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ゆるキャン△の聖地を行く17 その14  甲州金山の歴史的魅力

2021年06月19日 | ゆるキャン△

 金山の歴史的復原模型をじっくり見た後、次の展示室へ移りました。そこからは前回の訪問時に見学していますが、内容がとても面白くて興味深いので、今回も楽しんで見てゆくことにしました。

 

 下部温泉郷の奥にある湯之奥金山は、甲斐国の数ある金山のなかで最も規模が大きかったとされる金山です。幾つかの鉱脈が知られており、毛無山中腹に中山、内山、茅小屋の3つの金山が分布します。これらの金山の総称が、湯之奥金山です。温泉の奥にあるから湯之奥、分かり易い名称です。

 

 甲斐国の数ある金山の幾つかは戦国期から稼業していたと伝わりますが、湯之奥金山については学術調査によってその稼業期間が戦国前期から江戸初期までと判明しています。戦国期の身延地域は武田氏家臣の穴山氏の支配下にあったためか、穴山氏のもとで金山衆と称される職能集団が湯之奥金山の経営に当たっていたとされます。現地の湯之奥郷には土豪の佐野氏が在りましたが、その佐野氏は穴山氏の家臣であり、金山衆を直接率いていたようです。

 

 上図の展示コーナーにある金山遺跡の立体模型などが見ていて楽しかったです。

 

 このように山の斜面に無数の平坦面を造成して金山作業の作業場や小屋の敷地にあてています。こうした平坦面の造成は、当時の城郭の郭の造成と基本的に同じ手法でなされていたようです。そして、金の採掘作業そのものも砂金取りから露天掘り、坑道掘りへと変遷していったわけです。

 

 採掘された原石です。大きなものから小さなもの、砕いたものもあります。最終的にはこれを1ミリ以下の粉になるまで磨り潰してゆくのですから、いかに大変な作業であったかが分かります。今なら大型の圧縮器や粉砕器で一発で済んでしまうのでしょう。

 

 金山衆は山の中で生活していて、職住近接の状態でした。なので金山遺跡からは日用品も数多く検出されています。なかには金山が閉められた際にそのまま放置されたものもあり、完全な形を保っている容器も少なくありません。見ていて生々しく、昔の人々の息吹がリアルに感じられます。甲州金山の歴史的魅力の一つです。

 

 金山衆が使用した道具や工具類が色々残されています。湯之奥金山が閉じられたのは、鉱脈が枯渇したからです。掘れるだけ掘って、掘り尽くしたからでした。だからといって他で同じような金山が経営されているわけではありませんでしたから移動することも出来ず、仕事も農業などの他の分野に移っていったことと思われます。したがって、こういった道具、工具類はみんな用済みとなり、捨てていったわけです。

 

 なので、金山遺跡を発掘すれば、こういった遺物は膨大に出てくるそうです。発掘範囲は中山、内山、茅小屋の3つの金山のうちの中山金山の遺跡のほんの一部だそうですから、いまも大部分の遺跡には無数の遺品が埋もれている筈です。ですが、そのままで遺跡ごと文化財指定を受けていますから、現状保存が原則となります。

 

 金の精製品なども見つかっています。金山ですから金があってもおかしくないのですが、金山衆は閉山にあたってこういうものも捨てていったのでしょうか。
 現在、金山遺跡は国の史跡に指定されていますので、こういった金の遺物をもとめて宝探し気分で現地へ登る行為は文化財保護法違反となります。一粒の金さえも拾ったら、犯罪行為として罰せられます。

 

 粉成(こなし)作業に用いられた鉱山臼の各種の遺品です。湯之奥金山の鉱山臼は、上図の二枚重ねの形のとおり、上臼の軸受皿と金鉱石を落とす下臼の供給皿が別々に作られた特殊なもので「湯之奥型」と命名されています。
 この「湯之奥型」の鉱山臼は類例が少なく、南部町の十島金山や伊豆の土肥金山、佐渡島など限られた地域でのみ出土しているそうですが、それらの金山にもここの金山衆が出向いていたことを物語るのでしょうか。  (続く)

 


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