気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

2014年大晦日の感慨

2014年12月31日 | ガールズ&パンツァー

 時の経つのは早いもので、2014年も最後の大晦日となりました。上写真は12月の大洗行きにて土産として購入してきた四つの品です。まいわい市場で買った2015年大洗女子学園手帳と日本戦車道連盟大洗支部付箋、年宝菓子店で買ったミリカン、ココストアで買った杏酒、です。このうち、ミリカンと杏酒は、模型サークルの忘年会にて知人に謹呈しました。

 この一年は完全にガルパンファンとして大いに楽しんで活動しました。サークルケイサンクスのキャンペーン企画も楽しみましたし、アンツィオ戦OVAの上映会には大阪、神戸、水戸の三度見に行きました。グッズも中古品を中心に安く買ってみようとアニメイトやらんしんばんの各店舗を回りました。戦車キットも六輌を完成させ、大洗女子学園戦車道履修の八チーム全ての戦車が揃いました。フィグマやねんどろいどのラインナップも次第に充実してきています。

 大洗へは、3月を除く毎月行きました。数人のカルバンファンの仲間や知人にも出会いましたし、二人の仲間と巡礼で同道出来ました。「さかなや隠居」が定宿になりましたほか、自作缶バッジの寄贈などを通じて商店街の皆さんとさらなる交流を重ねることが出来ました。特に「鳥孝」さんと「江口又進堂」さんには色々とお世話になりました。

 大洗町の歴史散策も、南部の中世戦国期遺跡群の探訪を加えてほぼ町内全域におよび、見たい場所、行きたいスポットは大体行くことが出来ました。残っている未訪の地点はあと二、三ヶ所ぐらいになりましたので、今後は周辺地域に広げてのコースを模索することになるでしょう。

 来年度は、夏に劇場版が予定されています。それまではガルパンのブームも一定の盛り上がりを保って推移するでしょうし、その後の展開にも目が離せません。ですが、今年みたいに一年間ずっと楽しめるかどうかは、ちょっと分かりませんね。テレビシリーズの第二期が実現すれば、話は別ですが。
 あと、趣味のメインのひとつである戦車キットもまだ頑張らないといけません。大洗女子学園関係ではまだ5輌が残っていますし、黒森峰女子学園関係のキットも知人から貰ったりして5両が積んでありますから・・・。大洗女子学園関係だけでも劇場版公開までに全車を揃えたいと思うので、今年よりもペースを上げて組んでいかないといけませんね・・・。

 いずれにせよ、まだまだ楽しみが一杯ある、という感じです。日々の楽しみが確実にあるということは、日常生活においても意外に大切なことだと私は常々思います。まだまだガルパンのムーブメントも持続するようなので、来年もガルパンファンの一人として、まったりと楽しんでゆけるかな、と思います。

 年末年始はずっと勤務ですので、ゆっくりと行く年くる年を過ごす余裕もありませんが、暦の移ろいを感ずる気持だけはしっかり持って、仕事が終わったら、年越し蕎麦を買ってきます。食べて温まりながら、来る新年を静かに迎えたいと思います。
 それでは、皆さま、よいお年を。
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カメさんチーム 38(t)戦車 完成です!! 

2014年12月30日 | ガルパン模型制作記

 車体と砲塔の塗装後に、最後の組み立てを行いました。砲塔内部の左右の座席を取り付けるため、いったん砲塔を取り外しました。


 砲塔内部の左右の座席を取り付けました。これは劇中でも存在が確認出来、左側の席に河嶋桃が着いています。砲手としての位置です。


 車体の車外装備品を塗装しました。木製部分にはミスターカラーの43番のウッドブラウン、機銃などの金属部分やジャッキや予備履帯などは28番の黒鉄色で塗りました。


 最後のガルパン仕様への追加工作は、背面にセットされたワイヤーの再現でした。これはドラゴンのキットにはパーツが無く、プラッツの公式キットに金具のパーツA27が追加されているのを使用し、ワイヤー自体は0.3ミリ銅線を三本束ねて捻って作りました。
 それを劇中シーンや公式設定資料図などを参考にしてフックに巻きつけて行きましたが、巻き方がいまいちよく分からないところがあり、適当に形を合わせてセットしておきました。その後、28番の黒鉄色で塗って仕上げました。


 車外装備品の塗装を完了しました。アンテナのパーツがまだ未接着でしたが、デカール貼りなどの作業時に邪魔になりそうなので、デカールを全てセットしてからアンテナを接着することにしました。


 ジャッキやジャッキ台もなんとか劇中の形状に合わせることが出来ました。


 デカールは、プラッツ公式キットに入っているものを使用しました。


 全国大会出場時の姿に仕上げますので、2番、3番、4番、6番、7番のデカールを切り取って使用しました。


 デカールを貼り終わった状態です。砲塔左右のカメさんマークは、下端がリベットに当たるので、マークソフターも使用してしっかりと貼りました。


 アンテナのパーツも取り付けました。ガルパン仕様独自の位置です。


 前から見ました。履帯はタミヤのマーダーⅢのパーツを転用していますが、ピンと張った状態ではまりました。弛みなどをつけるのは不可能でしたが、私の制作キットにおいては、他の戦車もみんな履帯ははめただけにしていますから、今回も同じようにはめただけにしておきました。


 後ろから見ました。砲塔後面の大洗女子学園校章が目立っていますが、車体後部左上の小さな校章も存在感がありました。


 最後に各所のタッチアップを行なって、塗装を完了しました。ライトの当て加減によっては劇中車に近いカラーに見えるので、ミッドナイトブルーを選択したのは正解だったかもしれません。


 今回の制作では、ガルパン仕様のポイントは全て手掛けて改造および追加工作を行い、リベットパターンも9割ほどを忠実に再現しました。とにかくリベットが大量に必要となり、結局は10個ほど足りないままに終わりました。


 真横から見ました。履帯はタミヤのマーダーⅢのパーツを転用し、弛みなどは省略してはめただけにとどめておきました。私のガルパン戦車キットは、みんな履帯ははめただけにしているからです。


 前から見ました。車体前面のリベットは、大半が追加工作で配置したもので、キットのリベットでは足りずに色んなジャンクパーツのリベットも転用したため、あたこちで大きさが微妙に異なっています。それがかえって武骨な雰囲気をただよわせています。


 後ろから見ました。何といってもワイヤーの再現に苦労しました。劇中車のワイヤーの巻きつけ方が分かりにくいので、紙に色々と試案を描いて正しい巻き方を探したのですが、結論としては三回巻きつけるという形になりました。
 劇中車では二回しか巻いていないように見えますが、それで劇中のワイヤーの巻きつけを再現するのは不可能でした。さらに一回巻かないと、両端の金具が左右のフックにおさまりませんでした。


 とりあえず、完成しました。まだつや消しクリアーを吹き付けていませんでしたが、記念に撮影しておきました。


 カラコレの角谷杏生徒会長に登場いただきました。カメさんチームの雰囲気がぐっと濃くなってきて、楽しくなりました。


 続いてキューポラにおさまってもらいました。やっぱり絵になりますね。カラコレは、ガルパン戦車キットには必需品ですね。


 以上で、カメさんチームの搭乗車が完成しました。製作期間は、11月7日から12月6日までの一ヶ月でしたが、実際にキットを製作していた日数は14日でした。組み立てと改造に10日、塗装に4日、でした。インテリア付きキットでしたので、けっこう手間がかかったと思います。
 車体を組み立てるまでに車内の塗装をしたりと、自分なりに作業手順をアレンジしながら進めましたから、ノートにあらかじめ制作順番やポイントなどをまとめておく必要がありました。ドラゴンとプラッツのキットのほか、タミヤのマーダーⅢのキットからもパーツを転用しましたが、そうでもしないとガルパン仕様に近づけるのが難しい、ということも分かりました。

 先行作品のレポートにおいては、改造の難しさがよく強調されていますが、私自身の感想としては、タミヤのB1bisやアカデミーのM3中戦車リーを作るよりは楽だったと思います。むしろリベットパターンを再現するほうが大変でした。これまでに作った七輌のなかで最も大量にリベットを必要としたのですが、50個ほど集めても結果的には10個ほど足りなかったので、最低でも60個ぐらいは調達すべきだと分かりました。
 色んな意味で大変でしたが、その分、キット制作の醍醐味を味わえたと思います。
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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く12 その12 「城跡に立つ左衛門佐です!!」

2014年12月29日 | 大洗巡礼記

 大貫台地上の中世遺跡群の探査を完了し、夕方から所用があるというU氏と大洗駅にて別れたあと、リゾートアウトレットの大貫商店会歴史ギャラリーに行きました。


 目的は、中世遺跡群探訪の合い間に楽しんできたスタンプラリーのラストスタンプでした。ギャラリー内の休憩スペースの横にありました。


 ラストスタンプを押してスタンプラリーは完了となりました。全ての印を並べると「大貫歴史探訪」になりました。社寺が多かったので、京都や奈良であれば朱印になっているだろうな、と思いましたが、こちらの社寺には無人の所もありますので、朱印を置くこと自体が無理でしょうね。


 マリンタワーの広場を散歩して、まいわい市場で買ったジュースを飲んだりしました。天気も良いのでマリンタワーに登ろうかな、と思ったのですが、それよりも空腹を覚えてきていたので、どこかで軽く食べようと考えました。


 そうなると、私ホシノといたしましては、だいたいカジマさんに向かうのが常です。


 なんてったってホシノが居ますからねー。ホシノはホシノの側に居たくなりますねー。看板のオードブルは美味しそうで魅力的ですが、一人で食べるには量が多過ぎます・・・。いつものようにミニフライ弁当を購入し、店内のテーブルでいただきました。


 それから「江口又進堂」に立ち寄り、マダム江口さんに、今回の中世遺跡群探査の経緯を報告しました。大洗町では最大規模を誇って貴重な歴史遺産となっている登城遺跡が道路開発で破壊されつつあることなどを話し、また大洗町内における歴史遺産の多くが中世戦国期のものであることが知られていない現状などを語り合いました。大洗町の不法投棄の状況に関しても、江口さんはよく御存じでした。大洗は不法投棄の聖地、ってのは本当ですよ、と苦笑しておられました。

 登城遺跡の発掘現場の件も、もとは江口さんに教えていただいたのですが、当の江口さんはまだ発掘現場を見ていないそうなので、是非見学しておいた方が良いですよ、とすすめておきました。もうすぐ埋め戻されてしまうということなので、江口さんはかなり迷っておられました。
 さらに、まもなく消滅するであろう戦国期の城館遺跡てあるので、出来ればこのお店のガルパンキャラクターである左衛門佐が戦国時代専門の歴女であることをふまえ、記念に城館遺跡の現場に立たせてみたらどうでしょうか、などと冗談を言いました。ところが江口さんは意外にも乗り気のようで、それは面白いわねえ、左衛門佐は戦国オタクということだしねえ、と言い、発掘現場も見ておきたいねえ、と言うのでした。

「それは、なるべく早い時期に見に行かれたほうが良いですよ」
「そうだねえ、うーん」
「道路工事はもう始まってますけど、今日は事前の現状撮影だったらしいです。明日から草木の刈り取り作業に入ると聞きました」
「そのときは、発掘現場はどうなるの?」
「現場の監督者の方は埋め戻すと言ってましたけど」
「そうなったら見られなくなっちゃうんだねえ・・・、よおし、行くなら、今かな・・・」
「えっ、今からですか !?」


 さらに、冗談のつもりで話した左衛門佐のパネルの現地撮影の件も、江口さんがOKを出して下さいました。商工会の許可とかが必要なのではないですか?、と質問したところ、パネルの取り扱いについては各店舗の裁量に委ねられているから問題無いですよ、これまでにもファンの方の提案でいろんなキャラのパネルを移動して撮影したりしてるからね、と答えてきました。
 そういえば、ファンの方々の提案で、ウサギさんチームの全キャラクターを「おでいば山」の江戸期の台場遺跡に集めて撮影した、ということを以前に「ヴィンテージクラブむらい」さんで伺ったことがありました。
 なので、左衛門佐を同じように戦国期の遺跡に連れて行って撮影すること自体も、同様なケースとして理解出来ました。冗談が本当になってしまったことに驚きつつ、言ってみるもんだなあ、と感心したことでした。


 さっそく江口さんの軽ワゴンに左衛門佐のパネルを積み込んで、出発しました。江口さんとしては、発掘現場のある場所も、そこへのアクセスルートも知っておられたのですが、現地を知っている私が同行したほうが色々と便利だ、と判断されたのでしょう。有難いことでした。


 かくして、再び登城遺跡に行き、堀切跡の農道にて左衛門佐に降臨いただきました。やっぱり戦国時代専門の歴女キャラであるだけに、戦国期の城跡に居る姿は絵になっていました。江口さんも「面白いねえ」と言っておられました。
 発掘現場のトレンチを見ながら「戦国時代の堀ってこんなに深いんだー」と感嘆していました。


 左衛門佐には、さらに堀切から土居跡にあがっていただきました。すぐ横の平坦面で発掘調査が実施されて、15世紀代を軸とする遺物、遺構が検出されていますから、まさに戦国の空間のなかに立っていたわけです。劇中でも戦国武者のような言い回しをしていますが、この時戦国の城跡に立って、何と言うのかを聞いてみたかったです。

 でも、この城館遺跡に関しては、歴史も城主もほとんど不明であるので、歴史的イメージもあんまり具体的にはなっていません。左衛門佐が言いそうなセリフも、ちょっと思いつきませんでした。大洗町史などでは、佐竹氏との関連が示唆されていますから、六文銭の鉢巻で「真田じゃ!!」と叫ぶのも違和感がありますね・・・。

 ということで、登城遺跡に立つ左衛門佐、でした。遺跡は間もなく破壊されるので、二度と撮れない貴重な記念写真となるでしょう。
 それで、江口さんに、撮影場所をクイズにして楽しんでもらったらどうかと提案し、快く了承いただきました。クイズ記事はこちら。そのクイズの回答期限はすでに12月15日に終了していますが、それまでに4件の回答をいただきました。いずれもガルパンファンではなく、地元の方または城郭ファンのようでしたが、場所が正解であったのは1件のみでした。
 このクイズでは、最初は自作缶バッジのプレゼントをつけていたのですが、諸種の誤解のもとになるという御指摘を「肴屋本店」の大里明さんにいただき、その御指導に従ってプレゼントの方は中止させていただきました。
 回答を寄せて下さった方々、どうも有難うございました。


 遺跡には20分ほど居て、それからお店に戻ってパネルも元の位置に立てました。江口さんはそのまま仕事の外回りに出かけられました。手を振って一礼し、感謝の意を伝えておきました。


 それから「鳥孝」に立ち寄り、大洗を出立するまでのひとときを過ごさせていただきました。左衛門佐のパネルをある場所へ移動して撮影してきた旨を話したら、稲石さんは「どこだ、どこだ」と質問してきました。それで「ではクイズにしましょう」と提案して写真だけ見せました。

「ええ?こんなとこ、大洗にあったかなあ・・・」
 横から奥さんも覗きこみ、「あっ、神社かな?」と言いました。すると稲石さんは「大洗の神社にこんな窪んだ場所は無いよ、神社じゃないよこれは」と答えました。かなり正解に近づいているので、私も驚きました。さらにゼンリンの地図をあちこち開いて探しつつ、「たぶん、大洗高校の辺りじゃないか?」と言ってきたのには感動しました。場所的には近いからです。正確には大洗高校の南約600メートルに登城遺跡があるわけです。惜しい、とだけ答えておきました。

「それにしても、範囲がよく絞り込めますね・・・」
「そりゃそうだよ、毎日あちこち配達に行ってるんだ、大洗の大体のところは知ってるよ。でもさあ、こういう窪んだ場所って、大洗高校のあのへんでも見たこと無いなあ・・・」
 それはそうでしょう。戦国期の城跡の堀切跡なんて、どこにでもあるものではありません。大洗町で唯一の場所ですから、現地へ行った人でないと分からないと思います。

 現に江口さんも「絶対に分かる人はガルパンファンには居ないだろうねえ」と話していましたが、まさにその通りでした。回答を寄せて下さった4人の方の中に、ガルパンファンであることを述べた方は一人も居ませんでしたし、正解の1件を書いてきた方は、城郭ファンの方のようです。「小館館へは行かれましたか?ぜひ御覧になると良いですよ」とのコメント付きでしたから、私と同じように多くの城郭遺跡を探訪された方であろうと推測されます。登城遺跡に関しても、道路工事前の状況を御存知なのでしょう。


 自転車を榎澤輪業商会さんに返却し、店主さんとしばらく雑談をしました。あんこう祭の直前でしたので、話題はそれが中心になりました。
 そのあんこう祭の告知が、大洗駅前にも立てられてありました。その前日に大洗舞祭というのがあるのか、と初めて知りました。いずれにせよ、この種のイベント類には縁がありませんし、行きたくても土日祝日に休みがとれないのです・・・。


 大洗駅です。この日は割合に遅く、16時過ぎの水戸行き列車で出立しました。

 今回は三ヶ所の中世戦国期の遺跡を訪ねるという、ガルパンとはほとんど無関係の行程をとりましたが、それでも結果的には左衛門佐のパネルを城跡で撮影するという、滅多に無い貴重な体験が出来ました。御協力いただいた「江口又進堂」の江口文子さんに改めて感謝するとともに、こういう形でガルパンとの縁が続くあたりに、ガルパンファンとしての楽しさを重ねて感じたことでした。

 以上にて「ガルパンの聖地・大洗を行く12」のレポートを終わります。

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く12 その11 「龍貝館跡です!!」

2014年12月28日 | 大洗巡礼記

 字後新古屋の城館遺跡の次は、その北隣の尾根にある龍貝館跡に行きました。両者は直線距離で約200メートル余りしか離れていませんが、道がなく草薮だらけの谷間に隔てられています。城ファンや研究者は藪をかき分けてでも最短距離をゆこうとする傾向がありますが、私たちは安全な農道からのアクセスを選びました。
 そこで、日照プラントの斜め向かいの農道入口まで引き返して車道に戻り、そこから鹿島臨海鉄道の高架に向かって約60メートルほど進んだ左手の脇道に入りました。上写真のように、入口には不法投棄を禁止する旨の立て看板が立てられています。


 この農道は、字後新古屋の城館遺跡への農道よりも下草が多く、最近はあまり使われていないという雰囲気がありました。轍の跡を走っていても、草や石などでタイヤが時々横滑りしそうになったりするのでした。


 農道は、上写真のような感じでずっと続いていました。こちらは道端に廃棄ゴミが余り見当たらないので、そのことを言ったら、「甘いな、不法投棄はもっと目立たない林の中とか湿地とかを探してこっそり行われてるのが普通だから、こういうあけっぴろげな所ではやらないよ。あと、軽トラでゴミを運んで行くんだから、こういう幅ギリギリの一本道ではまずやらない。近くに車を転回させられるぐらいのスペースがあることが条件だな」と答えてきたU氏でした。


 その言葉通り、少しゆくと道端の湿地帯や山林内に目を覆うばかりの大量の産業廃棄物や家電ゴミが散乱していて、その先の池の脇には車を転回させられるぐらいのスペースがありました。池にはカモの群れが居ましたが、あっカモさんチームだ、などと楽しく冗談を言ったりしている場合ではありませんでした。池脇のスペースには、最近に車が転回した痕跡が轍となって残っており、近くには真新しい冷蔵庫が四つも捨ててありました。
「これが大洗町の実態なんだよ。不法投棄の聖地、ってな。イベント等で集まって騒いでるガルパンファン、大洗に魅せられて毎週のように来ているリピーターの人達も、こういう痛々しい現実については知らないままなんだよ」
「・・・・・・」
「聞いた話では、ガルパンファンの一部が大洗で色々と清掃活動などをやっているそうだが、街中や海岸で小さなゴミだけ拾って満足してるようじゃ話にならんぞ。本当に大洗のためを思ってくれているのであれば、まずは何十年も続いている不法投棄のゴミ問題にも向き合って、こういうゴミも撤去して掃除するという試みもあっていいんじゃないかな」
「・・・・・・」
「こういう現状は、大洗の行政がゴミ問題を長く放置してきたことに原因があると、この辺りの地域住民はみんな知ってる筈だよ。ガルパンの商店街の皆さんもおそらく知ってるはずだよ。何度も社会問題になってるんだから。でもガルパンブームで大勢がやって来て盛り上がっているなかでも、こういうゴミの問題については全く触れられていないし、だれも声を挙げようとしない。行政側もこういうマイナス的な部分は隠しちゃうんだろうな。そういう風潮が、一部の不法投棄の輩をつけあがらせているのも事実だな」
 いつになく怖い表情で真剣に述べるU氏でした。その通りだという実感が、眼前のゴミの山を通して強く私の心にも刻まれました。最近は警察も取り締まりを強化しているそうですが、まだまだ根絶には至っていないのが現状のようです。


 ゴミの散乱しているすぐ横にも農地がありましたが、近くの湿地には廃油も浮いていたので、耕作環境としては問題があるように思えました。車を転回させられるぐらいのスペースは、本来はこの農地での作業用として設けられたのだと分かりました。


 なぜかというと、その先の農道は、完全に使われていないような感じで、ここしばらく車も通っていないと分かるほどに草に覆われつつあったからです。この先にはもう投棄ゴミはないだろうな、と背後でU氏が呟きました。


 それからは自転車で普通には走れず、降りて自転車を草薮に突っ込むようにして押してかき分けつつ、歩いて進みました。左手は薄暗い山林でしたが、右手は上写真のように荒廃した農地跡が広がっていて、全てが自然に還りつつあるといった雰囲気でした。
 ゴミ問題のことが頭に重くのしかかってきたこともあり、しばらく無言で歩いていたので、後ろでU氏が「おい、どうした?この道で合ってるのか?大丈夫か?」と心配して声をかけてきました。それほどにすさまじい草の繁茂で道が覆われていたからです。しかし、地図で事前に確かめても、この農道以外に道が存在しないので、間違いようが無かったのでした。


 100メートルほどは背丈ほどもある草薮の中を進み、それから竹林と植林地域のなかに出ました。道はゆるやかに左へカーブしたのが急に右に曲がっていて、尾根先端が張り出していることをうかがわせました。農道入口から進んで始めてぶちあたる明確な尾根筋なので、目指す龍貝館跡の位置する尾根筋であろうと判断しました。
「よし、自転車はここに置いてゆこう。後は歩いて遺跡に行くで」
「遺跡の場所は分かってるのか?」
「大体な。あそこに尾根の稜線が見えるやろう?さっきの字後新古屋の微高地の尾根筋の隣の尾根があれだと思うんで、あの上まで登ってみる」
「登ってみるって、道が無いぞ」
「こんな山林の中じゃ、道があっても落ち葉や草に埋もれてすぐに分からんようになる。道よりも地形を辿ったほうが確実なんや」
「そういうものなのか・・・」
 不安に駆られたのか、急に周囲の雑木林を見まわしているU氏に、鉈を貸してくれ、と頼みました。相手は思い出したようにザックから鉈を取り出して手渡してきました。まったくの新品でしたので、頼もしく思われました。尾根筋に向かいつつ、眼前に近づいてくる横枝や笹竹の葉などを鉈で切り払い始めました。
「ああ、鉈ってそういうふうに使うのか。なるほど」とつぶやく声が後ろで聞こえました。


 20メートルほどは邪魔な枝葉を切り払いながら直進しました。すると左手に不気味な廃屋が現れました。うわわ、とU氏が驚いていました。かつての植林事業の作業小屋であったものでしょうか。
 といことは、先ほどの農道から小屋に通じる道があったことになります。そして私たちが枝葉を切り払いながら進んでいた直線ルートが、実はその道の痕跡にほぼ一致していたことが、廃屋の横に残る明瞭な山道の状況から判明しました。
 あとは、その山道をそのまま50メートルほど進むだけで足りました。間もなく眼前の山林下に、草に覆われた土塁が見えてきたからです。上写真がその土塁ですが、お分かりでしょうか。


「ここが城館遺跡やな、龍貝館跡やな」
「迷わずまっすぐに遺跡に到達出来るとは凄いな、さすがに大和国の城館遺跡300ヶ所余りを転戦した歴戦のベテランだけのことはあるな。鉈で切り払ってる時なんか、まるで本物のサムライみたいだったぞ」
「よしてくれ、今回はたまたま迷わずに到達出来ただけやで」
 その通り、今回は幸運にもピタリと城館遺跡にたどり着けました。広い山林内で遺跡を見つけられずに苦労した経験がたくさんあるだけに、一回も迷わずに行けたのは本当に嬉しかったです。
 しかし、私以上にU氏が嬉しそうでした。「これが戦国の、いまは自然に還りつつある城館遺跡の生の姿か」と感動しながら何枚も写真を撮っていました。


 この龍貝館についても、P氏のサイトの記事がとても参考になりました。現状では農道すら草薮になってきてかなりアクセスが難しい場所なので、先行探査の記録が紹介されているのには本当に助けられます。
 遺構の状況も、P氏の図面の通りでした。あらかじめプリントしておいた図面をU氏にも渡し、二人で土塁の上にあがって郭内をのぞきました。上写真のように、一面の草薮でした。

「おい、これでは中に入れんぞ」
「ここいらにはもう何年も人が来ていないんだろう。農地だったらしいが、耕作放棄されてから随分経っているみたいや」
「こういう城館の土塁の内側には何かあるものなのか?」
「内部はだいたい平坦面だけのケースが一般的やな。大和や畿内の城跡でも、郭内に建物跡の土壇があるとか、中にも土塁が巡っているとかはあんまり見たことが無いな。大体は掘立柱やったと思うから、そういうのは発掘でもしないと痕跡が分からんやろうな」
「一辺が50メートルぐらいの方形ということになってるが、こういうのも館とか屋敷とかにあたるのかね?」
「そこまでは分からんよ。砦とか物見場の可能性もあるんで・・・。館や屋敷なら、さっきの字後新古屋の遺跡のほうがそれらしい雰囲気やったけどね」
「ああ、なるほどな、それは同感だ」


 続いて、南辺の土塁のほぼ中央にある切れ目を見ました。上写真がその切れ目ですが、草葉が繁っているので分かりにくいです。P氏のサイトの報告においては、虎口の可能性が指摘されていますが、見た感じでは後世の破壊跡にも見えるので、虎口としての可能性は半々かな、と思いました。むしろ、土塁が削られて無くなってしまっている東辺の方に虎口があったかもしれないからです。北側は急斜面に接しているので、出入り口の空間があったようには見えませんでした。
 全体的には半分ほどが後世に破壊されているという感じで、西側に浅い堀の痕跡があるほかは遺構が見えず、南西隅の土塁が幅広に造られて櫓台のような雰囲気を示しているにとどまりました。


 興味深いのは、土塁で囲まれた区域が、尾根上の北側を占めている点です。北側への意識を強く持った施設であることがうかがえますが、その北東方向には谷をはさんで登城遺跡の台地が位置しています。何らかの関係があったのでしょうか。
 したがって、土塁区画の南側には平坦面があり、上写真のように広さが感じられます。U氏はこの範囲を城外とみていたようですが、私自身は、これも龍貝館の遺跡範囲に含められるスペースだろうと考えました。尾根先端に城館が位置する以上、その尾根全体が城館の機能と有機的に関連するスペースとして意識されただろう、と思われるからです。


 遺跡には30分ほど滞在し、それからもと来た道を引き返して入口の車道まで戻りました。不法投棄ゴミの山を目の当たりにして重い気持ちにもさせられましたが、これで大洗町の貴重な歴史遺産の一部である字後新古屋と龍貝館の二ヶ所の遺跡を、無事に回ってくることが出来たので、ホッとしました。
 上写真のように、龍貝館へと通じる農道の入口は、鹿島臨海鉄道の高架下を西へくぐってすぐの右側にあります。白い立て看板が目印です。 (続く)
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カメさんチーム 38(t)戦車 作ります!! その10

2014年12月27日 | ガルパン模型制作記

 ステップ19および20では、砲塔の下部のパーツを取り付けます。C25のパーツはそのまま接着するのは難しいので、片方を接着して固まったらもう片方を接着する、といった方法で取り付けます。瞬間接着剤を使うと楽に出来ます。


 私の制作では砲塔内のインテリアも作りますので、ドラゴンキットガイドの方をみながら順に組み立ててゆきました。


 あらかじめ塗装しておいた砲塔内部です。


 砲塔内部の後方にある道具箱と砲弾ケースです。C4とF9とF13のパーツをあらかじめ塗っておき、塗料が乾いてから接着して組み立てました。この道具箱と砲弾ケースは、劇中でも見られます。


 このシーンがそうですね。「河嶋、代われ」の場面ですが、背後に道具箱と砲弾ケースが見えます。


 砲塔に組み入れて完成となりました。まるで弾薬庫といった感じになっています。


 車体上部のパーツを全て組み付けて接着しました。ハッチ類は全て可動状態にするので、接着しませんでした。


 ラストのステップ21では、ツルハシの留め具C33をつけますが、この留め具はガルパン仕様にはありませんので、不要となりました。


 砲塔をセットしました。ようやく戦車らしい姿になってまいりました。


 この段階で、残るは背面の排気管と、尾灯の接着となりますが、いずれもガルパン仕様となりますので、キットのガイドの指示とはパーツの形状も位置も異なります。


 排気管は、あらかじめ改造しておいたパーツを、公式設定資料図やDVDキャプチャー画像などを参考にして取り付けました。本来なら取り付ける支持具が劇中では省略されているため、マフラー本体をじかに車体後部に接着する形になりました。


 尾灯も、ガルパン仕様では独自の位置にあり、尾灯のランプにはカバーがかけられています。その状態を忠実に再現しました。


 車体前面の改造部分の繋ぎ目や隙間を全てパテで埋めて整形し、劇中車の状態に合わせてリベットを配置しました。


 これで車体前面の改造部分が完全に仕上がりました。


 次の休日は晴天でしたので、塗装を行ないました。


 最初にサーフェイサーを吹いて下地を整えました。薄く吹いて乾かして、また薄く吹くといった手順を三度繰り返しました。


 車体および砲塔、車輪類には、すべてミスターカラーの71番のミッドナイトブルーを吹き付けました。それから車輪類のゴム部分をポスカのつや消し黒で塗り、履帯には28番の黒鉄色を吹き付けました。


 塗装後に車輪類と履帯を全て取り付けました。ミッドナイトブルーの色調は、まさに青味を帯びたジャーマングレーといった感じでしたが、劇中車のカラーはもう少し藍色が混じっている気がします。そこまで再現しようと思ったら調色が大変だろうと思われたので、ミッドナイトブルーのままにしておくことにしました。 (続く)

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く12 その10 「字後新古屋の館跡です!!」

2014年12月26日 | 大洗巡礼記

 「茨城百景碑」での昼食休憩を終え、大洗町立南中学校の横を通る県道16号線を南下しました。県道16号線は、かつて夏海と呼ばれた神山町の街区の手前で二手に分かれますが、左に進むと街区に入ります。右へ行くと大貫台地の広い農地の中を迂回していきます。次の目的地へは、右に進んで二つ目の交差点で右折していきました。その辺りの風景が上写真ですが、どこに遺跡があるのかは、見ただけでは分かりませんでした。


 道なりに進んで、鹿島臨海鉄道の高架下をくぐり、少し行った左手に「日照プラント工業」の施設がありました。軽トラックにガルパンⅣ号戦車の形を乗せたレプリカを作って話題になった会社です。その敷地の斜め向かいに、農道の入口がありました。
「たぶん、ここから入るんやと思う、農道だが地図ではしっかり奥まで続いている」
「ふーん、この先に遺跡があるというわけか」
 そう言いつつ、U氏はその辺りの景色をカメラで撮影していました。記録の積りなのでしょう。


 遺跡はどのあたりなのか、と聞かれ、上写真に見える林の向こう側、と答えました。事前に地図で調べたところでは、周辺よりもやや高い微高地に遺跡が位置していることが知られるので、農道を進みながらとにかく高い場所を目指せばなんとかなるだろう、と考えました。


 農道は、軽トラがやっと通れる程度の幅ですが、自転車で走るには充分でした。轍の跡をなぞるようにして走りました。しばらく行くと、道端にテレビや洗濯機やコンロなどの家電製品が廃棄してあるのが見えました。いわゆる不法投棄というやつです。
 その数が30を下らないので、驚いて指摘すると、後続のU氏は、やっぱりな、という顔つきになりました。
「聞きしにまさる状況だな。さすがは大洗だ」
「さすが、ってどういうことや、これは不法投棄やないのか?」
「そう、明らかに不法投棄だな。見ろ、パソコンも二つほど転がっている」
「ひでえもんやなあ」
「なに、大洗ではこんなのは日常茶飯事だろう。なにしろ大洗は不法投棄の聖地だからな」
「えっ・・・」
 驚く私に、U氏は大洗町が以前より不法投棄の多い地域であること、以前はもっと酷かったこと、行政や警察が対策に乗り出して不法投棄の現場を多数おさえて相当数の検挙者を挙げたこと、などを話してくれました。それでも不法投棄は後をたたず、いまだに大洗町の山間部や森林などには無数の廃棄物が増えつつある、ということでした。

「大洗はガルパンの聖地、ということになってるが、そんなのはガルパンファンだけの認識に過ぎないんだ。ここらの地域に住んでる大多数にとっちゃ、大洗といえば不法投棄の聖地ということで昔から有名でさ、水戸辺りから捨てに行くバカが幾らでも居る。大洗には不法投棄に適した場所が多いから、地元の人間からしたらゴミの山だらけ、ってのは当たり前の認識なんだよ」
「そんなにひどいのか・・・」
「これでも今はまだマシになったほうだぜ。十数年ぐらい前は大洗海岸とかにも不法投棄があったし、トラックで大掛かりに投棄に来る悪徳業者も少なくなかったんだ。民家の庭先の空き地に、いつの間にか冷蔵庫や自転車が捨ててある、ってのも多かったんだ。それで苦情があったけど、大洗町の行政はそういうのをほったらかしにしてて、それがずっと続いたから、不法投棄の聖地になってしまったんだ」


 道端に転がる家電製品のゴミの数々を横目に進むと、道は二手に分かれていました。この辺りにはゴミは見当たりませんでしたが、小屋の残骸や放置された建材などがありました。ビニールハウス用の鉄パイプのようなものも束ねて置かれてありました。
 真っ直ぐ進むと次第に降りてゆく感じでしたが、右に進むと高台へ上がるので、迷わず右に入りました。U氏は完全に私に任せ切っているので、写真を撮りながら後についてきました。


 坂道を登りきると、広い農地に出ました。ここだろう、と言うと、背後で「本当か?ただの畑じゃないのか?」と応じてきました。地図と地籍図を取り出して、現在位置を指し示しました。
「字後新古屋・・・、字後新古屋片南・・・、ほう、登ってきた道の辺りが字新古屋久保・・・、この辺は後新古屋って地名がメインみたいだな」
「そうみたいやな」
 この場所は、中世期の城館遺跡であろうとされています、字名をそのまま採って「字後新古屋遺跡」などと呼ばれているようですが、正式な調査が行われていないため、正式な遺跡名称があるかどうかは分かりませんでした。


 西に聳える木立が、細長い直線状に見えたので、土塁の位置とすぐに分かりました。そのことを言うと、U氏は道の端まで行って木立の草薮の中を覗きこみ、おお本当に土塁だな、と感嘆の声を挙げていました。


 土塁は、遺跡範囲とされるエリアの西から南西隅までに残存し、その様子はいつも参考にさせていただいているP氏のサイトの記事でも図面や写真で紹介されています。
 土塁は南側や南東にも残るので、全体として遺跡の南側に集中的に残存しているという状況です。


 上写真は、字後新古屋の最も広い農地を南から見た図です。その奥の右端にも土塁の一部が残っているので、後新古屋という字名のある地域全体がかつては土塁に囲まれていた様子が推定出来ます。

 私が奈良を中心とする畿内の城跡で色々と見聞きしたところによれば、城館や城砦のことを当時は「館」「屋敷」「小屋」などと呼び、なかでも「屋敷」の用例が多く見られました。現在でも地名や字名などに「ヤシキ」「トノヤシキ(殿屋敷)」「オヤシキ(御屋敷)」などが普遍的に残り、そこへ行けば城館遺跡にあたるということが多かったです。珍しい例としては「ノゴヤ(野小屋)」、「タツミコヤ(巽小屋)」などもあり、城館のことを「小屋」と呼ぶケースもあったことが想像されます。城郭の建物を構築することを、当時の言葉では「小屋掛けする」といったそうです。

 これらの情報をふまえれば、ここ後新古屋の「古屋」とは小屋のことだろうと考えられます。後に新たに構築した小屋、という意味合いが込められているのではないかと推測します。


 上写真は、字後新古屋の東側の一段低い傾斜地で、字名は松ヶ作です。段差があるので城館遺跡の周辺にあたるのかもしれません。城館の前庭や周囲には松が多かったことが絵巻物などの描写からもうかがえますので、城館への出入り口にあたる広場のようなエリアであったのかもしれません。


 U氏の後を追って、字後新古屋の西側の土塁に近づきました。現在の農道はその北側を削って作られたようなので、土塁は農道の南側にのみ残っています。草薮に包まれていますが、土塁自体はしっかりと形を残しています。高さは1メートルもありませんので、板塀の土台のような雰囲気が感じられました。


 西側土塁から、字後新古屋の最も広い農地区域を見ました。城館遺跡としては広すぎるぐらいの規模で、奈良県ではあまり類例を見たことがありません。五條市の岡平城ぐらいだったかな、と思いました。


 西側土塁は、約70メートルほどが直線状に続き、その南で屈曲して字後新古屋片南の南西辺に続きますが、南辺では削られて無くなっています。南辺では段差もあって切岸面が高いので、土塁が無くても一定の防御効果はあったようです。


 遺跡範囲のなかで最もよく遺構を残すのは、南東側の方形地区です。字名は新古屋で、いまは雑木林になっており、農地化はされなかったようです。ここに方形に囲む土塁が巡って東側に虎口らしき開口部をもち、小型の方形城館といった状態を示しています。上写真は、その南辺の土塁を外から見たところです。

 U氏とその範囲を歩き回りましたが、ゴミが散乱しているうえに荒れ放題で、北側には削られたような段差面が続いて、かなりの改変を受けていることが看取出来ました。その外側の北東隅には土塁の一部が残り、外郭部があったことを思わせますが、この方形地区を一つの城館の範囲とみることは可能なように思われました。

 U氏が「最初の城館がここにあったが、手狭になってきたので東の広い場所へ移転した。だから後に新たに小屋を建てたということで、そういう歴史が後新古屋という字名に残ったのかもしれんぞ」と推測を述べていましたが、その可能性もアリだろうと思います。
 でも、現地には一切の伝承も記録類も伝わっていませんので、本当のところは何もわかっていません。すべてが謎のまま、遺跡のみが静かに時を刻んでいます。 (続く)

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ガールズ&パンツァー 八九式中戦車甲型エンディングVer.

2014年12月25日 | ガールズ&パンツァー

 去る12月21日、ピットロードの「ガールズ&パンツァー 八九式中戦車甲型エンディングVer.」が届きました。パッケージは、3月に発売された第一弾の「Ⅳ号戦車D型エンディングVer.」と同じ大きさ、デザインでした。


 裏面には、フィギュアの乗せ方を四方向から示してあります。戦車内に設けてある段差や板などにフィギュアの足などをはめて固定して乗せるという方式なのですが、入れ方や向きなどはちょっと分かりにくいところもありますので、サンプル画像があるのは有難いですね。


 パッケージ内には保全用トレイが重ねてあり、フィギュアと戦車を保護しています。


 八九式中戦車甲型は、9センチの小さなものですが、細部まできちんと造形されて独特の外観をよく再現しています。さすがはピットロード、相変わらず良い仕事をしていますね。


 砲塔はもちろん回りますし、主砲砲身も上下します。デフォルメ造形のゆえに、一部のディテールが省略されたりしていますが、それでも八九式中戦車甲型だとすぐにわかる精度の良さが光ります。


 さっそく、アヒルさんチームの四人が搭乗しました。前の河西忍、近藤妙子の二人が姿勢的に下向き加減なので、なるべく低い位置から撮影しました。


 険しい地形の中で急な登り坂にかかりました。尾ソリのおかげで急勾配も登攀可能であったという八九式中戦車ならばでの、独特の安定感がにじみ出ています。


 今度は横斜めの地形にさしかかりました。不安げに「倒れそうだよ」とつぶやく佐々木あけびに「根性があれば大丈夫!!」と言い切る磯辺典子キャプテンでした。


 今度は急な下り斜面を降りてドシンと下に着く八九式中戦車。前の二人が落ちないように必死でしがみついているといった雰囲気。


 再び緩やかな登り斜面にさしかかり、次第に開ける視界を見まわしてゆく四人。河西忍も近藤妙子も左右を見る余裕を取り戻したようです。


 かくして元気に進撃するアヒルさんチーム。対アンツィオ戦で大活躍をなしとげて自信もついてきた様子が、四人の笑顔に凝縮されています。日本陸軍の戦車も、おかげでものすごいメジャーな存在になりましたね・・・。

 ピットロードさんのアナウンスによれば、次の第三弾は「Ⅳ号戦車D型改(F2型仕様)エンディングVer.」だそうで、あんこうチームの五人もパンツァージャケット姿になるということです。ですが、ガルパンファンとしては、むしろ他のチームを製品化して欲しいところです。

 でも、チームによっては造形化が困難なものもあるでしょう。今回の製品を見ていても気づくのですが、人数分のハッチが容易に開けられること、フィギュアを無理なく乗せられること、といった条件が満たされないと商品化は難しいでしょうね。その場合、候補として挙がるのはカモさんチームぐらいじゃないかな、と思います。
コメント (2)
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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く12 その9 「茨城百景碑です!!」

2014年12月24日 | 大洗巡礼記

 登城遺跡の北堀切跡の農道からトレンチの場所まで戻り、その横から切岸の上にあがりました。そこは土居状に盛り上がっていました。上写真の右側に見える盛り上がりがそれで、土塁を崩した跡だろうと思いました。
 この辺りは内部が農地化されていたため、郭面や周縁部の形状に耕作による改変があるものと思われますが、平成11年の発掘調査時の写真やトレンチの状況からみて土が50センチ前後は堆積しているようなので、郭面にはあまり農地化の影響がないようです。

 なお、上写真の左側の低い地表面が平成11年の発掘調査区域の端にあたり、東西に走る三本の溝が検出されています。排水溝の一種かもしれませんが、周縁部に接していることを考えると、板塀または柵に伴う掘り込みかもしれません。


 堀切跡から工事の仮設道をまたいで反対側を見下ろしました。御覧のように谷になっており、水が流れていました。すぐ北側まで宅地化による埋め立てが行われていますが、以前の地形図や航空写真などをみれば、城域の東側はずっと谷間になっていたことが分かります。その谷間へ堀切跡の端が開かれていたものと推定されます。


 東の谷間はずっと南まで続きますが、草薮に覆われて谷地形であることがあまり感じられませんでした。むこうの低丘陵も細長く南まで続き、字名が「飛城」であるために城郭遺跡ではないかと推定されています。「飛城遺跡」と命名され、平成10年の発掘調査では尾根の北側が調査範囲とされて古墳時代の竪穴住居跡などが検出されました。
 尾根の南側は未調査ですが、位置的には登城遺跡の東隣であるので、何らかの関連施設が存在した可能性が指摘されています。


 しかし、ものすごい草薮です。この日から、道路工事の手始めとしてこの草薮を刈り取るのですが、これだけでも一週間はかかるでしょう、と工事監督者の方が話しておられました。
 道路自体は谷間に中心線をおいて、地山を活用する方向で城跡の東辺切岸の一部を埋め立てたり削ったりして、なるべくコストがかからないように造成します、ということでした。不況のなかで予算も限られているようです。


 土居はⅡ郭の北側にあたりますので、そこから南の平坦地がⅡ郭であることになります。が、御覧の通りの草薮で、歩き回るどころか、入ることすらままならない状況でした。西側塁線から上がって移動しても同じ草薮に阻まれますから、道路工事にともなう草薮の刈り取りというのは、郭内に入る絶好のチャンスであるわけです。
 ただ、草刈りの後に重機を入れて埋め立てや削平を行なうそうですので、タイミングを逃すと遺跡が破壊されてしまって見学も出来なくなるわけです。これは12月にもう一回再訪して、草刈り後のきれいな遺跡面を見なければ、と思いました。


 工事の仮設道から、堀切跡の農道を見ました。この部分から西側は工事範囲の外になるので、今後も残ると思われます。トレンチは埋め戻されると聞きましたが、実際には12月ぐらいまでは見られるということでした。


 続いて、平成10年に発掘調査が実施された「飛城遺跡」へ回ってみました。現在は農地となっており、広い平坦地であるために城を思わせるものが何もありませんでした。南側はどうなっているだろうか、と思って農道を進みましたが、次第に草薮になってきたので自転車も置いて徒歩で草をかき分けて進みました。一度緩やかな鞍部を経てピークに達しましたが、何も見当たりませんでした。
 思うに、字名の「飛城」とは城そのものを指すのではなく、登城館の飛び地、といったような意味合いでの状況を伝える地名なのかもしれません。


 「飛城遺跡」の東にも中世遺跡の存在の可能性が指摘される範囲があるそうですが、具体的な位置を知らなかったので、あそこに見える林の辺りだろうか、と思いながら自転車を走らせました。


 振り返って「登城遺跡」の低丘陵を望みました。その位置する舌状尾根の南側先端部は、事業計画が変更され、県立環境共生型都市公園(仮称)のエリア内に含めて保存されることになったと聞きましたが、どうせ保存するのであれば、尾根の先端部だけではなく、城郭遺跡全体を含めて欲しかったと思います。遺跡の東辺を破壊する道路工事が、その県立環境共生型都市公園(仮称)にともなうものであるとすれば、本末転倒のような気がします。


 国道51号線に出て南下し、夏海インターの手前で脇道にそれ、高台の住宅地の端を通りました。左手に国道51号線が通り、その向こうには鹿島灘があおあおと広がっていました。


 マリンタワーの方向を見ました。県道2号線の分岐点から見る海岸線の砂浜は広く、北の大洗海岸の岩だらけの景観とはまったく異なっていました。


 大洗町立南中学校のある高台の北に、石碑の林立する公園のような一角があり、地元では「茨城百景碑」と呼ばれています。田崎秀、勝山竹子、大関五郎の歌碑や詩碑が並びます。
 この石碑公園が、大貫商店会の歴史探訪スタンプラリーのスタンプ設置ポイントになっていて、印鑑タイプのスタンプも置かれていました。


 合流時刻を過ぎてもU氏が現われないので、休憩を兼ねて景色を楽しみました。国道51号線の向こうには、「潮騒の湯」の施設も見えました。寒い時期になってきたので、温泉がとても気持ち良いだろうな、と考えたりしながらお茶を飲みました。


 国道51号線をまたぐ陸橋には、波と思われるデザインがマーキングされていました。スタンプラリーで「茨城百景碑」を訪れるガルパン巡礼の大部分がこの陸橋を渡ってくると聞きましたが、スタンプラリー用紙の「茨城百景碑」のところに陸橋が描かれているためでしょう。


 合流時刻を15分ほど過ぎて、U氏が到着しました。途中でココストアに寄って弁当とお菓子を買ってきた、と言いつつビニール袋を捧げて示してきました。

「すっかり、遠足気分やねえ」
「ここは見晴らしが良いからね、弁当もここで食べて行くだろうと思ってお菓子も買ってきた」
「じゃあ、折角やからここで食べていこう」
「で、登城遺跡には行ったのか?」
「うん、色々と学べて面白かった。来月にもまた行くことになると思う」
「ん?遺跡はもう破壊されるんじゃないのか?」
「それがそうでもないらしい。工事現場の監督者の人に説明を聞くことが出来たんやけど、今日から一週間ぐらいは現場の草刈りで、次の一週間には事前の測量をするらしい。それから伐採もやって、重機が入れるように仮道を造成するそうなんで、遺跡を削ったり破壊したするのは12月上旬ぐらいからのようや」
「ふーん、まだ間に合うのか。それじゃ俺も来週の休みにそっちを見に行くか」


 弁当やお菓子を食べつつ、登城遺跡での見学成果を、図面やメモを示しながらかいつまんで説明しました。U氏もかなり興味を持ったらしく、積極的に色々と質問してくるので、30分の予定が一時間ほどの長居となりました。
 それで、眼前にある「茨城百景碑」については、一瞥したにとどまりました。U氏も「茨城百景というのは聞いたことあるけど、よく知らないんだよ」と申し訳なさそうに言いました。 (続く)

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「月刊 戦車道」 増刊第6号

2014年12月23日 | ガールズ&パンツァー

 「月刊 戦車道」増刊第6号が発売されました。表紙を飾るのは大洗女子学園あんこうチームのⅣ号戦車H型仕様ですが、その居る場所が大洗町の髭釜商店街であるのには驚かされました。


 発売日は12月18日、私の手元には翌19日に届きました。色々な記事を楽しんで読みましたが、興味をひかれたのはガルパン系の新製品の情報でした。プラッツは公式キットのⅣ号戦車D型のリニューアル版、ピットロードはⅣ号戦車D型改(F2型仕様)のEDバージョンを出す予定だということです。これらは夏のワンフェスでもアナウンスがありましたが、そのまま計画通りにリリースに向けての動きがあるようですね。

 私はⅣ号戦車D型のキットはタミヤで作りましたので、プラッツの公式キットのリニューアル版が出るのであれば、そっちもチャレンジして楽しんでみたいです。ピットロードのEDバージョンでⅣ号戦車D型改(F2型仕様)が出るとなれば、続いてH型仕様も出されるのかな、と思ってしまいますが、H型仕様のシュルツェン付きですと、砲塔側面にフィギュアを乗せるのが難しいので、出されるかどうか疑問ですね。

 いずれにせよ、劇場版が公開される夏季までには、色々と新製品が出るものと予想されますが、この「月刊戦車道」も7号、8号と出して欲しいですね。今号でラストだというのは残念です。

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く12 その8 「登城遺跡です!!」

2014年12月22日 | 大洗巡礼記

 堀切跡の底の農道は、現在はあまり使われていないため、下草も増えて山道のような状態になっていました。直線路にみえましたが、僅かに右へ寄っていく感じだったので、堀切跡そのものが僅かにカーブを描いているようでした。城郭の塁線は、上写真のように左側に高い切岸となって明瞭に認められました。高さは三メートルぐらいはあったでしょうか。


 この城郭遺跡は、大洗町域においては最大規模であるので、城郭ファンや研究者の間ではけっこう知られていて、ネットなどでも「登城館」等の呼称にてレポートされているのを見かけます。
 大洗町教育委員会の報告書では「登城遺跡」としており、公式にはこれが正式な遺跡名となっています。今回の探査見学と、発掘調査報告書や先行研究などの資料をふまえて私なりに遺跡の全体像を描いてみたのが、上掲の図です。

 地形は、国土地理院の地形図と航空写真をベースにして大体の姿を描写し、発掘調査報告書「登城遺跡」の235ページに掲載される縄張図を参考にして遺跡の概念図を立体で描き起こしました。そのなかに、平成10年および11年に発掘調査された範囲の遺構図をはめこむような感じで描き込みました。堀切跡を通る農道やその両側の地形などは、実際に見学した状態をなるべく再現してみました。詳しい説明は、また後で図面を挙げて述べます。


 堀底道がクランクする場所に着きました。地形的には舌状尾根の付け根にあたる地点で、堀切によって尾根を独立させて城域とした様子がうかがえます。堀切の両端は谷間に落ち込む形で開放されますが、西側では帯郭状のスペースに繋がって城郭の西辺に回り込みますので、現在の農道も同じように西へと回り込みます。
 このクランク地点のすぐ西側に、西の谷間へ降りるスロープ状の細い平坦面がみられますが、先行見解では竪堀とみているようです。ですが、掘り込みではなくて平坦に造られているようなので、竪堀とは思えませんでした。その細い平坦面へ草をかきわけて進んでみたところ、緩やかに降りていく感じでした。


 農道に戻って、帯郭状のスペースに進んで城郭の西辺に回り込みました。左側にそそり立つ切岸は依然として三メートル前後の高さで続き、城郭の地表面が一定の高さで造成されていることをうかがわせました。


 クランク地点から約70メートルほど進むと、左側の切岸が凹んで坂道状に上にあがれるような状態になっていました。先行研究では堀切または虎口と見なされていますが、登っていった感じでは窪地ではないので、堀切とは思えませんでした。では虎口かというと、その雰囲気も希薄でした。後世の農地への出入り道といった雰囲気がありました。
 しかし、塁線の切岸は確かにこの位置で内側に屈折しており、道の反対側には土塁が築かれているので、何らかの機能をもった空間であったことは間違いないようです。上に登ると草薮の広がる平坦地に出ますが、右にそれると幅広の堀跡にぶつかるので、この幅広の堀と繋がっていた可能性も否定出来ません。


 上にあがるとこんな感じです。昭和50年代まで農地として利用されていたそうですが、その後に植林がなされ、そのまま整備もされずに今では下草が藪化しつつありました。30メートルほど進んでみましたが、草薮にぶちあたって前に進めなくなり、引き返しました。


 再び農道に戻りました。上写真の右側が城郭の塁線の切岸、左側が土塁の高まりです。塁線の外側に明確な土塁が認められるのはこの地点だけなので、土塁が必要とされるような、何らかの重点防御エリアであったのかもしれませんが、それにしては土塁のほぼ中央が切れているという、よく分からない状態でした。
 土塁の切れ目は、一見すると虎口のように見えました。それで切れ目から外をのぞくと、下にかなりの急斜面が見え、崖の上にいるような感じがしたので、切れ目から出入りしたというのでもなさそうに思われました。


 城郭の西辺をさらに南へと進みましたが、左側の切岸は少し低くなってきて、二メートル前後の高さになりました。というより、道のほうが高くなってきたのですが、そこで右に続く支尾根上の農地跡へと続く分岐路があり、その先は凄まじい草薮でした。


 分岐からさらにまっすぐ進むと、そちらも次第に草薮に包まれてきて、道そのものが藪に覆われてしまってゆくのでした。こうなると進めませんから、左側の切岸に登って迂回することにしました。上に登ってみると、土塁状の高まりがずっと続いていました。城郭の周縁はだいたい土塁が巡られされていることが多いのですが、発掘調査報告書掲載の縄張図ではあまりそうした土塁を描写していません。


 土塁の上から、下の堀底跡の農道を見下ろしました。上写真では分かりにくいかもしれませんが、約三メートルの高低差がありました。


 上の城郭内部の現状です。発掘調査報告書掲載の縄張図では第Ⅳ郭とされている範囲の西側にあたります。第Ⅳ郭は、発掘調査区域においても堀切以外の遺構が検出されておらず、建物の痕跡も見られなかったそうなので、城内の郭というよりは城域周辺のスペース程度のものだったのではないかと思われます。


 郭内を移動して南の塁線に到達しましたが、その外側にも土塁をともなう横堀状の形が見られました。上写真のように、木が倒れて土塁に乗っかっていて、ちょうど木橋のような姿に見えました。これによって横堀の形が分かりやすくなっていましたが、この状況すらも、発掘調査報告書掲載の縄張図には描写がありません。
 ですが、私が大洗町内外の城郭遺跡を知るためによく参考にさせていただいているP氏のサイトの「登城館」の記事の図面には、この横堀状の形も僅かながら描かれています。上写真の場所は、P氏の図面の③の位置から東へ20メートルほどの地点です。


 その先は倒木の連続と草薮に阻まれたうえ、時間も正午に近づいて水戸のU氏との合流時刻も迫ってきたので、探査はここまでと決めて引き返しました。もと来た農道に戻り、外周に明確に残る土塁のところまで進みました。
 上写真のように、土塁は高さも幅もあり、地山を削り残して作ったのではないかと思えるほどの規模でしたが、その外側は崖になっているので、地山ではなくて人工的に土を盛って造成したものと考えた方が良いようです。


 北側の堀切跡との接点となる、クランク地点まで戻りました。この辺りは塁線の切岸が綺麗に形をとどめているので、見応えもあります。試しに上まで登ってみると、そこが少し出っ張った感じになっていることが分かりました。
 そこは、北と西の両側に睨みがきく場所ですので、その二方向から敵が攻めてきたならば、いずれにも迎撃をしかけることが出来ます。しかも堀底はクランクしていますので、堀底を進んできた敵は真っ直ぐに進めず、方向転換を余儀なくされます。そこへ上から弓矢または鉄砲で横撃をしかけるという、効果的な防御戦が期待出来ます。
 その意味で、この地点の遺構は、登城遺跡における必見のポイントと言えましょう。


 とりあえず、大体の遺構は見ることが出来ました。予想以上に立派な城郭遺跡です。発掘調査範囲は東側だけにとどまりましたが、西側にも土塁や切岸が良く残っていますから、全面的に発掘してほしかったなと思いました。ただ、道路工事が進んでも西側の範囲はそのまま残りますから、今後も見学することは可能でしょう。


 北の堀切跡に戻りました。この堀切が、城郭の北側の防御線の一つですが、その外側にも二つの堀が発掘調査で確認されていますので、城域はさらに北へ広がるとみて良いでしょう。その辺りは常福寺遺跡と呼ばれて現在は「千代田テクノス」の敷地になっていますが、その常福寺遺跡と登城遺跡の双方の遺構は、同一の城郭のそれであることが判明しています。
 なので、この堀切跡は、城郭中心部の北側を護る施設にあたるのかもしれません。


 先に掲げた図面に、遺跡範囲、発掘調査範囲、遺構名や城域、郭番号などを記入してみました。今回の私の見学は、A地点からスタートして堀底の農道をたどり、B地点のクランクを経てC地点の土塁やD地点の塁線屈折部を見て、G地点の横堀状部分まで行って引き返すという形でした。
 最初に見学したトレンチはa地点にあり、その上のb地点は土居状に盛り上がっていたので、土塁があったものと推定されます。

 登城遺跡の発掘調査範囲においては、南から一号、二号、三号、四号の四つの堀切遺構が見つかっており、それぞれの堀切に仕切られた区画を一つの郭と見なしたのが、大洗町教育委員会の基本解釈であるようです。
 すなわち、四号堀に囲まれた区域をⅠ郭とし、その北をⅡ郭、農道が通る堀切跡から北をⅢ郭としています。Ⅲ郭の範囲は、常福寺遺跡の発掘調査範囲において検出された1号堀および2号堀との関係によって推定されているようです。Ⅰ郭の南には、四号堀の延長とみられる堀跡と土塁を隔ててⅣ郭があり、これと二号堀および三号堀によって隔てられる南側をⅤ郭としています。

 これらを見る限り、大洗町教育委員会の見解は、城の位置する舌状尾根全体を城郭の範囲とする基本認識にたっているようですが、私は尾根全体に及んでいたとするより、尾根の三分の二ほどを城域として堀や堀切で囲んでいたのではないかと推測しました。G地点の横堀状の痕跡は、そのまま二号堀および三号堀に繋がるようですので、その場合は、第Ⅳ郭までが城域と推定されます。
 つまり、第Ⅴ郭は城外となって厳密には郭ではない、と考えるわけですが、では一号堀は何かというと、これは尾根先端を遮断して城の外側を護る施設として捉えることが可能です。

 また、登城遺跡の発掘調査範囲においては、各所に溝の遺構が検出されています。一部は四号堀と同時期の遺構と判断されており、ほとんどが堀と繋がっています。四号堀には水戸違いの遺構があって調査時に水も湧き出したといい、水堀であった可能性が高いです。したがって四号堀に繋がる溝は、排水溝であったのかもしれません。
 なお、上図の四号堀の東のE地点が城への出入り口であったようで、そこから四号堀へ向かうとⅡ郭へは土橋、Ⅰ郭へは木橋で連絡したことが遺構より確認されています。また上図のF地点では、四号堀の南側部分の東端がやや南に屈折していることが、12月の再訪時に重機による破壊断面の観察で分かりましたが、発掘調査報告書掲載の縄張図では東へストレートに竪堀として落としています。

 全体として、平たい尾根上に位置することもあってか、平地の城館と似た様相を示していますが、城域を囲む堀の各所に屈折がみられ、また堀が二重になっているところもあり、なかなかに技巧的かつ複雑な構造であったことが分かります。
 それらの遺構が、調査区域外に残存する土塁や堀切などの遺構のラインと大体繋がることから、その全体像もおおよそ推測出来ますが、前述のように、Ⅳ郭までを城域と見なしてⅤ郭は城外と推定した場合においても、大洗町における最大規模の城郭であるという点は不変です。
 その意味でも、大変に貴重な歴史的遺産であるわけですが、大洗町の文化財行政は、これを開発から守って保存するという最良の選択肢を捨ててしまっているわけです。実に残念なことです。 (続く)

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figma 冷泉麻子

2014年12月21日 | ガールズ&パンツァー

 figmaのガルパンキャラクターの第五弾、「冷泉麻子」が12月18日より予約開始となりました。詳細はこちら。予定発売時期は2015年5月になりましたが、第四弾「五十鈴華」の発売予定が2015年1月に変更されているので、「冷泉麻子」も変更があるかもしれません。劇場版公開までの間に発売タイミングをバランス良く並べておこうということかもしれませんね・・・。

 付属品にはⅣ号戦車の「操縦席」や「戦車教本」があり、さらに可動支柱付きのfigma専用台座が同梱されます。これでやっとあんこうチームの全員が揃うわけですが、その後に搭乗車のⅣ号戦車も発売されるようなので、まだまだ楽しみが続きますね。
 ところで、他のチームのキャラクターは出るんでしょうか・・・。

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く12 その7 「発掘された堀切です!!」

2014年12月20日 | 大洗巡礼記

 大貫台地上には、いくつかの「首切り山」がありますが、西光院裏手を過ぎてから右手に見えてくる、上写真の低い丘などは、木が全て伐採されているため、異様な存在感を放っていて遠くからでも目立っていました。


 振り返って右手を見ると、西光院裏手の竹藪が横たわっていました。この竹藪がかつては丘陵上の雑木林に繋がっていて、そのなかを通る道も昼なお薄暗い、不気味なところだったそうです。


 道は、やがて二手に分かれます。現在は左がメインルートになっていますが、かつての街道筋は右の細い道なので、迷わず右に進みました。


 まもなく国道51号線との信号交差点に出ました。この交差点をまっすぐ進んで向こうの道へ渡りました。


 道は最近に新設されたばかりで、歩道も完備した広い車道でした。この道路の延長計画というのが、問題の道路工事にあたるわけです。右手に広大な敷地を構える「千代田テクノル」は、大洗の夏海にある原子力施設にも関連事業所をもつ原子力事業関連の企業で、基盤事業として研究開発事業、線量測定事業を行っているそうです。
 その施設敷地の決定に伴い、当該地区の発掘調査が行われ、縄文時代の貝塚や戦国期の城郭遺跡などが検出されました。一帯の字名が「常福寺」であるため、「常福寺遺跡」の名称で知られています。


 車道は「千代田テクノル」の敷地の端に合わせて切れており、そこから先は飛城遺跡および登城遺跡と呼ばれる中世戦国期の城郭遺構の範囲となります。その範囲を分断する形で車道の延長計画があり、すでに重機が入って工事用の仮道を築きにかかっていました。
 上写真に見える、仮道の盛り土の下には広い谷間があり、一部は城郭の堀切に繋がっていたのではないかと思われましたが、その肝心な場所を埋め立てにかかっているのでした。

 現場に居た三人の工事関係者に挨拶して来意を告げると、今日は工事前の現状撮影作業だけですので、と教えられ、工事現場への立ち入りも快く許可していただきました。一人は工事の監督者の方で、道路計画の概要を説明して下さいました。それによると、城郭遺跡の南側の東寄りにある平坦面まで地山を削って下り坂の道路を約400メートルほど作るということです。その先は未定だ、ということなので、どこかの道路へ繋いで開通させるというような内容の道路新設ではなく、単なる延長のようでした。
 その、単なる道路延長のために、大洗の貴重な文化遺産である城郭遺跡を潰すのか、と暗澹たる思いに沈まずにはいられませんでした。


 とりあえす、発掘調査が実施された範囲を見学するべく、「千代田テクノル」の敷地の端にそっている農道へと降りることにしました。その農道は、かつての堀切の跡で、その一部にトレンチを入れて遺構を確認したのが、この秋の発掘調査の中身でした。


 トレンチの北側に回って、トレンチ全体の規模を見ました。約20メートルぐらいの長さで堀切跡に堀り込みを入れ、戦国期の地表面まで堀り下げてありました。堀底まで3メートル以上はありましたが、現状の農道の地面も2メートル余りの深さにあるのて、戦国期の堀底面との差は50センチぐらいのようでした。つまり、堀切の底を農道にしたためか、そんなに埋まっていなかったことになります。


 トレンチの南側に回りました。上写真の奥に見えるのが、今回利用した榎澤輪業商会さんのレンタサイクルです。その大きさと比較すれば、トレンチの規模や深さが分かるでしょう。堀切は箱型のタイプで、両側の地面をほぼ縦に掘り込んで2メートル余り下まで急斜面を形成してありました。


 トレンチの南端の内部を上から見下ろしました。落ち葉が積もっている地面が戦国期当時の地表面であり、現在の地表面からは約150センチほど下に位置しています。断面を観察すると、地層面が少なくとも五つあり、城郭遺跡が後世に農地として利用された時期の堆積層とみられます。下から二番目の層は分厚いので、城郭を埋めてしまう、いわゆる破城の行為による層かもしれません。

 破城、というと、石垣造りの城では石垣を崩したり堀を埋めたりする作業を指しますが、それ以前の戦国期までの城郭は土造りなので、土塁を壊して堀を埋め、建物や柵などを撤去する作業になります。なかでも堀が防御のメインなので、堀を埋めるというのが、戦国期までの城郭の廃止方法の中心であったわけですが、ここでもそういった痕跡が残されているのかもしれません。
 ですが、堀切そのものは埋められずに後世に農道として利用され、現在もそのまま歩いて移動出来ますから、破城の行為があったとしても、城郭全体を完全に埋めてしまうまでには至らなかったのかもしれません。


 トレンチの中に降りて、戦国期の地表面に立ちました。積み重なった地層が、戦国期以降の長い歴史の流れを語りかけてくるようでした。それぞれの地層は土の色も少しずつ異なっているので、それぞれの時期に地形の改変などがあったのかもしれません。


 トレンチからいったん外に出て、堀底面を見下ろしました。下に見える赤いカラーコーンまでの高低差だけでも3メートルはあるので、相当な規模の堀切だということが改めて実感出来ました。近畿地方の中世城郭ではこれだけの規模の堀は稀ですが、この程度の堀切は関東地方ではざらにあるそうです。


 ほぼ縦に堀り込まれた様子がよく分かります。堀底面に一度降りてみて、そこから戦国期の地表面に上がろうと試みましたが、深さが2メートル近いうえに傾斜面が垂直に近いので、踏み台などが無いと上がることが出来ません。深く掘った堀切の防御効果が良く分かります。


 トレンチから西へは、堀切跡が農道または山道となって奥へ続いています。つまり、全面的に発掘すれば、現状よりも一回り大きな箱堀の姿が現れるわけです。左右の傾斜面はかなり埋まっているようですが、農道面と堀底面との高低差はそんなにないので、深さに関しては現状でもあんまり変わっていないということが出来るでしょう。


 トレンチ付近より東側を見ました。御覧のように盛り土がされて仮道が築かれています。従来の地表面が窪んでいたために盛り土をして平らに均してあるわけですが、その窪地が東の谷間に繋がっていたのですから、東の谷間もかつては堀切の一部であった可能性が高いです。ただ、まっすぐに繋がるのではなく、右に一折れして谷間に続いていたような形跡があります。その重要な地点を、重機で埋め立ててしまうのですから、行く機会がもう少し遅れていたら、堀切の屈折のポイントすら分からなくなってしまっていたに相違ありません。

 だから、工事等によって破壊消滅の運命をたどる遺跡には、何がなんでも機会を捉えて出来るだけ早く見学に行かなければならないのです。


 いずれにせよ、今回は工事着手の直前というきわどいタイミングで遺跡を訪れることが叶いました。もう破壊されて埋められているかもしれない、と何度も心配しただけに、なんとか間に合った、という思いが強かったです。トレンチも見ることが出来たし、堀切全体の状況もおおよそつかめました。トレンチから南側は以前の発掘調査区域に含まれるので、昨日役場にていただいた報告書の図面にて詳細を知ることが出来ます。

 問題は、発掘調査区域の外側です。この城郭遺跡における発掘調査区域は東側のみであるので、西側は未調査のままです。その西側へ行くには、トレンチから西へ続く農道をたどるのが早道になります。
 それで、この農道を行けるところまで辿ってみることにしました。かつては巨大な堀切の底であったところなので、そのラインを見失わずに見てゆけば、この城郭遺跡の西側の防御線をこの目で確かめることが出来るわけです。大洗町では完全に忘れ去られている、中世戦国期という歴史のドラマチックな実態を目の当たりに出来るわけです。
 それが、今回の大洗行きの主目的でしたから、いよいよだ、と胸の高鳴りを覚えずにはいられませんでした。 (続く)
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モデルアート臨時増刊号 「帝国海軍戦艦総ざらい」

2014年12月19日 | ガルパン模型制作記

 去る12月16日に発売となった、モデルアート臨時増刊号の「艦船模型データベース番外編」の第五冊目、「帝国海軍戦艦総ざらい」です。公式サイトでの案内情報はこちら。発売当日に近くの書店にて購入してまいりました。
 これでこのシリーズは航空母艦、駆逐艦、重巡洋艦、軽巡洋艦、戦艦が揃いました。次号予告がありませんでしたので、この五冊で全部ということでしょうか。まだ潜水艦やその他の艦艇もありますから、それらを対象にした号も出そうな気がしますが・・・・。

 私の艦艇模型においては、戦艦12隻のうち大和、武蔵を除く10隻を作りました。そのうち扶桑と山城と陸奥の3隻を知人に進呈しましたので、現在は7隻が手元にあります。
 最近は大部分の戦艦のキットがリニューアルされていて、模型としての精度が格段に向上していますが、今回の本を読んでそのことが改めて理解出来ました。

 なので、今後作るとなれば、手元にある古いキット群とのギャップが出てきますね。リニューアルキットの方が当然ながら実艦に近い姿になっています。リニューアルキットはメーカーごとに特徴や差異があるようですので、少なくとも姉妹艦のセットは同じメーカーの製品で作った方が良さそうです。
 例えば扶桑と山城はフジミ、長門と陸奥はアオシマ、伊勢と日向はハセガワという形で作って、メーカーごとの製品の出来栄えを見比べて楽しむのもいいですね。

 以前の記事でも触れたように、私はまだ大和、武蔵を作ったことがありません。タミヤとフジミのリニューアルキットも出揃ってきているので、今後、機会があれば作ってみたいですね。
 でも、その前に、わが連合艦隊の旗艦である長門もリニューアルキットで作り替えたいなあ、と思ってしまいます。

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カメさんチーム 38(t)戦車 作ります!! その9

2014年12月18日 | ガルパン模型制作記

 組み立て工程の最後は履帯を作りました。あとは塗装後に接着したり組み立てたりする予定なので、塗装するパーツを抜き出して整理しておきました。すべてインテリア関連のパーツです。


 塗装後に組み立てるパーツは、砲塔内の二つの座席です。C12およびD26にあたります。また砲塔前面株のパーツがC10、C11、C25とありますが、これは後で砲塔内部の塗装をする直前に接着しました。


 今回の制作では、車体を分割式とせず、車内部分を全て塗装したのちに車体を組み立てて接着する方法を選びました。そこで車内の塗装色を、劇中シーンを見ながら検討しました。
 実際の38(t)戦車の車内色は白がベースだったようですが、カメさんチームの搭乗車は、上画像のように暗い赤色が基調となっているようです。軍艦艦艇キットに長く親しんだせいもあり、どう見ても艦底色のように見えました。ガルパン仲間のN氏に電話して意見を聞いたところ、艦底色に近いという結論になったので、それでいくことに決めました。クレオスのミスターカラーの29番の艦底色を使用することになりました。
 ギアボックスや操縦桿は28番の黒鉄色とし、河嶋桃が肘をかけている無線機は16番の濃緑色としました。椅子のシート部分は赤っぽく見えますが、艦底色とあまり変わらない色を使うとメリハリにかけるので、オレンジに近いカラーに調色したものを試みに使ってみることにしました。


 上のワンシーンを参考にして、シャフトカバーは黒鉄色、砲弾ケースは濃緑色としました。主砲や機銃の砲身部分は黒鉄色、あとのパーツは室内色と同じであることが劇中でも確認出来ます。塗り分けも比較的楽に出来そうだな、と思いました。


 次の休みは天気が良かったので、窓を開けて塗装に取り掛かりました。車体内部および砲塔内部、組み立てるとインテリア空間に繋がるパーツの面などを29番の艦底色で吹き付け塗装しました。上画像では黒ずんで見えますが、実際にはもっと明るい色調で仕上がりました。


 続いてエンジンルーム全体を28番の黒鉄色で吹き、エンジン本体をさらに61番の焼鉄色で塗りました。ドラゴンキットのガイドにも、エンジンの塗装に関する指示がありませんので、自動車のエンジンの色を参考にして細部などをそれらしく塗り分けておきました。
 エンジンの塗装の際に、バッテリーの上には何もつけない、とのN氏のアドバイスにしたがって、バッテリーの上に被せてあったエッチングパーツの蓋を撤去しておきました。


 主砲の砲身上部や機銃本体、照準器も28番の黒鉄色で塗りました。劇中でもこれらの部分の色が確認出来ますので、それに合わせました。椅子や無線機も塗装しました。椅子は29番の艦底色、シートのみ艦底色にオレンジを混ぜた色で塗りました。無線機は16番の濃緑色、その保護フレームは艦底色で塗りました。


 砲弾ケースは16番の濃緑色で塗りました。


 砲塔内の天井にも砲弾ケースがひとつセットされていますので、これも同じように塗り、ペリスコープは劇中のと同じ黒鉄色で塗りました。砲塔内天井の砲弾ケースについては、劇中では存在を確認出来ませんが、私の制作においてはドラゴンキットガイドの指示にしたがって接着しています。


 エンジンフード内側の全てを28番の黒鉄色で塗りました。


 車内のシャフトカバー、変換器、操縦桿、前部機銃の本体などを28番の黒鉄色で塗りました。これらの配色は劇中のそれにならっています。


 車体前部のハッチから見えるギアボックスも、黒鉄色で塗りました。


 車内の全ての空間の塗装が完了した状態です。戦車の中というより、船の中の色彩に近いです。


 椅子、砲弾ケース、無線機を取り付けました。


 これでインテリア部分の組み立てと塗装が完了しました。


 無線機が意外に大きいです。ただでさえ狭い車内空間が余計に狭くなっています。この中にカメさんチームの三人が居てそれぞれの位置に着いていたわけです。


 左の椅子が角谷杏、右の席が小山柚子の席です。独特の形をした操縦桿も見えます。


 河嶋桃の居る空間を見ました。無線機と砲弾ケースに囲まれ、角谷杏の後ろでしゃがんで無線機に肘をかけていたシーンがリアルに思い出されます。劇中では、角谷杏と小山柚子の間に河嶋桃が身を乗り出しているシーンが何度かありますが、中央には無線機があるので、その上に乗っかったりしていたのでしょうか。


 車内の塗装が終わりましたので、次は車体上部パーツやエンジンフードなどを接着することになります。インテリアの全てを一覧出来るのは、この段階まででした。 (続く)

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く12 その6 「大貫台地へ向かいます!!」

2014年12月17日 | 大洗巡礼記

 翌朝は7時前に起床しました。外は快晴、気温は11度。窓を少し開けると冷気がすうっと忍び寄ってきました。これぐらいの寒さが中世戦国期遺跡巡りには適したコンディションです。


 寒気に体を慣らすべく、外に出て少し歩き回りました。


 向かいの茨城信用組合のウインドーには、新たなガルパンのぼりがセットされていました。以前に開催された「おおあらい川柳」での優秀作品がいくつか書かれてありました。


 7時を回りましたが、街中はまだ静まり返っていました。通学中の中学生を二人ほど見かけただけでした。


 宿の女将さんに朝食の案内をいただき、食事処「平成魚松」に移ると、はかったように水戸のU氏から連絡がありました。この日の同道は午前11時ぐらいから夕方まで可能だ、と伝えてきました。
 彼の自宅から大洗までは車で一時間もかからないので、車で行くと言ってきましたが、この日はレンタサイクルで回ると伝えると、「それならこっちもレンタサイクルにしよう、大洗駅のを利用してどこか適当な場所で落ち合おう」と言ってきました。

「この前の奈良の城跡巡りでも分かったんだが、中世戦国時代の遺跡を回るってのは車では難しいんだな、徒歩が基本だってことになれば、レンタサイクルがあると便利になるな」
「場合によっては、山道やけもの道にも分け入るかもしれんけどな」
「えっ・・・、そんな辺鄙な所なのか・・・?」
「僕もきょう初めて行くんやから、現地への道がどうなってるかも知らないんや。地図でも航空写真でも明確な道が確認出来ないんで、もう現地で手探りであたってみるより方法がない」
「なんだか凄いことになりそうだな、ワクワクしてきたぞ」
「冒険に近いから安全には留意せんとあかん、ワクワクは良いが、靴と鉈を忘れんといてや」
「鉈って何に使うんだ?クマと戦うための武器か?」
「茨城にクマは居ない、とか言ってなかったか?」
「言ったけど、そういう常識が実は間違いだったりするかもしれん。なんだか心配になってきた」
「心配のし過ぎとちゃうか」

 とは言ったものの、現地の様子が分からないだけに、こっちにも一抹の不安がつきまとっていたのでした。


 その不安を振り払いつつ、朝食を美味しくいただきました。この日の昼食は弁当持参を取り決めてありましたが、場合によっては食べる暇もなく山中や林間を移動し続けることも少なくないのが中世戦国期遺跡巡りです。だから、今回は多めに食べておきました。腹が減っては戦は出来ない、からです。


 8時過ぎに出発しました。これまでの大洗行きにおいては無かった、独特の高揚感を感じました。なにしろ大洗の中世戦国期の遺跡群にアタックするわけです。未知のエリアに突入するわけです。その歴史に向き合うとなると、こっちもその時代の気分にならざるを得ず、戦国武者のように身震いしてしまいました。ですが、商店街は静まりかえったままでした。


 レンタサイクルを利用するべく、お馴染みの榎澤輪業商会さんへ向かいました。その途中の多満留屋さんの店先で、手作りのウッドクラフト戦車シリーズの案内を見ました。


 自転車に乗って、一気に大貫商店街を駆け抜けました。みむら時計店の付近まで来ると、大貫台地の北端にあたる浅間神社の丘が前方に見えてきました。その横の旧街道に進むべく、馬に鞭をくれ・・・、いや、自転車のペダルをこぎました。


 旅館舞凛館の付近から見た浅間神社の丘です。地形的には要害性に富み、台地の端を護って街道を監視する砦の位置には最適ですが、しかし昨日の探索では城砦とするに足る成果が得られませんでした。隣のウツギ崎砦も本物かどうか分かりませんでしたから、この地域においては中世戦国期において緊張状態があったというようなイメージが湧きませんでした。

 この辺りは、戦国期までは常陸大掾氏の勢力圏だったとされていますが、鹿島・行方の「南方三十三館」には大洗の城館は含まれていないようです。江戸氏が進撃し、佐竹氏が殲滅した在地領主たちの中にも、大洗の在地勢力は含まれていません。いったい、大貫台地上に城館を構えた勢力とは、どのような史的位置を有していたのでしょうか。


 昨日探査した浅間神社です。前を通って鳥居に向かって拝礼するにとどめておきました。


 昨日の夕方も歩いた道です。これが旧街道の名残で、大部分は中世期からのルートを踏襲しているとされますが、国道51号線との合流点あたりから南西への道は消えてしまったそうです。


 昨日、犬を連れた老人たちに「首切り山だ」と教えられた林の一つです。位置的には鹿島臨海鉄道のトンネルの東側にあたります。その近くで戦前に農地を開拓した際に、人骨や土器などがゴロゴロ出てきたということです。おそらく、中世期の葬送場などがあったのかもしれません。


 しばらく行くと、ウツギ崎の方へ連絡する道との交差点に着きます。向こうに見える山も「首切り山」と教えられました。大貫台地上に中世の館や集落があったことが分かっている以上、その周辺の丘や山には、墓地や葬送場も営まれていた可能性が高いです。そういった場所を開発などで掘り返せば、人骨ぐらい出てきても不思議はありません。
 江戸期までは、人骨が出てしまうと、中世戦国期までの悲惨な歴史と結び付けて「祟りがあるかもしれない」と忌避する風習がありましたから、そうした場所の識別法として「首切り山」の呼称を付けておく、といったパターンではなかったか、と思います。そういう場所へは近寄るな、という意味にて語り継がれてきたのだろうと推測しています。


 左手の鬱蒼とした竹林が、西光院の裏山にあたります。戦前までは一帯が荒れ野原と雑木林であったそうですが、いまでは農地や宅地として切り開かれていて、昔ながらの藪や林はあまり見かけませんでした。


 西光院の裏山から西に見える丘も「首切り山」の一つです。発掘すれば、中世期の墓地などが検出される可能性があります。字名は「寺ノ上」「行人」「万歳楽」「宮女平」「稲荷場下」などに細かく分かれていて、寺院または神社がかつて存在した可能性を示唆しています。付近には「稚児墓」もあり、まさに墓地が存在したことをうかがわせてくれます。

 興味深いのは、付近の字名に「鬼窪」や「中丸窪」など、窪の字がつく名前がある点です。畿内では窪は文字通りの窪地を指す他、葬送儀礼や墓地などにあたる低地を指すことがあります。関東でも同じように捉えてよいかは分かりませんが、いま「首切り山」と呼び伝えられている場所が「鬼窪」や「中丸窪」の字名になっているのは、示唆的です。 (続く)

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