気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

最近買ったガルパン戦車公式キットの新製品

2016年10月31日 | ガールズ&パンツァー
 最近買ったガルパン戦車公式キットは、現時点ではプラッツ製品のみです。ファインモールドの方は、いまのところ新製品のアナウンスがありません。クリスマスあたりに何らかの動きがあるといいですね。


 去る8月31日に発売された、プラッツの「劇場版 1/35 T-34/85 プラウダ高校」です。旧公式キットのリニューアル版です。


 9月中旬に模型店で購入し、中身を見てみたところ、旧公式キットとほぼ同じでした。以前に制作した旧公式キットと同じ流れで幾つかの改造や修正を行なうことになりますが、T-34/85は割合に簡単に作れた方ですので、むしろ楽しめるでしょう。
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 続いて、10月21日に発売された、プラッツの「Ⅳ号駆逐戦車/70 (V)ラング 黒森峰女学園」です。ドラゴンサイバーホビー製品からの公式キット化です。


 これは通販予約で買いました。劇中車仕様とは少し異なるキットですので、完全に合わせるのであれば、以前にタミヤ新キットで作ったのと大体同じ流れで幾つかの改造や修正、パーツの転用を行なうことになります。よく指摘される後部排気管の偏向ノズルも入っていますが、元キットでは不要パーツ扱いになっています。
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 かくして、私が好きな戦車ベスト3が公式キットで出揃いました。一番はパンターG型、二番はラングV70、三番はヤークトパンター、です。こうして積んで眺めているだけでも幸せな気分になれます。

 ラングの公式キット化により、黒森峰女学園チームは、あとエレファントを残すのみとなりました。ティーガーⅠ、ティーガーⅡ、ヤークトティーガー、Ⅲ号戦車J型の4種は旧ナンバーのままですが、これらもいずれリニューアルされるものと予想されます。


 現時点でまだ公式キット化されていない車輛をまとめると、以下の10種になります。

 聖グロリアーナ女学院チームのマチルダⅡとクルセイダー
 サンダース大学付属高校チームのM4A1(76w)とファイアフライ
 アンツィオ高校チームのP40とM41セモヴェンテ
 黒森峰女学園チームのエレファント
 継続高校チームのBT-42
 大学選抜チームのセンチュリオンとM24チャーフィー

 全ての登場戦車を公式キット化するプロジェクトがいまも進行中なのであれば、この10種もいずれ公式キット化されるわけですが、本当に実現するのだろうかと半信半疑です。
 ただ、センチュリオン以外は既に適応キットが出ており、センチュリオンも新製品開発が発表されていますから、ガルパン戦車の全てをプラモデルで再現するという、夢のような取り組みが、もはや夢ではなくなってきています。要するに、時間の問題である、ということでしょう。
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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7の5 「打吹山の長谷寺へ」

2016年10月30日 | 倉吉巡礼記

 昼食どきになったので、町並みのほぼ中央にある「レストラン三日月」へ行きましたが、臨時休業日でした。では他にどこへ行こうか、ということでKさんが「僕の知ってる店に行こうか」と提案してきました。それに決めてJR倉吉駅前へ移動、駅前駐車場へ車を入れて徒歩に移りました。牛骨ラーメンの有名店の一つ「べんけい」の前を通りました。


 さらに西へ歩いて次の交差点を左折し、すぐの所に蔓草に覆われた外観の喫茶店がありました。「チロリン村」といい、倉吉ではけっこう有名なお店だそうですが、私は初めて知りました。


 内部は天井がものすごく高くて、広々とした空間でした。二階部分を撤去してこうなったのでしょうか。


 この日いただいた「きのこスパゲッティ」です。Kさんも同じのを食べていました。


 JR倉吉駅の駅舎です。


 午後からは、打吹山城跡の見学に移りました。城跡の西の中腹に境内地を構える山岳寺院の長谷寺から登ることにし、入口近くの公衆トイレ横の参拝駐車場に車を停めました。
 長谷寺へは、山門跡から石段をいくつか経て登ります。


 石段の途中で振り返ると、西側に眺望が開けていました。打吹山の西尾根群のほぼ真ん中に参道があるため、両側は高い尾根筋に阻まれています。それらの上にも郭群が連なりますが、遺構としては小さい部分です。


 石段を登り、左に広場を見て、大きな熱帯植物の林立に目を奪われつつ左に曲がり、石段を登って右に曲がると、石段の前方に懸造りの本堂が見えてきました。


 仁王門です。江戸時期の延宝八年(1680)の建立になる八脚門です。鳥取県の保護文化財に指定されています。かなり後世の手が入っているので、幾度か部分修理を受けているようです。
 しかし老朽の色は否めず、屋根も軸部も痛みが激しく、基壇は右側が沈下していて、そのために建物全体がやや斜めに歪んでいました。早急な応急修理が望まれますが、その予算も備えも無いようでした。


 仁王門から本堂を見ました。


 本堂です。母屋は十六世紀、安土桃山期の建立ですが、外周の庇部分などは江戸期に追加されたようで、全体としては五間堂の様相になっています。母屋は三間四面の方形堂であり、これを保護するかのように覆いの屋根と庇を追加し、参籠および参拝の便に供しています。寄棟造ですが、西側が傾斜地なので懸造りとしています。鳥取県の保護文化財に指定されています。


 本堂内の内陣前格子から内部を覗くと、入母屋造杮葺立の派な厨子が見えました。長谷寺の信仰の中心であり、本堂の建物はこの厨子を保護する蓋屋の役目を果たします。
 様式は禅宗様ですが、年代は室町時代後期となり、やや形式化しています。二手先の組物を用い、軒を扇垂木とするなど本格的な建築手法によっており、厨子でありながら正規の仏堂に準じた構えを示します。
 軸部や軒廻りの各部材および屋根葺材にも当初の材がよく残ります。この時期の建築遺構は、山陰地方においては稀で、貴重なものです。国の重要文化財に指定されています。

 厨子内には、秘仏本尊の木造十一面観音菩薩坐像が安置されます。 十四世紀代の佳品で、おそらく守護職山名氏の寄進または庇護によって造立されたものとみられます。檜の寄木造で像高は101センチ。倉吉市指定文化財になっています。


 本堂には天井が無く、屋根裏の小屋組みがよく見えます。厨子を守る覆屋としての性格がよく表れており、修理や改造が容易に施せます。空間的にも広いため、部材に絵馬を懸けて奉納するにはもってこいでした。
 それで室町期から江戸期にかけての絵馬が多数伝わり、そちらの歴史的価値も極めて高いです。一括して鳥取県保護文化財に指定されており、現在は本堂裏の袖廊に収容して陳列し、時折一般公開しています。 (続く)

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サンダース大学付属高校 M151 MUTT 作ります!! その3

2016年10月29日 | ガルパン模型制作記

 ステップ6では、フロントウインドゥなどを取り付けます。兵士のパーツは不要です。劇中では、右側の側面観は出ませんので、左側の側面観に合わせてスコップB11は未装備とみなし、不要としました。


 ステップ7では、フロント部品を取り付けます。また、車体後部左右の突起を切り取る旨の指示がありますが、劇中車にも突起がありませんので、指示通りにカットします。キャップ状のC6については、劇中では微妙に隠れているような感じで、ついてるのかついてないのかよく分からず、ガルパン仲間のナガシマさんにも問い合わせてみましたが、結果として実車にはついていない場合もあることを教えていただきました。
 とりあえず、今回の制作においては、C6はガイド指示にしたがって取り付けました。


 スコップB11は未装備とみなしましたので、取り付け穴を爪楊枝で埋めました。


 パーツを切り出しました。


 車体に取り付けました。


 もう完成状態に近いです。


 パッと見たら、知らない人は「ジープだ」と言うんでしょうが、ナガシマさん流に言うと「ジープじゃねえ、マットだ!」となります。私はずっと「ケネディジープ」と呼んでいたのですが、それは米軍兵士たちがそう呼んでいただけに過ぎません。
 て言うか、使っていた米軍兵士も「ジープ」と呼んでたわけですので、「マット」と正しく呼ばれたケースはあまり無かったのかもしれません。


 車体後部左右の突起です。これは指示通りにカットしました。


 フロント部品の数々です。


 全て取り付けました。


 おお、まさしくケネディジープ・・・・、いやマットですね・・・。後で考えると、キャップ状のC6はつけなくて良かったかもしれませんが、この状態のままで塗装しました・・・。 (続く)
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パンツァーフォー! スペシャルフィギュア 秋山優花里

2016年10月28日 | ガールズ&パンツァー

 一昨日、退勤後に京都四条木屋町の喫茶店「ソワレ」(ひなビタの喫茶店シャノワールのモデル!)での模型サークルの会合に参加した折、アンドー氏に「ガルパンのフィギュアの新品が入手出来たので謹んで進呈しよう」と上図の品を渡されました。

「あっ、フリューのプライズ品の秋山優花里じゃないですか。どうしたんです、これ。ゲーセンで獲得したんですか?」
「俺がゲーセン行って、こんなの上手に獲得すると思うんか?え?」
「何を上から目線で、そんな威張って言ってくるんですか・・・」
「つまりはイヨマンテの・・・・。まあええ、これは、仕事上の関係でちょっとな・・・」
「ちょっとな、って、フリューさんとも関係とかあるんですか?教えて下さいよ・・・」
「まあ、そこは、夜のイヨマンテのお告げ次第やな・・・」
「何がイヨマンテのお告げですか・・・」


 かくして幸運にも頂きました、フリューのプライズ品の秋山優花里です。パッケージの写真のままの仕上がりです。像高は17センチですが、意外に重みがあります。全1種、とあるので、あんこうチームの全員が続いて製品化される、というのではなさそうです。


 メイドインチャイナ、ですので中国の工場で作られたものです。中国人は細かい造形が得意ですから、こういったフィギュアも中国製が多いようですね。フィグマもねんどろいどもそうですし。


 台座と本体が別々にエアークッションに包まれて入っており、両脚裏のダボを台座の穴に差し込んで出来上がりです。そのままパッケージに収まりますので、エアークッションも捨てずに保護材として使った方が良いでしょう。


 プライズ品のフィギュアというものにこれまで縁がありませんでしたので、思ったよりも良い仕上がりになっているのにまず驚かされました。これまでに発売された秋山優花里のフィギュア製品群にひけをとりません。


 しかもあのリュックサックを背負っています。これの実物はものすごく高価だったにもかかわらず、あっという間に売り切れてしまいましたね・・・。今でも欲しいと思うので、再販して貰えませんかね・・・。


 敬礼シーンが決まっています。言う事無いですね・・・。右袖など、各所に、妙な傷がついていますが、まあ中国製だから仕方ないですね。
 ゲーセンで獲得する他に、アマゾンでの通販でも扱っているそうですが、価格は1200円ぐらいだと聞きました。アンドー氏によれば、この種のプライズ品の通販価格は日数を経るにしたがって上昇するから、早めに買っておいたほうが得や、ということでした。


 しかし、なかなかよく出来たフィギュアです。17センチのサイズ感を感じさせないあたりも凄いのですが、ガルパンの秋山優花里の独特のキャラクターを的確に捉えて表現しているのが素晴らしいです。プライズ品のフィギュアって、みんなこんなふうにクオリティが高いんでしょうか・・・。


 フリュー公式サイトでの案内はこちら。アマゾンでの案内情報はこちら
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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7の4 「城跡から街中へ」

2016年10月27日 | 倉吉巡礼記

 田内城跡は、倉吉の旧市街地のほぼ北に位置して小鴨川流域を一望出来る要所に位置しています。南には打吹山もよく見え、その秀麗な山容が抜きんでていることが分かります。
 地域支配を危機管理の観点から突き詰めた場合、もっとも要害性に優れた打吹山に拠点を移そうという発想は、山名時氏や山名師義でなくとも抱いたことでしょうが、当時は最大の集落が見日千軒であり、最重要な交通路が小鴨川の水運と川沿いの因幡街道であったため、山名氏はこれらを眼下に掌握するための拠点として仏石山に着目、最初の守護所をこれに置いたのでしょう。


 ですが、いまの田内城跡の本丸は、守護所の居館施設を置くには狭すぎます。平均的な四間四面の殿舎すら建てられません。守護所の格式をもたせるならば、塀や門も構える必要がありますが、それらも地形に合わせると建設そのものが無理です。

 なので、Kさんがもらした感想は、当を得ていたと思います。
「ほんとに守護所がここにあったの?もっと広い敷地を見日千軒の近くに幾らでも確保出来たんと違うかね?いまのこんな広さやったら、建物一つだけで窮屈になるね」

 他の国の守護所は、多くが平野部に広壮な方形居館を構えていますから、伯耆国守護職山名氏も、出来ればそうしたかったのかもしれませんが、しかし当時の小鴨川は暴れ川と呼ばれ、毎年氾濫を起こすことで有名でした。流域の人々はつねに水害に悩まされ、田畑は幾度も被災して結果的には凶作も少なくありませんでした。見日千軒が川に接して水運の要所になっていたため、守護所もそれに近接していれば政務が取りやすくなりますが、しかし氾濫で守護所がやられると、伯耆国の政治はそこでストップしていまいます。

 ですが、室町幕府の政治体制における守護の任務の第一は、任地における政治的空白を生じさせないことでした。これは南朝残存勢力への対策でもあり、足利将軍家の直臣として幕府の威令をあまねく全土にゆきわたらせ、守護の権限をもって国土の支配と安泰を確立することが重要でした。
 しかも初代守護の石橋和義は任地に赴いた形跡がなく、その代官の政務すら機能していたかも不明ですから、実質的には山名時氏が、戦乱で荒廃し生産力も低下していた伯耆国の立て直しをはからざるを得なかったものと思われます。

 なので、守護所もとりあえずは急造仮設の施設とし、小鴨川の氾濫水害に巻き込まれないように高所におき、もって見日千軒と交通路を掌握、次の段階で守護所を本格的に整備する、という流れでの政務活動をとったものと推測されます。そのイメージで考えるならば、仏石山の上に仮の簡素な建物をしつらえてとりあえず守護所とする、という状態だったとしても良いかもしれません。

 ですが、嫡男の山名師義は打吹山への移転を期したと伝わります。史実かどうかはともかく、田内城の規模と位置では、政務を執るにも色々と不便だったであろうことは想像に難くありません。後の時期には山名氏の居館が現在の大岳院境内地にあったとされていますが、それは居館というよりは守護所であったと考えた方が自然です。
 大岳院の館跡は、一般的には山名小三郎氏豊の館、ということになっていますが、遺物の年代観は十五世紀なので時代が合いません。一世紀ぐらいはずれています。そのあたりもふまえて、山名氏とその守護所の位置について再検討してみることが、これからの歴史観においては必要になってくるでしょう。その考察の起点が、この田内城跡であり、その現存遺構が完全に戦国期十六世紀の様相を示している点にもっと留意すべきでしょう。


 城跡からは、模擬櫓の横の急な九十九折の散策路をたどって下山しました。散策路、というには細くて急坂なので、登るにはきつく、降りるにも注意が必要でした。
 しかし、眺望はよく、打吹山方面は視界が開けていました。周囲の樹木が高く伸びていなければ、見晴らしはもっと利いたことでしょう。


 麓の裾を巡る道に戻りました。丘の北側に広がる墓地への参詣道としても使われていますが、その道を尾根筋まで上がると城跡への散策路に繋がります。ゆるやかな登りなので、城跡見学の際の往路には適していると思います。


 降りてきたばかりの急な九十九折の坂道の入口が上図の場所です。標識は外れて下に置いてありました。


 車道に戻って岩壁の岩阿弥陀を拝みました。例の大水害で見日千軒が壊滅した時、当時の守護所はまだこの仏石山上に在ったのでしょうか。それとも、大岳院の位置などに移されていたのでしょうか。現時点では、それすらも分かっていません。
 倉吉エリアでは、古代や近世以降の歴史は割合にいろいろと明らかになっているようですが、中世戦国期のそれはさっぱり分かっていないことが多いです。


 昼近くになったので、倉吉の町並みに向かいました。途中で思いついて、和菓子店の「まんばや」に立ち寄りました。


 なにか土産を買うのかね、とKさんに聞かれ、ひなビタのパネルの一つを見たいので、と答えました。


 東雲心菜です。今まで唯一、定位置を確認していなかったパネルです。Kさんはアニメやゲームに全く縁が無いため、ひなビタというコンテンツにも余り関心が無いようでした。妙なものを店に置くんやねえ、と話していましたが、これが世間一般の普通の反応であるのでしょう。


 「そう言えば、お前が一番好きだというキャラクターのパネルもあるんか?」と聞かれ、近くの鉄道記念館へ連れて行って芽兎めうのパネルを指差しました。これがそうか、と感心したような、呆れたような表情のKさんでした。


 Kさんの思惑をよそに、芽兎めうは今日も元気でした。めうー。


 鉄道記念館の北側の、国鉄倉吉線跡です。一部が公園化されて御覧のようになっています。Kさんは子供の頃に何度か乗って、ここにあった打吹駅で降りたことがあるそうですが、その時の事はあんまり記憶に無いなあ、と言いました。 (続く)

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サンダース大学付属高校 M151 MUTT 作ります!! その2

2016年10月26日 | ガルパン模型制作記

 ステップ4では、タイヤやシートなどを組み立てて車体に取り付けます。タイヤは塗装後に取り付けることにしました。左側面に、装備品の一つである斧を取り付けますが、劇中車は装備していませんので、斧のパーツB4は不要です。その取り付け穴も埋めます。
 ステップ5では、フロントウインドゥを組み立てます。バックミラーのC15は、劇中車にはついていませんので不要です。ガラス部分の透明パーツは塗装後に取り付ける予定です。またA19にマークを貼る指示がありますが、劇中車ではマーク部分が省略されているようなので、マークも不要です。


 タイヤのパーツです。ランナーに付けたままで組み立てます。ランナーは、塗装時の持ち手になります。


 斧のパーツB4は不要なので、その取り付け穴を爪楊枝挿しで埋めました。


 タイヤの組み立てが終わりました。戦車の転輪よりもすごく楽でした。


 シートも組み立てました。


 爪楊枝挿しで埋めた部分をヤスって均しました。


 タイヤを除き、車体に取り付けるパーツを全て揃えました。


 全てを車体各所に接着しました。


 この種の乗用車のキットは、海外メーカー品ですとエンジン等もパーツ化されて再現されているケースが多いようですが、タミヤは無駄を省いているのか、エンジンのパーツはありません。


 ステップ5に進んでパーツ類を切り出しました。


 取り付けが終わりました。劇中車に合わせてバックミラーのC15は不要としましたが、乗用車にバックミラーは必要である筈なんですね・・・。車にも自転車にもバックミラーは必須だ、とナガシマさんが交通安全講習会で机を叩いて力説すると思うんですね・・・。 (続く)
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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7の3 「古墳と彼岸花と古城」

2016年10月25日 | 倉吉巡礼記

 山名時氏場所の隣には、倉吉市を代表する古墳として知られる三明寺古墳があります。後世に地蔵石仏をおさめて長く地蔵堂として信仰を集めてきたようですが、それはこの古墳が早くに開かれて内部へ出入り出来るようになっていたことを示すのでしょう。


 その築造時期は六世紀末ないし七世紀初頭とされています。いわゆる大化の薄葬令の施行前の遺構で、規模は径18メートル、高さは6メートルを測ります。現在の地形状況では分かりにくくなっていますが、円墳です。
 その埋葬施設は、山陰地方最大級の横穴式石室です。切石造りの両袖式で、石室全長8.3メートル、玄室長3.7メートル、玄室高3.1メートルを測ります。奥壁には巨大な一枚石を立て、玄室の奥壁に接して板石を組み合わせた囲いを設け、柩に供したものとみられます。羨道部の一部も残り、この種の古墳としては稀な保存状態を示しています。


 Kさんはこうした古代の遺跡が専門なので、色々と専門用語を呟いては各部を子細に観察し、楽しげにこう言いました。
「伯耆守、福庭古墳を覚えてるかね」
「ああ、波々伎神社の境内にあるやつやね。ここと、ほぼ同時期の古墳やろ?」
「そうだけど、構造や技術的にはあちらの方が上やなと思う」
「と言うと?」
「石の組み方、加工の程度とか、やね」
「ああ、それなら福庭古墳の方がしっかり造ってあるな。切石のはめ込みもきっちり隙間無く仕上げてるし、段差をつけて石を組んでるあたりも、なにか木造建築からの応用みたいなのをイメージさせる」
「だろ?終末期の古墳ともなりゃ、石室にも当時の技術レベルがストレートに反映されるわけや」
「確か、木組みみたいな石の組み合わせがあったね・・・」
「それ、それよ。ああいうの、畿内にはあるんかね?」
「奈良のか?・・・いや、見てきた限りでは覚えとらんね。宇陀郡の渡来系の遺構も幾つか見たけど、木組みみたいな組み方は見たこと無いな」
「だろ?山陰じゃ古墳にも仏教建築からの影響がみられる。古代寺院の多さも伯耆は際立っとる。古代には相当の技術レベルが確立されてて、畿内よりも先進しとった部分があったと思う」
「それはそうやろうな。伯耆国は律令の制では中国にあたってるが、実質的には上国とみなしていい。因幡国は上国だが、その国力に見合った歴史がどうも感じられん」
「やっぱりそう思うか。いや僕も地元民のくせに因幡国にはあんまり歴史的な精彩を感じねえのよな」
「そこまで言うかね・・・。まあ地域の資源とか経済とか生産力を考えたら、伯耆国の方がちょっと勝ってるかな、という感触はある。古代の遺跡群の層の厚さはもちろんだが、中世戦国期の遺跡や歴史もなかなかの厚みがある。歴史に厚みがある、ってのは、だいたい古代の段階で相当の国力と生産力を持っていたことによって人や物資が集まったり交流が盛んだった流れがあったからやな」
「うん、そうやね」


 色々話しつつ参道を戻り、本堂の前を過ぎました。一般公開寺院ではないので、見学は境内地のみとなります。


 Kさんは、境内地よりも山門付近の彼岸花の景色に興味があったようで、そっちへ行って写真を撮ろう、と言ってきました。


 確かに、美しい景色でした。山門付近を埋め尽くすように紅く咲き乱れる彼岸花の群生は、山名氏の哀しい歴史に手向けられるかのように、静かにそよ風に揺れていました。墓場の花として忌み避ける向きもあるようですが、個人的には秋の景色を彩る季節の花として、それ自体は綺麗な自然の姿の一要素として捉えています。
 奈良に住んでいた時期にも、秋の景色を撮った写真が沢山ありますが、多くは彼岸花を被写体に加えています。曼珠沙華、という正式名称も、仏教文化の香りただよう奈良の風土にはむしろ相応しい、と思います。


 山名寺を辞して、近くの田内城跡に移動しました。天神川に架かる巌橋の北側に突き出た岩山が所在地です。山名時氏が守護所を置いた場所とされますが、現存の遺構は戦国期の改修状況を伝えています。


 隣のオムロンさんの正門前の車道脇に車を停め、登山口に向かいました。倉吉市内の城館遺跡は、ほとんどが標識や散策路を備えて見学も容易に出来ますが、市街地に近接する範囲においてはこの田内城跡が最も入り易く見学し易いです。


 城跡のある岩山は仏石山といい、もとは仏教信仰の道場であったのかもしれませんが、いま南側の岩壁には「南無阿弥陀佛」の語句を刻んだ岩阿弥陀が祀られます。戦国期の天文十三年(1544)の天神川の大氾濫によって壊滅した城下町「見日千軒(みるかせんげん)」の死者の供養碑にあたります。
 それを見上げつつ、Kさんの質問が始まりました。

「その「見日千軒」ってのが、山名時氏時代の倉吉の中心やったのかね?」
「そう。やから山名時氏は、見日千軒を見下ろす仏石山に守護所を置いて支配を行なったわけやな」
「千軒、って広島の福山の草戸千軒っていうあれと同じ意味なのか?」
「そう。中世期には地域の中心的な街区のことを千軒と呼んだ。千軒あるという意味じゃなくて、沢山の家屋が集まって街が形成されている、という意味やな」
「ふーん、古代には国府にあった街区が、中世にはこっちに移ったわけか。水運を交通の要にする中世期ならばでの現象なんやねえ」
「そう。水運や海路が重視されたから、鎌倉期にはもう主要街区が川か海に接して発展しているケースが見られる。京都でも平安京よりも巨椋池に面する地域が発展したし、奈良では大和川流域に中心街が移動してる。因幡でも国府より北に街区が移って千代川と湖山池のエリアに政治の中心が移動している。因幡山名氏の守護所の布施天神城はその象徴的な結果やね」
「なるほど。するとここでは見日千軒が中心街になって、それが氾濫で全滅してしまったから、新たな中心街を倉吉に移して再建したということか」
「時系列的にはそれで大体合ってる筈。倉吉という地名自体がな、一次史料のうえでは十六世紀にならないと出てこないんで、たぶん山名時氏やその嫡男の師義の時期には、いまの倉吉というのは地名も街もまだ無かったんやろう、と思うね」
「ふーん、するとこの「見日町」ってのが、かつての見日千軒の位置なのか?」
 Kさんは地図を広げながら、いま石谷精華堂やスーパーヒーローなどがある場所を指して聞きました。
「厳密にはもう少し東寄り、いまの巌橋の両側の河川敷あたりになると思う。氾濫で天神川の流路も変わってしまってるんで。以前は小鴨川ともども違うコースを流れてたけど。中世期には暴れ川と恐れられて度々水害を出しているが、その最大のやつが天文十三年の大氾濫やったらしい」
 その供養碑が、あの立派な岩阿弥陀なのでした。


 田内城へは、北および西麓の墓地から参道を経て登りました。墓地から外れて散策路を登ると、尾根筋に堀切や平坦地が見え始め、やがて土塁状の高まりを伴う虎口状の部分を通りました。Kさんは田内城跡へは初めての訪問になるので、周囲を見回しつつ、私が持参した縄張図を参考にして色々と観察していました。

 古代の遺跡は埋もれてしまっていて、発掘でもしないと姿も分からないのが普通ですが、中世戦国期の城跡などはまだ埋まっていないケースが殆どで、堀や郭などの遺構は今でも大体認められて容易に見学することが出来ます。だから、遺跡散策を楽しむならば中世戦国期のそれが一番面白い、というのが私なりの持論です。


 丘上の頂上の平坦地に着きました。ここが城跡の主郭にあたります。近世城郭では本丸と呼ばれる場所に相当し、いまは上図のごとく近世風の模擬櫓が建てられています。
 ですが、中世戦国期の田内城にこのような建物が存在した筈は無く、当初は守護所の館と付属建築、後には戦国期の城砦としての最小限の設備しか無かった筈です。
 近世には廃されていた田内城ですので、このような近世風の模擬櫓を建ててしまうと、あらぬ誤解も出てくるでしょう。状況が許せば、こういった模擬施設は撤去し、遺構の実年代に見合った考証をもとにした復原模擬施設を暫定的に具体化したほうが、遺跡の周知や社会教育効果なども効果的なものになると思います。


 模擬櫓の壁面に埋め込まれた解説板です。内容的には推測も混じるので再検討の余地が多いです。特に山名時氏の嫡男の師義が打吹城を築いて移った、というくだりは二次史料の「陰徳太平記」に拠ったもののようで、信憑性には疑問がもたれます。
 打吹山城は、現存遺構からみる限りでは戦国期の様相が濃く、山名師義の時期まで遡るかどうかは確証がありません。一次史料に城名が「宇津吹城」または「倉吉城」と出てくるのも、十六世紀後半になってからなので、山名氏が守護職として大いなる権勢を発揮していた十四世紀代に、果たして打吹山城が存在したのかどうかは、現時点では確証がありません。

 それらの事をかいつまんで説明すると、Kさんは感心しながら「中世戦国期の歴史もまた謎だらけなんやね。謎解きの面白さは古代に劣らないんやね」と言いました。
 全くその通りです。日本の歴史で一番面白いのは、中世戦国期のそれである、と個人的には常に感じております。 (続く)

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サンダース大学付属高校 M151 MUTT 作ります!! その1

2016年10月24日 | ガルパン模型制作記

 先月末、退勤後に京都四条の「B's Hobby」に立ち寄った際、タミヤの古いキットが積まれているコーナーで、上図のキットを見つけました。これはガルパンでサンダースチームが使ってた、M151ケネディジープじゃないか、と気付いて購入しました。小さな車輌だけに箱も小さく、値段も1000円以下でした。

 ケネディジープ、というのは当時のアメリカ軍内での愛称ですが、私はこれが正式名称だと思い込んでいました。ですが、ガルパン仲間のナガシマさんに聞いたところ、「MUTTですね」と応じてきました。それで調べたところ、正式名称はMUTTのほうで、MUTTは「マット」と発音するのだと知りました。
 ナガシマさんのミリタリー関連のお仲間の一人が、このMUTTの実車を所有されて乗り回しているそうで、ミリタリーイベント等でも乗ってきて、ナガシマさんも運転させてもらったりするそうでした。


 ガルパンでは、テレビシリーズの第10話にて登場しています。対黒森峰戦の直前、大洗女子学園チームの西住みほを訪ねて激励にやってきたサンダースチームのケイ以下が使用していました。


 後部に座っていたケイがひょいと飛び降り、西住みほに挨拶をして、軽く飛び乗って颯爽と走り出してゆくのでした。アメリカ軍テイストのサンダースならばでの身軽さであり、車輌もコンパクトで無駄なものは載せずに軽快に走っていきました。
 このシーンの独特の爽やかさが、けっこう私の中では印象に残っていますので、適応キットを見つけて購入したことを契機として、このM151 MUTTを作ってみることにしました。

 製作にあたって、劇中車が3Dデザインではなくて手描きである点に留意しました。手描きですと、どんな兵器でも作画時にかなりの簡易化や省略がなされます。ガルパン仕様にする場合は、そのあたりもふまえて臨機応変に合わせるのが良いだろう、と判断しました。


 パッケージの中身です。今回のキットはカーゴトレーラーもつくので、パーツ数はそれなりにあります。ガルパン仕様に仕上げるとパーツの幾つかが不要となり、カーゴトレーラーも必要ありませんので、実際の組み立てに使うパーツは限られていました。


 ステップ1では、仕様に合わせての改造を施します。実際のMUTTは陸軍標準タイプ、陸軍機関銃搭載タイプ、海兵隊タイプの3種がありましたが、ガルパン劇中車は海兵隊タイプです。しかし、海兵隊タイプ特有のパイプ等の装備はセットしていませんので、ガイド指示にあるA1およびA34での穴開けは不要です。
 ステップ2および3では、セミモノコックボディを組み立てます。劇中車ではほとんど見えない部分ですので、ガイドの指示通りに組み立てます。


 車体パーツのA34てす。ほとんど一体成型でパーツ化されていますので、あとは小パーツを貼り付けてゆくだけで出来上がるという簡単さです。戦車のキットの組み立ての大変さに慣れている身には、ものすごく楽な作業でした。


 ステップ2で組み付けるパーツ類を切り出して準備しました。戦車とは異なるパーツが色々とあって、この種のキットが初めてであった私にとっては、とても興味深いものでした。戦車だと車内に隠れてしまう駆動系の各パーツがむき出しになっているため、見た目にも面白いです。


 ステップ2の組み立てが完了しました。戦車と違って、乗用車の底部は色々と複雑で興味深いです。各部品のそれぞれの働き、組み合わせての機能がどういうものか、なんとなく分かってまいります。


 車体を上に返して全体を見ました。既に大体の輪郭が出来上がっている、という感じです。


 ステップ3で組み付けるパーツ類を切り出して準備しました。排気管のパーツB27は、海兵隊タイプ仕様の通りにして指示位置でカットしました。劇中車は、背面のシーンが出ないので側面観から推定するしかありませんが、とりあえず海兵隊仕様に従いました。


 ステップ3の組み立てが完了しました。ここまでで30分もかかりませんでしたので、何と言う楽なキットだ、と何度も感心してしまいました。


 細部まで再現されているので、例えばこの車が四輪駆動である点もよく理解出来ます。完成すれば殆ど見えない部分であるのに、きちんと表現してあるのが良いです。これもタミヤスタンダードなのでしょうか。
 とにかく、色々と分かってくるので、作っていて楽しかったです。 (続く)
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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7の2 「山名寺の山名氏墓所」

2016年10月23日 | 倉吉巡礼記

 定光寺を出て、天神川の北堤防上の県道312号線を進み、三明寺の街区にて左の脇道にそれ、標識にしたがって左折して山名寺に行きました。徒歩で訪ねれば上図の石段を山門へと登りますが、車で行くと右側の車道を経て境内の鐘楼の横の駐車場まで入れます。


 山名寺の本堂です。この寺の前身寺院の創建は延文四年(1359)、当時の伯耆国守護職山名時氏が自らの菩提寺として開きました。開基の南海宝州は新田氏出身の禅僧でした。時氏は応安四年(1371)に没し、法名を「光孝寺殿鎮国道静居士」とされましたが、それに因んで菩提寺の寺号を光孝寺と定めました。
 現在の山名寺は光孝寺の後身にあたるとされていますが、同じ位置にあったかどうかは確証が無く、むしろ室町期に入ってからの山名氏が新たに整備した菩提寺であったと考えるのが良いかもしれません。

 個人的には、山名時氏が伯耆国守護職に任ぜられた時の、平時の屋敷があった場所だったのではないかと思います。守護所を置いた田内城とは指呼の間にあり、その屋敷地を後に寺としたのがいまの山名寺にあたるのではないか、と思いましたが、山名寺そのものに関する詳しい資料がまだ見つからないので、とりあえずの仮説としておきます。


 山名寺にとっては特別の意味をもったらしいハナショウブを、「花かつみ」として紹介しています。Kさんは「花のことよりも、山名寺の由来や光孝寺との具体的な関係が知りたいね」と呟いていましたが、私も同感でした。


 本堂には、山名氏の家紋がかけられています。現在は山名氏ゆかりの寺としては唯一の存在のようになっていますが、もともとこの寺だけだった、ということはないと思います。もとは六分の一殿と呼ばれて諸国に系譜を広げた山名氏なので、他地域にも似たような寺院があるはずなのでが、勉強不足のために詳細をいまだに知りません。

 山名氏の嫡流は、戦国期には但馬国守護職および因幡国守護職にあり、伯耆国守護職は最終的に尼子氏に代わっているので、山名氏は伯耆からほぼ撤退しています。その際の混乱が、史料の散逸なども招いて、余計に史実がはっきりしなくなっている部分も大きいようです。


 なので、境内地にまつられる山名氏関連の墓塔群も、誰の墓なのかは詳らかでなく、かつては境内のあちこちにあったのを集めたものといいますから、原所在すら分からなくなっているわけです。現存墓塔の多くは室町期の一石五輪塔や宝篋印塔で、一部に逆修塔も見られますが、山名時氏の時期にさかのぼる古い遺品は見当たりません。
 しかも、大きな墓石は無く、本当にここが伯耆国守護職山名氏の墓域だったのかと疑問にすら思います。山名氏関係者たちの墓地、という表現のほうがしっくりきます。それでも現状がこのようなので、戦国期の動乱期には山名氏の衰退とともに寺も墓地も荒れ果てた時期があったのだろう、と想像されます。


 境内地の背後の高所に続く参道です。奥に山名時氏墓所と三明寺古墳があります。


 現在の山名時氏墓所です。全盛期には六十六州の六分の一にあたる十一の守護職を受けた山名氏の、実質上の始祖にあたります。ですが、以後の伯耆山名氏は内紛が続いて惣領が但馬山名氏に転じたため、分流もしくは庶流に転落して、在地勢力南条氏以下の台頭を招くことになります。


 礼拝後に、Kさんが墓石の各所を観察しつつ「この墓塔はなんか寄せ集めみたいやな、基礎はどうみても新しく見えるな」と呟きました。
「因幡侍従、その見解は正しい」
「やっぱりそうか、墓石そのものも山名時氏のものではないか・・・」
「いや、墓石の本体は間違いなく南北朝期の特徴があるので、時氏のものと見てもええよ。でも基礎の石組は最近のものやな。昭和17年に山陰本線の改修にあたって山田から移して改葬しているから、その時のものやろうな」
「ちょっと待て。山田ってな・・・、北栄の山田別宮のことか?たしか八幡宮があったと思うが」
「同じ久米郷になるんで、大体はその辺りやろうな」
「この墓は、もとはそこにあったわけか?山陰本線の改修にあたって改葬、ってことは、昔は線路の近くにあったってことか?」
「資料をまだ得てないんで詳しくは知らんのやが、たぶんそうやろう、とは思う」
「すると、光孝寺っつうのもその辺にあったわけかね?こことは全然場所が違うぞ。直線距離でも4キロぐらいは離れとるね」
「せやからな、光孝寺についてのちゃんとした資料を見たくて探してるの。倉吉の図書館には無かったんで、湯梨浜か北栄のほうでいずれ探してみる積り。どう考えても、ここ山名寺がそのまま光孝寺の場所であるようには思えないんでな・・・」
「それは僕も同感やね・・・。伯耆守の仮説通り、山名時氏の屋敷跡、とみたほうがええんじゃないかと思う。守護所田内城に近いしね・・・」


 山名時氏の墓塔は、宝篋印塔の形式ですが、上図のように塔身および基礎の風蝕が激しく、反花座部分は完全に別石に換えられているようです。どうみてもまともな状態で祀られてきたとは考えにくく、かつては荒廃していた期間が長かったのではないかと想像されます。

 室町幕府伯耆国守護職の初代は足利氏一門の石橋和義が初代でしたが、伯耆国に赴任した形跡が無いようなので、二代目の山名時氏が実質的には初代の伯耆国守護でありました。その墓石がこんな無残な姿である事自体、いかに室町期以降の伯耆国の政治が安定していなかったか、いかに山名氏が内紛と衰退を重ねて国内を不安定にしてきたか、を如実に示しています。
 このように、文化財は、歴史の実情を鮮明に物語るのです。 (続く)

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キューポッシュ ガールズ&パンツァー 西住まほ

2016年10月22日 | ガールズ&パンツァー

 コトブキヤさんの人気フィギュアシリーズ「キューボッシュ」の30番として、ガールズ&パンツァーの西住まほが10月18日に発売されました。手元に届いたのは翌日の19日でした。
 コトブキヤさんの公式サイトにおける案内情報はこちら。アマゾンでの情報はこちら


 パッケージのデザインはこんな感じです。


 裏面には製品の仕様が分かりやすく図示されています。


 本来は付属の台座にマグネットで固定するのですが、ポーズをうまく決めれば自立させることも可能です。


 うん、まさしくお姉ちゃんですね。雰囲気がよく造形表現されていて見事です。


 帽子は、頭に乗せるだけかと思ったら、これもマグネット仕込みで、ピタッと頭頂にくっつきました。


 パンツァー、フォー!!


 お姉ちゃんは、やっぱり口元を結んだ表情のほうが、独特の森厳さがにじみ出ていて良いと思います。


 で、お姉ちゃんには、もう一つの「特技」があることが分かりました。


 なんと、髪の毛が伸びるんですね。頭髪部分が前後に動くので、前にずらすとこうなります。
 そういえば、髪の毛が伸びる人形というと・・・和歌山のアレですよね、確か、あわ(ティーガーⅠの砲撃命中音)・・・。

 西住まほ 「目標は撃破した。直ちに帰投する」

 ジャジャン、ジャーン!

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7の1 「定光寺の南条氏墓所」

2016年10月21日 | 倉吉巡礼記

 2016年9月24日は、秋の暦を数えてもなお暑さが残る一日でした。鳥取市に住んでいた頃からの知己であるKさんと倉吉の主な中世戦国期の歴史スポットを訪ねました。事前に電話連絡して、倉吉の中世戦国期の大体の輪郭をなぞってみる、と話したところ、それならば自分も大いに関心があるので連れていってくれ、と言われ、十数年ぶりの再会も果たすことになりました。

 朝早く家を出て二時間余りのドライブの後、いつものように関金から進んで小鴨川沿いに打吹山を見ました。遠くから見た方が、山容の輪郭がよく分かるので、林間に残る広大な城郭遺跡の規模も容易にイメージ出来ます。しかし、実際に探査するとなると相当の登山を必要とし、道無き道を進む場合も少なくありません。
 それで今回は、トレッキングシューズや長袖シャツや軍手やコンパス、地図などの装備も持参しました。


 合流地点は、倉吉市和田の定光寺と決めてありました。その参拝駐車場に着くと、Kさんが既に来ていて、懐かしい笑顔を近づけてきました。自然と双方の右手が伸びて、固い握手になりました。

「伯耆守、紅葉の室生寺以来やな。あれは平成12年の11月やったか」
「もうそんな昔のことになるか・・・。お互いちょっと老けたかな、因幡侍従」
「そうやね。気持ちはまだ若いんだがね。残念ながら、体の方は年齢相応やね」
 そう苦笑した相手は、足元もしっかり固めたハイカー姿でした。
「こんなんでええのか。僕は城跡巡りというのは初めてなんでな・・・」
「充分や。あとは体力と気構えの問題やな」
「今日は、城跡が二ヶ所と寺が二ヶ所、と聞いたがここから始まるのか」
「うん」


 定光寺は、中世戦国期の伯耆に関わりがあった山名氏および出雲尼子氏に関する歴史資料を幾つか伝えることで知られます。20年前に倉吉へ毎週遊びに行った時期に、この寺の古文書類も見せていただいたことがありますので、今回は上図の案内板を読むにとどめておきました。

 Kさんは鳥取県の古代史に詳しく、20年前にともに郷土研究団体「因伯古代寺院研究会」に参加して県内の古代遺跡や古墳や寺院遺跡の大部分を巡った仲ですが、中世戦国期の歴史に関しては殆ど知らないということなので、質問も少なくありませんでした。
「尼子氏ってのは、伯耆に侵入してきて、こういう寺をおさえて支配の拠点にしたということかね」
「侵入というより、地域支配の単位が少しずつ出雲から伯耆に拡大していった結果やな。出雲から周囲の勢力に接して和するか、戦うかのいずれになるわけやが、尼子氏が発展拡大してた時期の伯耆は支配構造もガタガタで在地勢力はバラバラ、国としてもまとまってなかったから、和するとか戦うとか以前の問題やったらしい」
「ふーん」
「守護職の山名氏は名ばかりで権威はガタ落ち、おまけに内紛ばかり繰り返して話にならない。守護代は南条や小鴨が担ったが結束も団結も何もあったものでない。下らない内輪もめを続ける山名に反抗してそれぞれの本拠に戻ってしまうような事態や」
「そんなら、伯耆は政治的にはほとんど空白地帯、ということになるんやね」
「そう。実態としてはほとんど空白。尼子も力攻めで伯耆に入ったんじゃなくて、近隣の中小の勢力を少しずつ支配下に入れていって、寺社には保護を与える形で、地域支配の単位を確保していった、という感じで空白を埋めていった、と理解してもそんなに間違いじゃない」
「当時の寺ってのは、地域の支配に大きな影響があったのかね?」
「大きいどころか、地域の住民の信仰の要だし、精神的な拠りどころやったから、どこでも新興勢力は寺社を保護するんや。そうすることで新しい支配者が地域に対して寛容であることをアピール出来る。寺社は同時に地域の自治システムの拠点も兼ねてたから、村々での集まりとか祭事とか儀式もみんな寺社でやってる。地域コミュニティの中核やね。そういうのが大きくなると武力も持つし、政治的にも経済的にも相当の影響力を持つ。だから尼子氏が伯耆に進んだときに定光寺のような地域の要の寺を保護したというのは、政治的には正しいんや。合戦とか軍事作戦やって力ずくで押さえつけるよりも、寺社を味方に引き入れてその地域住民をみんな懐柔してしまったほうが手っ取り早い」
「なるほど・・・、すると、寺や神社が攻撃されて焼かれたりするケースというのは、あくまで抵抗したからか」
「そういうこと」


 定光寺の伽藍堂宇は江戸期の再整備状況をほぼ伝えているようで、それ以前の中世戦国期からの法灯が連綿と続いていたことを伺わせます。当地においては守護職山名氏の保護を受け、隣国尼子氏の進出に際しても庇護を受けているのですから、よっぽどの事情が無い限り、寺の構えや歴史は保たれることになります。ただ、木造建築の耐用年数が短いため、財力に応じて定期的に修理や建て替えが行われます。結果的に、古い時期の建物はあまり残らなくなります。
 逆に言うと、古い時期の建物が残っている寺社というのは、かつては資金不足で修理や建て替えがままならなかったところが多いです。いまは有名になって、多くの古建築を有している奈良の古寺のほとんどがそうでした。


 山号は金地福山、創建は鎌倉初期の建久年間(1190~1198)で、開山は当時の伯耆・出雲両国の守護職を担った佐々木高綱と伝わります。初めは律宗に属しましたが、明徳三年(1392)に守護代の南条貞宗がその次男で僧籍にあった機堂長応禅師を招き曹洞宗寺院として中興させています。以後、南条氏、尼子氏、山名氏の庇護を受けました。
 江戸期には鳥取藩から久米、河村、八橋の三郡の筆頭寺院に任じられて同地域の寺院を統括しています。この三郡統括は、おそらく中世戦国期以来の寺格を鳥取藩が追認したものとみられ、鎌倉期の創建以来ずっと定光寺が伯耆国の中で重要な位置を占めていたことを伺わせます。

 K氏は、私の説明を聞きつつ「要するに、この寺は伯耆国随一の名刹というわけやな。これに匹敵するような重要な寺は他にあったのかね」と尋ねてきました。私はこう応えました。
「伯耆国はもともと大山信仰の範囲内にあるから、天台宗大山寺の影響が平安時代から濃い筈。中世期に伯耆の中心が古代以来の国府から東に移った頃に新規勢力の武家政権が新たに拠点寺院を作る必要が出てきて、それで佐々木高綱が定光寺を置いたんやと思う。古代以来の天台宗大山寺に対する武家勢力サイドの寺院だから、同じ武家である山名や尼子や南条がバックアップするのは当たり前なんや」
「なるほど」
「あと、伯耆は神社勢力のほうがかなり強かったらしい。倉吉の神社はみんな一宮の倭文(しどり)神社の系列やったみたいやし、そっちには真言系の信仰も混ざってたらしいから、どっちかというと都の京都との繋がりもあったんやないかと思う」
「ああ、そういえば因幡一宮の宇倍(うべ)神社もそうやな・・・」


 山門の両袖には天然の大木が据えられ、それぞれに阿吽の憤怒形の顔が彫りこまれて仁王像の存在を示しています。倉吉には仏師や彫刻家の方が多くいらっしゃるので、そのいずれかが手がけられたものでしょう。


 顔だけでも充分な気迫に満ちています。参拝者の視点に近い高さであるため、仁王像の降魔の呪力が異様な緊迫感をともなって迫ってきます。


 本堂は近年の建て替えになるもののようです。一礼したのみですぐに脇に退き、伽藍域左手の墓地に向かいました。


 墓地は左側の丘裾に長く広がって、現在の霊苑エリアも拡張されていますが、古来の墓地は本堂の左裏手に位置し、丘上の小堂への長い参道石段が墓地への参拝道も兼ねています。


 その一角に、南条氏歴代の墓所があります。寺が戦国期に南条氏の菩提寺とされていた関係で、戦国期に活躍した三代の墓は、本拠羽衣石ではなくてこちらにあります。元続、元秋、元忠の三人がここに葬られています。


 三基の宝篋印塔は、左から元続、元忠、元秋の墓碑とされます。真ん中の元忠の宝篋印塔が最も新しく、基礎が両脇の基台にまたがっているので、もとは元続、元秋の墓碑が並んでいたところへ後から追加されたものと分かります。


 南条氏は南北朝期からの系譜が知られて歴代に多くの名前が知られますが、この墓所に眠る三人は、戦国期後半に活躍しており、系図の上ではごく一部にあたります。元続と元秋は兄弟で、元忠は元続の嫡男にあたります。戦国期の南条氏は元忠が大阪陣にて自刃したことによって終焉を迎えるので、戦国期南条氏の最後の光芒を放った人々、と表現することも出来るでしょう。


 ここに眠る人々は、南条氏を伯耆国の南条氏たらしめた歴々とも言えます。長く山名氏や尼子氏の下にあり、戦国期には毛利氏の圧迫を受けた伯耆国を、守護代職の伝統と面目とにかけて回復自立せしめんと初めて立ち上がったのが、南条元続でした。
 南条元続は、父宗勝の親毛利の信条にも訣別し、毛利方の勧誘と圧力とを振り切って織田信長方に好を通じました。そうして反毛利の旗色を鮮明にし、伯耆国の在地勢力に檄をとばして伯耆国人衆の同盟を模索したのでした。
 これを支えた弟の南条元秋も各地を転戦し、毛利吉川の大軍を長瀬川に迎え撃って重傷を負い、亡くなりました。家臣津村長門がその亡骸を抱えて白石城より敵中を突破し、本拠羽衣石に仮埋葬しましたが、後に定光寺へ改装されたということです。
 南条元秋亡き後は、もう一人の弟で小鴨氏を継いだ南条元清が岩倉城に在って毛利方の猛攻に耐え、これも伯耆国回復に執念を燃やして激闘を重ねました。兄の元続が病を得て斃れた後は、元忠の後見人となって必死で南条氏を支えました。
 南条元忠は豊臣政権下の武将として成長、関ヶ原戦では西軍に属して伏見城・大津城を攻めましたが、結果的に西軍が敗れたため浪人となりました。それで反徳川の立場にあり、大坂冬の陣では、旧臣とともに大坂に入城しました。しかし、東軍の藤堂高虎の誘いを受け、伯耆一国を条件に東軍に転じようとするも見破られ、城内千畳敷で切腹させられました。これにより、父元続や叔父元秋らが願った伯耆国回復、南条氏存続の夢はともに経たれてしまいました。
 元忠の遺骸は、小姓の佐々木吉高によって持ち帰られ、後に定光寺に葬られました。

 このように見ていくと、本当に伯耆国のために戦ってくれた在地の武家は、南条氏のこの三人だけだったのだな、と思わざるを得ません。彼等こそ、伯耆国もののふの鑑であり華であったのではないか、と改めて思いつつ、Kさんと並んで合掌礼拝し、用意した清酒と花束を捧げました。


 かつて伯耆国の戦雲を見上げて涙と血潮にまみれた歴戦の勇者たちも、いまは遠くに大山の峰を見守りながら静かに眠っています。
 その志と事蹟は、江戸期鳥取藩の時期には割合に正しく理解されたようで、歴史を学ぶ藩士たちの墓参が少なからずあったと伝えられます。そのなかに、倉吉を任された家老荒尾志摩こと主計(かずえ)嵩就(たかなり)の姿があったという伝承は、倉吉の歴史においてはもっと顧みられていいのではないか、と思います。 (続く)

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大阪日本橋のガルパンキャラポップストア

2016年10月20日 | ガールズ&パンツァー

 去る10月17日、模型サークルの知人アンドー氏に誘われて、大阪日本橋の堺筋オタロード界隈へ出かけました。ガルパン戦車プラモデルのショッピングのチャンスでもあるので、モケジョのチームにも連絡したところ、近藤エリさんと佐藤ミカさんの二人が参加してきました。お二人とも、劇場版を観てガルパンに興味を持ち、ガルパン戦車プラモデルゼミナールに毎回参加しています。

 今回は、アンドー氏がガルパンのキャラポップストア見学とガルパン一番くじのチャレンジをやりたいと言い出したことが発端となりましたが、一番くじの方は事前に問い合わせたところ、殆どの店舗で完売しているとの事でした。なんや売り切れか、つまらんな、と呟くアンドー氏でした。

 私のほうも、今回のガルパン一番くじへのチャレンジは興味が湧かず、見送っています。回を経るごとに賞品の質がだんだんと落ちてきているようで、今回はタオルとクリアファイルばかりになりました。そんな安直な品揃えに陥るのであれば、キャラポップストアのガルパンくじの方がまだマシだな、と思いました。


 まずはアニメイト日本橋店に行きました。それぞれに自由に見て回って購入もしましたが、私自身は見学のみで終わりました。ガルパンのグッズは劇場版のクリアファイルとステンレスマグ、タペストリー類ぐらいしか見当たらなかったからです。

 ついでに上階のらしんばんにも寄りました。エリさんミカさんのモケジョコンビは、ねんどろいどぷちやカラコレやにいてんごなどの中古品をあさっていてガルパンキャラクターの品を複数ゲットしていました。これを戦車と一緒に飾るんですよ、と笑顔で話してきたエリさんでした。ミカさんは他アニメのキャラクターも三つほど買っていて、改造してガルパンのモブキャラにします、と張り切っていました。
 要するに、私が今までねんどろいどぷちやカラコレやにいてんごなどのガルパンキャラクターを戦車に添えて寸劇を楽しんでいるのを真似してみたいそうです。


 続いて今回のメインとなるナムコ日本橋店に行きました。ガルパンのキャラポップストアが11月19日まで稼働中なので、一度は見ておこう、とアンドー氏が言いました。氏とは二年前にもナムコ梅田店でのガルパンキャラポップストアに行っています。その時の記事はこちら。一人で行った時の記事はこちら


 ガルパンのキャラポップストアは一階にあり、店先すぐのスペースを占めていました。


 営業期間は2016年10月8日から11月19日までです。西日本では唯一のキャラポップストアです。公式サイトはこちら


 キャラポップストアの全容はこんな感じです。


 キャラクターパネルは、各チーム隊長たちが並んでいました。継続高校チームのミカだけが居ませんでしたので、ミカさんが「なーんで仲間外れなのおー」と不満げに両頬を膨らませていました。すかさずアンドー氏が「パネルになることに意味があるのかなー」と応じましたが、完全に無視されていました。


 モケジョコンビに「どの隊長が理想像に近いですか?」と試みに質問してみたところ、エリさんが「おケイさん。頼れるお姉さまって感じだし、フランクなのも高ポイントですよ」と答えてくれました。ミカさんも大きく頷いていて、「部活で部長やってもらうんなら、やっぱりケイですね」と言いました。
 ケイがガルパンの女性ファンに結構人気がある、という噂はどうやら本当のようです。


 ショップのフロア全体から見ると、パネルは全て脇の通路空間に固まっているので、販売コーナーからは殆ど見えませんでした。


 今回、大部分の商品は充分な在庫がありました。めいめいに好きなのを購入しましたが、一番ガチのガルパンファンである私が、一番購入数も金額も少なかったのはほとんど笑い話でした。


 上図の中央寄りにあるガルパンランドリーバッグは四人とも購入していました。人気商品の一つなので、初登場した頃はすぐに売り切れてしまっていた品です。
 上図の右には、大洗のガルパンギャラリーでも販売している商品がありました。こんなの売ってんやー、大洗にもいっぺん行ってみよか、と話し合っていたモケジョコンビでした。


 アンドー氏は、上図の下にみえるクッション類を三つほど買っていました。それ何に使うんですか、とエリさんに聞かれ、「イヨマンテの夜に供えるのじゃ」と意味不明の返事をしていました。


 それから近くのレストランで昼食をとり、午後からはガルパン戦車プラモデルのショッピングをやりました。今回のエリア内でガルパン戦車プラモデルの公式および適応キットを買うならば、ボークス日本橋店とジョーシンキッズランド日本橋店の二ヶ所が定番となります。

 まず、ガルパンコーナーも充実しているボークス日本橋店に行きました。四階のAFVコーナーへ直行し、ガルパンコーナーに並べられた公式および適応キットを見ながら、モケジョコンビと質疑応答を繰り返しました。ツールや塗料も色々欲しい、という二人の要望に応えて、アンドー氏がAFV向けのツールの選び方、塗料の組み合わせ方のコツ、などを丁寧に伝授していました。

 ガルパン戦車プラモデルは、ガルパン仕様に作る場合は色々と改造や修正が必要なので、それに見合ったツールが幾つか必須となります。私の経験からいうと、ニッパーの他、電動ヤスリ、彫刻刀、ピンバイス、ラインチゼルなどが結構使用機会が多く、ヤスリ類はペーパー、スポンジ、タイラー、など各種織り交ぜて使います。パテもラッカー、ポリエステルの2種があれば大体まかなえます。
 それらを説明しつつ、該当する商品を色々と見てゆくと、モケジョコンビはそれらの半分ぐらいを購入していました。

 プラモデルキットの方は、ガルパンコーナーにある陳列品だけでなく、他の棚のもくまなく見て、適応キットが意外に多いことを知りました。海外メーカーの製品が色々あるので、これまでタミヤキットしか作っていないモケジョコンビは興味津々で見ていました。値段もピンからキリまでありますが、安い品はたいてい古いキットか組みづらいキットであるようです。
 結局、やっぱりタミヤの製品がいいかな、という話になりましたので、移動することにしました。


 最後に入った、ジョーシンキッズランド日本橋店です。タミヤコーナーがあるので、タミヤの製品はだいたい揃っていて、以前は品切れだったアイテムも揃っていました。ガルパンコーナーも小さいながら設けられていましたが、モケジョコンビはそれぞれにタミヤの適応キットを二つずつ買っていました。公式キットにも同じ戦車がありますが、価格はタミヤの方が安いから、ということでした。

 さらに塗料類も、だいたいこちらで多くを購入していたようです。ミカさんが「サンダースのカラーのスプレー欲しい」というので、私が使ったタミヤのエアーモデルスプレー等を教えたりしました。エリさんは塗装用の回転台を探していましたが、それを聞いたアンドー氏が、「ずっと使わないのが手元に一個あるんで、今度譲るよ」と行ったので喜んでいました。

 さらにアンドー氏は、通販向け在庫と店頭販売向け在庫が別々であることを説明し、通販で売り切れてても店舗に行けば買える場合がある、と教えていました。ミカさんが「こっちで色々見てますと、通販じゃ品切れとか扱ってないとかの品が結構ありますね」と納得したように応じていました。そしてドラゴンのM4A1オペレーションコブラのキットを買おうかなとしばらく悩んでいました。

「もしかして、シャーマンを色々作る気なの?」
「ええ、チームで再現するんなら4輌ぐらいは作りたいな、と。他のチームよりサンダースが簡単そうですし。転輪とか作るの、アメリカ戦車が一番楽やなって思うんです」
 それを聞いて、なるほど、それは確かにそうだ、と納得しました。

 その後、大阪駅北のヨドバシにも立ち寄って色々見物し、早い夕食を楽しんで盛り上がったのは、いつもの成り行きでありました。モケジョのガルパン戦車への視点、というのが、いつ聞いても面白くて参考になるからです。
コメント (6)
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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く25 その15 「朝早くに帰ります!!」

2016年10月19日 | 大洗巡礼記

 翌朝は6時過ぎに起床し、外に出て散歩しました。宿の建物の外観を改めて見ましたが、まったく劇場版の「クビンカ荘」そのものです。洋風の外見はなかなか目立ちます。


 施設内には、レストランやペンションもあります。レストランは朝食時の食堂としても使用されます。ペンションの方は、ガルパン宿泊プランの適用外であるそうで、詳細はよく分からないままでした。どのような方々が主に利用されているのでしょうか・・・。


 近くのセブンイレブンの横の三叉路には、大きなカジキのオブジェがありました。マリンタワー広場の交差点側にあるものとよく似ています。大洗には、こうした魚のオブジェが幾つかあるそうですが、私自身は、たぶん全部を見ていないと思います。


 宿に戻り、ロビーの書棚にあった上図の資料を開いてみました。なかなか興味深い内容でしたので、最後までじっくり読んでしまいました。初めて大洗を訪れた学生たちの、それぞれの素朴な感想、ガルパンの大洗へのイメージ、聖地巡礼という事象に対する認識、などが克明に綴られていて、とても参考になりました。


 朝食時間になりましたので、レストランに行きました。内部はこんな雰囲気でした。外からの採光をメインにしているようで、照明は最低限におさえて場所によっては薄暗いところもありました。こういう感じは個人的に好きで、奈良に住んでいた頃によく行った、新薬師寺近くの隠れ家カフェのそれを思い出させます。


 この日の朝食は、私好みのメニューでした。個人的には、武部沙織なみに納豆と味噌汁と豆腐だけでも充分に満足出来ますが、さらに目玉焼きと焼魚がつくので、もう言う事はありませんでした。


 印象的だったのが、うず高く盛られたキャベツです。朝食にはあり余るボリュームです。大洗の宿泊施設のなかではトップクラスの外見と量です。


 朝食後、すぐに支度を整えて出発しました。近くのバス停で海遊号に乗りました。大洗での予定はもう無くなりましたので、朝早くに大洗を出て東京に移動すべく、まっすぐに大洗駅を目指しました。


 駅内のガルパン電光表示板もすっかり見慣れた景色の一つになりました。劇場版公開時のデザインのままでしたが、いずれ「最終章」向けデザインに模様替えされることでしょう。


 帰りの列車は、初めての新型車輌でした。さすがに揺れも音も小さく、今までの車輌とは乗り心地が全然違いました。ガルパンラッピング車輌は、いずれもカーブ走行時の横揺れが大きいので、古い車輌ばかりなのかな、と思ったほどです。

 水戸駅ですぐに常磐線特急に乗り換え、上野で降りて、今まで一度しか行っていない東京芸術大学美術館を12年ぶりに訪ねました。ついでに隣の寛永寺旧境内地および主要伽藍域を散策し、広い公園内に散在する文化財建造物を順に見ながら、東京国立博物館の周りを一周する形で上野駅に戻りました。これだけで半日かかりましたから、上野を発ったのは16時過ぎ、帰宅したのは夜中でした。

 以上にて「ガルパンの聖地・大洗を行く25」のレポートを終わります。

 今回の大洗行きに同道下さった、倉吉のTさんのブログはこちら。ブログ内の大洗視察関連レポートはこちらこちらこちら

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モデルは大洗海岸では無い?

2016年10月18日 | ガールズ&パンツァー

 上図は、劇場版のエキシビジョンマッチにおける終盤の追撃戦のシーンです。聖グロリアーナ女学院のフラッグ車のチャーチルを、大洗女子学園チームの5輌が追いかけています。カメさんチームが河嶋桃の操作で一射をお見舞いしますが、いつものように弾は大きくそれて前方右手の海面に着水して白い飛沫を上げました。

 このシーンに関して、20数年来の友人である鳥取県のK氏が「これの場所って、鳥取県だよな?」とメールを寄越してきました。私の勧めで最近にガルパンのDVDをレンタルで視聴し、その感想を画像ごとに述べてきたのでした。

 その指摘に、私は「ああ、やっぱりなあ」と膝を打ちました。同じ感想をずっと抱いてきたからです。でも、そんなはずは無いのです。前後のシーンから考えて、問題のシーンは間違いなく大洗海岸での追撃場面であることが明らかです。
 しかし、地形の描写がかなり実際のそれと異なります。戦車が小さく見えるほどに幅のある砂浜がずっと続きますが、実際の大洗海岸の砂浜はもっと狭いです。岩礁も多く起伏に富んでいます。さらに、左上隅に見える海岸沿いの道路が四車線にて描かれますが、実際の大洗海岸通りは二車線です。
 要するに、上掲のシーンに限って言えば、実際の大洗の地形状況が全く反映されていないのです。

 しかし、K氏の指摘通り、上掲シーンの地形にそっくりな場所が鳥取県にあります。米子市の弓ヶ浜であり、地形的には「井上靖アジア博物館」付近の状況がほぼ一致します。海岸沿いの「産業道路」と呼ばれる国道431号線も四車線なので同じです。砂浜の幅も、劇中シーンと同じぐらいあります。端的に言えば、全てがピッタリと言っていいほどに一致するのです。
 さらに笑えるのが、「井上靖アジア博物館」の正門の雰囲気が、五十鈴邸の門に良く似ていることです。

 以上の諸点をふまえると、ガルパンの舞台設定が最初の案においては山陰の鳥取、島根あたりでイメージされていた、という事実が興味深く思われます。第7話に出てきた、冷泉久子が入院した病院のモデルが松江市の赤十字病院であること等は、そうした初期案の名残であったかもしれません。

 なので、K氏の指摘通りに上掲シーンのモデルを弓ヶ浜と推定するのも、楽しいことです。最近にバンダイの杉山潔プロデューサーが述べられた「アニメにはまちおこしの力なんてない」という記事にも、最初の候補地として山陰が挙げられ、「山がすぐそこに迫っていて、海に落ちている。しかも豪雪地帯」と表現されています。

 山陰とは、一般的には鳥取と島根の二県の範囲をさしますが、島根県は豪雪地帯ではありませんので、残る鳥取県が杉山氏の表現に該当します。鳥取県は因幡と伯耆とから成りますが、豪雪地帯であるのは伯耆の西側つまり西伯郡一帯です。
 そのなかで、「山がすぐそこに迫っていて、海に落ちている」ようなエリアといえば、日吉津、淀江あたりの範囲が該当します。弓ヶ浜は、その南端が皆生海岸に接して日吉津の海岸線に繋がります。弓ヶ浜の北には境港がありますが、もしガルパンの舞台が初期案通りに山陰になっていれば、学園艦の母港は境港になっていたかもしれません。
 まあ、全ては推測に過ぎませんが、上掲のシーンのモデルが鳥取県の弓ヶ浜ではないかというK氏の指摘には、同感です。ひょっとして、そのシーンだけが実際にそうだったのかな、と思いたいところですが・・・。
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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く25 その14 「クビンカ荘です!!」

2016年10月17日 | 大洗巡礼記

 曲松から小学校の前の坂道を登っていき、少し歩いてマルハンひもの家の前を通りました。日野屋石油店で見かけたのと同じ継続高校大洗分校の看板が入口に懸けられてありました。
 こういうのは商工会が公表している寄贈品関係ガイドラインには抵触しないのかな、もしくはお店の方で快く受け入れたからオーケーなのかな、と考えたりしました。作って寄贈する方もお金や手間がかかるだろうのに、よくやるなあ、と感心してしまいます。


 時間が有り余っているので、久しぶりに「幕末と明治の博物館」で見学してゆっくり過ごそうと思いつきました。
 現在では大洗町の施設になっていますが、唯一の博物館施設であるので、大洗の歴史民俗を総覧出来る資料展示のコーナーもあった方がいいと思います。そのほうが利用者および見学客も増えるでしょう。少なくとも、現状では展示内容が特定の歴史に限定されており、内部の展示構成も現在の博物館の平均的スタイルから見ると古びているうえに陳列や展示スペースの配分に再検討の余地があります。まるで、かつての法隆寺宝物館みたいな雰囲気です。


 とにかく入館して、ガルパンコーナーを見ました。


 すると係員の方が近寄ってきて「抽選、なさいますか?」と訊ねてきました。何の抽選ですか、と問い返したところ、ガルパンのクリアファイルが賞品になっております、と説明されました。そんなのがあったのか、と驚きまして、早速抽選に挑戦し、運よく当たりました。
 いただいたクリアファイルには、しっかりと坂本竜馬スタイルのおりょうがデザインされていました。さらにどういうわけか、真田家六文銭ファッションの左衛門佐も加わっていました。するとカバさんチームの全員が居るのか、と思って裏面も見ましたが、カエサルとエルヴィンは居ませんでした。なんだこの半端さは、と思ってしまいました。おりょうと左衛門佐の組み合わせは、まるで江口又進堂のパネルだな、と気付きました。


 博物館で一時間余りを過ごした後、再び歩いてセブンイレブンに立ち寄り、次いで近くの「とびた荘」に入りました。この日の宿で、劇場版では「クビンカ荘」の元ネタになっています。建物がそのまま看板のデザインに登場しています。


 この宿には、かつて大貫のヨネカワ酒店に置かれていたエレファントのパネルが移管されていると聞きましたが、宿の玄関口にもロビー内にも見当たりませんでした。代わりに、ファンの方からの寄贈品とみられるプラモデルの完成品が置かれてありました。
 これはそのまま組み立てたもののようで、黒森峰の校章が貼ってあるものの、仕様は史実のドイツ軍のエレファントでした。ガルパン仕様にすると、転輪のパーツを新たに取り寄せるなどの手間がかかります。


 この宿のガルパン宿泊プランの特典です。オリジナルステッカー2種は、予想していたよりも小さいものでしたが、絵柄が独特で楽しいです。民宿組合加盟施設共通のガルパンミニタオル、まだ在庫があるのかと思ってしまうガルパンブーム初期のあんこうチーム缶バッジ、もつきました。


 この日の午前中に完了してきた「那珂湊ほのぼの作戦」のカード4枚の組み合わせと特典缶バッジです。大洗以外の地域でガルパンイベントを継続的に実施している那珂湊ですが、既に二年ぐらいになる筈なので、けっこう長くやっているなあ、と思います。ただ、最近に参加店舗の一部が交替しており、今後も多少の変化があるのかもしれません。


 この時点で手元に揃ったガルパン缶バッジは18個でした。時期柄、八朔祭の2種が半分近くを占めました。大洗行きの度に揃ったものをこうして写真に撮っておくと、いつ頃のものかが大体思い出せます。その時期にしか得られないものも少なくないので、大洗での缶バッジの配布時期や状況がある程度おさえられます。


 この日の夕食は、梅原屋さんの紹介で知り合ったNさんと外でいただくことになっていました。Nさんは近在の方で、仕事が終わってから宿まで迎えに来てくれました。ほとんど地元民ですので、大洗のガルパンブームに関しても最初期からずっと接しておられるそうで、色々と詳しい方です。
 そういう凄い方が、私のブログを読んで下さっているのですから、冷や汗が出る思いです。同時に、大変ありがたいことであり、感謝の一言に尽きる、という思いを強くします。


 夕食は、近くの「沖苑」でともに焼肉定食を美味しくいただきました。Nさんは私と同年代か、やや年上といった感じの気さくな紳士で、話題がとても豊富でした。ミリタリー関連の知識が深いようなので、そこからガルパンに入ったのかな、という印象を受けました。色々なお話をうかがって、いっぺんに打ち解けました。

 Nさんに限らず、茨城県の方というのは、私個人のこれまでの交友関係の中でも比較的多く、かつ話しやすくてすぐに打ち解けた経緯が多いです。奈良や京都の大学に通っていた時期、関東地区からやってきた同学、同級の方々のなかに数人の茨城県人が居て、関東地区の各県の方のなかでも話しやすく、生活感覚などが割合に関西の我々に近い、というところがありました。

 いまも交流が続いている水戸のU氏もそうですし、大学時代によく下宿を行き来してゼミも同じだったM君は牛久、Iさんは笠間、Eさんは常陸太田の方でした。いま思い出してみますと、同じ関東でも、栃木、埼玉、千葉、神奈川の方はどういうわけか東京の人と妙に距離があったり、飲み会などで時々対立したり喧嘩になったりしたことがありました。そういう場面で仲裁に入るのが、だいたい茨城の人だったのでした。

 久慈郡から来たA氏などがその典型で、話をすると「俺んとこはトサチカに入ってないからな」と言うのでした。トサチカって何、と聞いたら「栃木、埼玉、千葉、神奈川の略でさ、東京都民は周囲の四県をこう呼んで時には上から目線、トサチカの側でも東京に対して、何だこの野郎、って気分がある。でも茨城は離れてて田舎過ぎるんで、そういう変な意識が全く無いわけさ」と苦笑混じりに教えてくれました。
 それを聞いてなるほど、と当時の私は感心してしまったのでした。いま改めて考えてみますと、関西地域では大阪と周囲の各県が対立するような雰囲気はあまりなく、むしろ京都と奈良が南北朝時代以来の対峙感情をどこかで引きずっているぐらいで、近畿圏でも比較的温厚で寛容なのは兵庫、と言われています。私自身も現在は兵庫県民なのでよく分かるのですが、兵庫と茨城は何か似通った気質というか県民性を持っていると思います。

 それで、トサチカの件をNさんにも話して、関西人から見ると茨城県の方は比較的話しやすいし打ち解けやすい、と述べました。するとNさんは思いあたるところがあったのか、大きく何度も頷いては「そうかもしんない、うん、そうかもしんないなあ」と感心したように答えてきました。
 ともあれ、楽しい夕食のひとときでした。大洗行きの魅力の一つである、と思います。


 店内に飾られた、ファンの方々の名刺です。まるでブロンズみたいだな、と思いましたが、それもそのはず、店主の打田さんはブロンズの女将さんの弟にあたられます。たぶん真似しているのでしょう。
 いただいた名刺は全て並べてありますよ、と女将さんが笑っていましたが、確かに、初めてこの店を訪れた際に渡した私の名刺も、しっかり貼られてありました。

 夕食後は、Nさんに宿の近くのセブンイレブンまで送っていただきました。買いたいものがありましたし、宿がすぐ近くなので、ここから歩いて帰りますので、と挨拶し、別れの握手を交わしました。

 宿に帰って部屋に落ち着くやいなや、携帯電話が鳴りました。昼にブロンズ前にて別れたKさんからでした。
「プラモのIS-2、ありましたんで買えました。どうも有難うございました」
「わざわざのご連絡、痛み入ります」
「ははは、いや実はちょっと聞きたい事がありまして」
「何でしょうか」
「サンダースのシャーマンなんですけどね、あれ星野さんは複数作るようなことブログに書いとられますね」
「ええ、その積りです。いまのところケイ、アリサ、ナオミの車輌三種類を劇場版仕様で作り終わってますんで、今後はテレビ版仕様でケイとアリサの車輌を作ろうかと思ってます」
「ああ、やっぱりそうなるんですな。ケイとアリサのって、あれっ、ナオミのは作らないんですか?」
「いやー、ファイアフライのテレビ版仕様というのは難しいんですよ。車体を半分は取り換えるぐらいの大幅な改造が必要になりますし、パーツの調達もかなり難しいんで、これはちょっと技術的にも予算的にも無理かな、思うてとりあえず除外しております」
「そういうことやったんですか。いや僕もね、ナオミのテレビ版のやつどうしようかと思って迷っとったんですわ。ICの方みたいに見えるけど特徴はほとんどVCに見えるんで・・・」
「そこなんですよ、じゃあキットはICで買って各所をVCにしたらええかってなるんですが、これがかなり難しいんで、私は諦めましたね」
「星野さんが諦めたとなると、僕には完全に無理やねえ、ははは」
「無理とか言わずに、Kさんなりに取り組んでみたらええじゃないですか」
「それは絶対に無理ですわ。今まで作ったプラモ全部、星野さんのブログ見ながら作ってきましたのに」
「えっ、それはどうも、恐れ入ります・・・」

 冷や汗が出るのを覚えつつ、ブログの模型製作記の記事も、もっと頑張ってこれまで以上にきちんと丁寧に綴らないといけないな、と気持を引き締めたことでした。 (続く)
コメント (8)
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