気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

東山慈照寺5

2021年04月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 慈照寺境内地の東側の山林は、中尾山の西裾にあたっていまは園路および展望所が設けられ、慈照寺庭園の東辺をまわる形のコースが形成されています。ですが、本来の境内地が中尾山も含めた広大なものであったことは、中世戦国期に中尾山を「慈照寺の大たけ中尾」と呼んで 「義政公遠見やぐら」が築かれていた事からもうかがえます。

 

 その 「義政公遠見やぐら」からも、観音殿つまり銀閣は見えたことでしょう。境内地の他の建物と異なって、この観音殿だけが楼閣造という高層建築として建てられているのは、遠くから見えることをも前提条件にしたからだろうと思います。

 

 現在の慈照寺庭園の東南寄りの山裾に、かつての山道の痕跡が二つほど見えるとされていますが、その一つを「洗月泉」の南側の谷よりに見つけました。上図では分かりにくいかもしれませんが、実際に現地で肉眼で見ますと、中尾山に登る九十九折の山道らしき細長い平坦面の重なりが認められます。

 これらが山道の痕跡であるかどうかは、中尾山の城跡から登城道の痕跡をたどって慈照寺方面に降りてゆけばハッキリするでしょうが、相当困難な検証作業になることも確かです。

 

 さて、園路をほぼ一周して観音殿が池の向こうに見えるおなじみのアングルに来ました。教科書や観光ガイド類でよく紹介されるアングルの景色です。これが一般的な慈照寺銀閣のイメージとして定着しているため、足利義政の観音殿への視点および当時の慈照寺庭園の景観というものが見えにくくなっています。

 

 例えば、多くの観光客が見ているこのアングルですが、これが観音殿の正面と思われています。庭園も江戸期の修築ですが、一般的には足利義政時代の庭園がそのまま残っている、と思われています。

 

 しかし、観音殿の上図の景観は、東側面の姿です。決して正面ではありません。今でこそ初層の正面は東側とされていますが、それは当時からの状態ではなく、江戸期の改変によったものであるようです。そして二層は今も昔も南側が正面となっています。

 

 したがって上図の景色は、観音殿を横から見た図であるわけです。庭園の園池も室町期の半分以下の規模になっていますから、この景観は江戸期以降のものとなります。京都に詳しい方々、京都通を自認される方々においてもこのことを知らない方が多いのは残念なことです。

 

 この観音殿は、仏教寺院の御堂建築の一型式ですから、伽藍中軸線に沿っていなくとも南に向きます。つまりは南側が正面になります。内部が公開されていないために分かりにくいのですが、現在は初層二層とも内陣において西寄りの須弥壇に観音菩薩を東向きに安置しています。
 なので、初層の東面が障子窓となっているのは、庭園から観音を礼拝するための設えであると理解出来ます。

 

 これに対して、二層目の「潮音閣」の観音像は本来は南向きに安置されていたらしく、南から池ごしに拝むのが本来の正式な形であったようです。上図のように二層目の南面に桟唐戸が付けられており、これを左右に観音開きに放てば、内陣が庭園からも見えたわけです。

 したがって、足利義政時代の慈照寺庭園は、南側にももっと広い面積を持っていたことが理解されます。観音殿周辺の発掘調査でも、南側に池が広がって観音殿の西側にも水面が広がっていたことが分かっています。つまり、創建当初の観音殿は、東と南と西の三面を園池に囲まれており、初層内陣の観音像を東から、二層内陣の観音像を南から、それぞれ池越しに拝む形になっていたことが理解出来るわけです。

 この当初の庭園イメージがいまの慈照寺庭園を見ているだけではなかなか思いつかないのですが、足利義政が参考にした先祖義満の北山御所の庭園の園池の形式が、そのまま東山山荘の庭園の基本になっていることを考えれば、現在の鹿苑寺舎利殿(金閣)のように三面を池に囲まれた状態であったことも容易にイメージ出来る筈です。

 

 上図のように観音殿北側の二層には花頭窓も障子窓もなく、中央に桟唐戸が付くのみです。初層は東半部が腰壁入りの障子窓、西半部は土壁となって出入りは不可能です。北側が背面にあたることが理解出来ますが、これを逆に考えると南面が本来の正面であるということが分かるでしょう。

 なお初層の「心空殿」の住宅風の間取りも、当初からのものではなく改造の痕跡があって、現在のように東を正面とする状態が創建当時からのものであるかは疑問です。建築史学の研究過程において示されている前身建築の姿形を勘案すれば、観音殿は本来は初層も二層も南側が正面であったとするほうが自然でしょう。

 このように、東山慈照寺を中世戦国期にさかのぼって当時の視点で俯瞰してゆくことで、おぼろげながらやっと見えてくる事柄が非常に多いのに気付かされます。これらをふまえての新たな視座が、これからの慈照寺拝観に際しては重要になってくることでしょう。  (了)

 


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東山慈照寺4

2021年04月09日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 現在の慈照寺庭園は、前述したように江戸期の修築でほぼ新造になるものですが、園池の水が境内地内の湧水より供給されている点だけは変わらないようです。かつては幾つかの湧水地があったらしく、それらが下の白川に流れ込んでいたのを、東山山荘建設時に地形を整えて水をせき止める形で園池を形成したものと推定されています。

 

 園池に流れる湧水のひとつは、いま「洗月泉」と呼ばれる裏山からの流れ水の滝です。いったん上図の石囲みの池に落として溜め、園池に繋いでいます。

 

 そしてもうひとつの湧水は、いま「お茶の井」と呼ばれます。

 

 「お茶の井」は東側の裏山の裾上に位置し、いまも豊かに水を流しています。俗に足利義政公お茶用の湧水とされていますが、確証はありません。現在、境内地背後の中尾山山中には三、四ヶ所に伏流水があって湧水地点も幾つかあるそうなので、昔はもっとあったものと思われます。足利義政がここを東山山荘の場所に定めたのも、現地の豊富な湧水量に着目したからでしょう。

 室町期に限らず、将軍クラスの山荘には庭園がつきものであり、庭園がメインとなるのが普通でしたから、庭園に欠かせない水が豊富に確保出来る場所があれば、寺院の庭園や武家公家の庭園の候補地としても有力視されます。京都の古社寺の庭園が山裾に多く位置するのも、そうした地形による伏流水や湧水地の存在が前提となったからでしょう。

 

 その近くに、「漱蘚亭」と呼ばれた園亭があったとされています。「漱蘚亭」は足利義政の時代に建てられた庭園建築のひとつで、竹材によって組まれた簡素な亭であったようです。その遺跡が昭和6年に発掘され、いま見られる湧泉および石組等が確認されています。

 

 「漱蘚亭」の横から東の展望所への園路を登りました。足利義政時代に造られた園亭は、「漱蘚亭」の他に「超然亭」 「西指庵」 「漱蘚亭」「弄清亭 」「釣秋亭」と幾つかありましたが、全てが戦乱の中で失われています。殆どは発掘調査も行われずいまだに位置すら確認されていないままです。

 

 展望所からは、俗に「銀閣」と呼ばれる観音殿がよく見えます。慈照寺創建当時の仏堂のひとつ観音堂としての役目をもった建物です。足利義満の北山鹿苑寺の舎利殿(金閣)にならって、足利義政が最も愛した西芳寺庭園の瑠璃殿を踏襲して建てられた堂です。鹿苑寺の舎利殿が昭和25年に放火で失われたいまでは、室町期楼閣庭園建築の唯一の遺構となり、国宝に指定されています。

 

 その観音殿を囲む庭園も、足利義政が最も愛した西芳寺庭園を模して造られました。その動機は、義政が母の日野重子に西芳寺庭園を見せてあげたかったが、当時の西芳寺が女人禁制であったために叶わず、それを模した庭園を自らの山荘内に造る、というものだったそうです。

 したがって、足利義政時代の庭園がどのようであったかは、いまも現存している西芳寺庭園を見ることで大体はイメージ出来ることと思います。周知のように、西芳寺庭園は池泉廻遊式庭園と枯山水式庭園の上下二段から構成されていますから、当時の慈照寺庭園も同じ形式であった筈です。
 その造営にあたっては、作庭家の善阿弥の技術指導のもとで足利義政自らが作庭の指導をしたと伝えられます。ですが、基本的な骨格および作庭表現の原則は西芳寺庭園の模倣に徹するところにあった筈なので、足利義政自らが織り込んだ要素がいかなるものであったかが知りたいところです。

 

 とにかく、いまの慈照寺庭園からは、足利義政時代の庭園のイメージはまったく連想出来ません。上図に見える方丈以下の慈照寺の建築群も江戸期以降または最近の再興ですから、東山山荘当時の常御所以下の建築群はもちろん、慈照寺創建時の施設群もまた、完全なる幻になってしまっています。  (続く)

 


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東山慈照寺3

2021年04月04日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 境内散策路を順路表示にしたがって進むと、庭園の西にある向月台および銀沙灘の横を通ります。向月台も銀沙灘も宮城丹波守豊盛による江戸期の修築事業によって形成されたもので、おそらくは直前の安土桃山期に流行した作庭における人工的アートのブームの影響を受けていると思われます。
 織田信長や豊臣秀吉の頃には色んな奇抜な造形やモニュメントが流行り、建物や庭園にそれを表現することが珍しくありませんでしたから、その直後の時期である慶長年間にもその流れが残っていたのかもしれません。

 いずれにせよ、足利義政の頃には無かった代物であることは間違いありません。義政ほど自然の景観を愛した将軍は居ませんし、最も好んだ庭園が西芳寺庭園であったのですから、それを模倣して造営したここの庭園に向月台や銀沙灘のような表現物を加える筈がありません。

 

 銀沙灘の北には方丈があります。寛永年間に宮城主膳正豊嗣が再建したもので、一説では向月台および銀沙灘も方丈の再建にあわせて追加構築されたのではないか、とされていますが確証はありません。

 

 方丈の正面です。これを再建した宮城主膳正豊嗣は、慶長年間に慈照寺庭園の大修築を行なった宮城丹波守豊盛の孫にあたります。宮城氏は土木技術に長けた技術屋の家柄で、江戸幕府では代々が普請奉行を務めています。さらに宮城豊嗣は寛永十六年(1639)に父宮城頼久の三十三回忌にあわせて観音殿の修造も行なっています。慈照寺との縁も豊盛の時から深く、年忌は常に慈照寺で行なっています。
 つまり、現在に至る慈照寺境内地の景観は、江戸期における宮城氏の尽力によって整えられたわけです。

 

 方丈の東に建つ、文明十八年(1486)建立の東求堂です。足利義政の持仏堂であったもので、観音殿とともに東山山荘および室町期慈照寺以来の現存建築として知られ、かつ最古の書院建築遺構として国宝に指定されています。
 いまは方丈と渡り廊下で結ばれていますが、元からここに在ったのではなく、室町期にはもう少し観音殿に近い位置、いまの向月台のあたりに建っていたようです。移築はおそらく江戸期の方丈の再建にともなって行われたのでしょう。

 

 東求堂は、本尊を阿弥陀如来とする持仏堂ですので、本来は慈照寺における仏殿のひとつ、阿弥陀堂としての役割を担ったようです。ともに現存する観音殿が観音菩薩を安置して観音堂としての機能を持ちますから、足利義政のもともとの信仰観の基本軸は天台浄土教にあったことが伺えます。そのうえで禅にも傾倒して侘び寂びの境地を愛し、東山山荘への隠棲に行き着いたのでしょうが、現職の将軍がそのような現実逃避にはまりこんでいては、応仁の乱が起こらなくても世の中が乱れる成り行きには変わりがなかったことでしょう。

 

 正面扉口の上に懸かる扁額「東求堂」は足利義政の筆になります。拝観は外から見るだけですので、建物の内部とかはあまり見えません。たまに特別拝観の時期があるようですので、その機会を狙いたいところですが、いまだにチャンスに恵まれていません。一度でもいいから、堂内東北の足利義政の茶室空間「同仁斎」の四畳半間に坐してみたいものです。

 

 慈照寺は戦国期に戦火を被って大半の建物および庭園の殆どを失いました。その被害のはじめは天文十六年(1547)四月で、三好越後守政長率いる阿波衆が将軍足利義晴を「東山御城」に攻めた時です。「東山御城」は慈照寺の裏山に築かれていたとされ、現在の中尾城跡にあたるようですが、その攻防戦によって慈照寺も兵馬の蹂躙にあいました。足利義政時代以来の建物の多くがこのときに失われたらしく、庭園も荒廃してしまったようです。

 それから22年後の永禄十二年(1569)、織田信長が将軍足利義昭の二条御所を新造する際、その庭園を築くにあたって京都の内外から多くの庭樹および庭石を集めましたが、慈照寺庭園からは「九山八海石」を移しています。「九山八海石」は当時は天下に聞こえた名石であったらしいのですが、庭園が荒廃してボロボロの状態では在っても意味が無い、といわんばかりに信長が二条へ運ばせてしまいました。
 おそらく、織田信長の頃には慈照寺庭園はほとんど壊滅状態であったのでしょう。

 ちなみに「九山八海石」は、足利義満の北山鹿苑寺の庭園にも有ります。そちらは義満が中国から運ばせた霊石であったとされていますが、おそらく足利義政も先祖に倣って東山山荘の庭園に同じような形姿の石を置いて愛でたのでしょう。

 

 かくして戦国期に建物も庭園もほぼ壊滅状態になっていた慈照寺ですが、その様子を奈良興福寺の僧侶であった多聞院英俊が元亀元年(1570)三月の鞍馬寺参詣の途上にて東山付近を通過の際、日記に記しています。

「東山殿ノ御舊跡名ノミ、アハラヤノ民ノ家ニマシリテ一宇見へ了」
(東山殿(足利義政)ゆかりの旧跡も名ばかり、あばら家の民家に混じって(建物)が一宇見えるだけ)

 この「一宇」はおそらく遠くからも見えたであろう観音殿だったと推測されますが、とにかく寺は「名ノミ」残る悲惨な状況であったわけです。

 なので、東求堂や観音殿が残ったのは奇跡のようにも思えてしまいますが、実は天正十二年(1584)に慈照寺6世の陽山瑞暉の兄である前関白近衛前久が戦火を避けて慈照寺を本寺相国寺より借りて移り住み、以後亡くなるまでの28年間を過ごしました。その関係で慈照寺は実質的に近衛家の別荘扱いとなりました。
 そのため、戦国末期のまだ戦乱続く中にあって、慈照寺にはそれ以上の戦火が及ぶことがなくなり、結果的に東求堂や観音殿が残ったのだと言えます。何がどうなるか分からないものです。

 

 ですが、近衛前久も不遇な境涯に陥ってここに隠棲し、東求堂を仮の住居にして居たのですから、寺の保護管理などをする余裕は無かったようです。境内地が自然の荒廃に任されたままであったことは、慶長十七年(1612)に本寺の相国寺が慈照寺賃借の件に関して近衛家に返還を求める旨を徳川家康に訴えた際の覚書にも明らかです。

 要約すれば、寺は大破し山林庭園は押妨(不当に他人の土地に侵入し乱暴を働く、不当な課税をしたりする)状態、庫裏は小屋掛(仮小屋みたいな状態)であるので、なんとかして古来著名なる慈照寺の姿、足利義政公の位牌所としての体裁に戻したい、という内容です。

 これを受けて徳川家康はすぐに近衛家に還付の裁決を通達せしめ、慈照寺はようやく相国寺の末寺に復帰しました。宮城丹波守豊盛が慈照寺庭園の大修築にかかったのはその三年後でしたから、これは江戸幕府の保護下における復興支援事業の第一歩であったのでしょう。

 

 当時、足利義政以来の庭園は壊滅し荒廃して原形をとどめていなかったのに相違ありません。庭園の主な石も織田信長が抜き取って二条へ運んでしまっており、近衛前久もここに28年も住んでいながら全く手を付けていなかったようですから、庭園自体が林間に埋もれて大方の痕跡すら見えなかったのでしょう。

 江戸期には、いまのように古い遺跡を発掘し調査して復元し、原形に戻すという文化財保存の試みがまだありませんから、庭園の修理を行う場合は全て新造になります。庭石も無くなっている状態ですから、一から造り直しになるのは当然です。宮城丹波守豊盛による慈照寺庭園の大修築は、その意味では完全な新造です。
 だから、現在の慈照寺庭園は、完全に江戸期の大名家の作庭事業による遺構と見なされます。足利義政時代の庭園の遺構は、戦後の発掘調査の繰り返しによって一部がやっと明らかになってきている程度です。  (続く)

 


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東山慈照寺2

2021年03月30日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 参詣道を進んで総門に至りました。江戸期再建の建物で、現在の慈照寺境内地の山門にあたりますが、足利義政の東山山荘および慈照寺創建時の総門の位置を踏襲しているかは疑問です。まだこの辺りは発掘調査が及んでいないため、中世期境内の推定復原図ではやや西側に表門が置かれています。

 一般的には、総門から右に続く銀閣垣とあわせて防御の役目も果たした施設である、と解釈されていますが、銀閣寺垣自体が室町期から存在したかどうかも分かっていません。境内復原の問題と絡めて今なお不明の部分が多いと受け止めておくべきでしょう。

 

 拝観受付にて拝観案内とともにいただいた守護符です。北山鹿苑寺でも同じような守護符をいただきますから、同じ相国寺の境外塔頭同士、基本的な拝観応対の決まりごとが共通しているのでしょう。

 

 目隠し塀の一種ともされる銀閣寺垣を抜けると、平成16年に再建された中門を経て庫裏の前庭の横に出ます。

 

 庫裏の前庭はいわゆる石庭で、景石を島に見立てて紋を綺麗に並べ、静かなる凪の海原を表しています。

 

 庫裏です。東に隣接する方丈とともに、江戸期の寛永年間(1624~1645)に但馬清富藩主の宮城主膳正豊嗣によって再建されていますが、慈照寺本来の建物とは別です。足利義政の時代にはここには東山山荘の常御所があったと推定されています。昭和61年の庫裏の解体新築にともなう発掘調査で幾つかの遺構が確認されています。

 

 石庭の東には方丈に続く門が見えます。寺では「宝処関」と呼ばれています。

 

 その「宝処関」に近づいてみました。唐破風をいただき格式の高さを示しています。勅使かそれに準ずる高位の人のみが出入りした門ですので、普段は開かずの門となっていて、相国寺住僧はもとより一般の人々の出入りも禁じられます。

 

 なので、方丈への出入りはこちらの式台から行うことになります。庫裏と方丈の連接部に位置して、双方の玄関口を兼ねています。

 

 石庭横の参道から南に視点を転ずれば、銀閣の通称で親しまれる観音殿が創建当初の結構をいまにとどめて建ちます。文明十四年(1482)より造営がはじまった足利義政の東山山荘の仏殿として設計され、長享三年(1489)には上棟がなされましたが、その翌年に義政は亡くなりましたので、彼が観音殿の竣成を見届けることは叶いませんでした。

 

 観音殿の東には、境内地の中心的景観を形成する錦鏡池が水面をたたえています。もともとは東山山荘の庭園として造られたものですが、当時の面影はまったくありません。池自体の規模も足利義政の時代の四分の一ぐらいになっています。

 現在の庭園は、江戸期の慶長二十年(1615)より幕府家臣の宮城丹波守豊盛が普請奉行となって大規模に修築したもので、作庭家の北村援琴が享保二十年(1735)に著した「築山庭造伝」の絵図によってその有様が詳述されています。現在の状況とほぼ一致していますから、いま私たちが拝観出来る慈照寺庭園は、江戸期の修築によるものであることが分かります。

 つまり、室町期の慈照寺庭園とは全く異なります。足利義政が愛でた景観は完全に失われてしまっているわけで、とても残念なことですが、しかし、かつての状況を発掘調査などの成果から推定的にイメージすることは可能です。足利義政が最も好んだ西芳寺庭園の有り様が、ヒントのひとつになるからです。  (続く)

 


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東山慈照寺1

2021年03月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2019年11月12日、久しぶりに東山の慈照寺へ行きました。足利八代将軍義政の東山山荘を寺となした、銀閣寺の通称で知られる臨済宗相国寺の境外塔頭寺院です。
 午前中は京都府立図書館に用があったので、午後から行く事にして、バス停「みやこめっせ前」から市バス32系統に乗り、「銀閣寺前」で降りました。そこから東へ70メートルほど歩いて、上図の銀閣寺橋に着きました。

 いまは慈照寺参詣道の起点となっていますが、かつての東山山荘、慈照寺境内地の西限にあたりました。いまの白川疎水がかつての境界線のように見えますが、中世戦国期の白川の流路とは異なります。上図の銀閣寺橋も大正11年に架けられたものです。

 

 銀閣寺橋から南を見ました。流れる白川疎水の南岸に沿って「哲学の道」がのびています。この道も、ここ十年余り歩いていませんね・・・。

 

 慈照寺門前への参詣道です。コロナ流行以前の状況ですから、マスク姿の人は居ません。外国人観光客もちらほら見かけました。

 

 参詣道の途中、北側にある、浄土院の山門です。慈照寺が創建されるずっと以前、この地にあった浄土寺が、足利義政の東山山荘造営に伴って移転させられた後に残った草堂が前身です。江戸期の享保十七年(1732)に名を浄土院と改めて復興が行われて現在に至ります。

 

 浄土院の門前から北へ続く道は、八神社への参道を兼ねます。八神社はかつて浄土寺の鎮守社でしたが、慈照寺の創建後はその鎮守に転じています。創建年代は不明ですが、平安期には存在していたようですので、当地では最も古い神社であるのかもしれません。

 

 浄土院の境内地に入りました。前身の浄土寺は広大な境内地と数多くの堂塔を誇りましたが、いまは本堂と丹後局堂のみが山門の奥に並びます。丹後局堂は、本堂の隣にあり、平安末期に浄土寺にあった丹後局の山荘および持仏堂の由来を伝えています。

 丹後局こと高階栄子(たかしなのえいし)は後白河法皇の寵妃であり、寵妃になる前は後白河法皇の側近であった平業房の妻でした。業房の所領のひとつが浄土寺であった関係で、丹後局は朝廷から去った後はこの寺に住み、「浄土寺二位」と称されたといいます。

 

 そのため、浄土寺はもとから皇室との関係も深く、室町期には足利義政の庶弟である義尋が入寺するなど繁栄しました。しかし、義尋が還俗して足利義視となり、結果として応仁の乱が起こると浄土寺は戦場の一つとなって大半の建物が焼失し壊滅しました。
 その後、足利義政がこの浄土寺の地を気に入り、東山山荘を建設する際に浄土寺を相国寺の西に移転せしめましたが、その浄土寺は後に廃絶しています。なので、この浄土院がかつての浄土寺の由緒を伝える唯一の寺となっています。

 

 浄土院から参詣道に戻って、しばらく坂道を登って、慈照寺の山門前に至りました。平成15年に水戸の友人と参拝して以来ですから、16年ぶりの訪問でした。ですが、門前の石畳道も、山門付近の雰囲気もあんまり変わっていないように思いました。左右の木立が育って繁ってきていたのが唯一の変化だったでしょうか。

 

 境内全域の案内図です。広い境内地に幾つかの施設が並び、東の山までが境内地に含まれる関係で、山のほうにも色々な地点の名称が記されています。

 ですが、中世戦国期に「慈照寺の大たけ中尾」と呼ばれた慈照寺の裏山、中尾はこの図には含まれていません。中尾の峰に築かれていたという 「義政公遠見やぐら」もいまは痕跡すら定かではありません。中尾には後に城郭が築かれて将軍家の戦乱時の陣場として機能し、いまその遺跡が中尾城跡として知られます。それも慈照寺の旧境内地に含まれていたのですが、城跡も案内図には描かれていません。

 なので、中世戦国期の慈照寺の空間世界は、この案内図を一瞥しただけではイメージしにくいです。参拝範囲が舎利殿と東求堂と庭園の散策路のみに限られている現在では、余計に分からないだろうと思います。  (続く)

 

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松尾山麓を歩く5 地蔵院 下

2021年03月21日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 本堂内陣を拝した後、境内地の奥まった場所にある細川頼之および碧潭周皎(へきたんしゅうこう)の墓所に行きました。墓所の案内木札には、碧潭周皎は宗鏡(そうきょう)禅師と記されます。夢窓国師の高弟にあたる碩学の禅僧でした。細川頼之が地蔵院の創建にあたって開山に招きましたが、禅師は恩師の夢窓国師を開山に仰いで自らは第二世となりました。

 

 細川頼之の墓石です。老樹の根に寄りかかるように据えられた、苔むした自然石で「細川石」と呼ばれます。レイコさんが意外そうに驚いていて、「これが、あの室町幕府初代の管領の、足利分流の名門の細川京兆家の家祖の墓・・・。自然石を置いただけの質素なお墓なんですね・・・」と呟いていました。

 

 隣にある碧潭周皎の墓も自然石を置いただけの質素な造りです。この碧潭周皎に深く帰依した細川頼之が、この師の墓に倣って自らの墓も自然石とするように遺言して亡くなったのです。葬儀は将軍足利義満が主催して相国寺で盛大に執り行いましたが、地蔵院への埋葬は足利義満および喪主の細川頼元ら近親者のみで密やかに行われたそうです。それが細川頼之の遺言であったそうです。

 伝わるところによれば、細川頼之は管領と言う幕府ナンバー2の地位にありながらも質素な生活を好み、華美や贅沢をものすごく嫌ったとされます。和歌や詩文、連歌などもよくして、彼が詠んだ和歌が勅撰集に入撰しているほか、失脚時代に四国にて詠んだ漢詩「海南行」も知られます。
 また、幼少時に夢窓疎石の影響を受けて若い頃から禅に傾倒し、山中で坐禅修行に打ち込む事を好んだといいます。管領在職時には主君足利義満との意見対立もしばしばでしたが、そうなると大抵の場合は管領辞任を言い出して出家を志し、本気で松尾山に入山して隠れてしまい、周囲を慌てさせたそうです。足利義満は彼の禅への傾倒ぶりをよく知っていましたから、自ら単騎で飛び出して慰留に努めた事もあったそうです。
 とにかく、当時の武将、政治家には稀な、信仰心の篤い人物でした。京都の景徳寺・地蔵院、阿波の光勝寺などの建立にも関わるなど、宗教活動にも積極的でした。

 以上の事を説明すると、レイコさんは「凄いじゃないですか、政治家としては一流だったんですね」と感心して小さく拍手していました。
 一流というより、室町幕府の歴代管領の中でも傑出した超一流の政治家だったのです。そのことは後の織田信長や徳川家康などが細川頼之を高く評価してその偉業をたたえていることからも伺えますが、何よりも足利義満を補佐して南北朝合一を達成し、室町幕府の全盛期を築いた管領だったのですから、その器量、手腕は際立っていたに違いありません。

 

 墓所の近くには上図の真新しい「一休禅師母子像」があります。アニメにもなった一休さんこと一休宗純は、六歳で出家するまで母と共にこの寺で過ごしたと伝えられています。

 アニメでも、一休さんが母の草庵を訪ねる場面が何度かありましたが、その草庵がここ地蔵院境内にあったとされています。一休宗純の母親は、東坊城和長の日記「和長卿記」に「秘伝に云う」として後小松天皇の官女であったとされ、いわゆる一休皇胤説として知られています。
 彼女は楠木氏の娘または藤原北家中御門流の持明院家の娘とも言われますが、地蔵院に母子で住んだのが史実とすれば、母は持明院家の娘であった可能性が高いかな、と思います。なぜならば、地蔵院は細川京兆家の菩提寺ですから、その縁者でなければ入れないであろうし、開祖細川頼之の正室が持明院保世の娘でありますから、持明院家の縁にて地蔵院に入ったのではないか、と思います。

 

 地蔵院は応仁の乱で焼失して一時は壊滅したため、寺運も衰えて江戸期には境内に末寺を二つ残すのみであったといいます。広い境内地のあちこちに堂塔および塔頭の遺跡とみられる平坦地が多く見られますが、いずれも苔に覆われて寂漠の雰囲気を濃く漂わせて静まり返っています。

 

 現在は、江戸期の貞享三年(1686年)に再興された方丈が寺の中心施設になっています。

 

 その方丈の庭を見ました。中世期の寺院には一般的であった平庭式枯山水庭園の遺構のようですが、上図のように大部分が埋もれて景石の露出も疎らになっています。園池の汀線すら不明なので、作庭当時の規模すら分かりませんが、中島の痕跡とみられる盛り上がりが少なくとも三つ見えますので、園池だけでもかなりの面積を持っていたであろうと推定されます。発掘すれば、禅宗庭園の一典型の見事な姿が甦るでしょう。

 

 方丈内の説明板には、十六羅漢の庭、とあります。レイコさんが「こういう名前って、庭が造られた当時からのものじゃなくって、後から付けられたケースが多いんですよね?」と聞いてきましたが、私もあまり詳しくはないので、「うーん、そうかもしれませんね・・・」と小声で返しておきました。

 

 方丈内の一室のなにかよく分からない演出です。レイコさんも「何かの意味があるんですかね?」と首をかしげていました。

 

 ともあれ、夕方に近くなってきたので退出することにして、方丈から山門への長い道を引き返しました。広い境内地の殆どが苔庭になっていますので、レイコさんは「苔寺(西芳寺)よりもこっちのほうが断然素敵ですよ、けっこう穴場のお寺かも」と、たいそう気に入った様子でした。

 それで、帰りはわざとゆっくり進んで、レイコさんが楽しそうに境内地の色々な景色をスマホで撮影したり、立ち止まって苔庭を眺めたりしているのに合わせました。そうして、私自身は、「海南行」の漢詩を思い出して室町幕府の確立に奔走した質素無欲の武将の心に静かに想いを馳せたことでした。 (了)

 

「海南行」 康暦元年(1379) 従四位下細川武蔵守頼之

  人生五十愧無功(じんせいごじゅう こうなきをはず)

  花木春過夏己中(かぼくはるすぎて なつすでになかばなり)

  満室蒼蠅掃難去(まんしつのそうよう はらえどもさりがたし)

  起尋禅榻臥清風(たってぜんとうをたずね せいふうにがせん)

意訳
  人生五十年、さしたる功績もなく恥ずかしい思いだ。
  春が過ぎて夏も半ばになった今となっては、咲く花も無い。
  部屋いっぱいの煩い青蝿は追い払ってもなかなか去らない。
  ならば部屋を出て、座禅の床で清々しい風に吹かれて寝ころぶとするか。

 


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松尾山麓を歩く4 地蔵院 上

2021年03月17日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 鈴虫寺門前より苔寺西芳寺参道を南に横切って、上図の石段に進みました。傍らの標柱に「竹の寺 地蔵院」とあるのが、この日の散策ルートのラストでした。
 私は20年ぐらい前に一度訪れたことがありますが、レイコさんは初めてなので、今回の歴史散策で一番楽しみにしていたそうです。

 

 なので、地蔵院の門前に着くと上図の案内板を真剣に読んでいました。そして「星野さんが行くのだから中世戦国期の歴史に関係あるお寺かと思っていたんですけど、その通りでしたね。室町幕府の管領細川氏の創建なんですね・・・」と感心していました。
 そこで、「この管領の細川頼之について知っていますか?」と尋ねたところ、レイコさんは独特の可憐な困り顔になって、「あんまり知らないんです・・・」と小声で応じました。

「細川頼之は、室町幕府の初代の管領で、細川京兆家の家祖です」
「あ、そうなんですか。じゃあ、足利将軍家の基盤を築いたってことですね・・・、京兆家の家祖ってことは、官位は右京大夫だったんですか?」
「いや、頼之は相模守や武蔵守でして、右京大夫になったのは頼之の弟で養子になった頼元からですね。頼元が京兆家の初代になります」

 

 その細川頼之が菩提寺として創建し、かつ墓所と定めて葬られたのがこの地蔵院です。道から参道を西に進むと、山門が見えてきます。

 

 山門に近づくと、中の様子が見えてきますが、参道の両側にも奥にも竹林が続きます。建物らしい影は全く見えません。レイコさんは、「初代管領、京兆家祖の菩提寺というには、なんだか寂れていますね・・・」と、ちょっとびっくりしたように言いました。

「そりゃ、応仁の乱で壊滅してますからね、江戸期に再興されるまで荒れ放題で、広かった境内地もほとんど竹林に覆われてしまっていますね・・・」
「応仁の乱、ってこんな松尾山の南麓にまで広がっててここも被害を受けたんですか」
「めぼしい寺はみんなやられてますからね。嵐山のほうでも、山科や伏見のほうでも寺はだいたい陣場や戦場になってましたから、無事で済んだら奇跡ですね」

 

 山門の内側の受付で拝観料を払い、境内参道に進みました。かつては寺の施設が並んでいたであろう平坦地は全て竹林になっています。嵯峨の「竹の小径」よりもこちらの竹林のほうが深くて高さもあるので、ある意味見応えがあります。

 

 しばらく進むと、ようやく前方にお堂が見えてまいります。

 

 途中でレイコさんが「あ、お墓ですかね?・・・違いました、供養碑みたいです」と言った、細川頼之の碑です。これを建てた細川潤次郎は幕末の土佐藩士にして明治期の法学者だった人で、自らを細川頼之遠孫と名乗り、細川頼之の伝記である「細川頼之補伝」を著しています。その関係でここに碑があるのでしょう。

 

 お堂の前に着きました。レイコさんが周囲を見回して、他に建物らしい建物が見当たらないのを確かめたうえで、「もしかして、これが本堂ですか?」と聞きました。小さく頷いておきました。

 

 本堂の扉の内側に掛けてある案内板です。レイコさんはこれも真剣に読み、「この本堂、昭和十年の再建・・・」とつぶやいていました。

 

 本堂内陣です。中央の間の厨子内の本尊地蔵菩薩は垂れ幕に殆ど隠れて見えませんでしたが、左脇の奥の間には開基細川頼之の木像の姿が黒っぽく望まれました。南北朝の動乱期より出でて足利将軍家の黎明期を必死で支え、三代将軍義満の右腕となって室町幕府の全盛期を築くに至った、武略にも政治にも秀でた人の、確かな御影でした。

 周知のように、室町期以降、江戸期までを通じて類まれなる不世出の政治家であり、これに匹敵する執権は幕末の老中阿部豊後守忠秋ぐらいだとされています。勝海舟などは、日本の経済を発展させた歴史上の人物として、豊臣秀吉などと共に細川頼之を挙げていますが、実際にこの人が管領を務めた時期に南朝との和睦を実現して内乱を終息せしめていますから、以降の生産および物流が全国的に安定して飛躍的に発展し、以前の倍以上の流通量が実現したというのも頷けます。  (続く)

 


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松尾山麓を歩く3 鈴虫寺付近

2021年03月12日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 月読神社の参拝後に、レイコさんのリクエストで近くの「京都花鳥館」へ行きました。この種の施設には私はあまり縁がなく、女性同伴でなければ行かなかったであろうと思います。そのことを察したかのような、レイコさんの「星野さんもこういう所は一度見ておいてほうがええですよ?」のセリフでした。

 「京都花鳥館」はいわゆる美術館の一種で、花と鳥を題材とした作品を中心とする展示を行っています。メインはドイツのマイセン窯の磁器作品と、 花鳥画の第一人者、上村淳之画伯の日本画作品です。公式サイトはこちら

 

 それから5分ほど南へ歩いて、上図の谷ヶ堂最福寺延朗堂に行きました。かつての松尾山寺の旧跡にあたり、中世には最福寺とも法華山寺と呼ばれた天台の寺院が栄えた地です。
 この寺は源氏ゆかりの地でもあり、中興開山の延朗上人は平安後期から鎌倉前期かけての僧で、八幡太郎源義家の子孫と伝わります。平治の乱にて平清盛に追われて陸奥に逃れましたが、鎌倉幕府の成立後に京都に戻り松尾に至ってこの寺の再興に尽力しました。

 

 それで寺は鎌倉幕府の保護を受けて栄えますが、南北朝の動乱期に度々戦場となって多大な被害を受けて荒廃してしまいます。室町幕府の成立後に再建がなされますが、応仁の乱にて陣場および激戦地となって寺は壊滅してしまいます。一時は寺跡に峰城と呼ばれる城塞が築かれて、細川氏被官の茨木長隆が拠ったりしています。戦国期にも織田信長の攻撃を受けて落城全滅、寺の施設も焼失してしまいました。まさに中世戦国期の戦火を度々被った寺の典型例です。

 なぜそうなったのかというと、当地が丹波国との連絡路の要地にあたっていて、地形的には要害の条件を備えていたためです。中世戦国期の兵乱の多くは、京内の軍事勢力が丹波国の軍事兵力と連携するか対立するかの構図になっていたため、京洛と丹波の境目に位置する松尾南麓の要衝はどうしても巻き込まれて合戦の場になりやすかったのです。

 

 なので、いまの最福寺には古い建物や仏像が全く残っていません。全ては中世戦国期に失われています。当時の古い遺品といえば、上図の一石五輪塔ぐらいでしょうか。

 一石五輪塔とは、一つの石からなる小さい五輪塔です。早い遺品は南北朝期から存在しますが、大部分は室町期からのものが殆どです。主に戦死者の供養塔として作られ、後に庶民層の供養塔として広まっています。中世戦国期の歴史を経た寺院や遺跡にはたいていこの一石五輪塔があります。

 以上の事柄を説明しながら、一石五輪塔の見分け方を少し教えましたが、レイコさんは真剣なまなざしで聞き入り、そっと手を合わせていました。

 

 谷ヶ堂最福寺延朗堂から西へ100メートルほど行くと、鈴虫寺こと華厳寺の門前に着きました。

 

 長い登り石段が丘上の境内地まで続きます。この寺は予定外でしたが、念のためレイコさんに「立ち寄りますか?」と聞きました。「今日はいいです、あんまり時間も無いですし。まだ行くお寺があるんですよね?」と応じてきました。確かにあと一ヶ所、かなり先に目指す寺院がありました。

 

 なので、今回はこの境内地境界の竹穂垣を見るだけでしたが、京都市内でもこんな立派で見事な竹穂垣はあまり見た事が無かったので感心してしまいました。最近に造り直されたもののようですが、平安期の遮蔽垣としては一般的な形式です。中世戦国期にも数多く利用され、絵巻物などにも描かれていますが、竹穂垣よりも藁垣のほうが多かったようです。

 レイコさんも「これ、立派なもんですね。丁寧に作ってありますね。源氏物語絵巻の世界を見てる感じ」と楽しそうに見てスマホで撮影していました。

 

 気付けば、私たちの他にもこの竹穂垣を見、撮っている観光客が居ました。西の苔寺と合わせて人気観光地の一つに数えられる寺なので、この門前には何人かの観光客が居ました。
 鈴虫寺華厳寺の公式サイトはこちら

 

 鈴虫寺門前より道なりに南へ100メートルほど歩くと、西側に上図の「かぐや姫竹御殿」なる施設がありました。閉館中のようでしたが、どんな施設なのか知らなかったのでレイコさんを振り返りましたが、彼女も詳しい事は知らなかったようで、「個人の博物館みたいですけどね・・・」とだけ言いました。

 後で調べてみたところ、この施設は、竹工芸職人の長野清助が自身の別荘を改築して制作した草庵であり、金閣寺舎利殿を模したような建物もあるそうです。時々公開されているようですが、午後だけのようです。  (続く)

 


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松尾山麓を歩く2 月読神社

2021年03月07日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 松尾大社より退出する際に、レイコさんが鳥居に懸けられている縄から下げられている植物を見上げて少し考えていましたが、やがて指さしながら、「あれって榊?・・・榊ですよね?」と問いかけてきました。

 

 流石は社寺巡りのベテランです。榊で正解でした。御覧の説明文の通りです。「月々の農作物の出来ぐあいを占った」とありますが、これは榊の枯れ方によって、月々の農作物の出来を占ったということです。榊が完全に枯れると豊作で、一部が枯れ残ると不作なのだそうです。

 

 松尾大社から南へ約400メートル歩いて、上図の月読神社に行きました。「松尾七社」の一社とされ、現在は松尾大社摂社となっている、かつての延喜式内社(名神大社)です。

 

 境内の概要は御覧の通りです。

 

 レイコさんが「祭神のツクヨミ命は貴い三柱神の一人ですよね」と言いました。その通り、ツクヨミはアマテラス、スサノオと並ぶ兄弟神で、いずれもイザナギが禊を行なった際に生まれた神です。そしてイザナギは、アマテラスは高天原を、ツクヨミは夜の国を、スサノオは海原を支配せよと命ずるのです。
 そしてツクヨミの神名は、月齢つまり暦を読むという意味であり、農耕と漁労の神様として祀られます。

 

 説明文を読むと、ツクヨミ神はもとは壱岐にて海上神として祀られた旨が述べられます。ああ、そうだったのか、だから出雲にも月読神社があったんだ、と納得しました。

 20代の後半、平成6年から7年にかけて長期出向で一年半ほど島根県松江市に住んでいた頃に、出雲市の日御碕神社に二度ほどお詣りした事があります。二度目の参拝のときに、当時の職場の同僚が「ついでに月読神社も拝んでいこう」と誘ってくれたのですが、「すぐ近くだ」と言いつつも山の中を約500メートル余りも登らされ、山の上の小さな祠に導かれて「これがツクヨミの・・・?」と拍子抜けした思い出があります。

 その話をレイコさんにしたところ、何が面白かったのか、ケラケラ笑っていました。

 

 拝殿です。月読神社の諸建築はいずれも近世の再建で、文化財に指定される古建築はありません。が、境内地は斉衡三年(856)の松尾山麓遷座以来の位置を保っており、平成五年に京都市の史跡に指定されています。

 

 本殿です。近世の再建ですが、規模および位置は昔のまま保たれているようです。その歴史の古さは、松尾大社の神像館に所蔵展示されている国重要文化財の平安期九世紀の作とされる神像3躯のうちの「壮年男神像」が月読尊と伝えられる点にも示されます。さらに女神像1躯が伝わっており、いまは絶えて知られない女神を祀る摂社がかつて存在していたもののようです。

 これらの神像遺品は、レイコさんも私も松尾大社神像館で見ているので、ああ、あの像だね、と話しもスムーズに進みました。松尾大社神像館の神像紹介ページはこちら。  (続く)

 


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松尾山麓を歩く1 松尾大社

2021年03月02日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2019年10月31日、モケジョのレイコさんと松尾方面の社寺散策に行きました。その前週に私が京都の中世戦国期の史跡巡りを楽しんでいることを話したら「そういうの、いいですね、次は私も連れて行って下さい」と頼まれました。とりあえず、松尾の辺りを次に行こうかと考えている、と応じたら、大喜びで同行を約してくれました。

 レイコさんは、モケジョでありながら歴史や文化にも興味を持ち、信心深いところがあって社寺巡りが趣味だといいます。彼女とは以前にも歴史散策で四条仲源寺、大原三千院、高雄神護寺、当尾浄瑠璃寺などへ行った事があり、今回の同道は数えて七度目でした。

 今回は、松尾山麓の中世戦国期を偲びつつ社寺を訪ねる、というテーマにてまずは松尾大社に行きました。

 

 レイコさんと四条烏丸のバス停で待ち合わせて市バス3系統に乗り、終点の松尾橋で降りて徒歩に移りました。交差点に面した大鳥居をくぐって石畳の参道に進みながら、レイコさんが「松尾大社は中世戦国の歴史と何か関係があるんですか?」と訊ねてきました。

「関係あるどころか、この松尾大社の本殿が中世戦国期の建築なんです。室町期の応永三十年(1423)に建てられたものですが、戦国期の天文十一年(1542)に柱など主な部材はそのままにして改造を受けているんです。公式には、例えば文化財関連の資料とかでは天文十一年の造営、ってなっているんですが、主要部材は応永三十年以来のものを残してますから、厳密には応永三十年の造営、となりますね」
「それじゃあ、天文十一年の造営は正確には大規模な修理だったわけですね」
「そう考えて良いでしょう」

 

 松尾大社の正鳥居です。ここからが本来の境内地にあたります。いわゆる神域結界の門です。

 

 鳥居をくぐると、上図の江戸期寛文七年(1667)の建築である楼門が迎えてくれます。レイコさんが言いました。
「前に来た時も思ったんですけど、この門ってお寺の門みたいな雰囲気がありますよね・・・」
「それは正しいですよ。江戸期までは松尾大社も神仏混交の状態で境内に神宮寺もありましたから、鳥居に続く正門の建物を仏教形式の楼門建築にしたんですね。それが現在も残ってるわけです」
「その神仏混交って、明治の初めに停止になって、ええと、廃仏毀釈でしたっけ、仏教関係のものは仏像も建物も撤去して破却したんですよね。ここの建物はよく残りましたね・・・」
「廃仏毀釈というのは、言われているほど厳しくなかったんですよ。奈良では酷かったらしいけど、京都ではさすがにあまり乱暴な動きは無かったらしい。仏像は撤去し売却したりしてますが、建物はそのまま残してるケースは多いですね」

 

 楼門の脇に立つ案内板です。レイコさんは勉強熱心なので、こういった案内や説明の表示は必ず読んでいます。

 

 そして私より素早く境内を移動してゆきました。私がいつものように各所の撮影に専念しているので、彼女は彼女なりに自在に見て、そして神前へ進んでゆくのでした。

 

 そして拝殿の横を通って廻廊の中門前にあがり、本坪鈴(ほんつぼすず)をガラガラと丁寧に鳴らしていました。レイコさんは、神社に行くとどこでも必ずこの拝礼を欠かしません。

 

 この中門を含めた廻廊は江戸期のは嘉永四年(1851)の改築になります。以前の建物については詳細が分かっていないようですが、規模的にはそんなに変化がなかったようです。

 

 不動の姿勢でしばらくお祈りするレイコさんでした。普段はプラモデルばかり作っているモケジョさんですが、社寺に来るといつもこんな感じなのです。  (続く)

 


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中世嵯峨を歩く その8 招慶院跡

2021年02月24日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 丸太町通との交差点より長辻通をさらに北上しました。この道は平安期には「朱雀大路」と呼ばれて当時の嵯峨地区の南北の主軸路でありましたが、その第一の機能は大井津からの材木の運送路でした。なので、現在のように清凉寺門前まで繋がっていたかどうかは分かりません。

 ですが、清凉寺の位置には九世紀の時点で嵯峨天皇の皇子にして臣籍降下した左大臣源融の別荘「栖霞観(せいかかん)」がありました。源融の一周忌に当たる寛平八年(896)に子息が阿弥陀三尊像を造立して「栖霞観」内に阿弥陀堂を起こし棲霞寺と号しました。いま清凉寺霊宝館に収蔵される国宝の阿弥陀三尊像が、その棲霞寺草創時の本尊です。
 さらにその後、天慶八年(945)に、醍醐天皇皇子重明親王の妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置しました。いま清凉寺を俗に「嵯峨釈迦堂」と呼びますが、その「釈迦堂」の名の起こりがこの時であったとする説があります。重明親王の妃が祀った等身大の釈迦像は、もちろん現在の本尊である「三国伝来の釈迦像」とは別です。

 そのような「栖霞観」および棲霞寺が九世紀の段階で存在していましたから、「朱雀大路」はたぶんその門前まで繋がっていた筈です。中世に「三国伝来の釈迦像」への信仰が盛んになってから、「朱雀大路」は「出釈迦大路」とも呼ばれて「嵯峨釈迦堂」への参詣路となりました。いまでもこの道を俗に「すさか道」と呼ぶ場合があるそうですが、「すさか」とは「出釈迦(しゅつしゃか)」の訛りです。

 

 途中の道端にある道標です。右は鳥居本、左は嵐山、とあります。嵯峨街道のルートを端的に示しています。嵯峨街道は中世戦国期の「出釈迦大路」から西へ延びる鳥居本への支道を江戸期に丹波国への往還路の一つとして再整備する形で成立したものとされています。

 もちろん、嵯峨街道のルーツは古代以来の山道であっただろうと思いますが、それよりも大堰川を経ての舟便による交通のほうが便利で時間もかからなかったからか、中世戦国期までは大堰川経由の水上ルートがよく使われたようです。戦国期に管領細川氏の家臣として山城国半国守護代も務めた香西元長が、嵯峨統治の拠点として嵐山に城を築いたのも、眼下に大堰川の水上交通を掌握出来る位置にあったからでしょう。

 

 長辻通をさらに進むと、道の突き当りに建つ「嵯峨釈迦堂」こと清凉寺の仁王門が見えてまいりました。中世戦国期には清凉寺も含めたこの範囲も、都市地区に含まれて大路の両側には十数の寺院が甍を並べていました。

 

 清凉寺仁王門を望遠モードで撮影しました。かつての「朱雀大路」、「出釈迦大路」である長辻通が右に幅を狭めていますが、これも中世戦国期の名残であるようです。室町期の応永三十三年(1426)に描かれた「山城国嵯峨諸寺応永釣命絵図」でもこの大路が釈迦堂の門前で幅を狭めて描かれるからです。

 

 長辻通を嵯峨小学校の横まで進み、校門の鉄柵の間より中を見ました。上図のように、樹木の下に一本の石標が見えました。

 

 デジカメの望遠モードで引き寄せて撮影しました。

 

 御覧のように、「天龍寺塔中 招慶院旧址」と刻まれています。「山城国嵯峨諸寺応永釣命絵図」にも記載される天龍寺の塔頭の一つで、江戸期嘉永三年(1850)の「天龍寺文書」の「絵図目録」に42ヶ寺が列挙されるなかに含まれています。その位置は天龍寺境内地の外であったため、「処々散在塔頭分」とされています。

 招慶院は、もとは霊松院といい、室町期の応永八年(1401)に夢窓国師の高弟の絶海中津が住したと伝えられますが、詳細は不明で、明治初年同じ塔頭の喜春院と合併して廃されました。四年後に喜春院も廃止されましたから、法灯は完全に絶えてしまったわけです。
 そして招慶院の敷地と建物は、明治五年に創設された上嵯峨校へ転用されて教育施設として使用されました。上嵯峨校の後身が、現在の嵯峨小学校です。

 時計を見ると既に16時を過ぎていました。気温も下がってきたかな、と思いましたので、今回の散策はここで切り上げて終わりにしました。もうこれ以上の見るべき史跡、場所も無かったからです。
 かくして、近くの「嵯峨瀬戸川町」バス停から市バスに乗って帰りました。  (了)

 


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中世嵯峨を歩く その7 毘沙門堂の辻

2021年02月21日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 野宮神社から小径を東へ回って長辻通りに行きました。長辻通エリアに近づくと御覧のように観光客でごった返していました。まだコロナ流行前の、外国人観光客も大勢来ていた頃の風景です。狭い道はどこでも人混みであふれ、真っ直ぐに歩くこともままなりませんでした。

 

 長辻通に出ました。北へ進みましたが、同じように歩いている観光客も少なくありませんでした。大部分は北の清凉寺または北西の二尊院や常寂光寺、鳥居本へ向かってゆくのでした。

 

 丸太町通との交差点に着きました。その南西隅に上図の毘沙門堂があります。かつては臨川寺の寺領に含まれた境内地結界の要所を占め、天龍寺のかつての旧境内地の鬼門に位置します。中世戦国期からの位置をとどめて現存する、数少ない寺院の一つです。

 

 現在は小堂一宇を残すのみですが、「山城国臨川寺領大井郷界畔絵図」では出釈迦大路に面した短冊型の細長い敷地に描かれます。現在も細長い境内地のままですので、雰囲気は中世戦国期と余り変わらないのではないか、と思います。
 かつては西に「大日堂」、南に「願成就院」が隣接し、出釈迦大路つまり現在の長辻通をはさんで向かいには「梅谷」とあります。「梅谷」についてはよくわかっていません。

 

 毘沙門天を祀る小堂の傍らには、中世期の石仏が集められています。かつては嵯峨の各所の寺院にこのような石仏が祀られていたことと思われますが、いまに伝わる遺品は少なく、天龍寺や臨川寺の境内地でもあまり類例を見かけません。毘沙門堂そのものが中世から存続して現在に至っているからこそ、当時の石仏も辛うじて残され得たのでしょう。

 

 丸太町通との交差点も賑わっていました。人力車も通っていたし、大して広くない長辻通へ大型観光バスや市バスが連続的に曲がってきますので、歩道も最低限の幅しかないこの辺りは、ちょっと歩行者には危ないかなと思います。

 

 丸太町通を見ました。ちょっと前までは丸太町通の延長部分ということで新丸太町通と呼ばれていましたが、最近はあまりそういう呼び方を聞かなくなりました。この近所に家がある職場の同僚の方も、普通に「丸太町通」と呼んでいます。

 かつては大井津で荷揚げした材木を、平安京へ運んだルートが大体この通りに重なるようです。材木を丸太を運んだ通りだったから丸太町通、というのは大変に分かりやすいです。
 他に梅津で荷揚げして四条通または五条通を運ぶルートもありましたが、平安京における大型の建設事業というのは内裏があって寺院や貴族邸宅が集中していた丸太町通沿いに最も多かったわけですから、やはり大井津からの運送ルートというのは最重要だったのだろう、と思います。  (続く)

 


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中世嵯峨を歩く その6 野宮神社界隈

2021年02月18日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大堰川河畔の散策路を亀山殿跡よりぐるりと北へ回り、天龍寺境内地の外側の園地の中を進むと、大河内山荘の手前の交差点に出ました。そこで右折すると、上図の有名な「竹林の小径」に至ります。この道も中世戦国期には既に存在した、小路のひとつであったようです。

 

 現在は天龍寺北門付近の竹林で、その美観および景色が海外にも知られて人気スポットの一つになっていますが、かつては平安期から存在した寺院のひとつ舎那院への連絡路であったようです。

 中世の古絵図を見ますと、例えば「山城国亀山殿近辺屋敷地指図」では浄金剛院の関連施設が並んでいた区域にあたり、道の北端には「大湯屋跡」や「六僧坊」などが位置しています。「山城国臨川寺領大井郷界畔絵図」ではもう少し詳しく描写されていて、「野宮」の南から西へと延びる小道となっています。この小道の西には「臨川寺延寿堂 遮那院」とあって、平安期に存在した寺院のひとつ舎那院の区域が存在したようです。

 ですが、舎那院の敷地を描いた鎌倉期の「山城国嵯峨舎那院御領絵図」には前述の小道は描かれていません。鎌倉期にはまだ小道が存在しなかったのでしょうか。

 

 「竹林の小径」を東へ降りていって、野宮神社に着きました。平安期から鎮座が知られ、「山城国臨川寺領大井郷界畔絵図」でも「野宮」と記されて位置も現在地と変わりません。

 野宮とは、皇女および女王から選ばれて天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王が、伊勢への出立前に身を清める祭祀地です。当時は黒木鳥居と小柴垣に囲まれた聖地であり、その様子は源氏物語の「賢木」においても描写されています。

 

 鳥居脇に立つ案内板です。斎王の制度は北朝時代、つまり南北朝期に廃絶したとありますが、野宮そのものは神社として室町期に再興されており、狩野永徳筆の「洛外名所遊楽図屏風」にも野宮社が描かれます。

 いまも神社の前を通る南北路は、中世戦国期の「野宮大路」にあたり、「山城国亀山殿近辺屋敷地指図」や「山城国臨川寺領大井郷界畔絵図」にも描写があります。嵯峨エリアの寺院群への連絡路の一つとして機能したようです。

 

 その「野宮大路」の南端の分岐の角に、上図の古い石標が建てられています。亀山公園道の道標の一つです。

 

 下に「此附近」と続けて「檀林寺の旧址」および「前中書王の遺跡」と刻まれています。檀林寺は、嵯峨天皇皇后の橘嘉智子が承和年間(834~848)に建立し、唐の禅僧義空を招聘して開山とし、日本最初の禅学道場として設けた寺です。その後延長六年(928)に焼失して程なく廃絶したため、いまでは正確な位置すら分かっていません。
 ですが、付近の発掘調査で平安前期の遺構群が検出され、九世紀の土器や瓦が出土しています。瓦のなかには「大井寺」銘の軒平瓦が多く含まれており、同様の瓦が天龍寺境内地の発掘調査でも見つかっています。「大井寺」と「檀林寺」の関係は不明ですが、位置的にはほぼ同じ範囲にあるようなので、両者は同一の寺院である可能性も否定出来ません。

 前中書王は、醍醐天皇の皇子兼明親王の別称です。源姓を賜って左大臣に達した高級官僚でしたが、関白藤原兼通の計略により親王に復されて閑職の中務卿に補任されたため、嵯峨野の山荘「雄蔵殿」に隠棲しています。その住まいの跡がこの辺りにあったのでしょうが、これも正確な位置は分かっていません。
 ですが、野宮神社を含めた嵯峨北部の地域には、「山城国嵯峨舎那院御領絵図」でも描写されるように、摂関家および院近臣の所領が幾つかあった事が知られます。九世紀初頭の時点で桓武天皇の皇子伊予親王の「大井荘」があったことが知られるように、皇室の所領もかなり存在していたようです。前中書王こと兼明親王が隠棲した「雄蔵殿」もそうした事例の一つであったのでしょう。

 

 野宮神社の辻から朱雀大路つまり長辻通への道を歩きました。一度振り返って野宮神社の方向を撮影したのが上図です。この辺りには中世戦国期には左手に浄金剛院、右手に西禅寺が甍を競っていましたが、いまでは全てが廃絶して竹林が広がっています。

 多くの観光客は、「竹林の小径」エリアは昔からずっと竹林だったと思っているようです。実際にはこの辺りも寺院や民家が立ち並ぶ中世都市嵯峨の一角でありましたから、その全てが失われた廃墟のうえに、竹林が広がって行った結果がいまの景観であるわけです。  (続く)

 


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中世嵯峨を歩く その5 渡月橋と大堰川

2021年02月15日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 天龍寺門前から長辻通を南下して、渡月橋に至りました。橋の前で左折して、桂川の流れをしばらく眺めました。
 この渡月橋は、中世期には現在位置より約100メートルほど東に架けられていたことが、古絵図などから知られます。そして現在の橋の位置には、古代より「大井津」と呼ばれた川港がありました。嵯峨嵐山は今は観光地ですが、もともとは平安京へ運ぶ材木を川から荷揚げする材木集積地であり、その「大井津」の施設や付帯街区が中世戦国期の都市の骨格のもとになったとされています。

 

 現在の福田美術館の前あたり、上図の位置が中世戦国期の橋の位置です。その向こうの桂川の水面上に「葛野大堰」とよばれる堰が見えますが、その下に古代の大堰の段差が残っています。古代の葛野地方における秦氏集団によって築かれたとされています。桂川の呼称の一つであった「大堰川」の名もそこから来ています。

 

 かつての橋の位置から渡月橋を見ました。古代から中世戦国期に至るまで「大井津」と呼ばれた川港があった場所です。
 「延喜式」の第34木工寮には「車載」として材木を平安京に運送する際の費用が記載されます。それに関連する運送ルート上には「山城国」では「前瀧津」と「大井津」とが記されます。「前瀧津」は宇治川流域ですが、位置が特定出来ていません。そして「大井津」は上図の渡月橋の位置にありました。材木の供給地であった丹波国の瀧額津(現在の亀岡市保津)から大堰川を筏流しして、「大井津」で荷揚げし牛車などで平安京の木工寮まで運んだことが分かっています。

 この材木供給ルートを開発したのが、古代の葛野地方における秦氏集団であろうとされています。天暦十年(956)8月16日の「山城国山田郷長解」によれば、「大井津」の下流にあったもう一つの川港「梅津」(現在の右京区梅津地区)にて秦阿古吉なる人物が「修理職梅津木屋預」として活動した事が知られます。秦氏は葛野川流域の開発を行ない、その水上交通も担っていたわけです。木屋とは今でいう材木集積所にあたりますので、「梅津」もまた「大井津」と同じく平安京への材木運送ルートであったわけです。

 ちなみに、「大井津」からの材木運送ルートは、中世戦国期においては現在の丸太町通にほぼ近いコースであったようです。これは平安京の春日小路および中御門大路に相当するルートですが、従来はこの通り沿いの西堀川に材木商が多かったため、丸太町通の名がついたとする説が知られています。
 ですが、古代の「大井津」からの材木運送ルートにほぼ重なっていたのであれば、丸太町通の語源もそれに因んだものと解釈するほうが自然ではないかな、と思います。丸太を運んだ平安京内の道だから丸太町通、そのまんまです。

 

 なので、かつての橋の北詰にあった墳丘というのも、「大井津」の秦氏に関連する遺跡か、もしくは「大井津」に関係した何らかの遺跡であったのかもしれません。いつのころからか、その墳丘が高倉天皇の寵姫であった小督の墓であるとか縁の地であるとか言われて、石標まで建てられています。小督は平清盛によって追われ、一時期この嵯峨に隠棲したとされますが、確証はありません。

 墳丘自体は既に開発工事で消滅していますから、今は上図の石標のみが道路脇に移されているだけです。古墳であったのならば、秦氏との関連を考えるのが自然なように思います。

 

 すぐ近くには二つの石標が並びます。ひとつは建長七年(1255)10月に後嵯峨天皇が造立した「亀山殿」つまり亀山離宮のそれです。亀山離宮は後に寺とされて天龍寺となりますが、本来の規模や施設の様子はほとんど分かっていません。

 ですが、これまでの嵯峨地区での発掘調査の成果により、現在の嵯峨嵐山文華館の位置に当時の庭園遺構が確認され、またその東側でも大型建物の基礎地業が検出されています。これらは現在の天龍寺境内地より南側、大堰川寄りに位置していますので、亀山離宮の主要部は現在の天龍寺境内地とは重なっていないのかもしれません。
 そういえば、「仙洞御移徙部類記」の「京槐記」では亀山殿に関して「御所眺望最も殊勝、亀山大井河の契機は崑崙に類するもの也」とあります。つまりは大堰川を見渡せる場所に離宮があったわけですが、発掘調査の成果とも矛盾しないのが興味深いです。

 

 もう一つの石標は、上図の道昌顕彰の標です。秦氏の出身である道昌(798~875)が秦氏の建設した葛野大堰を修復し,大堰近くに創立された葛井寺を整備して法輪寺とした経緯を示しています。この石標はもとは道昌が造った大堰の跡の近くに建てられていましたが、川岸道路の再整備により現在地に移されています。

 ちなみに法輪寺は現在も「嵯峨の虚空蔵さん」と呼ばれるように、本尊を虚空蔵菩薩とします。この尊像は密教では鉱物および鉱脈の神格化ともされ、実際に鉱脈がある地に祀られることが多いので、嵐山の法輪寺ももともとは秦氏が鉱脈を把握して採掘を行ない、その安全と成功を祈念して信仰の地とした経緯によって成立したのだろうと思います。

 かつて、前の会社にて平成10年から13年まで葛野四条の事業所に勤務していた頃、同僚に西京区樫原在住の鉱石マニアの方が居て、休日に二度ほど誘われて嵐山の岩田山へ鉱石採集に連れて行って貰った事があります。場所的には法輪寺の裏山にあたりますが、そこに希少な鉱物の鉱脈が露呈している場所が数ヶ所あって、色々な珍しい鉱石を崖面などに見つけることが出来ました。近くに辰砂(しんしゃ)の鉱脈もあったのですが、辰砂は古代では「丹(に)」と呼ばれて寺院や宮殿の朱柱の顔料の原料とされた鉱物でした。
 秦氏はそうした鉱物の採掘も行なっていましたから、いまの法輪寺ももとは有力な鉱脈の所在地であったのだろう、ということは前述の体験からも実感出来ます。

 

 いまでは単なる観光行楽地として知られる嵯峨、桂川沿いの公園地区ですが、古代からの長くて奥行きの深い歴史があちこちに横たわり、眠っています。それらを知っておくと、単なる散策も知的冒険の色彩を加えてより味わい深いものとなるでしょう。  (続く)

 


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中世嵯峨を歩く その4 造路の辺り

2021年02月12日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 龍門橋から造路を西へ進みました。かつての天龍寺門前への主参道であり、嵯峨街区の東西主軸路でありました。その道沿いには天龍寺および臨川寺の塔頭が甍を並べていましたが、いまは室町期はおろか江戸期の景観すらも失われています。
 造路に面した塔頭のうち、室町期の「山城国嵯峨諸寺応永釣命絵図」や江戸期の嘉永三年(1850)の「天龍寺境内惣支配所六ヶ村麁絵図」等に記載がある寺院は、上図の金剛院のみです。が、位置はやや移動しているようで、かつての金剛院は門を造路にではなく、南北路の朱雀大路(現在の長辻通)に向けていました。

 

 金剛院の門前より西、天龍寺方向を見ました。いまでは道の南側に土産物屋や民家が立ち並びますが、鎌倉末期の元応二年(1320)以降に作成されたとされる「山城国亀山殿近辺屋敷地指図」をみると、北側の金剛院も含めて造路の両側のほとんどの区域が武家の屋敷地になっています。金剛院の位置には「武家人 左衛門大夫」とあります。

 この「左衛門大夫」は現在のところ誰に該当するか分かっていないようですが、その屋敷地の東に「山城国亀山殿近辺屋敷地指図」では「寮家領 長井掃部入道給云々」の記載があるのがヒントになります。「長井掃部入道」とは大江長井氏の関東御家人長井掃部宗秀を指し、「給云々」とあるので長井掃部宗秀にあてられた宿所であったことが分かります。

 その一族に「左衛門大夫」に該当する人物を探せば、宗秀の大叔父にあたる長井左衛門大夫泰重しか居ません。長井左衛門大夫泰重は六波羅評定衆の一人で、つまりは京都に常駐していた有力御家人です。
 長井氏は嫡流の宗秀らが関東に住し、庶流の泰重の系列は大江広元以来の本貫地である京都に住してともに幕府を支えた重鎮の一統でありました。京都在住の庶流の「武家人 左衛門大夫」こと泰重の隣に関東の嫡流の宗秀の宿所があってもおかしくはありません。

 

 金剛院門前より東、龍門橋の方向を見ました。この右側(南側)の区域もほとんど幕府御家人の秋庭(あきば)氏の「宿所」となっていました。「山城国亀山殿近辺屋敷地指図」には「武家人 秋庭三郎入道」以下の面々の給地が並びます。
 秋庭三郎といえば、いわゆる新補地頭の一人で備中国有漢郷の地頭職に補せられた三浦氏庶流の一統が有名ですが、中世期における京都での活躍は、足利氏に組みしてからの事績が主で、南北朝期以前までの動向はあまり分かっていません。

 ですが、鎌倉末期の段階で嵯峨地区に屋敷地があるということは、少なくとも京都には住していたことになります。秋庭氏は本来は大仏(おさらぎ)流北条氏の家人ですが、主家の北条維貞は正和四年(1315)に六波羅探題南方に任じられて京都に進出しており、これにともなって秋庭氏も京都入りした可能性が考えられます。
 同じ六波羅評定衆の「武家人 左衛門大夫」と造路をはさんで向かい合っていますから、「武家人 秋庭三郎入道」もまた六波羅評定衆に連なっていたのではないかと推察します。

 

 金剛院の境内地の西側には、北朝初代の光厳天皇の遺髪をおさめた髪塔があります。在位期間が鎌倉末期にあたったため、北朝の最初の天皇は弟の光明天皇となっています。それで北朝初代という位置づけになっており、光明天皇および次の崇光天皇の在位期間15年間の間は、上皇として北朝の治天(皇室の長)の座にあって院政を行ったとされています。その陵墓は常照皇寺内にある山国陵(やまくにのみささぎ)です。
 

 

 造路の西の終点は、南北を通る長辻通との交差点となり、天龍寺山門前に繋がります。長辻通は平安期には朱雀大路と呼ばれて当時の嵯峨街区のメインストリートとなっていましたが、中世戦国期にもその役割は引き継がれ、北の嵯峨釈迦堂清凉寺への参詣道でもあるため、中世からの呼称は「出釈迦大路」のほうが多くなっています。

 上図は、交差点より北、清凉寺方面を見たところです。平安期の朱雀大路からのルートがほぼそのまま維持されており、中世都市嵯峨の南北主軸路としての面影もよくしのばれます。

 

 交差点より南、渡月橋の方向を見ました。現在はまっすぐに南下して渡月橋を渡りますが、中世戦国期には約100メートルほど東に橋が架けられていて、いったん川岸で右に折れ、道がクランク状に東へ寄っていました。
 なので、「出釈迦大路」の南端は、大堰川の河原にあたって古代以来の「大井津」つまり川港になっていました。これについてはまた後で述べます。

 

 造路の終点にあたる天龍寺山門です。観光客の多くはこの境内にも入ってゆきますが、私自身の今回の目的は嵯峨の中世からの歴史風景を復原しながらイメージを楽しんで散策することでしたので、天龍寺拝観は次の楽しみにとっておくことにしました。  (続く)

 


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