気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

カメさんチーム 38(t)戦車 作ります!! その2

2014年11月30日 | ガルパン模型制作記

 ステップ1は、車輪などの組み立てです。プラッツ公式キットのガイドの方を使用しました。ここでは転輪やリーフスプリングを組み立てる工程も含まれますが、手順がやや煩雑なので、仮組みしてのチェックのみとし、軸基部のA13およびA16だけを接着することにしました。
 角谷杏生徒会長が、「綺麗に作ってよねー よろしくー」と言っております。なんとかその方向で努力したいと思います・・・。


 上画像は、双方のキットのAランナーを並べたところです。左がドラゴンキット、右がプラッツ公式キットのものですが、パーツ構成が一部で異なっています。ドラゴンキットでは上にリーフスプリングのパーツがあり、それはG型以前の穴有りタイプになっています。おなじランナー内にG型以降の穴無しタイプもあって、ある程度の作り替えが楽しめるようになっています。
 これに対して、プラッツ公式キットでは、リーフスプリングのパーツはG型以降の穴無しタイプのみです。劇中車でも、リーフスプリングは穴無しタイプなので、B/C型とうたっておきながらも実際には後期のG型以降の特徴を持っているわけです。ガルパン戦車特有のごちゃまぜ設定が、ここにも表れています。
 さらに特筆すべきは、プラッツ公式キットの下に、ドラゴンキットには無い誘導輪のパーツが追加されている点です。


 プラッツ公式キットの誘導輪パーツA21およびA22を接写しました。誘導輪の穴は、実際にはA型からE型までが卵形、F、S、G型がダルマ形で、ドラゴンキットでは誘導輪の穴がG型のダルマ形に合わせてあります。さらにH型以降が円形になりますが、劇中車ではH型以降の円形になっています。ここにもガルパン戦車特有のごちゃまぜ設定が見られるのですが、プラッツ公式キットには珍しく、この設定をふまえてH型以降の円形穴の誘導輪パーツをA21およびA22として追加してあります。
 こういう配慮が出来るのであれば、もっとガルパン仕様への追加パーツを組み込むことも出来ただろうと思います。もう少し企業努力をしていただけたら、と残念に思います。


 起動輪のパーツは、A24およびA25とA15が指定されていますか、公式設定図や劇中シーンなどと見比べると、外側の穴が大き過ぎます。上画像右側の、マーダーⅢのパーツの方が劇中車の形に近いので、ここはマーダーⅢのキットのパーツA12、A13、A22を転用することにしました。


 大体のパーツの組み立てが終わった段階です。起動輪はマーダーⅢのパーツを転用し、誘導輪はプラッツ公式キットから転用し、リーフスプリングはG型以降の穴無しタイプのA9を使用しました。最初からこのように色々と留意点が多いので、これからの制作においても慎重に進めていかねばならないな、と思いました。


 転輪のA7も整形して揃えました。数が少ないと制作も楽です。ただ、大きくて目立つので、整形や接着や塗装をしっかりやらないと、見栄え出来栄えにかなり影響するでしょう。


 ステップ2です。車体への各パーツの取り付けです。ここは指示通りに進めました。河嶋桃が「よく確認して慌てずに慎重にな」と忠告してくれます。まさにその通りで、とにかく仮組みによる事前確認や慎重な組み立てがステップごとに必要でした。
 なお、ガイドにはワンポイントと称する上級者チャレンジ工程の指示があり、車体パーツのEの裏面のリベットを追加する作業があります。完成すれば見えなくなる箇所なので、やらなくても良いです。それに、今回のガルパン仕様への制作ではリベットが大量に必要となるので、このワンポイントはむしろ無駄なステップとして映ります。したがってスルーしました。


 組み立てに先だち、ガルパン仕様への小改造を施しました。車体右側面上端の逆台形のモールド上にリベットが二つ並びますが、このリベット二つが劇中車では省略されています。なぜ右側だけが省略されているのか分かりませんが、ガルパン仕様に近づけるのであれば、避けては通れないステップです。


 車体右側面上端の逆台形のモールド上のリベット二つを丁寧に削り取りました。このキットをガルパン仕様に仕上げる場合には、車体各所のリベットを大量に追加する必要があるので、こうして削り取ったリベットも再利用のためにとっておきました。もちろんそれだけでは足りないので、ジャンクパーツなどから沢山のリベットを調達しなければなりませんでした。


 続いて、インテリア部分のパーツを、ドラゴンキットのガイドを見ながら組み付けてゆきました。車内の床面となるA18、ギアボックスに繋がる部品のD37およぴD55、D56などがあります。


 床面となるA18を接着しました。車体パーツのEには椅子の接着位置などがモールドされていますので、A18をそれに合わせてつけました。このA18の床部分は、劇中シーンでチェックすると、河嶋桃の居る空間にあたるようです。角谷杏や小山柚子の座っている座席がその前方に位置するので、二人の居る空間の方が狭いことが分かります。劇中シーンでは、それほど窮屈そうな雰囲気は感じられないんですけどね・・・。


 ギアボックスに繋がる部品のD37およぴD55、D56を組み立てましたが、この段階で車体パーツのEに取り付けてしまうと、後でギアボックスなどを取り付ける際に苦労するらしいことが、仮組みによって判明しましたので、この段階では接着しないでおきました。
 ドラゴンキットでは、ガイドの順番通りに組み立ててゆくと、後で他のパーツとの合いがずれたりして調整や作り直しを余儀なくされるケースが少なくないので、事前に仮組みして組み立ての順番をチェックしておく作業が欠かせません。
 今回の38(t)戦車も例外ではなく、むしろ以前に作ったⅢ号突撃砲F型よりも注意箇所が多いので、制作には依然として慎重さが求められました。気楽に作れるキットでは無いな、と何度思ったか分かりません。


 この段階で、車輪類の軸基部にあたるA13およびA16だけを接着しました。ステップ1の指示にあったリーフスプリングなどを取り付けても良かったのですが、パーツの合わせ方がガイドの図では分かりにくいので、仮組みだけをしておきました。
 今回の制作ではインテリアも作るので、車体パーツEをしっかりと置いての組み立て作業が欠かせません。同じインテリア付きキットのM3中戦車リーを作った時に比べて、車体が小さく室内空間も狭いので、パーツの取り付けには苦労しそうに思われました。 (続く)

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カメさんチーム 38(t)戦車 作ります!! その1

2014年11月29日 | ガルパン模型制作記

 私のガルパン戦車模型の第七作目は、カメさんチームの38(t)戦車にしました。第一作目の三式中戦車チヌがファインモールド、第二作目のⅣ号戦車D型がタミヤ、第三作目のⅢ号突撃砲F型がプラッツ(ドラゴン)、第四作目のM3中戦車リーがアカデミー、第五作目の八九式中戦車甲型がファインモールド、第六作目のルノーB1bisがタミヤでしたので、次はプラッツ(ドラゴン)のキットにしようと考えていました。

 その時点で、未着手のプラッツのキットはⅣ号戦車D型F2仕様、38(t)戦車、ポルシェティーガーの三つがありました。ポルシェティーガーは劇中と同じように大洗チーム戦車のラストに置く予定であり、とりあえずは大洗チームの初期5チームを揃えたいと思ったので、まだ作っていなかったカメさんチームの38(t)戦車に決めました。
 上画像は、すでに購入して積んであったプラッツの公式キットです。去年の秋に買いましたが、その頃はキットの評価が散々だったためか、定価4536円の品が2400円で販売されていました。当時の模型仲間にも、プラッツのガルパンキットは買わない方が良い、などと忠告された記憶があります。


 というのは、上掲の劇中シーンにて「38(t)戦車 B/C型」と紹介されているにもかかわらず、プラッツの公式キットが形状も仕上がりも異なるE/F型のタイプであったからです。元になるドラゴンのキットにB/C型が存在しなかったためでしょう。実際にはB/C型という分類は存在せず、A/B型と呼ばれる前期型に相当します。
 それならば、事情をきちんと説明した上で、補完用のパーツ等を新たに開発して添えてB/C型(実際のA/B型)への作り替えが出来るようにすれば良かった筈です。プラッツはそうしたユーザーへの配慮を一切施さずに、E/F型のキットをそのまま流用したため、モデラーの方々から批判を浴びてしまった形です。

 そのプラッツの公式キットは、現在も販売されているようですが、批判された相違点はフォローされないままで、アマゾンでの商品説明でも「生徒会「カメさんチーム」が搭乗する『38 (t) 戦車』を再現。劇中のリアルな車体をサイバーホビー/ドラゴンのキットを使用し細部まで完全再現。」となっています。実際には「完全再現」ではありませんから、ガルパン仕様に作る場合は様々な改造や追加工作が必要です。

 なお、カメさんチームの38(t)戦車は、車体色が二種類あり、上図のような聖グロリアーナ女学院との親善試合時の金色塗装の姿のイメージが相当のインパクトを与えたためか、ネット上などで見かける先行作品の多くは金色塗装の姿にて製作されています。


 私の制作においては、これまでの作品と同じく、全国大会出場時の姿に仕上げる予定です。上画像は、第三回戦のプラウダ高校との試合時のジャーマングレー塗装の勇姿ですが、この姿になったのは第一回戦の対サンダース校戦からでした。
 ただ、ジャーマングレーと言っても、カバさんチームのⅢ号突撃砲F型に用いた色よりもやや青味がかかった色調であるのが劇中シーンでも確認出来ます。塗装時には、おそらく調色が必須となるでしょうが、私なりには、第二次大戦時のアメリカ海軍機の機体色みたいだなあ、と感じていますので、その系列の色たとえばミッドナイトブルーなどが使えるんじゃないか、と思います。


 私の制作においては、以前に述べた事情により、プラッツの公式キットではなく、元のドラゴンのキットをメインにして組み立てることにしました。外見上はE/F型でも良いのですが、インテリアがG型以降のタイプであるようなので、上画像のG型のインテリア付きキットを模型仲間に譲っていただき、これでカメさんチームの38(t)戦車を内部まで再現して楽しむという形を選択しました。

 ガルパン戦車キットで、内部も再現して楽しめるインテリア付きキットは、他にドラゴンのⅣ号戦車D型などが知られますが、私はウサギさんチームのM3中戦車リーをアカデミーのキットで作ったのが最初で、それがとても作り甲斐があって面白かったです。それで、インテリア付きキットをもう一回楽しみたいな、という気持ちがありました。

 でも、ガルパン戦車の内部空間がだいたい分かるシーンは、劇中では一部のチームの戦車に限られます。主役のあんこうチームのⅣ号戦車D型を除けば、ウサギさんチームのM3中戦車リーとカメさんチームの38(t)戦車ぐらいです。あとのチームの戦車は内部の描写も一部にとどまっているので、インテリアをガルパン仕様に仕上げたくても、参考シーンが絶対的に不足しています。
 なので、カメさんチームの38(t)戦車をインテリア付きキットで作る、というのは、私にとっても最上の選択肢でありました。


 さらに、上画像のタミヤのマーダーⅢのキットも使用することになりました。以前の記事で述べたように、ドラゴンのキットでは履帯を作るのが大変なので、タミヤのマーダーⅢのキットのベルト式履帯を転用する方向で考えていたからです。マーダーⅢは、38(t)戦車の転用型なので、車体は38(t)戦車と同じだからです。

 最初は、タミヤにベルト式履帯のパーツだけを請求して購入する積りでしたが、模型仲間にキットを贈っていただきましたので、そのベルト式履帯のパーツが使えることになりました。さらに車輪や他のパーツでも転用出来るものがあるようなので、このキットを頂けたことは有難かったです。
 かくして、ドラゴンのキットをメインにして、プラッツの公式キットとタミヤのキットから一部のパーツを転用するという、私にとっては初めての贅沢な製作へと進むことになりました。


 製作においては、インテリアも出来るだけ忠実に再現してガルパンのカメさんチームの雰囲気を楽しむ方向でいこうと考えました。使用するキットはドラゴンのG型のキットですが、一部のパーツはプラッツの公式キットにしか入っていないので、それらを転用する必要もありました。それで製作ガイドは、ドラゴンG型キット、プラッツ公式キットの両方を並行して使用しました。外見や外回りの制作ではプラッツ公式キットのガイドを、インテリア部分ではドラゴンG型キットのそれを使用しました。

 上図の左がプラッツ公式キットのガイド、右がドラゴンG型キットのガイドです。双方を見比べると、ドラゴンキットのガイドから不要箇所を取り除き、ガルパンイラストで飾っているのがプラッツ公式キットのガイドであると分かりました。工程は、ドラゴンキットのガイドでは25ありますが、プラッツ公式キットのガイドでは21に減っています。あとの4工程はインテリア関連でした。
 ただし、ドラゴンキットのガイドから不要箇所を取り除く際に、必要な箇所も誤って削ってしまっているようで、プラッツ公式キットのガイドではジャッキなどの説明が抜けてしまっています。工程番号も8番からずれてくるので、双方の制作ガイドを事前によく読んでチェックする作業が欠かせませんでした。


 上画像は、洗浄と乾燥を終えた段階のドラゴンG型キットです。相変わらず細かいパーツ構成ですが、他の型のパーツも混じっているので、全部のパーツを使うわけではありません。
 制作していて感じたのですが、ドラゴンのキットは、タミヤやファインモールド等の国産キットに比べてプラスチックがやや軟質のようです。改造や追加工作の際の、削ったり切ったりする作業において、さほどに力を入れなくても簡単に加工出来ました。逆に言えば、あまり力を入れると切り過ぎたり、削り過ぎたりしてしまいます。

 ただし、柔らかいためか、ライターの火で炙っただけですぐに溶けてしまい、改造用の伸ばしランナーがうまく作れませんでした。初心者レベルの私にはまだ無い、高度なテクニックが必要のようです。


 ドラゴンG型キットには、上図のエッチングパーツもついていますが、大部分はプラスチックパーツとの選択制なので、私の制作においては一部しか使いませんでした。プラッツ公式キットにもエッチングパーツは小さいのがついていますが、これは後部エンジンルームの上部ハッチに使用するものです。通常の組み立てにおいては、接着しても外からは全く見えない位置です。なので、つけてもつけなくても同じですが、後部エンジンルームの上部ハッチを可動状態に仕上げるのであれば、接着する必要があります。 (続く)

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ねんどろいど 武部沙織が届きました

2014年11月28日 | ガールズ&パンツァー

 以前の記事にて紹介した、ねんどろいどシリーズのガルパンキャラクターの第三弾、「武部沙織」が11月26日に発売となり、昨日私のところにも届きました。最初の予告では10月中の発売がアナウンスされていましたが、一か月ほどずれました。
 今回の商品は、グッドスマイルカンパニーの通販窓口の「GOODSMILE ONLINE SHOP」で予約していましたので、「ねんどろいど用特別仕様台座」が特典としてつきました。これは第二弾の「秋山優花里」についていたものと同じです。


 パッケージの裏面はこんな感じです。ベースカラーはオレンジですが、これはfigmaシリーズのそれと共通していますので、双方のシリーズの商品展開はワンセットの企画および販売として取り組まれているのでしょうか。


 第一弾の「西住みほ」、第二弾の「秋山優花里」と共に並べてみました。これで年内のリリース分が揃ったということになりそうです。

 次の「五十鈴華」は、大洗のあんこう祭りの告知時点でも企画画像のみで、原型すら公開されなかったそうですが、figmaシリーズの方でも12月31日とギリギリの発売予定で、「冷泉麻子」は来年になるということです。ねんどろいどの方はそれよりも後になると予想されます。
 今までの発売スケジュールを顧みると、figmaシリーズの方が一ヶ月以上先行しているので、ねんどろいど「五十鈴華」の発売はおそらく2015年2月ぐらいかな、と思います。劇場版が夏に後送りされたので、関連グッズの販売スケジュールも、多少は間延びするのかもしれませんね・・・。

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ガルパン公式戦車キットは四つ

2014年11月27日 | ガルパン模型制作記

 去る10月28日、ガルパン仲間のN氏より、上画像のガルパン公式戦車キット二点が贈られてきました。以前にキャラポップストアやアニメイトなどで買ったガルパングッズを幾つか贈りましたので、そのお返しでありました。

 キットは黒森峰女学園チームのヤークトティーガーとⅢ号戦車J型です。プラッツの公式キットの中でもあまり不評ではないこの二点を選んでくるあたり、N氏のガルパンキットへの造詣の深さがうかがえます。去る4月に大洗で巡礼を共にした時、軍事や模型のことで色々話して盛り上がった記憶が鮮やかなだけに、さすがはNさんだなあ、と感心したことでした。


 その時点で、自室に積んであるガルパン公式戦車キットは四つに増えました。直前までもう一つ、38(t)戦車もあったのですが、制作に取り掛かりましたので、上写真には映っていません。カルバン仕様へ近づけるための追加工作や改造ポイントが多いので、休日ごとに少しずつ作っています。

 一見すればお分かりいただけると思いますが、左に大洗女子学園チームの各車輛、右に黒森峰女学園チームのそれを積んでいます。最近にはタミヤよりラングが新金型で発売されましたので、いずれ購入する積りです。
 でも、12月になれば、ガルパン商品の発売ラッシュになって出費がかさむので、ラングを買うのを控えて、いま積んであるキットを少しずつ作っていったほうが良さそうです。


 ところで、プラッツのガルパン公式戦車キットの評判がいまだに落ちたままのようですが、私自身は基本的にドラゴンキットとして見ているので、キットそのものがそんなに悪いとは思いません。むしろ、追加工作や改造とあわせ、ガルパン仕様への制作の道のりを楽しませてくれるぶん、そう捨てたものではないだろう、と感じています。

 最初に、カバさんチームのⅢ号突撃砲F型を作りましたが、難しそうに見えて実は軍艦キットを作るよりは楽だったと思います。追加工作や改造がいくら大変であったとしても、公式設定資料の図面やアニメのキャプチャー画像などと照らし合わせて丁寧に取り組めば、それなりに納得のいくものが出来上がりますので、私なりには作り甲斐があって楽しいな、と感じています。
 それに、タミヤやアカデミーやファインモールドのキットを使った場合でも、やっぱりガルパン仕様への追加工作や改造が不可欠ですので、プラッツ公式キットとの差はあんまり無いような気がするのです。

 たとえば、タミヤのキットでカモさんチームのB1bisを作る方が、プラッツのⅢ号突撃砲F型の制作よりも大変でした。Ⅳ号戦車D型をタミヤのキットで作った時も、決して楽なものではなかったです。それらの経緯を思い返すと、いま作っているプラッツの38(t)戦車とあまり変わらないなあ、という気がします。

 なので、近頃は、模型サークルやアニメイベントなどで、「プラッツのガルパン戦車プラモって、作るの難しいんじゃないか?」と聞かれた際に、「いや、そうでもないですね」と答えることが多くなりました。それを聞いて相手が目を丸くするのにも、もう慣れっこになりました。

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わが旗艦は長門

2014年11月26日 | 過去の模型とか
 以前に駆逐艦「吹雪」の件で模型仲間のMさんと話したおり、星野さんの軍艦キット群の「旗艦」は何か、と聞かれた。即座に「長門」ですよ、と応えたのだが、相手には意外だったらしく、「大和」とか「武蔵」が旗艦じゃないの?と問い返してきた。

「この20年間ずっと、私の連合艦隊の旗艦は「長門」にしてますよ」
「よっぽど思い入れがあるんやねえ、理由とかあるん?」
「簡単ですよ、「大和」も「武蔵」も私のところには存在しないからです」
「えー、それマジ?・・・あれだけ軍艦作ってて、「大和」や「武蔵」は無いの?」
「うん」

 答えつつも、全く珍しいケースだよなあ、と自分でも笑ってしまった。小学生の頃からずっと軍艦プラモデルを作り続けておきながら、「大和」「武蔵」の二大戦艦だけは全く手元に無いのである。何故かと聞かれても答えようがない。ただ、まだ作っていないだけの話であるからだ。


 そんなわけで、私の600隻近い連合艦隊の旗艦は、戦艦「長門」である。上図のように、堂々たる艦姿を横たえて手元にある。
 記録によれば、建造は平成5年8月17日。キットはアオシマであった。七年後の平成12年6月10日に艦体をピットロードのレジン製品に換え、主砲以下の武装もすべてピットロード部品に交換し、電探などを増設して昭和19年頃の状態に作り直した。以後、現在に至るまで一切手を加えていない。

 最近はウォーターラインシリーズでもリニューアルキットが出ているし、フジミの特シリーズでも精巧なキットがリリースされている。キットの精度が格段に進歩しており、私の「旗艦」のディテールがいささか古めかしく見えてきているのは否めない。

 もし、現在のリニューアルキットに手を伸ばして、わが旗艦の長門が新たに生まれ変わるという機会があるとすれば、その頃にはガルパンのブームや大洗のムーブメントはどうなっているだろうか、と、ふと考えてしまった次第である。

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く11 その20 「三度目のナオミの宿です!!」

2014年11月25日 | 大洗巡礼記

 この日の宿は、ナオミの居る「あんばいや」でした。私は三度目ですが、O氏は初めてでした。大洗の色々な宿に泊まってみたいと話していましたが、それは半年前までの私と同じでした。
 大洗でも色々な雰囲気の宿がありますが、「あんばいや」はイケメンの店主さんも女将さんも気さくな方なので、アットホームな雰囲気があります。上画像のナオミのような、そんな感じです。


 宿泊室への入口コーナーのガルパンコーナーも、少し変わっていました。前回は同人誌なども色々置いていたのが、整理してシンプルにまとめたようで、すっきりした感じになっていました。窓口の枠に暖簾のように貼り付けてあるタオルは、一番くじの賞品です。


 今回の宿泊特典です。前回までは無かったナオミのオリジナルマグカップが加わりました。他にサンダース校デザインの袋がつき、また特別に大洗民宿組合共通特典のタオルハンカチもいただきました。
 大洗民宿組合共通特典のタオルハンカチは、あんこうチームとカメさんチームの二種類がありますが、私は前日に泊まった「浜の湯」でカメさんチームを貰い、ここ「あんばいや」であんこうチームをいただきましたので、期せずして二種類が揃いました。


 まだ陽が高い時間帯に入ったのですが、再度外へ出かけることはなく、女将さんに大洗紹介の番組があると教えられて一階食事処のテレビを見に入ったり、お風呂に入ったりしてのんびりと過ごしました。O氏は朝早くに東京を出発してきただけに、疲れが出たようです。

 上画像は、夕食前に荷物を一度整理した際に、それまで貰った缶バッジを全部並べてみたところです。いろんなお店へ立ち寄ってお店の方と色々話しているだけなのですが、自然とこうなります。自作ガルパン缶バッジを寄贈した際にお返しとして頂いたものも少なくありません。
 今回は、「あんばいや」にも自作ガルパン缶バッジのサンダース校トリオ3個セットを寄贈させていただきました。対戦校キャラの缶バッジセットの寄贈は、今回の滞在時が初めてでした。


 その夜は、夕食時からずっと店主夫婦といろいろ話して過ごしました。O氏はおしゃべりが楽しくて楽しくて仕方が無いようで、サンダース校のファイアフライに因んだ新たな商品の提案などを情熱的に語り続けていました。店主さんはよく笑う方なので、自然と話題は盛り上がりました。この宿に泊まると、夜はこういう感じで楽しく過ごせますから、ガルパンファンにも常連客が多いのが頷けます。

 上画像は、O氏が撮影した、翌朝の朝食前のワンシーンです。店主さんとナオミのパネルが並んでいる横で、私が寄せ書きノート類を見ています。ノートといってもイラストが大部分なので、ガルパンファンの方々の画集のようになっています。


 ノートの横には、「秋山優花里の大洗ガイド大作戦」のヒントも置いてありました。


 ヒントをふまえて正しいスタンプを選択し、解答用シートに押してゆくわけですが、私は適当に選んで押していましたから、最初から正解には縁がありませんでした。O氏は真剣に取り組んでいて、それまでの解答案もかなり正しそうに思えたので、正解するんじゃないかな、と思いました。しかし、残念ながら結果は正解にならなかったようです。


 この日は、台風接近に伴う荒天となり、時には雨が横殴りに強く降るなど、街中巡りには相応しくないコンディションとなりました。が、O氏の希望に合わせて「田口理容店」に行き、昼食を「寿々翔」で楽しみ、大洗駅にて最後のガルパンタイムを過ごし、午後二時発の列車で帰途につきました。O氏はもう少し滞在してから東京に帰ると言いました。台風接近中ということもあり、お互いが予定を早めて帰る形になりました。

 O氏とは二度目の同道になりましたが、二度あることは三度ある、といいますから、いずれまた大洗を共に楽しむ機会があることでしょう。今度は大貫地区とかをぐるっと回りたいですね、と言っていたので、雨さえ降っていなければ、大貫商店会主催の歴史探訪スタンプラリーを勧めたはずでした。

 改札口で挨拶を交わして別れ、水戸行きのホームに上がると、ガルパンラッピング列車が入ってきました。今回も乗れるのか、と嬉しくなりました。


 雨が再び強く降り出しましたが、まもなく止みました。台風そのものはまだ遠いのですが、私が帰宅する時間帯には通過している筈なので、あまり気にはなりませんでしたが、首都圏での交通ダイヤの乱れが発生しないかが、少し気がかりでした。


 乗車前に車体のキャラクターたちを撮影しました。チーム単位ではなく、大洗女子学園の面々、といった感じで並んでいます。


 こちらでは後藤モヨ子がかなり目立っています。たぶん、電車の昇降口はあちらですよ、と言ってるのでしょう。


 後藤モヨ子の指す方向には、実際に昇降口があります。アンチョビとあんこうチームの間です。


 車内も相変わらずガルパンのポスター類で占められています。それらを眺めつつ、次の大洗行きのことをぼんやりと考えました。来月11月には「あんこう祭」がありますが、あまり興味がわきません。去年の11月に有賀祭を見に行った時は、朝夕がけっこう冷え込んだのを思い出し、時期的にはそろそろ良いかもな、と思いました。寒い時期の大洗にて、行って見て楽しめる場所というのも、私の知る限りでは少なくないからです。

 以上にて「ガルパンの聖地・大洗を行く11」のレポートを終わります。

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く11 その19 「ほげほげカフェです!!」

2014年11月24日 | 大洗巡礼記

 10時の開店を控えて「ほげほげカフェ」のシャッターが上げられ、茨城大学の学生たちが準備を始めました。もとは「米三」という呉服店だったようですが、店内は完全に改装されているようです。


 メニューの看板も店先に出されました。初めてみました。「ほげほげ」とは、茨城の方言のひとつで「満足だ」という意味に使われます。なので、「ほげほげ焼き」や「ほげほげパンケーキ」をいただいたならば満足感に浸れるということでしょうか。


 店先のオープンスペースには、縁台が並べられています。フリーの休憩スペースといったところでしょうか。


 壁には落書きシートが貼られ、多くのファンの方の落書きやイラストがありました。どこのお店でも見かける絵柄が多いので、こうした絵を描く人はほぼ固定化しているようです。


 店内はガルパングッズなどが展示されていますが、奥には座敷スペースが残されていて、呉服屋だった頃の名残がしのばれました。その座敷スペースがガルパングッズなどの展示台のようになっていました。

 10時の合流時間きっかりに現れたO氏と握手して再会を祝し、並んで店内席に落ち着き、コーヒーなどを注文しました。O氏は朝早くに東京を出発して到着したばかりで、朝食もまだだと言っていたので、ここで食べていました。大洗はやっぱり朝食をとるのには不便なところですね・・・。


 お店の営業時の外観です。ねこにゃーのパネルの正式な位置を初めて見ました。これで私自身は、すべてのガルパンキャラクターパネルの正式な設置位置を見終わったことになります。


 道路から見たお店の外観です。


 O氏との同道の最初は、まいわい市場でした。ガルパンコーナーを見るO氏でしたが、こういったグッズはあまり買わないようにしている、との事でした。購入するのは土産品の他には缶バッジぐらいです、と話していました。


 続いて、昼食を蕎麦屋「武山」でいただきました。蕎麦が大好きな私は昨日も行っているので嬉しかったのですが、O氏は初めてで、「絶対に行きたいお店」だったそうなので、嬉しかったようです。
 私はこのお店のボリュームを知っているので、ざる蕎麦だけにしましたが、O氏はざる蕎麦に天麩羅のセットを注文し、量の多さに驚いていました。あらかしめ「蕎麦だけでも量が多いですよ」と言っておいたんですが・・・。
 上写真は、O氏よりいただきました。囲炉裏つきの席で、蕎麦を待っているところです。


 昼食後は、O氏の提案で「秋山優花里の大洗ガイド大作戦」スタンプラリーを楽しむことにし、「山戸呉服店」、「飯岡屋水産」、「丸五水産」などを回りました。上写真は「丸五水産」の店主さんパネルです。このお店では、初めて角谷杏の公式オリジナルバッジをいただきました。


 続いて「さかげん」ではO氏がプラウダウォッカを購入していました。知人への土産だそうです。それから道を引き返して曲松商店街まで戻りました。


 「石福」の駐車場脇にいる桃助を見つけ、さっそく近寄ってモフるO氏でした。桃助もおとなしく、気持ちよさそうにモフられていました。まったく警戒心の無い犬ですね・・・。店主石井さんが以前に嘆いていたのが、分かるような気がします。 (続く)

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く11 その18 「砲弾のレプリカです!!」

2014年11月23日 | 大洗巡礼記

 マリンタワー広場を出て、髭釜商店街に向かいました。この日より、ガルパン仲間のO氏と行動を共にする予定でした。O氏とは8月にも同道しており、今回の合流場所を、彼の提案によって「ほげほげカフェ」に決めてありました。二人とも「ほげほげカフェ」にはまだ入ったことが無かったからです。


 旅館「大勘荘」の横の道を歩きました。かつての海岸堤防が、市営駐車場となった旧海岸線に沿って残されています。


 「大勘荘」の丸山紗希です。若旦那の小野瀬さんが居られたので、挨拶して少し話をしました。二回泊まっているので、顔だけは覚えられているようで、「来月から宿泊特典が変わりますんで、お泊りいただいたら丸山ちゃんの湯呑みがつきますんで」と教えられました。
「湯呑み、ですか。すると、マグカップは完売したのですか」
「ええ、200個限定でしてね、予想よりも早く無くなっていったのでね・・・」
 それは残念なことでした。この宿に三回目に泊まる機会があったら、マグカップのプランを選ぼうと思っていたからです。小野瀬さんによると、11月からはすべてのガルパン宿泊プランに湯呑みがつくそうです。


 前庭には、以前には無かったビアガーデンみたいなのが設置されていました。
「ビアガーデンのように見えますが・・・」
「ええ、ビアガーデンですよ。ファンの方々の提案で作っていただきましてね」
 それは素晴らしいことです。夏にはここで実際に宴が行われたそうです。酒を飲まない私にとっては、羨ましい限りです。


 「大勘荘」を辞して大貫商店街の道に出ました。少し進めば水浜線の大貫停車場跡でした。


 髭釜商店街に入りました。左手にはアンツィオ戦OVAに歴女チームのシェアハウスとして登場した古民家がありますが、手前に大木があるので建物がほとんど見えません。


 「柳屋食堂」です。Ⅳ号戦車D型のパネルが置かれていることで知られますが、私はまだこの店で食事をしたことがありません。外見からは大衆食堂のように見えますが、情報によれば中華料理も多いそうです。


 「川崎燃料店」に着きました。「ほげほげカフェ」の斜め向かいにあります。このお店でいつも見るねこにゃーのパネルは、本来は「ほげほげカフェ」が設置場所です。ですが「ほげほげカフェ」は土曜日のみ営業なので、パネルは「川崎燃料店」の方に置かれているのが当たり前のようになっています。


 夏に購入したガルパン天然水の販売が続いていましたが、今回はケースでの販売もやっていました。車で無いと持ち帰るのは無理ですね・・・。


 6本パックには、特典としてステッカーがつけられていました。ケースの方を買ってもステッカーがつくのでしょうか。


 話題になったカバさんチームの搭乗車Ⅲ号突撃砲の砲弾の実物大レプリカです。お店の方が紙などで自作したそうです。大洗の皆さんのノリノリ感がここにも凝縮されていますね。
 かなり大きいですが、実物はとても重たそうです。カエサルが装填に苦労しているシーンもありましたね・・・。それでアンツィオ戦OVAでは装填の練習に励んでいるシーンがありましたが、それに使用した砲弾は火薬無しの模擬弾なのでしょうが、そういうものを寄宿先にも持ち込めるということなのでしょう。


 次に感心したのは、ガルパン天然水の空ペットボトルを、上図のようにして吊り下げてあることでした。釣り糸のようなものをキャップと底に開けた穴に通して、三本ほど縦に連続して吊り下げてあります。ガルパン天然水の空ペットボトルの展示方法としてはなかなか良いですね。
 私の場合は、棚に6種類6本を横に並べているだけなのですが、けっこう場所をとるので、このように縦にして吊り下げる方が省スペースになり、見た目にもいい感じですね。 (続く)

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初めての駆逐艦

2014年11月22日 | 過去の模型とか
 昨日、模型仲間のMさんと電話で長話をしていて、いつしか話題が軍艦キットのことになった。Mさんとは、私が奈良に住んでいた頃からの付き合いで、一緒に奈良の模型サークルの合同展示会に飛び入りで参加したり、尾道へ映画「男たちの大和」のセットを見学に行ったりしたことがある。割合に軍艦キットも多く作っている方なので、最近は時勢にもれず、艦隊これくしょんのブームにハマっておられるようである。それで何度か、艦これイベントへ行こう、というお誘いを受けたのだか、ずっと辞退している。

 そんなMさんが、こう問いかけてきた。
「星野さんが初めて作った軍艦って、何だったん?」
「吹雪ですよ、特Ⅰ型の一番艦の・・」


 その「吹雪」のキットは、上画像のとおり、いまも大切に保管している。記録によれば、建造は昭和54年3月21日とある。当時の私は小学六年生てあった。キットはウォーターラインシリーズのタミヤ製で、素組みの未塗装であった。
 これを、平成6年11月14日に「修理改装」して、主砲や機銃などをピットロードのパーツに交換したと記録にある。それから現在までに20年を経てきているわけである。大事にしまって保管しているのて、やつれや汚れもあまり見られない。今までに200隻余りにのぼる日本駆逐艦を作って「駆逐艦の男」のあだ名を頂戴した私の、ささやかな「原点」である。

 だがMさんは、吹雪の名を聞くと「ピッタリじゃんけえ、やっぱ星野さんは艦これにハマる素地を持ってると思うねえ」と笑っていた。何のことかよく分からないので、問い返すと、艦これのゲームでプレイヤーが最初に出会う初めての駆逐艦が、吹雪なのだという。なんだそれは、と思ってしまった。


 さっそくネットで検索して、吹雪の画像を見た。見たというより、茫然としたというのが実感に近い。まるっきり女子高校生ではないか。太平洋の王者と謳われた、帝国海軍水雷戦隊の一艦としての勇壮なるイメージがどこにも無いのであった。


 しかも驚いたことに、ゲーム中での声を上坂すみれさんが担当しているそうである。ガルパンのプラウダ高校のノンナの声を演じていた方である。しかも艦これファンの中ではかなり人気があるらしく、艦これグッズにも多く登場しているとMさんに教えられた。Mさんも吹雪の缶バッジを6種類も揃えているそうである。

「その吹雪ですが、艦これのゲームではどういうふうに活躍するんですか?」
「まず、新規にゲームを開始するとね、最初に選べる艦娘が何人かおりましてね、そのうちの一人が吹雪なんで、使いようによっては色々と頑張ってくれるんで、かなり愛着をもってる人も多いやろうね」
「はあ・・・」
「公式のコミックスでも主役だしねえ、僕も結構思い入れあるんやね、吹雪には」
「はあ・・・」

 実際の駆逐艦「吹雪」は、昭和17年10月11日夜、味方指揮官のミスにより発生したサボ島沖海戦にて敵重巡「サンフランシスコ」の接触照射を受け、集中砲火を受けて弾薬庫に被弾し爆沈するという、悲惨な最期をとげている。乗組員228名のうち、生存者は僅かに8名であった。
 それで海軍当局は、特Ⅰ型駆逐艦の呼称を「吹雪型」から「白雪型」に変更しているが、それほどに「吹雪」の戦没が残念がられたということであろう。そうした悲しい記憶というのも、どうやら現在の艦これブームのなかではあまり顧みられていないようである。
 現にMさんも、史実の吹雪の最期のことは知らなかったそうである。それよりも、艦これを開始する際の「初めての艦娘」が吹雪なので、「初めての駆逐艦」が吹雪であった星野さんならばこそ、早く艦これに参戦したらどうか、と誘ってくるのであった。

 それを軽く受け流しつつも、史実とのはざまで、複雑な思いを拭えなかった。サボ島沖に無念の思いを抱いて沈んだ艦のことを思うと、余計に手元にある初めての駆逐艦キットを大切にせねば、という気持ちになってくるのであった。
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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く11 その17 「夜の散歩、朝の散歩です!!」

2014年11月21日 | 大洗巡礼記

 入浴後はゆっくり休んで一時間ほど仮眠をとりました。それから夕食前の商店街散歩に出かけました。宿の玄関からマリンタワーが見えるのは、なかなか楽しいものです。


 永町商店街まで歩きましたが、もう多くのお店は閉まっていて、「たかはし」だけがまだ開いていました。でももうすぐ閉店のようなので、外から覗き見るだけにしようと思った途端、店主の娘さんが顔を出して「どうぞ入って見ていって下さい」と言ってきました。


「こちらの缶バッジのコレクションも増えていますね」
「そうですねえ、この前に缶バッジをいただきましてから、色々なバッジが出てきたりするんで、出来る限り集めているんですよ・・・」
「そうですか。道理で初めて見るバッジがありますね。頑張っておられますねえ」
「いやあ、ウチはそんなに頑張ってないですよ、アハハハ」
「こちらでは公式オリジナルバッジは出す予定がおありですか、五十鈴華の・・・」
「いやあ、今のところはそういう予定は無いんですけどねえ」
「無い?」
「無いです、アハハハ」
 何が可笑しいのか、とにかく笑っていた高橋さんでした。


 続いて「加藤豆腐店」に立ち寄りました。


 アンツィオ戦OVAも公開されましたから、カエサルに関して新しい寄贈品などの展開があったようですが、店先を一見した限りでは、そんなに目立った変化は見られませんでした。


 店先の缶バッジ展示ボードです。


 私が寄贈させていただいた、自作ガルパン缶バッジのカバさんチーム6個セットも並べてありました。


 「江口又進堂」にて江口さんに浅間神社の件を話しました。
「神社の背後のマウンドは古墳というより、城砦の櫓台に似ていますよ」
「じゃあ、あの神社のある山が城跡ってこと?」
「すぐ隣の尾根にウツギ崎砦がありますし、尾根で繋がってるので、可能性は高いと思います。でも、なにかちょっと不気味な雰囲気ですね」
「あの神社へスタンプラリーに行ってきた方もね、似たようなこと話してたよ」
「本物の城跡で、そこで実際に合戦なんかがあったりして戦死者が出ていれば、霊ぐらいは居るかもしれませんし、不気味な雰囲気になっててもおかしくないでしょうね・・・」
「あー、そういうのは怖くないんだね、星野さんは」
「これでも奈良に居た頃は、中世戦国期の歴史を勉強してて、たくさんの城跡を調べて回ってたんですよ。霊が怖かったら城跡には行ってませんよ」
「さすがだねえ」
「まあ、こっちも霊感とかあんまり無いんで、霊が出てきても気づかないで終わってる気がしますが」
「あははは」
「いずれにしても浅間神社は興味深いところです。まだ草が繁ってて地面とかがよく見えなかったんで、全体の状況がよくわからんかったんです。冬場になって葉が枯れたりしないと見えない。寒くなってから機会をみて出来れば図面をとってみます。本当に城跡なのかどうかは、図面を描いて、それなりの縄張りが明らかになれば分かりますよ。いまのところ、可能性は半々です」
「ふーん、お城の研究って、そういうものなんだ」


 この日の夕食は、「お好み焼き 道」でいただきました。水浜線大貫停車場のすぐ横のお店だっただけに、お店の方が当時の事をよく知ってるんじゃないかと思いましたが、その通りでした。女将さんに食事を注文したついでに水浜線のことを訊ねると「それならおばあちゃんがよく知ってるはずなんで」と言ってわざわざ呼んで下さいました。
 出てこられた先代の女将さんに挨拶し、水浜線の廃線跡を探索中である旨を話しました。すると懐かしそうな表情になり、淡々とした口調で、水浜線のいろいろな思い出話を語って下さいました。大貫停車場には、踏切の番所もあって、踏切番の人が駅員も兼ねて切符を売っていたこと、電車が磯浜から大貫の間は徐行運転していたこと、バスは電車の発着時刻に合わせて走っていたこと、大洗磯前神社の祭礼日には電車にも飾り付けがなされていたこと、などをうかがいました。いずれも貴重な証言でした。


 翌朝は、7時に出発しました。この宿にはガルパンプランの素泊まりコースで入ったので、朝の食事も外でとることになったからです。


 大洗へ何度も行けば分かりますが、この町には朝食をいただける施設、たとえば喫茶店とか吉野家のようなお店とかが全く無いのです。だから宿泊する場合、素泊まりよりは朝食つきのプランの方がおすすめなのですが、今回はどうしてもコンビニで何か買って朝飯にする必要がありました。
 なぜかというと、今回の滞在中に大貫のココストアで、公式オリジナル缶バッジが出されるらしいとの情報を得ていたからです。従来は、土日用曜限定にて「ばくだんおにぎり」購入の特典として大貫商店会の缶バッジが貰えたのですが、今度はお店のポルシェティーガーのパネルにちなんだバッジが出る、ということでした。
 それを確かめるべく出かけましたところ、バッジそのものは本当に配布がスタートしていました。が、ガルパン関連のDVDや書籍や酒などの購入が条件、でした。その日は買うべきものが見当たらなかったので、バッジは諦めました。朝食用にと、サンドイッチとコーヒー飲料とフルーツ缶詰とを購入しました。


 朝食はマリンタワー下の広場で食べよう、と思いつきました。その方向へ移動中に「みむら時計店」に立ち寄って、大貫商店会歴史探訪スタンプラリーの五ヵ所の選定の理由を聞きました。
「いやあ、選定っていってもね、その五ヵ所しか無かったんでねえ。大貫の歴史あるスポットといったらだいたいはお寺と神社になるからね。あと角一稲荷とかも加えようか、って話もあったけど、場所が増えると回るのも大変になるだろうから、五ヵ所にしたんですよ」
「浅間神社が挙げられたのには、何か理由があるんですか?」
「あの神社のある丘からの眺めが良いから、ですよ」
「古戦場だった、という噂もあるようですが」
「それはどうですかねえ、本当かどうか分かりませんねえ」
 要するに、浅間神社は適当に選ばれてスタンプ設置場所の一つに決まったもののようでした。古墳であるかもしれないとか、城跡の可能性があるだろうとか、そういう発想での話は全く出てきませんでした。


 マリンタワーの広場の多目的ステージ近くのあずまやで朝食をとり、広場のベンチに移動して横になったりしていました。この日もあまり天気が良くないようです。


 マリンタワーを背景にしての、初めての記念撮影。


 マリンタワー広場の一角にあるオブジェです。メカジキだろうと思いますが。 (続く)

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く11 その16 「マチルダⅡ歩兵戦車の宿です!!」

2014年11月20日 | 大洗巡礼記

 大貫の浅間神社へは、旅館「舞凛館」のある信号交差点から北西への道に折れ、四番目の辻を左折すれば行けます。大貫小学校のグラウンドをも北に見下ろす長い坂道を上りつつ、この急な地形は城砦を築くにも適しているなあ、と感じました。丘の北側斜面もかなりの傾斜であるので、要害性は充分だ、これで上に城砦が無かったら、尾根続きの「ウツギ崎砦」も本物かどうか怪しくなるなあ、と考えたりしました。


 鳥居は南側に立っていました。入口は狭く石段も幅が無いので、古くからの神社でないことだけは分かりました。歴史ある神社であれば、神事や祭事の場の入口となる鳥居の空間を重視して一定のスペースを確保しているのが普通です。


 鳥居から約40メートルほどで神殿に至ります。その背後にマウンド状の地形が横たわってその上にも祠がありました。江口さんの話では、古墳じゃないか、ということでしたが、古墳の形状とは違うな、と感じました。近畿地方で沢山の古墳を見学してきた経験をふまえますと、古墳の丘の傾斜はだいたい45度前後かそれ以下になります。封土が長年の間に流れてそうなるケースが多いようです。
 しかし、浅間神社のマウンドは、一部に50度近い急斜面をとどめていました。浅間神社によく見られる「富士塚」とも異なる形で、古墳の築造当初の形状にもありえない急角度です。切岸と呼ばれる城砦遺跡特有の傾斜面に似ています。この傾斜面に丸く囲まれた台状のマウンドは、城郭の櫓台かもしれません。

 城郭遺跡の櫓台が、古墳だと間違われるケースは、実は多いです。近畿地方では古墳を転用した城郭も少なくないのでややこしいのですが、有名な事例として二上山の大津皇子墓が挙げられます。宮内庁によって陵墓参考地に指定されていますが、本当の大津皇子墓は、山麓にある鳥谷口古墳であろうとする説が有力です。それでは、宮内庁が指定している大津皇子墓の円形のマウンドは何か、というと、これは当地に広大な遺構を残す戦国期の二上山城の主郭の櫓台である可能性が高いです。

 櫓台は、一般的に周囲を丸く、または四角く作るので、一見すると円墳や方墳などの古墳にも見えてしまいがちですが、切岸という急な傾斜面に囲まれる点が古墳と異なります。さらに防御上の必要から、張り出し部分や段差面をともなうケースがよくみられるのですが、浅間神社境内地のマウンドは、西側がやや張り出しているうえ、南側に小さな段差があって、現在は登り道になっています。


 次に興味深く思ったのは、マウンドを囲むようにして東側周辺に土塁状の高まりが巡っていることでした。これが実際に土塁であれば、その内側は横堀であって、櫓台周囲の防御空間が構成されていることになります。こうした状態は古墳ではありえませんが、古墳を利用して土塁を追加する城砦の例も無いわけではないので、実際に古墳だったのか、という問題については保留することにしました。
 現状では東側にのみ高まりがみられるので、南や西ではどうなっていたかは分かりません。夏草が茂っているので地形を捉えにくく、やっぱり冬枯れの時期に精査して図面をとらないと駄目だ、と思いました。


 さらに面白いことに、神殿横からマウンド上に登る参拝路が、これまた城砦特有のクランクを示していました。いいぞ、いいぞ、と高まってくる興奮を抑えつつ、上の祠を見ました。八角形の基壇上に石造の祠を据え、その周囲に小さな祠を放射状に並べて配置するという、あまり類例を見ない祭祀状況でした。現在では、これが浅間神社によくある「富士塚」にあたるようで、現地の字名も「富士山」となっています。ですが、この字名が古くからのものかどうかは分かりません。戦国期城砦の櫓台を、江戸期の浅間神社の勧請によって「富士塚」に転用した可能性も考えられるからです。

 それはさておき、全体として浅間神社の境内地にみられる状態は、参道脇に直線状に続く土塁状の高まりも含めて、城砦遺跡としての色彩をただよわせていました。隣の「ウツギ崎砦」が広い平坦面を並べて土塁で囲む形式であるのに対し、こちらは横堀状の部分も見られて軍事性が高いような印象を受けました。

 とりあえず現地で簡単な縄張図を描いて全体像をトレースしましたが、西側の地表面のやや複雑な形状がよく把握出来なかったので、機会をみて再度調査に来よう、と決めました。城郭遺跡かどうかの最終判断は、やっぱり縄張図をきちんと描いてみないと出せません。
 ですが、現時点では、城郭遺構の一つかもしれないな、と感じています。いまも神社へ通じる道が、かつての古い街道の一つであり、そのまま道なりに南下すれば、前述の登城館などのエリアに直結するからです。大貫台地北端を守る要地にあることも、可能性を感じさせます。


 予想外の歴史的探究のひとときに満足し、下山しました。こういう面白い歴史考察や探索をすると、途端に腹が減るたちなので、なにか軽く食べようと思い、「さくらい食堂」に立ち寄りました。
 あたたかいうどんをいただきつつ、水浜線に関して女将さんから色々な思い出話を聞きました。若いころは水浜線で水戸へ通ったのだそうです。


 大貫商店街の街路を引き返し、「中山薬局」の辻を右折しました。奥にはマリンタワーが見えました。


 この日は、「さかなや隠居」が満室で予約が取れなかったため、別の宿を予約してありました。昭和の銭湯施設をいまに残す「浜の湯」でした。一度泊まってみたいと思っていた宿の一軒でした。


 この宿には、周知のように戦車パネルが設置されています。マチルダⅡ歩兵戦車です。


 到着時にいただいた宿泊特典のタオルハンカチはカメさんチームバージョン、缶バッジは秋山優花里とあんこうチーム旧デザインの2個でした。


 この時点で、貰った缶バッジは34個に増えていました。「大貫商店会歴史ギャラリー」から浅間神社に向かう途中で「田口理髪店」に立ち寄って北見さんと話をしたのですが、その際にもオリジナル缶バッジを6個もいただいたりしていましたから、缶バッジの数が増えるのも当然でした。


 しばらく休んでいると、主人の清水さんが風呂の案内を告げにやって来ました。清水さんは日本将棋連盟の大洗支部長を務めておられるので、常連宿泊客には将棋関係の方が少なくなく、若い女性も将棋合宿とかで多く来られるそうです。この日も、私以外は全員が女性で、ガルパンファンが集う旅館群とは全然雰囲気も違いました。
 私は将棋はまったくやりませんが、父が大の将棋マニアで、休みの日は近所の方と縁側で盤を囲み、最近まではプレイステーションなどの将棋ソフトを次々に買って楽しんでいたほどでした。その話をすると盛り上がってしまい、天童の左馬の駒などの話をしました。


 風呂は、昭和の銭湯の情緒を色濃く伝える施設をそのまま使わせていただきました。


 もとの玄関口は閉鎖されていましたが、番台などはそのままでした。


 棚上にはダルマが並んでいました。子供の頃、名古屋市瑞穂区に住んでいたことがあるのですが、その頃に父に連れられてよく行った近所の銭湯にも、ダルマが飾ってあったなあ、と思い出しました。


 ロッカーも懐かしいものでした。昔よく行った銭湯のロッカーが、まさにこういう感じでした。


 風呂です。奥の絵はだいたい富士山であったりすることが多いのですが、こちらでは何度か描き替えられたらしく、現在の絵そのものはまだ新しい感じがしました。アルプスと教会の絵なのですが、和風の銭湯内にあってなぜか違和感がなく、それよりも手描き特有のあたたかみが感じられました。


 室内の諸設備もすべて昔からのままだそうです。銭湯として再開する予定があるのですか、とお聞きしましたところ、「それはないです」と即答されました。 (続く)
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「リトルアーモリー」シリーズは秋山優花里用?

2014年11月19日 | ガルパン模型制作記

 さる10月31日、模型仲間のA氏より、上画像の「リトルアーモリー」シリーズの二品が送られてきました。10月2日に大洗の干物を土産に送ったので、その御礼であるのでしょう。添えられた手紙には、「フィグマ用のキットである。ガルパンの秋山優花里に相応しいであろうと思うので、意を決して謹呈する」とありました。

 こういう銃器はガルパンでは登場しません。戦車に装備される機銃は使用されますが、歩兵が携行する銃器は戦車道の規定にないと聞きました。秋山優花里は、正確には戦車オタクですが、一般的にはミリオタという概念で捉えられているようなので、A氏も勘違いをしているようです。

 御礼の電話でそのことを言うと、「あれ、秋山殿が機関銃を撃って「最高だぜえぇぇ」とか叫ぶんじゃないのか?」と問い返されました。
 そんなシーンは絶対に無いですってば。

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く11 その15 「大貫商店会歴史ギャラリーです!!」

2014年11月18日 | 大洗巡礼記

 曲松商店街に戻って最初に「江口又進堂」に行きました。二日間の水浜線跡探索の結果報告をするためでした。この廃線跡について最初に教えて下さったのが江口さんなので、御礼の意味もありました。


 店内にて缶バッジ群の展示を眺めていると、奥から江口さんが戻ってきて「廃線跡、みてこられました?」と訊ねてきました。もちろんです、と応じました。


 今回の探索結果は、持参した地図数枚のコピーに記入しておきました。それを見せながら経緯を報告しました。江口さんは「さっすが、細かく調べてるねえ、知らない杭もかなりあるね」と嬉しそうでした。
「この地図ですが、江口さんも必要でしょう」
「あっ、それは絶対に欲しい。コピーさせてね」
 そう言って奥のコピー機に向かってゆく江口さんでした。 上画像は、店内に展示してあるピットロードのあんこうチームⅣ号戦車EDバージョンと左衛門佐フィギュアです。いずれもファンの方からの寄贈品だそうです。


「やっぱりねえ、13日のウォークにも参加してくれない?」
「いえ、前にも申し上げましたが、その時期には仕事で出張ですので・・・」
「そうなの?案内人を本田さんがやって下さるんだけどさ、星野さんとなら絶対に話が合うと思う」
「以前に一度お会いして話したんですけど、お察しの通り、奈良の廃線跡のことで一時間ばかり盛り上がってました」
「でしょうねえ、水浜電車の廃線跡だってここまで探索して調べてくれたんだから、そういうのを13日に本田さんと色々話したら面白いのにねえ」
 とにかく残念そうにつぶやく江口さんでした。廃線跡探索の成果はいずれブログでレポートさせていただきますので、と言いました。それに続けるようにして、新たな情報を教えて貰いました。

「そういえばさ、いま教育委員会が発掘調査をやってるんだけど、中世の堀切が出たって聞いたよ」
「堀切ですか、城郭遺構の範囲を調査してるんですか。場所はどこです?」
 江口さんがゼンリンの大洗町の地図を広げてページをあちこちめくり、該当のページを開いて「ここで道路を通す計画があって工事してるらしいんだけど、発掘調査やってるのはこのへんだ」と指し示してくれました。
 その場所は、大洗高校の南約900メートルに広がる低丘陵地域にありました。現地へは以前に一度立ち寄ったことがあるので、あの辺か、と思い出すことが出来ました。大洗町域において最も中世期の遺跡が集中することで知られている範囲です。城館関連の遺跡だけでも、龍貝館、飛城遺跡、登城館、字後新古屋などの四ヶ所が、すでに複数の城郭研究者やマニアによって探査され報告されています。
 江口さんが地図で教えてくれた道路計画線は、どうやら登城館の東側の外郭ラインを通るようで、その範囲には以前から竪堀らしき遺構が報告されています。竪堀が実際に配置されていたのであれば、付近にも相当規模の堀が埋没している可能性があります。発掘調査で検出されたという堀切は、そのいずれかに繋がるものかもしれません。だから、出るべくして出てきた堀切だなあ、と感じました。

 それよりも、問題は、茨城県下においても稀な集中度を示す中世遺跡群がまたもや開発工事の波にさらされて破壊消滅の危機に直面していることです。現地は以前に「県住宅供給公社」によって買収され宅地開発が企図されたのですが、経営悪化や破産事件によって計画は頓挫、事前発掘調査が行われたのみで終わりました。現地はそのままの状態で放置されていたそうです。
 そして、2010年には同地域が大洗町および企業による買取り範囲に含まれ、改めての開発がされることになったようです。その手始めに道路を新規に通す工事を進めており、一部は既に完成していて地図にも見えます。その延長上に、前述の登城館をはじめとする中世遺跡群が広がっています。一帯は大貫台地と呼ばれますが、それを含めた低丘陵地域の南端の涸沼側には、大洗町を代表する戦国期城郭遺構とされる「大館館」および「小館館」が位置し、北端の大貫地区側には以前にレポートした「ウツギ崎砦跡」があります。
 そうした遺跡分布をふまえますと、いまの道路計画線の延長上には、未知の遺跡がまだ埋もれている可能性を否定出来ません。それらも含めて今回の開発工事で破壊消滅の危機に瀕することになるわけです。この点に、大洗町当局の歴史認識の浅さが浮き彫りになりますが、それもふくめて文化的行政の実態が所詮はこの程度か、と情けなくなります。


 そこで、大洗町役場へ移動して、現地の状況と開発工事の概要、ならびに教育委員会による発掘調査の位置などを問い合わせてきました。通り一遍の応対ではありましたが、最低限必要な情報は得られたので良し、でした。


 役場から出て考えましたが、これからの時間をどうやり繰りしても、この日のうちに問題の発掘現場へ立ち寄る余裕は無さそうに思えました。堀切が出たのは想定内のことなので、無理して見に行かなくても良いか、と思い直しました。

 奈良に住んでいた25年間に、大和国の中世戦国期の歴史に興味を持ち、奈良県下の中世戦国期の城郭遺跡300ヶ所余りを探査してきた私の観点からすると、重要なのは堀切ではなく、龍貝館、飛城遺跡、登城館、字後新古屋などの遺跡群の全体像と遺構分布の具体的な規模の把握、という問題です。それを一見してみるのも楽しいかもしれませんが、おそらく大貫台地の全域を回るには最低でも三日ぐらいが必要でしょう。それも草葉が枯れて山林内の見通しが良い冬場の時期に、です。
 要するに、12月ぐらいから3月ぐらいまでの時期に、最低でも二度、三日以上をかけて現地を探査しないと、とても当該エリアの中世遺跡群の概要すら把握出来ないでしょう。しかも道路工事はいま進行中なので、現地へ行く機会を得る前に工事が進んでしまうケースの方が、可能性としては高いです。もう、これは運命まかせだろうなあ、と思いました。

 それよりも、気になったのは、大貫台地を含めた低丘陵地域の遺跡分布において、北端に位置する「ウツギ崎砦」と同じ側の東寄りにある浅間神社の位置でした。地形的には要地で、地形が険しければ要害としての条件が満たされます。この浅間神社が、どういうわけか、大貫商店会歴史探訪イベントスタンプ設置場所の一つに含まれているのでした。何か謂れのある古い神社ですか、と役場でも訊いたのですが、「さあ、よく知りませんねえ」の返事のみでした。
 要するに、由緒や縁起類が残されて大洗町史にも記述されるような性格の神社ではないのだろう、と思いました。浅間信仰の拠点とかいうような重々しいものでなく、近世期に村の鎮守を適当に勧請してきた流れの一例であったのかもしれません。端的に言うならば、そこにはもともと神社は鎮座していなかった可能性が高いです。

 もし、私が中世戦国期の武士ならば、この場所に何らかの施設を築くことでしょう。そうでないと、有事の際に敵が攻め上がってきた場合、尾根続きの「ウツギ崎砦」と連携して対応出来ません。ここで突破されると、南側の龍貝館、飛城遺跡、登城館、字後新古屋などの四ヶ所に備えがあったとしても、周囲に回り込まれて一網打尽にされてしまいます。常陸佐竹氏の勢力圏に接して、常に流動的かつ不安定な支配状況に終始したのであれば、伝統ある大掾氏の流れとて末端の小勢力に過ぎず、いずれは上位勢力によって淘汰されるでしょう。

 だから、大洗町エリアというのは、中世戦国期の常陸国における境目または抗争地域の一つとして重視されるべきだ、というのが私の基本認識です。意外なほどに多くの中世遺跡や城館遺跡が集中的に分布している点も、もっと注目されてよいはずですが、これについては大洗町の歴史ファンでもあまり気づいていないように思われます。日本の歴史の中で、最も人気がないのが中世期だからでしょうか。

 私自身は、これまでの大洗行きのなかで色々と歴史散策を繰り返してきましたが、いまの大洗において本気で調べたら一番面白いのは中世戦国期だろう、と常々思っています。ですが、文化財的には江戸時代の水戸藩の時期のものが多いので、大洗で歴史散策をやると江戸時代にどうしても偏ってしまいます。
 しかし、遺跡分布でみると、中世戦国期のものが非常に多いです。大洗町の市街区とは別の、南部の低丘陵地域に集まっているので、アクセスの点では多少の難があるかもしれませんが、それをクリア出来れば、思ったよりも面白い歴史的空間と遺跡の数々に出会えるかもしれないのです。
 そうした認識がずっとありますので、これまでにも「ウツギ崎砦」を訪ねたり、水戸市エリアの「平戸館」まで遠出して調べたりしてきたわけです。今後は、大貫台地上の中世遺跡群にも探究の眼を向けてゆくことになるかもしれません。機会に巡り合えるかはまだ分かりませんが、楽しみなことです。


 昼食は、近くの蕎麦店「武山」にてとりました。


 ざる蕎麦をいただきました。定食ものもありますが、この店は蕎麦だけでもボリュームがありますから、ご飯とかがつくと満腹になってしまいます。


 何度見ても嬉しくなってしまう、「武山」のざる蕎麦の見事なボリュームです。味も素晴らしく、個人的には一番好きな大洗の蕎麦です。


 美味しい蕎麦をいただいて幸せな気分になり、リゾートアウトレットへと向かいました。その二階にオープンしたという「大貫商店会歴史ギャラリー」を見るのが目的でした。


 リゾートアウトレットについて二階に上がりました。


 施設の南棟へと移動しました。「大貫商店会歴史ギャラリー」の場所がどこにも掲示されていないので、「まいわい市場」で場所を教えて貰いました。


 「大貫商店会歴史ギャラリー」に着きました。


 大貫地区の戦前の古写真などが展示されていました。江口さんの話では、古い写真や文献類を一番たくさん所蔵しているのは「日の出屋商店」つまり現在の「お好み焼き 道」だろう、ということでした。


 その一枚が、上写真です。まさに「日の出屋商店」の店先から水浜線踏切の方向を撮影しています。踏切や遮断機、その左に大貫停車場の建物の一部が見えています。昭和30年代の写真とありましたが、現在の景観とはかなり違います。


 ギャラリー内には、お約束のようにカバさんチームのキャラクターパネルも置かれていました。カエサルとエルヴィンです。


 反対側にはおりょう、左衛門佐が居ました。関連グッズなども売っていて、歴史探訪スタンプラリーを終えたガルパンファンの方が次々にやってきて、ギャラリー内の最終スタンプを押し、景品の歴史探訪小冊子を貰っていました。

 私自身は、歴史探訪スタンプラリーをやる気はあまり無く、五ヵ所のスタンプ設置場所の一つである浅間神社のみに興味が向いていました。どう考えても、位置や地形からみて中世遺跡群の一端にあたるように思われたからです。 (続く)

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く11 その14 「願入寺への再訪です!!」

2014年11月17日 | 大洗巡礼記

 この日は晴れるようでした。夜のうちに一雨降ったせいか、朝の空気にもさっぱりした清々しさが感じられました。


 建物の間に見える、西福寺横の弁天社の朱鳥居です。


 宿の「さかなや隠居」です。五月から毎月お世話になっていますので、大洗で知った顔に出会うと「隠居さんの常連さん」などと呼ばれることがあります。


 この日の朝食です。


 本日のタタキはサンマでした。サンマのタタキは初めていただきました。


 焼き魚もサンマでした。サンマは大好きなので、嬉しくなって美味しくいただきました。


 朝食後すぐに出発し、店先のバス停にてバスを待っていると、一台の車がスーッとやってきて私の前に停まりました。「鳥孝」店主の稲石さんでした。

「やあ、おはよう」
「朝からお勤めご苦労様です」
「いやいや、星野さんも朝早くから動いてるじゃない、これからどこか行くの?」
「実は、祝町の願入寺へこれからバスで行こうと思ってます」
「祝町の?じゃあ、ついでだからそこまで送ってあげるよ」


 というわけで、稲石さんに願入寺の門前まで送っていただきました。バスはなかなか来ないからねえ、と稲石さんが笑っていましたが、実際に時間的には約40分ほど早く行くことが出来ました。この日のスケジュールの過密さを考えると、この時間短縮は本当に有難いことでした。この場を借りて、改めて御礼申し上げます。


 水戸藩の葵紋が打たれた門扉の装飾意匠は、いつ見ても素晴らしいものです。江戸期の彫刻にしては開放的な趣があるので、前代の安土桃山期の奔放な美術世界の流れをまだ受け継いでいたのかもしれません。


 案内板です。宗派を「原始真宗」と記すあたりに親鸞上人以来の直系的法灯の流れを尊ぶ気風がうかがえます。実際に常陸国は親鸞上人ゆかりの地が多く、真宗にとっては聖地に近い場所も少なくありません。ここ願入寺もその一例なのでしょうが、訪れる人は少ないようです。


 境内は閑散としていて、本堂前には相変わらず立ち入り禁止になっていました。


 あの震災で、本堂やその他の建物にかなりの被害が出たと聞きましたが、外見を見た限りではそうした箇所が見えないので、内部の方に被害が出ているのかなと思いました。


 本坊玄関にお邪魔して拝観の可否を問いましたが、若い住職さんらしき方が言うには「震災であちこち傷んでおりますので、恐れ入りますが、ご参拝は外からのみでお願いします」との事でした。
 前回も外からの拝観で終わりましたから、こういう状態が続くと、そのうちに信徒以外は訪れる人も無くなってしまうのではないか、と思いました。


 横にある開基堂も閉鎖中でした。建物は石岡市にあった江戸期の照光寺本堂を移築復元したもので、本堂よりも古い歴史的建造物です。開基像のほか、水戸光圀ゆかりの書簡、工芸品等を展示しているそうですが、公開再開のめどは立っていないようです。
 境内地は広大なので、昔は地域のお祭りなどで賑わったそうですが、その風景すらも空しく感じられるほどの、寂漠とした雰囲気に沈んでいました。とりあえず一巡して、山門で拝礼して退出しました。


 近くのバス停から大洗中心街まで戻ることにしましたが、時間があったので「好梅亭」に立ち寄って煎餅などを買いました。話題のガルパン名刺、近々ウチでも出しますよ、との事でした。


 祝町のバス停から「海遊号」に乗りました。空は曇っていて、どうもすっきりしない天気でした。


 曲松のバス停で下車しました。願入寺の内部拝観が叶わなかったため、予定よりも約二時間ほど早く戻ってきましたが、これがその後のスケジュールを余裕あるものにしてくれたのは言うまでもありませんでした。 (続く)

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く11 その13 「廃線跡探索完了です!!」

2014年11月16日 | 大洗巡礼記

 水浜線の軌道跡は、祝町地区においては大半が宅地や農地の中に消えてしまっています。僅かに細長い地割や民家敷地の位置によって、そのルートを知るのみです。上画像の白い建物は、軌道跡いっぱいに建てられていると、先ほど出会った住民の方に教えていただきました。


 細長い地割に軌道跡を追っていくと、建材置き場や駐車場になっているところもあり、現在の車道からいちいち路地道を使ってその場所を見たりしましたが、廃線跡というには程遠い光景でした。


 さらに進むと農地が広がり、軌道跡の痕跡すら分からなくなっている状態でした。


 僅かに田畝の地割に古い時期の斜めに向いた部分が残っており、戦後に実施された圃場区画整理以前の田畑の向きがこのような形であったのかもしれないな、と感じました。この向きは、推定される軌道跡にほぼ並行しているのが興味深いです。でも確証はありません。


 軌道跡が東へ大きくカーブしていた辺りは一面の田んぼなので、その南側の宅地の車道に回って痕跡を確かめようとしたのですが、道に沿って高い塀が続いていたので、田んぼすら見えませんでした。続いて祝町の停車場があった場所へ行ってみましたが、宅地化によって消滅していました。


 軌道が東に大きくカーブしていた辺りの東側には、コンビニがありました。とりあえず、廃線跡の探索はこれで完了したので、コンビニで飲み物などを買って一休みしました。近くにバス停があるので、大洗の中心街のどこかへバスで戻ろうと決めました。


 今回の探索範囲では、軌道跡がほとんど消滅しているので、杭などの遺物も見つけることが出来ませんでした。戦後の米軍撮影航空写真を地図と照らし合わせて軌道跡のだいたいのルートを地図に落とし込みました。祝町駅から先は、現在は大洗ゴルフ場になっているので、自在に探索することは不可能です。
 なので、今回の記事と地図とをもって、茨城交通水浜線跡探索の報告を終えることにします。


 茨城交通のバスで幕末明治の博物館入口まで行き、近くの食事処「松のぶ」で昼食にしようと考えました。駐車場に車が一台だけ停まっていたので、今日は空いているだろう、と思って入ったら、地元の自治会の団体で満席貸切状態になっていました。仕方が無いので出ようとしたら、お店の方が「遠くから来ていただいたのに満員で済みません、お詫びといっては何ですが・・・」とお店のオリジナル缶バッジを下さいました。このお店の缶バッジは初めていただきましたので、思わぬ幸運でした。


 とりあえず、大洗磯前神社の方向へ移動し、途中の左手にある食事処「中華一番」に寄りました。ここで昼食をとっておかないと、この先に食事スポットがほとんど無いからです。


 ラーメンとあさり丼の定食を注文していただきました。お店の方とは、以前にウスヤ精肉店でお会いして話した事があるので、初めて入ったお店のような気がしませんでした。それで、ガルパンブームの昨今などについて話が盛り上がりました。
 このお店でも、ガルパンブームに乗って何か仕掛けてみたいような事を話しておられましたが、そういうのは狙ってもなかなか出来ることではないだろうな、と感じました。


 昼食後、大洗の商店街ルートまで徒歩で移動しました。上図は「さまた接骨院」の店主さんパネルと西住しほパネルです。


 「ウスヤ」の店主さんパネルです。


 「大久保酒店」の店主さんパネルと阪口桂利奈パネルは、この時は店内に並んでいました。


 「加藤豆腐店」の店先の缶バッジ展示です。このお店にも、自作ガルパン缶バッジのカバさんチーム6個セットを寄贈させていただきました。


 「みむら時計店」にも立ち寄りました。大貫商店会主催の歴史探訪スタンプラリーイベントの問い合わせ先がこのお店でしたので、店主さんに直接イベントの詳細などを教えていただきました。スタンプラリーの用紙は大洗駅で配布している、ゴールはリゾートアウトレット内の大貫商店会歴史ギャラリーだ、ということでした。
 この歴史探訪イベントのスタンプが設置されている四ヶ所のうち、浅間神社を除く三ヶ所は、以前に訪れたことがあるので、スタンプラリーそのものにはあまり魅力を感じませんでしたが、浅間神社だけはまだ未訪でしたので、明日にでも時間があったら行ってみよう、と思いました。


 宿の「さかなや隠居」に帰って、風呂に入り、おやつの残りを食べながら、これまでに貰った缶バッジをすべて並べて数えてみました。いつの間にか、24個になっていました。今回もあちこちで自作缶バッジを寄贈していましたので、そのお返しに頂いたものがほとんどです。


 翌朝の「さかなや隠居」の店先です。朝食前のひとときを、付近の散歩などして過ごしました。


 店先の曲がり松です。曲松の地名のもとになった本来の「曲がり松」とは別の木ですが、現在はこれしか残っていませんから、ほとんど「曲がり松」に準じた扱いを受けています。


 この日は午前中に祝町の願入寺を再訪し、午後は大貫地区の浅間神社とリゾートアウトレットの大貫商店会歴史ギャラリーを見に行くことに決めました。そこで祝町までは町内巡回バスの「海遊号」を利用しようと考えました。宿のすぐ近くにバス停があるのは、本当に便利で有難いことですね。 (続く)

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