃんを尾行する律ちゃんのカットになります」
「ああ、なるほど、ここだったのか」
「はい、ムギちゃんは真っ直ぐに歩いていって、その先の角で左に曲がるんですよ」
「この角でムギちゃんが左へ曲がっていく。律ちゃんがこの電柱の陰に立ち止まって、その方向を見たら、いつの間にかムギちゃんの姿が消えてしまっているわけです」
「ですな」
「でも、景色とかは今はかなり変わっちゃってるんですね。ホラ、あそこに本屋があったんですけど・・・」
「知ってますよ。その本屋で買い物をしたことがありますからね」
「律ちゃんをムギちゃんが背後からワッと言って驚かせた場所がここですね」
「そうですな。あの「双鳩堂」には入ったことあるの?」
「残念ながら無いです」
「双鳩堂」の前の道から、田井中律が陰に隠れていた電柱の北方向を見ました。修学院離宮道との出合が見えます。道をまっすぐに北進すれば、音羽川の橋を渡ります。
遠くには、大原の山並みが望まれました。
「大原とか、素敵ですよね」
「ほう、大原にはよく行ってたのですか」
「はい、三千院とか来迎院とか。もちろん寂光院へも行きました。紅葉の季節に家族で行ったこともありました」
レイコさんは、高校時代まで京都市西京区に住んでいたそうですから、京都の主な名刹には訪れたことがあるそうです。そうやって古社寺に親しんできた流れも、仲源寺への熱心な信仰振りと無関係ではないだろうな、と感じました。
道を引き返して駅前の踏切を渡り、東へ向かいました。平沢唯たちの通学路シーンによく出てくる歩道であるせいか、レイコさんは雰囲気を味わうようにして楽しそうに歩いていました。彼女にとっても、このエリアは思い出の地であるようです。 (続く)