気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く36 その2 「ホビー喫茶です!!」

2020年07月31日 | 大洗巡礼記

 大洗駅でAさんと合流して後、昼食をとることにしました。最初は「悠久」でマグロ丼でもいただきましょう、と私が提案したのですが、この日は残念ながら定休日でした。代わりに再度提案したのが、今回初めての訪問となる、ホビー喫茶「Sdkfz」でした。自分は「スダコフツ」と読みましたが、正しい読み方かどうかは分かりません。

 「Sdkfz」は、ドイツ軍の特殊車両を示すSonderkraftfahrzeugの略号です。ガルパンプラモデルでドイツ軍系車輌を作る時には必ず目にする語句ですが、それを店名に使うあたり、店主は筋金入りのドイツ軍マニアなのかと思いましたが、実際には模型およびフィギュアのマニアのようでした。

 

 お店は、若見屋の信号交差点から北へ約80メートル、ふれあいセンター「きらきら」の斜め向かいに位置します。スーパー「エコス」の前からですと、南へ約100メートルぐらい行って左側になります。

 外見は御覧の通りの普通の民家ですので、店先の2台分の駐車スペース脇の立て看板が無ければ、店舗であることが分かりにくいです。上図のように、広い玄関口に小さな立て額が見えました。

 

 近寄ってみると、立て額はメニュー表でした。この喫茶店でいただける食べ物、飲み物が全て列記されています。カレーやパスタが食べられるのであれば、お昼の食事スポットとしては十分だと思います。

 

 店内に進んだ瞬間、おおっ、と思いました。各壁にしつらえられたウインドーケース内に、店主がこれまで製作したプラモデルやフィギュア、市販のフィギュア類などがズラリと展示されていました。当然のことのように、ガルパンの登場車輌も数多く並べてありました。

 上図は、黒森峰女学園チームと大学選抜チームの車輌群です。黒森峰女学園チームは5輌で、1輌ぶんのスペースが空けてありましたので、今後も追加されるのでしょう。ですが、チームの所有車輌9輌全てを並べるには詰めて並べ直す必要があるようです。

 

 大学選抜チームの車輌群もまだ1輌、チャーフィーがありませんでしたが、滅多に見られないカールが展示されています。なかなかの迫力です。
 こんなに大きいのか、私の家にはこれを置くスペースが無いなあ、と思いました。

 

 黒物峰推しとしましては、やっぱりこの辺りの車輌にグッときます。1/35スケールのフィギュアもきちんと作ってあって、見ていて楽しいです。

 

 私が最も好きな戦車であるパンターもあります。私自身も最近に2輌目を製作したばかりでしたので、見ていて全然飽きません。やっぱりパンターが居ないと全然ドイツ軍らしさ・・・、いや黒森峰女学園らしさがありません。ガルパンの監督はどうしてこの戦車に損な役回りばかりやらせるのでしょうか・・・。

 

 サンダース大付属高校チーム、BC自由学園チームの車輌群です。前者はまだアリサ搭乗のM4A1を欠いたままです。店主さんのお話によれば、ほとんど公式キットを利用して製作しているそうですので、公式キットが最近に発売されたばかりのM4A1も、いずれは追加されるそうです。

 BC自由学園チームの車輌は3種とも公式キットが出ています。私自身はARL44をまだ作っていませんので、ここの完成品は参考になりました。

 

 ですが、最も興味深かったのは、上図の特二式内火艇カミでした。見た瞬間に感動してしまいました。

 なぜかというと、私自身がこのカミを製作した時に、艇内を横須賀海軍工廠の指定塗粧色である明灰白色に塗ったのですが、ここのカミもそのカラーに外面も包まれていたからです。製作時に懇切な指導および教示をいただいた、元海軍少尉のSさんがかつて乗り組んでいたカミのパラオへの移動時のカラーも、この色だったのです。

 つまり、このカミは帝国海軍特別陸戦隊の車輌の姿に作られているわけです。出来れば艇尾の起倒式竿を立てて旭日旗を掲げて欲しかったなあ、と思いました。  (続く)

 


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宇治巡礼6 末多武利神社

2020年07月30日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京阪宇治線宇治駅を出て、そのまま宇治川沿いにまっすぐ進んで府道7号線の信号交差点を渡り、駿河屋さんと通圓さんの間の道、朝霧通りを150メートルほど歩くと、道が二手に分かれます。まっすぐ進めば朝霧通りですが、左に進めば源氏物語聖地巡礼ルートの一つ「さわらびの道」に入って宇治神社や宇治上神社へ行きます。
 その「さわらびの道」を50メートルほど進むと、上図の辻に出ます。左手の角に小さな神社が鎮座しています。

 

 この小さな神社は、一般の観光客にはあまり顧みられていませんが、源氏物語ファンや宇治十帖の聖地巡礼者にはよく知られており、若い女性にも結構人気があります。

 この神社は、末多武利(またふり)神社といいます。宇治市域においては、古くて確かな由緒を伝える有名な神社の一つであり、境内地がある街区の名前も「又振(またふり)」です。

 

 神社の創祀時期は正確には分かっていませんが、かつて上図の社殿内に祀られていた木造神像の製作時期上限が藤原時代末期とみられるため、その頃には既に存在していたようです。
 神像は、もちろんこの神社の祭神をあらわしていますが、いわゆる神様ではなく、平安時代中期に官僚として活躍した藤原忠文という、実在の人物を祭神としています。

 平安時代の人物が神社の祭神として祀られる場合、大抵は何らかの理由で悪霊もしくは怨霊となって祟ったと信じられていた経緯に拠ったことが多いですが、この藤原忠文も例にもれません。参議、民部卿に任ぜられた高級官僚でしたが、「承平・天慶の乱」の際に征東大将軍に任じられ派遣されながらも、恩賞が無かったため、恨みつつ亡くなったとされています。
 恩賞に及ばすとの判断を下したのは左大臣の大納言藤原実頼でしたが、その実頼の娘述子、長男敦敏が相次いで亡くなったため、これらが藤原忠文の呪詛、祟りだとされて恐れられたのでした。

 この藤原実頼の意見に対し、弟の右大臣藤原師輔は恩賞を授けるべしと主張したため、藤原忠文は恩義を感じて後に自身の宇治の別業を寄進していますが、この別業というのが、今の末多武利神社の辺りに位置していたとされています。

 藤原時代に宇治に別業を構えた貴族は数多く、多くは「宇治」の名を冠した通称で呼ばれました。藤原頼通は「宇治関白」と呼ばれましたし、「宇治大納言」と呼ばれた源隆国、「宇治左府」と呼ばれた藤原頼長などの例も知られています。そうした「宇治何々」の通称を持つ最初の人物が、「宇治民部卿」と呼ばれた藤原忠文でした。

 おそらく、藤原忠文は、宇治に別業を構えた貴族としては早い頃の一人だったのでしょう。その生没年が873~947ですから、宇治が別業都市として形成され始めたのがその頃であったと見ることも出来るでしょう。

 

 現地の案内板では、藤原忠文に関して怨霊であったことを述べていますが、実際にそうだったのかは疑問です。結果的に藤原実頼の小野宮流は没落し、藤原師輔の九条流は以後に兼家、道長、頼通と続いて摂関職を独占して隆盛に至りましたから、小野宮流と九条流との主導権争いに藤原忠文の怨霊が利用されたのが真相ではなかったかと思われます。

 この藤原忠文は、現地では「またふり様」と呼ばれて親しまれています。社名がそのまま町名にもなっているのは、宇治市広しといえども、又振地区だけです。怨霊となって「悪霊民部卿」の異名も付せられた藤原忠文でしたが、悪霊というのは丁寧にお祀りすれば、地域を護る守護神に転じると信じられてきた昔にあっては、むしろ地元の人々にとっては大切な神様であったのだろう、と思います。

 

 末多武利神社の地図です。


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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く36 その1 「完成した大洗駅前です!!」

2020年07月29日 | 大洗巡礼記

 2020年7月22日、朝8時2分に京都駅を出た新幹線のぞみ212号は、新横浜駅を出たあたりで大雨に降られて徐行運転になり、東京駅には約10分遅れで着きました。それで、乗り継ぐ筈の常磐線特急に乗れず、みどりの窓口で切符の切替を申し出て30分後のひたち9号に変更して貰いましたが、その直後に携帯電話が鳴りました。水戸の友人U氏からでした。

「右京大夫か?」
「これは水戸の」
「今度の土日に、京都に行こうと思うんだが・・・」
「ほう、それはええね。水戸から一緒に行こうかね」
「なに?・・・するとお前、土曜日の朝にこっち(水戸)に居るのかね」
「うん、今日から大洗行きなんよ。3泊して25日朝に帰る予定だ」
「なんだ、そういうことは早く知らせろよ・・・。またウチに泊まってくんだろ?」
「いや、今回は水戸駅前のビジネスホテルを予約したから・・・」
「なんだ、水臭いなあ・・・」
「いや実はな、5月に大洗行きを計画しててそのホテルも予約したんだけど、コロナの宣言自粛でキャンセルしたんでな・・・。今回の予約はそのお詫びのようなもんや」
「なるほど、そういうことか。それならいいんだ。観光業はどこも大変な時期だからな・・・。すると、今回はあれか、カノウヤさんの展示作業の再開、ってことか」
「いや、それがな・・・撤退ということに相成った」
「は・・・?なんで・・・?」

 驚き呆れる相手に、事情を手短に説明しました。前日にカノウヤの女将柴沼さんに電話を入れて、全ての事情を伺っていましたので、そのまま話しました。相手はしばらく絶句していました。

 そんなこんなで、水戸駅に着いて上図の鹿島臨海鉄道に乗り換えたのが12時34分、大洗駅に着いたのが12時50分でした。かねてから連絡をとっていたカノウヤ作戦有志のA氏が、迎えに来てくれることになっていました。

 

 大洗駅構内通路のガルパンキャラクター達が出迎えてくれます。何度目でもこれは嬉しいし、楽しくなります。最終章のスタート後に設置され、あんこうチーム5人の他に、第一試合の相手BC自由学園のマリ―、第二試合の相手知波単学園の西絹代が居ます。おそらく第3話の第三試合の相手もいずれ加わるのでしょう・・・。たぶん、継続高校のミカ・・・?

 

 駅舎内のインフォメーションコーナーは、駅前の再整備事業によって新設される「海テラス」へ移転し、総合観光案内所へと生まれ変わる予定であるため、閉鎖までのカウントダウン状態に入っていました。内部のガルパン寄贈品群は全て「海テラス」には移さずに撤去される予定だそうです。
 これについては、明日か明後日に立ち寄って係員に詳しい話を聞いてみよう、と決めました。

 

 前回の訪問は3月でしたが、その時には工事中だった駅前のロータリー施設が、既に完成していました。御覧のとおり、乗降場の大半に屋根が設けられて、雨の日でも楽に利用出来るようになりました。
 今年はいつになく長い梅雨で、7月下旬になっても雨が続いて大洗でも同様でした。

 

 最初、町内循環バスの停留所はあの位置になったのか、と思いましたが、よく見ると、単なる待機場所のようでした。

 

 駅舎を出て左手の、従来の位置に町内循環バスの停留所はありました。やっぱり変わらないのか、と安心しました。

 

 A氏からの連絡にしたがい、それらしき車を探しましたが、同じようなのが2台、駐車場内に見えたので、はて、どちらかなと、迷いました。いずれもウィンドーが黒っぽくて中の人の様子が見えないのでした。

 

 有料駐車場へと移動する際に、あの見慣れたイルカのオブジェを見て撮りました。以前の位置とは大きく変わっていましたので、見慣れたあの景色は、もうガルパンのアニメの中だけのものになったわけです。ちょっと寂しいものがありますね・・・。

 その後、あの車かなと見当をつけた白い車に近寄ろうとしていると、向こうのウインドーが下げられて、Aさんの笑顔がのぞきました。  (続く)

 


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ガールズ&パンツァー もっとらぶらぶ作戦です!  14

2020年07月28日 | ガールズ&パンツァー

 去る7月20日に刊行された、「ガールズ&パンツァー もっとらぶらぶ作戦です! 」の第14巻です。ガルパン関係のコミックとしては、「リボンの武者」と共に最長の14巻に達しており、まだまだ続きそうです。

 アマゾンでの案内記事はこちら

 

 今回は、7月22日から24日までの大洗滞在中に江口又進堂さんにて買ってまいりましたので、上図左の限定特典も入っていました。歴女マダムの江口さんも御健在で、そのマシンガントークは相変わらずでした。

 今号の収録内容では、青師団高校の面々が目立っていましたが、個人的には西原、久保田、福田の「座敷童同盟」がツボでした。要するに知波単学園の一年生ズですね。最終章第3話でさらに活躍してくれるかな・・・?

 

コメント (1)
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宇治巡礼5 手習の杜と手習観音

2020年07月27日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京阪宇治線宇治駅の南から府道7号線を三室戸方面へ約400メートルほど登っていくと、西側の歩道を大きく塞ぐような形のこんもりとした木立ちが見えてきます。現在、「宇治十帖」の「手習」の巻の古跡とされている、「手習の杜」です。もとは道路の横に敷地が位置していたのですが、車道の拡張整備によって敷地が車道と歩道の間に取り込まれる形になってしまったものです。

 

 「手習の杜」は、小さな土壇状になっており、その上に上図の石碑と案内板が建ちます。土壇は昔はもう少し大きかったといい、車道拡張工事の際に周囲が削られたそうですが、主要部は江戸期以来のままに残され、木立ちや茂みもそのままに保たれているようです。

 一見すれば、一里塚のような雰囲気が感じられますが、個人的にはこれも境界の目印か、結界標識としての施設であったのだろうと思います。なぜかというと、かつてはこの場所にお堂が建っていて、観音菩薩が祀られて「手習観音」と呼ばれ親しまれた歴史があるからです。

 現地はかつては宇治郷と北隣の三室郷との境目にあたっていましたので、「手習観音」とは街道筋の境目の惣堂であったのかもしれません。藤原時代には、そうしたお堂が全国各地に建てられて、荘園や街道の境目にて結界保護の役割を果たしていましたから、その一例ではないかと推察します。
 荘園の惣堂は伝存例がまったく知られないので、詳しい事が分かっていませんが、街道の境目の惣堂は、いまも各地に「地蔵堂」や「辻堂」などの名称で現存していますから、「手習観音」もそれに似た様子のお堂であったのだろうと思います。

 

 なので、現地に立つ案内板が「手習」の古跡と伝えるのも、江戸期以来の仮託の流れに過ぎないようです。「手習」の巻のストーリーは、入水自殺を図ろうとした浮舟が横川の僧都に助けられ、結果的に宇治を離れて出家し、洛北の小野の山里の草庵にて尼たちと住む、という内容ですから、舞台は洛北小野、いまの京都市左京区上高野西明寺地域にあたります。

 現地の古跡は、浮舟が宇治院の寝殿裏手にある大木の根で泣いていて横川の僧都に発見された場所、ということになっているようですが、宇治院は紫式部の認識においても宇治川の西側に位置し、実在の源重信の宇治院をモデルとしていたので、東側の現在地に宇治院の寝殿があったというのは無理があります。

 紫式部は、実際の宇治の都市景観に重ねあわせるようにして「宇治十帖」の舞台を設定したようです。作中の地理を顧みますと、八宮の山荘は実際の宇治神社、宇治上神社あたりにイメージ出来ますし、浮舟を助けた横川の僧都は、宇治川西岸に恵心院を再興した恵心僧都源信がモデルになっているとされます。

 

 ところで、「手習の杜」にかつて祀られていた「手習観音」は、現在は宇治川西岸の禅刹興聖寺に移されて祠堂殿内に安置されています。もとは塔頭の大悲院にありましたが、大悲院が廃絶したのにともない、本寺に収容されたということです。「手習の杜」を含む一帯は、江戸期に淀藩永井家から興聖寺に寄進された新田二百石のうちに含まれていたため、その縁で「手習観音」が興聖寺の管理下に入った、という流れでしょう。

 

 この像は、興聖寺にて季節ごとに時期を定めて公開されています。興聖寺には、私自身も少なからぬ御縁がありますので、今回特別に許可をいただいて「手習観音」の撮影をさせていただきました。

 御覧のとおり、典型的な藤原時代の聖観音菩薩立像です。各部に十一世紀代の古い要素が散見され、相貌表現も院政期のような優美さにまだ至っていないことから、割合に古い作例であるように考えられます。造立時期は、遅くみても十二世紀初頭かと思われます。

 この像が初めて「手習の杜」のお堂に安置された頃、西には宇治川の流れが望まれ、南西には宇治橋や平等院以下の別業都市の景観が広がっていたことでしょう。紫式部は、その景観をモデルにして「宇治十帖」の世界を綴り広げていますから、おそらく彼女も中宮彰子に出仕して以降、彰子の父藤原道長の宇治院にも行き、宇治川の流れを見つめていた頃があったことでしょう。
 その紫式部の思い出を、いまはこの「手習観音」が静かに伝えています。「宇治十帖」聖地巡礼においては必見の仏像です。

 

 「手習の杜」の地図です。

 


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青師団高校 Ⅰ号戦車B型 作ります !!  その3

2020年07月26日 | ガルパン模型制作記

 ステップ5では車体の各所を組み立てます。車外装備品類は塗装後の組み立てとします。

 

 パーツを切り出しました。

 

 車外装備品以外のパーツを全て取り付けました。上図に並ぶパーツは、全て車外装備品です。左より、S型シャックル、消火器、ジャッキ台、ワイヤーカッター、クランクロッド、斧、スコップ、ワイヤーです。

 

 ステップ6では砲塔を組み立てます。

 

 組み立て途中の状態です。

 

 組み上がりました。

 

 ラストのステップ7です。砲塔や履帯などをセットします。履帯は塗装後に取り付けます。87の予備転輪は付けないので不要となります。

 

 砲塔は、キツキツで回らなかったので、内側を削って回るように調整しました。

 

 以上で、塗装前の組み立て工程が完了しました。梅雨時の製作でしたので、塗装は梅雨明け後に他のキットとまとめて行う予定です。  (続く)

 


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宇治巡礼4 かげろう石

2020年07月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 「源氏物語」の第五十二帖、「宇治十帖」の第八帖にあたる「蜻蛉」の作中での舞台は宇治山の寺、石山寺、六条院など様々に移りますが、現在知られている「古跡」は宇治市菟道大垣内の京都翔英高校の南側にあります。

 校舎を背景に上図のような生垣の区画があり、前を通る旧街道はいまは「かげろうの道」とも呼ばれて源氏物語聖地巡礼ルートの一つになっています。この道を南下すれば「さわらびの道」に繋がり、そのまま宇治上神社の境内地に至りますから、作中の八宮の宇治山荘の周辺の地理と大体重なるようです。

 

 案内板もありますが、現地が実際に「蜻蛉」の舞台であった確証はありません。江戸期までに「宇治十帖」がまとめられた際に、現地に古くから存在した「かげろう石」に「蜻蛉」を結びつけたのでしょう。

 

 その「かげろう石」とは、上図の石造の線刻阿弥陀三尊像の俗称です。江戸期の元禄十一年(1698)の大鳳寺村の届書に「源氏物語」の名所として「かげろふの石」が挙げられていますので、江戸期には既に現在地に存在し、今と同じ俗称にて親しまれていたことがうかがえます。

 この石仏そのものは藤原時代の遺品ですので、平安期から当地にあったことになりますが、その由緒や歴史は詳らかではありません。ただ、現地は中世宇治郷の北限に近いので、旧街道筋の辻の仏、もしくは境界守護石の役目を担っていたのかもしれません。

 

 石は高さ約2メートルの三角錐状で、その正面に阿弥陀如来、左右側面に脇侍菩薩を線刻で表しています。藤原期の石像遺品としては非常に残りが良く、刻線の磨滅があまりありませんので、阿弥陀三尊の像容がいまでも明確に拝めます。野ざらしであることを考えると、この時期の遺品としては稀有の保存状況です。

 

 上図は、向かって左に位置する右脇侍の勢至菩薩像です。これと対する左脇侍が観音菩薩像ですが、ともに「大和座り」と呼ばれる座姿勢をとります。現在の正座に近い形ですが、両ひざをやや外向きにします。これは藤原時代の来迎阿弥陀三尊によく見られる形式ですので、これが当時に流行した来迎図の一例であることが理解出来ます。

 藤原時代の宇治は、平等院を中心とした宗教都市としても栄え、天台浄土教の隆盛のもとで、平等院鳳凰堂を極楽浄土の具現化となして極楽往生信仰の中枢となっており、当時の日本においては極楽を疑似体験して往生へも導かれると信じられ、阿弥陀信仰の最高の聖地ともなって多くの貴賤の参詣を集めていました。

 そうした聖地は必ず四囲に結界をともないますので、来迎阿弥陀を刻んだこの「かげろう石」も、当時の境界に設けられた結界石としての役目を担ったのだろう、と推測されます。
 そうであれば、巡礼者はこの線刻来迎阿弥陀仏を拝んで宇治に入ったことを実感し、信仰の気持を新たにして宇治川の渡しに向かうことになります。つまりは藤原時代の「聖地巡礼」の標石の一種でもあったことになります。

 

 かげろう石(蜻蛉石)の地図です。


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青師団高校 Ⅰ号戦車B型 作ります !!  その2

2020年07月24日 | ガルパン模型制作記

 ステップ2では、上部車体を組み立てます。車体後部の形状は2通りあって選択出来ます。今回はパーツ32から34までを組み付けた形式を選びました。

 

 パーツを切り出しました。

 

 全て組み付けました。

 

 ステップ3では、上下の車体を合わせて各部のパーツを取り付けます。予備履帯や足回りは、塗装後に組み立てる予定です。

 

 組み立てるパーツ群です。上図右の予備履帯と予備履帯固定具は塗装後に取り付けます。

 

 組み上がりました。

 

 車体前部中央の丸い部品はヘッドライトですが、右フェンダー内側につく円盤状部品は何のパーツか分かりませんでした。おそらく警笛だろうと思います。

 

 小型でシンプルなキットですが、細部のディティールは意外にしっかりしています。ハッチのヒンジ、クラッベ、吊り下げ用フック、フェンダー上の滑り止め、などがきちんとモールドされていて、古い製品であることを感じさせません。

 

 ステップ4では車外装備品を含めた各所の小部品を取り付けます。車外装備品は全て塗装後の取り付けとし、そのカラーは以前に作った同チームのⅡ号戦車F型のそれに合わせます。

 

 パーツ類を切り出しました。上図左端上にみえる黒い方形パーツはゴム製のマフラーカバーで、これの取り付けに一苦労しました。

 

 組み上がりました。ゴム製のマフラーカバーはマスキングテープで固定して取り付けました。

 

 上図の61のアンテナと65の排気パイプの取り付けも、ガイド図からは分かりにくかったので、実車の記録写真などを参考にしました。

 

 ステップ4が完了しました。3点の車外装備品は塗装まで保管しておきました。  (続く)

 


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宇治巡礼3 東屋観音

2020年07月23日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京阪宇治線宇治駅を出て、宇治橋東詰より府道7号線を東へ進んですぐの左手に、両脇を道路に囲まれた小高い石垣の区画があります。上図のように、府道7号線に面した石段の奥に石仏が望まれます。

 この石仏が、現在は「東屋観音」と呼ばれています。その呼称の故にか、「源氏物語」の「宇治十帖」の「東屋」の古跡とされていますが、確証はありません。そもそも「東屋」とは作中にて中将の君が浮舟を匂宮に会わせないためにかくまった三条の小家、つまりは浮舟の隠れ家を指します。
 その隠れ家を訪ねた薫が「さしとむる むぐらやしげき 東屋の あまりほどふる 雨そそきかな」と詠んだのが巻名の由来です。つまり「東屋」の舞台は三条なのですが、「宇治十帖」の一帖に含まれているため、江戸期には宇治に古跡が定められてしまったもののようです。

 では「東屋観音」の「東屋」の本来の意味は何かというと、これは中世期の「鄙びた雰囲気の建物」や「素朴な建物」への一般的な形容句のほうではなかったかと推定します。この石仏を祀る堂の建物がいかにも鄙びた素朴な造りであったのでしょう。道端の小さなお堂のことを「あずまや」と呼ぶ事例は全国に散見されますので、ここ宇治の「東屋観音」もその一例であったのでしょう。

 

 石仏は、聖観音菩薩の坐像です。右手に未開敷蓮華(みかいふれんげ)を執る姿勢で、天台宗系の観音像に多く見られる形式です。比叡山横川中堂の本尊がこの形式であり、宇治の中心寺院たる平等院の当初の本堂(現在の観音堂付近)に大日如来像とあわせてまつられた観音像も同様であった可能性が指摘されています。

 この石仏のある場所は、かつて宇治橋の管理を担った放生院橋寺の旧敷地に含まれるため、本来は橋寺が祀って宇治橋東詰の結界の鎮護となしたものであった可能性が考えられます。

 

 現在、宇治市はこの石仏を鎌倉時代後期の遺品として昭和57年に文化財に指定しています。上図のように指定文化財の解説板も設けられていますが、平成以降に飛躍的に進んだ石仏の研究成果に照らせば、その年代は少し遡るとみたほうが良いように思われます。個人的には、12世紀後半から末期、いわゆる藤末鎌初(とうまつけんしょ)の頃ではないかなと推定しています。

 

 境内の脇に立つ、「宇治十帖」の「東屋」の案内です。本来なら三条に立てるべきですが、そんなことよりも、個人的には「東屋」の主人公の浮舟というキャラクターの謎めいた部分をも案内文に書いてほしい、と思います。

 周知のように、浮舟の名は紫式部の原作には登場しません。「東屋」を何度読んでも、「君」「姫君」「御妹」等の表記のみで名前は一切出てきません。
 源氏物語においては、多く登場して印象づけられる人物に巻名を冠して呼ぶ事例が多いので、「宇治十帖」の十巻中の六巻に登場した彼女に「浮舟」の巻名を付けたものとみられますが、その最初の事例が、超の付く源氏物語ファンであった菅原孝標の娘が記した「更級日記」であったのは興味深いです。菅原孝標の娘が「宇治の大将のうき舟の女君」と書いたのが、「浮舟」の呼称の最初の例ですが、要するにこれは現代の小説やアニメファンが名無しの登場人物に勝手に名前を付けて親しんでいるのと同じケースです。

 この菅原孝標の娘が、源氏物語に傾倒するあまり、宇治にも行っている点を思い合せれば、ファンの聖地巡礼というのは今も昔も変わらないな、と気付きます。平安時代から既に宇治は聖地巡礼の地であったわけですから、現在のアニメファンの宇治巡礼も、その長い歴史の一コマにしか過ぎないのでしょう。

 

 東屋観音の地図です。

 


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青師団高校 Ⅰ号戦車B型 作ります !!  その1

2020年07月22日 | ガルパン模型制作記

 去る7月9日、模型サークルの先輩K氏より、誕生祝いとして上図のズベズダのⅠ号戦車B型のキットを頂きました。かなり昔の製品のようでしたが、初めて見るキットでしたので、製作意欲をそそられました。翌10日から組み立て始めました。

 

 Ⅰ号戦車B型は、最終章第2話に登場した青師団高校チームの車輌として、上掲のワンシーンの黄枠内に見えています。この撃破擱座シーンが、唯一の劇中車の姿ですので、細部はもとより、ガルパン仕様の有無も分かりません。ただ、車体カラーがⅡ号戦車やCV33の青色系とは異なり、左に擱座しているヴェルデハと同じ灰色系のものであることが看取出来るのみです。フィールドグレーみたいな、やや緑がかかった灰色に見えます。

 

 中身です。ズベズダはパーツ割がそんなに細かくありませんので、軽戦車クラスでもパーツ数は100に届きません。今回のⅠ号戦車B型のキットのパーツ数は86です。
 同車のキットはドラゴン、イタレリ、ホビーボスなどからも出ていますが、いずれもパーツ割が細かくて製作に手間がかかります。今回のズベズダの製品は初心者にも向いているでしょう。

 

 組み立てガイドの説明文はロシア語です。当然ながら読めません。

 

 組み立てガイドとパーツ番号図です。ズベズダの製品は、ランナーにパーツ番号が付いていませんので、上図の番号図を見ながらパーツを切り離して組み立ててゆくことになります。組み立てる順番に番号が振られていますので、番号順にパーツを準備すれば良いわけです。なかなか合理的な手法です。

 

 ステップ1では、1から23までのパーツを使って足回りなどを組み立てます。Aはランナーの番号ですので、A10ならば、Aランナーに付いている10番のパーツ、ということになります。

 

 手始めに、車輪とサスペンションを組みます。御覧の通りのシンプルな組み合わせです。

 

 組み上がりました。転輪は全て回転します。そのほうが塗装にも都合が良いです。

 

 下部車体の組み立てに進みました。

 

 車体後部の誘導輪およびフック部分です。今までに経験したことのない、独特の合わせ方で組み立てました。ガイド図ではいまいち組み方が読めませんでしたが、実際に仮組みして「あっ、なるほど、こうなっているのか」と感心してしまったほどです。

 

 一通り組み上がりました。車輪類は塗装後に取り付ける予定なので、取り付けの工程はここまでとなりました。

 

 念のために車輪類を仮組みした状態です。このような形に組み上がりますので、転輪のゴム部を塗装してから取り付けるほうが扱い易いと思います。  (続く)

 


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宇治巡礼2 彼方神社

2020年07月21日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 源氏物語の「宇治十帖」の古跡のうち、確実なのは「橋姫」の橋姫神社ですが、それに次ぐ名所を挙げるならば、上図の彼方(おちかた)神社となるでしょうか。源氏物語の執筆以前から当地に存在していた、延喜式式内社のひとつです。

 宇治橋東詰より府道7号線を三室戸方面に50メートルほど進んで左側に、上図のような小さな境内地があります。京阪宇治線の宇治駅に二番目に近い古跡であるため、源氏物語の聖地巡礼ルートの第2スポットになっています。

 

 現在は上図の小さな社殿のみであり、由緒も祭神も今では分からなくなっていますが、境内にある享保十八年(1733)建立の石灯籠に「諏訪大明神」とあるので、かつては諏訪神社であったか、もしくは諏訪神を合祀していた時期があったようです。それ以上に重要なのは、境内の奥に磐座が祀られていることで、古代の自然崇拝の拠点であったことが伺えます。

 ですが、江戸期の元禄十一年(1698)の当地大鳳寺村の届書には源氏物語の名所として「浮舟社、手習森、かげろふの石」の三ヶ所が挙げられるのみで、彼方神社の名はありません。 

 

 現在では、彼方神社は「宇治十帖」の「椎本」の古跡に比定されていて、上図の案内板も立っています。かつては境内地に椎の老木が2本あったといい、それと「椎本」が結び付けられているのかもしれませんが、作中では匂宮が八宮に贈った和歌にある「遠方(おちかた)の白波」、「をちこちの汀」等の言葉があり、彼方神社の名前に通じます。

 古来、宇治川の東岸は「をちの里」と呼ばれ、それに対する西岸を「こち」と呼んで対比させたとの説もあり、宇治川の流れる方向を指す「落ち方」の言葉に因んでいるとの説もあります。いずれにせよ、現在の府道7号線のルーツである平安期以来の「宇治大路」が彼方神社の前を通りますので、宇治が藤原氏の別業都市として造られ始めた際には既に古社の一つとして認識されていたようです。

 作中では、八宮は第四十五帖の「橋姫」にて登場し、第四十六帖の「椎本」にて没します。その舞台となった山荘を一般的には「離宮」と呼ばれた宇治上神社辺りにあてているようです。しかし、作者紫式部の認識ではもっと大まかであったのかもしれません。「おちかた」や「おちこち」の和歌にも込めているように、「をちの里」に八宮の山荘をイメージしていた、と捉えるのが良さそうです。

 なお、上図の案内板に書かれる、八宮が亡くなった「阿闍梨の山寺」はおそらく実在の恵心院がモデルで、「阿闍梨」も恵心僧都源信がモデルなのでしょうが、その恵心寺もかつては「おちの山寺」と呼ばれていました。つまりは「をちの里」に含まれていたからでしょう。
 なので、現在の彼方神社は宇治川東岸の「をちの里」の北限あたりに位置していることになります。磐座が、中世期には結界石としての役目も果たした様相を顧みれば、磐座が祀られる彼方神社というのは、当地「をちの里」の北の境界線にあたっていたのではないかな、と推測しています。

 

 彼方神社の地図です。


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九七式中戦車のキットをいただきました

2020年07月20日 | ガルパン模型制作記

 去る7月16日、サークルの先輩Y氏より、誕生祝いとして上図の品を宅配便にて受け取りました。Y氏は6月が誕生月ですので、私もお祝いの品として童友社の1/48スケールの米陸軍B-25Bミッチェルのキットを贈りました。そのお返しのようなものでした。

 御礼の電話にて、「最近、日本軍の戦車を作ってると聞いたもんでね、ウチにずっと昔からあった九七式中戦車のキットをあげますよ」と言われました。Y氏は飛行機部会のメンバーで飛行機が大好きな方ですが、ガルパンも知っており、知波単学園チームのことも御存知です。それで、最近に私がタミヤとファインモールドのキットであわせて5輌を作っていた事も知っており、ではドラゴンのキットも作って楽しんで下さい、ということでプレゼントして下さったのでしょう。

 しかし、私にとっては驚愕の品でした。上図の品はドラゴンの製品ですが、ホビコレのみでの限定販売であるため、あまり数が無くて模型店でも見かけなかったものです。しかも新砲塔型ですから、以前にモケジョさんにいただいたドラゴンの旧砲塔型とあわせての2輌が揃うことになります。大変に有り難いプレゼントでした。

 キットは中華人民共和国の人民解放軍が配備した最初の戦車として知られる「功臣号」を再現していますが、「功臣号」用のパーツを付けなければ、もとの日本陸軍の九七式中戦車新砲塔型に仕上げることが出来ます。これで知波単学園チームの名倉車が作れますので、既に作った玉田車、浜田車と合わせれば、最終章第2話での玉田小隊が再現出来ることになります。
 問題は、名倉車独特の迷彩パターンをどこまで再現出来るか、ですね・・・。

 


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宇治巡礼1 橋姫神社

2020年07月19日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都府宇治市は、紫式部の「源氏物語」の終章にあたる「宇治十帖」の舞台として、既に平安時代より聖地巡礼の人気エリアとして有名でした。例えば、「更級日記」の作者である菅原孝標の娘が超のつく「源氏物語」ファンとして、長谷詣での途中に宇治に立ち寄ったりしたのも、日本における小説やアニメの聖地巡礼の初期の事例と言えましょう。

 いまはアニメ「響けユーフォニアム」の舞台としても知られますが、それは一部のアニメファンだけの話で、世界的には宇治といえば「源氏物語」の聖地の代名詞となっています。世界最古の恋愛小説として知られ、多くの国でドクター論文のテーマに挙げられるほどの「源氏物語」なので、その舞台である宇治を訪れる外国人観光客も多いです。年間平均で2万4千人が来たとの資料もあります。

 私自身、一番好きな聖地が宇治です。理由はいくつかありますが、最も分かりやすいのは、定朝とその仏像を長く研究していたから、という理由でしょうか。その定朝の確定された唯一の作品が平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像です。
 昨年夏に京都に凱旋移転した後、年内に一度は宇治へ行こうと決めていましたが、実際には5回行きました。藤原時代王朝文化の歴史と美術に飽くなき憧憬を抱き続ける身としては、むしろ少なかったかもしれません。「源氏物語」の「宇治十帖」に親しんでいる身としては、十帖にちなんで10回は行くべきだったかもしれません。

 そんな私が、宇治巡礼の際によく訪れている所を、幾つか取り上げて、気ままに紹介してみたいと思います。上図は宇治巡礼の度に必ず渡っている、宇治橋です。

 

 宇治巡礼の聖地といえば、時系列的に並べた場合にはまず橋姫神社が挙げられるでしょう。宇治橋の守護神として宇治の結界をつかさどった橋姫、瀬織津媛命を祀る神社です。明治39年(1906)に現在地に移される前は宇治橋西詰に鎮座し、古代においては宇治川上流の桜谷にあったのを、大化二年(646)の宇治橋創設にともない、以後は橋の守護と管理を担った放生院常光寺(橋寺)敷地内にて祀った歴史があります。

 つまり、宇治という地域における最も古い神様の一人で、本来は水辺の神として女性神の姿に解釈されていたため、橋の守護神ともなるに至って橋姫の通称が定着したのでしょう。当然ながら藤原時代に宇治が別業都市として発展した時期には既に橋姫の称にて親しまれていたようで、紫式部が「源氏物語」の「宇治十帖」を執筆するにあたって最初の巻を「橋姫」と名付けています。

 「源氏物語」は「宇治十帖」から登場人物が入れ替わります。光源氏および柏木から、光源氏の子の薫や匂宮にバトンタッチされます。つまりは宇治への橋渡し、物語の終章への橋渡し、という意味を込めて紫式部は「橋姫」の巻を書き始めたのでしょう。
 だから、この橋姫神社は、「源氏物語」ファンの聖地の一つでもあります。

 

 現在の橋姫神社は、藤原時代以来の街路とされる県通りを宇治橋から南下して100メートルほど行った東側に鎮座し、鳥居を西に向けて街道筋に面しています。狭い境内地に、二つの祠が並びます。上図左が橋姫社、右が橋姫との通婚伝承がある住吉神の住吉社で、そのルーツは宇治離宮神、つまり現在の宇治上神社の祭神とも関連があったようです。

 橋姫神社は、かつては宇治橋の「三の間」に祀られたといいますが、その宇治橋の「三の間」自体は江戸期に設けられているので、本当に祀られていたかどうかは疑問です。むしろ、いま紫式部石像がある宇治橋西詰の道端にずっと鎮座していたとするほうが自然でしょう。
 そして、境内地が小さいのも、宇治橋西詰に在った頃の規模をそのまま受け継いでいるからだろう、と推察します。

 

 境内には、上図のように「宇治十帖」の橋姫の巻の解説板も立てられています。現在ではこの解説板が「宇治十帖」の十ヶ所の「古跡」に立てられていますが、実際に宇治における舞台となったのは「橋姫」の他には「椎本」「浮舟」「蜻蛉」「手習」の4巻ぐらいではないかとされており、一番確実なのは「橋姫」だけだろうと思います。いま「古跡」と言っている場所の大半は江戸期に推測や仮託にて追加されたものであるようです。

 そのことは「源氏物語」の数多くの注釈書のうち、「宇治十帖」をまとめて古跡とする最初の例とされる江戸期の寛永十七年(1640)の「平等院旧記」に十帖の名所を列挙しながら、由緒も述べているのが「橋姫」のみである点にも示されます。
 また、江戸期の「源氏物語」研究者のひとりであった歌人の北村季吟は、著書「菟芸泥赴(つげねふ)」にて「もとより源氏の作物語なれば、其あとあるべきにあらず」と看破し、「うぢ(宇治)に其しるしをいふべき故もなかるべし」と結論づけています。要するに源氏物語というのは小説なのだから、宇治にもとから由緒や名所があるはずはない、宇治に関連の場所がなければならないという理由はない、という訳です。

 なので、私自身も、「宇治十帖」の聖地を問われれば、「橋姫」だけを挙げて橋姫神社を紹介するにとどめています。そのほうが、ロマンもあっていいんじゃないか、と思います。

 

 橋姫神社の地図です。


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T34/76のキットを頂きました

2020年07月18日 | ガルパン模型制作記

 去る7月16日、模型サークルの先輩S氏より、誕生祝いとして上図のキットが宅配便で送られてきました。新型肺炎対策のためにサークルの定期会合や食事会は8月までの休止が決まっているため、本来ならば会合にて手渡しされるはずの品々は全て郵便や宅配便などで送られてきます。

 このAFVクラブのT34-76のキットは、以前に一度プラウダ高校チームの劇中車を作る時に使ったことがあります。フルインテリアキットですが、インテリアは全て作らなかったので、それらのパーツはモケジョのマユコさんが希望してきたのに応じて譲渡しました。

 今回頂いた品も、ガルパンの劇中車に仕上げる積りですが、今度はインテリアも全部作ってみようと思います。ただし、塗装指示通りに仕上げるのではなく、ガルパンの戦車ということで、私なりにカラーコーディネートを試みるのも面白いかな、と考えています。

 周知のように、ガルパンにおけるT34-76は、アニメ版でのプラウダ高校チーム車輌、コミック版の継続高校チーム車輌の2種が知られています。どちらで作るか、ちょっと迷ってしまいます。今すぐに作る予定はありませんから、しばらくは積んでおいて、最終章第3話の公開後に改めて検討することにしましょう。

 


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プラウダ高校 T34/85(三輌目) 作ります!! その5

2020年07月17日 | ガルパン模型制作記

 ステップ7では、車体右側面のハンドルや燃料タンク等を取り付けます。

 

 パーツを切り出しました。燃料タンクの改造手順は左側面のと同様に進めます。

 

 全て取り付けました。

 

 御覧のようにキャップを中央に移し、側面板のハンドルを水平にセットしました。

 

 続いて、今回のタミヤのキットでは省略されている燃料タンクの懸具をブラ材でそれらしく追加再現しました。この懸具は前に制作したプラッツ公式キットやAFVクラブキットでは再現されていますから、劇中車の形状の一つとして合わせることにしました。

 

 ラストのステップ8です。砲塔をセットし、予備履帯を取り付けます。予備履帯は車体前面のものだけを作ります。

 

 予備履帯のパーツに加えて、エンジンフード上に追加再現するハンドルのパーツもAFVクラブのジャンクパーツより調達しました。

 

 エンジンフード上の左右にハンドルを取り付けて追加再現しました。劇中車にはありますが、今回のタミヤキットでは該当パーツが省略されているからです。

 

 以上で、塗装前の組み立ておよび追加工作の全てを終えました。梅雨の最中の製作でしたので、塗装作業は梅雨明け以降に他のキットとまとめて行うことにしました。  (続く)

 


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