気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

洛西竹林公園の百々橋

2021年01月31日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2020年6月21日、買い替えたばかりの原付バイクの初の遠乗りを楽しむべく、西京区方面の史跡や社寺を回りました。その際に洛西ニュータウンの東にある上図の竹林公園に寄りました。
 以前に中世上京の範囲を散策した折に、応仁の乱の激戦地の一つでもあった百々橋の跡を見ましたが、百々橋の本体はこちらの竹林公園に移築保存されているため、ついでに見ておこうと立ち寄ったわけです。

 

 京都には子供の頃から長く親しみ、以前は東山区今熊野や南区吉祥院にあわせて5年ほど下宿もしていて、京都の大体の所は行っていますが、竹林公園は今回が初めてでした。京都の竹の博物館というか、植物園スタイルの施設なので、これまであまり興味が無かったからです。

 メイン施設の「竹の資料館」を見学した後に裏口にて上図の案内マップを見ますと、谷間のほうの川に「百々橋」とありました。園内では唯一の橋であるようで、散策路に組み入れて現在も橋として機能しているとのことでした。

 

 早速行ってみました。すぐに石橋が見えてきました。おお、なかなか立派な石橋だな、と思いましたが、元所在地である現在の寺之内通の道幅の半分程度しかありません。車が渡るにはかなり不便です。これは小川が埋め立てられなくても、いずれは撤去される運命にあったわけだ、と納得しました。

 

 かたわらには、かつての橋脚の礎石のひとつが置かれ、説明板が立ちます。

 

 説明板の本文です。明治40年に改築とありますが、橋の改築というのは架け替えとは違う場合がありますので、それ以前から存在した石橋を修繕目的で改めて組み直したものかもしれません。もしそうならば、橋の石材の何割かは、江戸期ぐらいからのものである可能性があります。

 以前に小川通の散策をした折に見学した本法寺の石橋や報恩寺の石橋が江戸期の遺構でありますから、この百々橋も相前後する時期に板橋から石橋に換えられ、それが明治40年に改築された、と解釈すれば良いでしょうか。

 

 礎石です。小川通の「百々橋ひろば」に置かれていた礎石と似たり寄ったりの遺品です。橋脚の礎石は4個ありましたが、残る2個は室町小学校に保存されていると聞きました。機会があればそちらも見に行く積りです。

 

 百々橋の本体です。現在は川の真ん中に中之島を築いてそのうえに橋脚を建てているため、礎石が必要ないわけです。礎石を元通りに戻さないのはこういうことか、と納得しました。

 

 渡ってみました。羽目板の一部にはタガネで彫ったような交差模様などが見られます。たぶんこれらが改築前の石橋の旧材であるのでしょう。これらの表面の磨滅の度合いが大きいのもあり、交差文様が消えかかっているのも見て取れました。

 

 渡った後に反対側から見ました。

 

 奥の散策路を登りつつ、振り返って見たところです。一般的に中世戦国期の板橋と、近世期の石橋は、原則的に同じ規模で造られることが多いです。なぜかというと川の中に埋め込む基礎積みや礎石の位置を変更するのが大変な工事を伴うため、改築や架け替えの場合も、もとの橋脚の基礎をそのまま使うケースが殆どです。

 それで、この百々橋の規模も、おそらくは中世戦国期の板橋のそれに近いのだろうと推察します。この規模より小さい板橋であったならば、応仁の乱の最前線にあっても大軍が渡るのは不可能であるため、橋の両側で小川を境にして対峙する形になりがちであろう、と思います。

 以上、応仁の乱ゆかりの百々橋の見学報告でした。

 


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聖グロリアーナ女学院ガイ・フォークス ハリー・ホプキンス軽戦車 作ります!! その4

2021年01月30日 | ガルパン模型制作記

 車体の組み立ての続きです。上図の赤枠内にある側面後部の吸気口を作ります。天板の傾斜に合わせて一番上が短くなっています。左右対称ですので、対で組み付けることにしました。

 

 プリント図からカットした型紙に沿ってプラ板をカットしました。細いパーツに切る際にやや曲がり気味になってしまうので、指で押さえて反対側に反らせたりして是正しました。

 

 最初のパーツを斜めにセットしました。これを起点として各パーツを組み付けてゆきました。

 

 組み上がりました。その後に各部のはみ出し部分をカットしたり、ヤスったりして整形しました。

 

 反対側も同じように組み立てました。

 

 次に、背面の排気管を取り付けます。排気管自体はテトラークのそれと同じものを転用しているらしく、細部のディティールもほぼ同じでしたが、マフラーの長さがやや短くなるほか、取り付け位置が異なります。

 

 パーツはテトラークのものをそのまま使用し、マフラーを少し切り詰め、パイプの形状を作り直しました。

 

 足りないパーツはプラ板をカットして作りました。

 

 組み付けてノズルの向きも合わせました。パイプはテトラークのパーツを切ったり繋いだりして形を合わせるだけで済みました。ハリー・ホプキンスの設計がテトラークのそれを流用しているというのが改めて実感出来ました。  (続く)

 


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継続高校チームのT-26軽戦車

2021年01月29日 | ガールズ&パンツァー

 去る1月20日より解禁となった、最終章第3話の本予告映像にて、また1輌あらたな戦車が登場しました。上図の継続高校チームのT-26軽戦車です。この場面には薄灰色の三角旗をかかげたフラッグ車のBT-42も出ており、T-26軽戦車がこれを護衛する役目をこなしている様子が伺えます。

 継続高校チームがT-26軽戦車を保有している事は、既に2014年刊行の「月刊戦車道」第6号の28ページの継続高校の紹介記事にて述べられ、第63回戦車道全国高校生大会にて試合にも参戦している旨が2015年刊行の「月刊戦車道 第63回戦車道全国高校生大会総決算特別号1」にて紹介されています。
 したがって、アニメ本編にいずれ出てくる事は前々から予想され、大洗女子学園にとって継続高校チームとの対戦が既定路線となってからは、実質的に時間の問題であったと言えます。

 また、コミック版の「フェイズエリカ」においても継続高校チームの1輌として対黒森峰女学園戦を戦っており、その作中車はT-26Bタイプの車体と1933年型砲塔との組み合わせに1938年型の要素を混ぜ込んだ独自の姿にて描かれています。それは、T-26軽戦車が史実においても色々なバリエーションを展開して時期毎に異なる形状を示していた経緯をある程度反映させた設定であったのかもしれません。

 なので、個人的には最終章第3話にて対継続高校戦が実現するならば、継続高校チームの1輌であるT-26軽戦車も必ず出てくる、と当たり前のように思っていました。問題は、色々なバリエーションをもつT-26軽戦車が、どのバージョンで登場するか、という点でした。

 

 そして初登場の劇中車の姿に接した途端、あれ?と思いました。新たな戦車が加わった事に対する感動もありましたが、それ以上に劇中車の姿が、私自身の予測していたイメージのバージョンと違っていたことによる驚きとショックのほうが大きかったのでした。

 まず、車体をBタイプだろうと予測していましたが、上図のようにCタイプでした。つまりはT-26Cです。1938年の末期より生産が始まって資料類では1939年型とされている形式です。これに、1938年から採用された形状の砲塔がセットされていますので、全体的にはT-26Cの1939年型のように見えました。
 以前に「フェイズエリカ」版の作中車を再現製作する際にT-26軽戦車の歴史やバリエーションを一通り調べましたから、おおよそのイメージは把握出来たのでした。

 しかし、砲塔が本来の左側ではなく、右側にオフセットされている点に違和感を覚えました。さらに砲防盾に段差が付いています。ソ連軍が運用したT-26Cの砲塔には有り得ない状態でした。初登場の劇中車の姿に接した途端、あれ?と思ったのは、これらの相違点に気付いたからでした。

 加えて、戦闘室前面の左側に奇妙な五角形にみえる機銃マウントがあることも、違和感をより強めました。こんなタイプのT-26Cってあったのかなあ、フィンランド軍が鹵獲して以降に加えた独自の改造なのかなあ、と考えを巡らせつつ、またガルパン独自の形状を織り込んできたかな、いやそれは無いかも、と思い迷いました。

 こういう場合、もともと仏教美術史や歴史関連の研究者だった身としては、歴史的な知見や情報についてはしかるべき研究機関に問い合わせて正確な内容を提示して貰うのが最適解だ、と考えます。ソ連の軍事車輌ですから、日本国内に情報を求めても意味がありません。ソ連の戦車に関して最も正確で豊富な情報を網羅するのは、現在のロシアの戦車博物館つまりはクビンカ軍事博物館などの学芸部門しかありません。
 そこで、最終章第3話の本予告映像に初めて接したその日のうちに、あらかじめ調べてあったクビンカ軍事博物館のメアドに向けて、質問事項を英文で送信しました。

 返事のメールは、三日後の1月23日の昼過ぎに届きました。丁寧な文章に添付の図面が3枚添えられて、T-26軽戦車のバリエーションが分かりやすく示されていました。自身の理解の浅さを悟るとともに、新たな学びの感動に身を震わせずにはいられませんでした。この場を借りて、改めて感謝申し上げます。

 返事でのご教示内容によれば、T-26軽戦車は大まかに分けて車体が3型式、砲塔がMシリーズで3種、OTシリーズで3種の計6型式あるそうです。そして砲塔の位置はMシリーズで左側にオフセット、OTシリーズで右側にオフセットだそうです。さらに、それまであまり知らなかったOTシリーズ、T-26軽戦車を火炎放射車輌に改造した派生型についても詳しく知ることが出来ました。
 そして劇中車のモデルがフィンランドのパロラ博物館に現存する1939年型の「Ps.164-7号車」で、これはもとはOT-133火焔放射戦車であったものを砲身だけ交換して元の45ミリ砲に戻しているタイプであることも示されました。砲防盾につく段差と、砲塔の右側オフセットはOT-133火焔放射戦車の特徴であることも知りました。

 以上の情報により、継続高校チームのT-26軽戦車は、モデルがパロラ博物館に現存する1939年型の「Ps.164-7号車」であって、そのまま忠実にアニメ化していることが理解出来ました。五角形の機銃マウントもフィンランド軍の独自改造による追加要素であるそうです。

 

 返信を書いて下さった学芸員の方は、どうやらガルパンも御存知であるようで、RUBICON MODELSのサイトおよび窓口アドレスも資料図面に書き添えてありました。それでRUBICON MODELSをネット検索して見つけたのが上図のT-26軽戦車の形式一覧図ですが、これによってさらに分かりやすくなります。

 先に述べた、車体が3型式、砲塔がMシリーズで3種、OTシリーズで3種の計6型式、というのがこの図でも簡単に分かります。
 これらをきちんとおさえておくと、模型的には再現製作への適応キットの絞り込みに役立ちます。ネット上やツイッター上で適応キットが分からなかったり、違う形式のキットを購入していたりする事例が散見されますので、私自身も間違えないように、あらためてここでおさらいしておきます。

 

 まずは「車体が3型式」ですが、御覧のように左から双砲塔式のT-26A、単砲塔式のT-26BおよびT-26Cと並びます。T-26AとT-26Bは原型のヴイッカース6トンの車体をそのまま受け継いでいますが、T-26Cはアンダータレットボックスの三方を傾斜装甲に換えています。
 そして最終章第3話の劇中車は、車体は1939年からの生産型であるT-26Cにあたります。

 なお、T-26Eという形式もよく知られますが、これはヴィッカース6トン車の車体にT26の砲塔を載せた改造型を指します。クビンカ軍事博物館の基本分類ではヴィッカース6トンの系列に含めており、したがってT26系列には属さない亜流の型と位置づけているようです。

 

 次に、「砲塔がMシリーズで3種、OTシリーズで3種の計6型式」というのを上掲の図にてみてみましょう。御覧のようにMシリーズの双砲塔の1931年型、単砲塔の1933年型および1935年型、1938年型および1939年型、の3種類があり、その3種類をそのまま火炎放射筒に換えたOTシリーズがあります。1931年型を使用したOT-26、1933年型を使用したOT-130、1938年型を使用したOT-133、の3種類です。

 そして最終章第3話の劇中車の砲塔は、1938年型および1939年型を使用したOT-133のタイプで、フィンランド軍が鹵獲した後に砲身を火炎放射筒から元の45mm対戦車砲に戻した現存車輌の状態をそのまま示しています。その改変によってT-26Cの姿にほぼ等しくなりましたが、右側へのオフセットなどがソ連軍の正規のT-26Cの1938年型および1939年型の砲塔には有り得ない状態ですから、最初に見た瞬間に違和感を覚えたのも間違いではなかったことになります。

 

 参考までに、劇中車のモデルとされるフィンランド軍の車輌の図を挙げておきます。車体はT-26Cのタイプ、砲塔はOT-133のタイプで砲身だけが本来の45mm対戦車砲に戻されています。

 

 そしてこちらが火炎放射車輌のOT-133です。砲塔天板上のループアンテナ基台を撤去した跡が見えるので、砲塔自体は1939年型のタイプでしょうか。これの火炎放射筒を外して元の45mm対戦車砲に換えれば、劇中車の姿に通じてくることが分かります。

 以上、継続高校チームのT-26軽戦車について、クビンカ軍事博物館への問い合わせ事項に対する返信教示をふまえ、自身なりに忘備録を兼ねて分かりやすくまとめました。これらの情報を活かして、後日、その適応キットについて紹介する予定です。

 


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中世上京を歩く その8 小川跡と上立売通

2021年01月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 報恩寺の東門は、かつて小川に面していましたので、それに架かる石橋がいまも残っています。江戸期の慶長七年(1602)架橋の刻銘があります。本法寺の石橋とともに小川の名残をとどめる遺構として知られます。それ以前の橋は、おそらく板橋であったものと推定されます。

 

 石橋から横を見ますと、このように小川の跡が細長い空間となって残されています。いまは境内外縁の通路として使用されているようです。

 

 報恩寺の東門と石橋をあらためて振り返りました。

 

 報恩寺門前より再び南下して上立売通に出て左折し、次の辻で右折して、上図の小川通に戻りました。左手に小川児童公園がありますが、この辺りはかつては摂家近衛氏の屋敷地の付近にあたり、「洛中洛外図」でも「近衛殿」と記されます。「近衛殿」は近衛家17代当主の左大臣近衞前久(このえさきひさ)にあたります。左大臣は太政官の職務を統べる議政官の首座ですから、今でいうと総理大臣にあたるポストです。

 そしてこの通りの東側に「高畠甚九郎」の屋敷地がありました。「高畠甚九郎」とは細川氏の家臣であった高畠伊豆守長直にあたります。通りの西側には「飛鳥井殿」の屋敷地がありました。「飛鳥井殿」とは藤原北家師実流(花山院家)の一つ難波家の庶流であった飛鳥井家のことで、「洛中洛外図」が描かれた頃の当主は第13代の権大納言飛鳥井雅庸(あすかい まさつね)でした。
 つまり、この辺りはかつての上京の中心地であり、当時の幕府および朝廷のトップクラスの重臣の屋敷が並んでいた地域です。

 

 小川通と交差する上立売通です。中世戦国期を通じて上京の東西路として機能し、足利氏の御所および菩提寺への連絡路でもありました。東は室町御所に接し、西は北山御所や等持院にも繋がる重要な街路として、南北路の室町通と並んで重視された通りです。
 この上立売通の北側は、「洛中洛外図」では「細川殿」と記されます。室町幕府の管領職を務めた細川京兆家、右京太夫の屋敷地です。当時の当主は15代の細川高国または16代稙国の父子にあたります。

 

 向かいの小川児童公園に建つ案内板です。「細川殿」の屋敷地を11代細川勝元以来のそれと見なす見解に拠って述べられていますが、考古学的な知見は未だに得られていませんから、確証はありません。
 最近の研究動向によれば、細川管領家の屋敷は応仁の乱前後に移転している可能性があるようで、もとは室町御所に近い所、寺之内通の南に位置していたとの推論もあるようです。いずれにせよ、発掘調査で確定したわけではないので、今後もしばらくは謎の部分が多いままとなるでしょう。

 

 案内板の上京復原推定図を見ると、この大して広くない範囲に足利将軍の室町第をはじめ、細川氏、畠山氏、山名氏ら幕府の重鎮および朝廷の公卿の面々の屋敷が集まっていたことが分かります。まさに中世戦国期の日本の政治機能の中心地でしたが、首都と呼ぶにはいささか貧弱な様相であったようです。いまの京都市街の10分の1にも満たない面積であり、防御線として堀や土塁を設けて構の形態を示していました。

 

 これで上京の史跡の大半は回りましたので、小川児童公園にて、お茶を飲みながら一休みしました。

 

 それから小川通をふたたび南下して、今出川通との交差点を通りました。中世戦国期の上京の南限は一条通であったので、この辺りにも幕府の重鎮および朝廷の公卿の面々の屋敷地が並んでいました。

 

 最後の目的地は、かつての上京の宗教的エリアとされて信仰の結集点とされた小川通沿いの寺院群の旧跡でした。上図の案内板にあるとおり、現在は丸太町寺町にある革堂行願寺などが、中世戦国期にはこの辺りに並んでいました。
 他に六角通の誓願寺、百万遍の知恩寺もかつてはこの地において甍を並べていたのですが、いずれも豊臣秀吉の街区再編事業によって移転させられ、それぞれの現在地へ移りました。

 

 革堂行願寺などの旧跡の一部は、現在は小川通の西側にある「小川なかよし広場」となっています。前掲の案内板も広場内に建ちます。

 

 「小川なかよし広場」から小川通を今出川通へ引き返す途中、西側の京都市立みつば幼稚園の敷地内にある上図の旧石橋の遺品を見ました。今出川通の小川にかつて架かっていた石橋の親柱です。左が今出川通、右が小川の名を刻してあります。かつての小川の名残の一つです。

 以上で、中世上京エリアの散策を終えて、近くの上京総合庁舎前から市バスに乗って帰りました。  (了)

 


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聖グロリアーナ女学院ガイ・フォークス ハリー・ホプキンス軽戦車 作ります!! その3

2021年01月27日 | ガルパン模型制作記

 上部車体の自作に取り掛かりました。ネット上で見つけたハリー・ホプキンスの三面図をパソコンの3D描画ソフトに落としこんで寸法を1/35スケールに指定し、仕上がった図面を正面、側面、背面、上面の4アングルにてプリントしました。それぞれのプリント図の車体各部を切り取って型紙とし、それをプラ板に添えてカットしてパーツを作りました。

 プラ板を切り出したパーツは、上図のように正面部分から始めました。ここから左右の装甲板の各パーツを貼り合わせて繋いでゆくという手順でした。

 

 次に左右のフェンダーをプラ板でカットしました。ハリー・ホプキンスのフェンダーはテトラークよりも幅があって後半部が鍵形に広くなりますので、テトラークのフェンダーのパーツは転用出来ません。

 

 左右のフェンダーを取り付けました。上部車体の構築はフェンダーから上において進めますので、フェンダーがプラ板で自作する車体範囲の下辺にあたることになります。

 

 続いて車体後部をプラ板パーツで組み上げました。まず上図のように側面に支持板を垂直にかませて強度を付けておいて、天板を三枚のパーツで順に傾斜を付けてセットしました。
 それから、左右フェンダーの中央に付く雑具ボックスを、テトラークのパーツをベースに転用してプラ板で組み立てました。

 

 それから車体後部側面の傾斜板を貼りました。ハリー・ホプキンスの車体は傾斜装甲で覆われていて全体的に三角形の輪郭にまとまります。したがって全ての傾斜装甲板を貼りつけることで、上部車体が組み上がることになります。

 

 前面の左右の傾斜装甲板を貼り付けました。寸法計算をミスって上辺がやや斜めに折れましたが、修正しても大して変わりませんので、そのまま進めました。

 

 続いて背面部を作りました。御覧のように給排気システムをともなって複雑な形状を呈しています。上図はAタイプの背面で逆台形になっていますが、他に方形になっているBタイプがあります。作中車は背面部の描写が見当たらなかったため、方形になっているBタイプで製作することにしました。

 

 排気口はガンプラ用のパーツをモケジョさんに貰いましたが、御覧のように大して違和感もなく、それらしい形に仕上がりました。両側の耳状のパーツはプラ板で作りました。

 

 方形になっているBタイプで製作した背面部です。テトラークのパーツが転用出来ませんので、プラ板をカットして貼りました。

 

 この段階で、上部車体の大体の輪郭が仕上がりました。  (続く)

 


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ガールズ&パンツァー もっとらぶらぶ作戦です! 15

2021年01月26日 | ガールズ&パンツァー

 去る1月21日に発売されました、ガールズ&パンツァー もっとらぶらぶ作戦です! 第15巻です。表紙いっぱいに躍動するのはウサギさんチームの6人ですが、今号の主役であるからです。いちおうM3中戦車リーも出ていますが、戦車戦や試合などは一切ありません。

 このコミックもけっこう息が長いですね。と言うか、よくここまで続いていますね。最終章シリーズがこの3月26日に第3話の上映をスタートする予定で、まだまだネタが尽きることはありませんから、まだまだ続きますね・・・。

 


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中世上京を歩く その7 報恩寺の内外

2021年01月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 宝鏡寺の辻、「百々橋ひろば」からの小川通は、もとは「洛中洛外図」に描かれる通りにまっすぐ南下していましたが、その後の街区再編によって東にずれており、現在は東へ二番目の辻まで進んで右折し、再び南下するルートになっています。
 しかし、町並みの様子をみるに、もとは東へ一番目の辻で右折するほうもかつては小川通だったのではないかと思います。この通りのほうが立派な構えの古民家が多く、上図のように現代の民家と入り混じって並びます。

 

 とりあえず、この東へ一番目の辻で右折するほうの通りを南下しました。現在の小川通のひとつ西側の通りです。この通りに立ち寄りたい寺院が一ヶ所あったからです。

 

 その立ち寄りたい寺院とは、報恩寺でした。上図は門前に立つ案内板です。

 

 案内板は寺号標柱の脇に立てられています。標柱の横から参道が山門へとのびています。

 

 立ち寄った理由は、まだ未訪の寺であったのと、上図の国重要文化財の梵鐘を拝見するためでした。実は平安時代の梵鐘というのは大変に数が少なく、京都市においてはいわゆる日本三大名鐘のうちの二つ、神護寺梵鐘と平等院梵鐘がありますが、その他の遺品はあまり伝わっていません。

 

 なので、この報恩寺梵鐘は日本国内でも数少ない平安期梵鐘の貴重な遺品であるわけです。私自身は平安期梵鐘を京都以外では滋賀県の佐川美術館、奈良の栄山寺の二ヶ所でしか見た事がありませんので、今回の散策では報恩寺梵鐘をどうしても見ておきたかったのでした。

 上図のように、平安期の梵鐘としては古式を示します。笠形が割合に高く、細長いスマートな形態の梵鐘で、見た感じでは栄山寺梵鐘に似ている気がします。乳の形もシンプルで、八角素弁小形の撞座(つきざ)が龍頭(りゅうず)の方向と直交するあたりは天平時代ふうの伝統的要素です。池の間(いけのま)に金剛界四仏を籠字(かごじ)であらわし、その下に梵文の真言を刻んでいますが、これはあまり類例を思いつかない珍しい意匠です。

 

 梵鐘を吊るす鐘楼の横には無縁墓地があり、数多くの石仏や板碑、五輪塔が集められていますが、ほとんどが中世戦国期の古い遺品なので、石造品の歴史も勉強した身としては色々と興味深いものがあります。応仁の乱の戦没者の関連品も相当数混じっているのではないかと思います。

 

 報恩寺は、寺伝では室町時代に一条高倉に開創したと伝わります。もとは法園寺または法音寺という天台・浄土の兼宗寺院でしたが,文亀元年(1501)に堀川今出川に移転,浄土宗報恩寺と改めました。さらに天正十三年(1585)に豊臣秀吉の街区再編事業により現在地に移され、享保・天明の大火に類焼したものの、いまに至っています。

 

 境内にあるこの丸い石、どうみても礎石なんですね・・・。かつての堂宇のそれでしょうか。

 

 さらに気になるのが、寺の山門である東門の建築です。寺院の正門にはめずらしい高麗門の形式です。屋根は近年に葺き替えられているようですが、鏡柱や控柱などの軸部はかなり古く見えますので、江戸期ぐらいの建物のようにみえます。寺でも案内文を出しておらず、京都府の指定文化財建築リストにも載っていませんので、実年代はもっと新しいのかもしれません。  (続く)

 


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聖グロリアーナ女学院ガイ・フォークス ハリー・ホプキンス軽戦車 作ります!! その2

2021年01月24日 | ガルパン模型制作記

 ハリー・ホプキンスは、上図のように車体の大部分が平面から成っており、作中車はフェンダーも角形であるため、プラ板での組み合わせをうまくこなせば、再現製作はそんなに難しくない筈です。普段からプラ板でのスクラッチに慣れている方ならば、大抵は作れるのではないかと思います。

 足回りはテトラークとほぼ同じであるため、テトラークのキットをベースにすることで目処が付きますが、車体の輪郭もそんなに変わらないため、車体においてもテトラークのパーツをある程度生かすことが出来ます。

 

 そこで、まずはテトラークの車体パーツを転用出来る範囲まで見積もって組み立てることにしました。上図の車体下部パーツはそのまま足回りのベースとして使います。

 

 続いて砲塔および砲塔の位置の車体パーツも形を合わせてカットするなどして活用しました。左右のフェンダーも最初は転用しようかと考えましたが、形状が異なるのと、車体とのかみ合わせ部分をプラ板で作ったほうが良いことに気付いたので、転用は取り止めました。

 

 とりあえず、ハリー・ホプキンスの図面と照らし合わせて共通部分のみをカットして組み上げました。箱型車体のテトラークと違って、ハリー・ホプキンスの車体は傾斜面に多く囲まれるため、車体上部のパーツが転用出来るのは上図の砲塔まわりだけとなりました。

 

 続いて、カットしたパーツの一部を上図のように砲塔の後の内側に斜めに差し込んで接着固定しました。これが車体後部のプラ板工作部分の基礎となります。
 車体上部においてテトラークのパーツを転用したのはここまでとなり、あとはプラ板を切り貼りしての組み上げ工程となります。

 

 続いて足回りの製作に進みました。上図の実車写真により、車輪や履帯などはテトラークとほぼ共通している事が分かりますので、テトラークのそれをそのまま組み立てることにしました。

 

 ああ、このややこしくて面倒くさくて疲れてしまう組み立て作業を再びやらなければならないのか・・・。

 

 この複雑なトラス状の部分が、テトラークを作った際の一番の苦難の作業でしたから、二度と作りたくない、と思ったのですが・・・。

 

 なんで二度もこれを作らないとあかんのか・・・。しっかり一時間余りを要しました・・・。もう、やだよ、これ・・・。

 

 車輪のほうは、簡単に組めるので問題はありません・・・。

 

 とにかく組み立てを終えました。もう、3度目は絶対に無い、と断言します。不幸にもまた作る羽目になったならば、対策としては夜逃げしかありません・・・。  (続く)

 


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コレが本当の戦車模型道

2021年01月23日 | ガールズ&パンツァー

 去る1月19日に大日本絵画より発売されました、「コレが本当の戦車模型道」です。月刊アーマーモデリング編集部による編集とありますので、これまで月刊アーマーモデリングに掲載されていたガルパン車輌プラモデルの製作記事をまとめて一冊にした仕様です。
 月刊アーマーモデリングに掲載されていたガルパン車輌プラモデルの製作記事というのは、ほとんどプロモデラーの内藤あんも氏が担当されていましたから、この本は実質的には内藤あんも氏の製作記事集であると言えます。

 ですが、本体価格が3500円もするのに驚いたらしく、サークル仲間のT氏、I氏、そして8人のモケジョさんの誰もが購入を諦めたと聞きました。皆さん月刊アーマーモデリングは毎月読んでいますから、この本の内容は見なくても大体分かる訳です。それに、ガルパンプラモデル制作の根本バイブルとされるガルパンアハトゥンクでさえ2000円ですから、この本の値段は高過ぎます。

 なので、もちろん私も買っていません。内藤あんも氏だけでなく、全国各地のガルパンモデラー10数名の製作記事集であったならば、買っただろうと思います・・・。

 

コメント (2)
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中世上京を歩く その6 百々橋跡と宝鏡寺

2021年01月22日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 表千家不識庵の門前から南へ進みました。この辺りは景観保護の重点地域であるそうで、小川通の風景のなかでも歴史的な風情が保たれています。江戸末期を上限とする伝統的な京町屋の並びがよく残されています。
 これより南にも古い町屋は幾つかありますが、町並みとして一定の規模で残っているのはここだけです。そのためか、小川通の景色としてよく観光ガイド類で紹介されています。

 

 その古い町並みを南へ抜けると、右手に整備された史跡公園があります。その奥には寺之内通との辻があります。

 

 史跡公園の名前は「百々橋ひろば」といい、かつてここを流れていた小川(こかわ)に架かっていた寺之内通の石橋であった「百々橋(どどばし)」の礎石が記念碑のような感じで残されています。かつての橋の4基の礎石のうちの一つです。

 中世戦国期には小さな板橋であったこの橋は、応仁の乱のさなか、上京の合戦にて両軍の境目にあたることが多かったため、その占有は戦線の移動および陣場の確保に繋がったようです。それで、この小さな橋を巡っての戦闘が幾度も繰り広げられたといいます。
 その後、近世において石橋に換えられて昭和40年代まで架かっていた百々橋ですが、小川の埋め立て暗渠化にともなって撤去され、別の場所に移築保存されています。

 

 現地の解説板です。いま「百々橋ひろば」になっている範囲は、かつての小川の部分にあたります。史跡公園にするぐらいならば、ここだけでも埋め立てずに残せばよかったのに、と思うのは私だけでしょうか。

 ただ、百々橋のほうは近世以来の古い石橋であるため、車の通行には不向きであり、寺之内通の車道化にも支障をきたすために撤去されました。これは仕方のない成り行きであり、撤去後は部材を室町小学校にてしばらく保管したのち、昭和56年に開園した洛西の竹林公園に移築され、いまではその立派な石橋の姿を見ることが出来ます。
 その百々橋については、後日に洛西の竹林公園へ行って見学してまいりましたので、またレポートします。

 

 「百々橋ひろば」から寺之内通に出る辻の北西側に、上図の宝鏡寺が位置しています。皇室より内親王が入寺する門跡寺院のひとつで、「百々御所」の旧称をともないます。中世の応安年間(1368~1375)の開創といい、戦国期にも存在して「洛中洛外図」にも描かれます。「洛中洛外図」に描写される寺院が位置と法灯とを今に伝える稀な事例です。

 

 門前の案内板です。京都めぐりの観光客には「人形の寺」として親しまれ、女性に人気があるそうです。

 

 ですが、本来は門跡寺院ですので格式は高く、皇室はもちろん、足利将軍家の庇護を得て禅宗尼寺五山の筆頭に位置しました。その「百々御所」の伝統を受け継ぐかの如く、伽藍建築群も立派な構えをみせています。江戸期の天明八年(1788)の大火で相当の被害を蒙り、それ以降の復興事業で整備されたのが現在の建築群です。一括して京都市の指定文化財になっています。

 

 それとは別に、中世戦国期の様相をいまに伝えるのが、上図の建物です。境内を囲む築地塀の南東隅、百々橋の旧位置に接して物見櫓のような雰囲気をただよわせます。
 この建物の前身である櫓状の建物が「洛中洛外図」の同位置に描かれており、かつての宝鏡寺が要塞寺院として軍事的色彩にいろどられていた様子をうかがわせますが、その建物の外観を受け継ぐかのような姿で同じ位置に建物が残されて今に至るのも、京都らしさを感じさせます。

 

 寺之内通より、その宝鏡寺の南東隅の建物と百々橋跡、「百々橋ひろば」を見渡してみました。この狭い範囲が応仁の乱の激戦地であったのです。東西両軍あわせて6万余りの軍勢の最前線部隊がこの辺りで橋をめぐって争奪戦を演じていたわけですが、そんな戦場に隣接していた宝鏡寺が全滅せず、移転もなされずに今日まで維持されているところに、門跡寺院としての格と底力の何たるかが示されているように思います。
 宝鏡寺の公式サイトはこちら。  (続く)

 

 百々橋跡の地図です。

 

 宝鏡寺の地図です。

 


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聖グロリアーナ女学院ガイ・フォークス ハリー・ホプキンス軽戦車 作ります!! その1

2021年01月21日 | ガルパン模型制作記

 昨年末よりマチルダⅡ、テトラーク、ACV-IPと聖グロリアーナ女学院チームの車輌を連続して製作し、さらに初のガレージキット車輌製作に挑戦すべくモーリスLRCを作り始めた頃、サークルの先輩アンドー氏がリモート会話にて次の車輌候補を提案してきました。「ガレキにも手を付けたんなら、ハードルをさらに上げないとアカンな・・・」と例の上から目線の口調で、理不尽かつ不吉な囁きをモニターから送ってくるのでした。

 聞けば、これも「イヨマンテのお告げ」なのだそうでした。この人のこういう悪癖は何とかならないものか、となるべくモニターを見ないようにしていましたが、「おいコラコラ、謹んで拝聴したまえ、イヨマンテのお告げによって星野の次のガルパン車輌の候補が示された」とスピーカーから容赦なく声が響いてくるのでした。

 対巨人ジャイアンツ戦、スコアは0-0、9回裏ノーアウト満塁、打席に岡本和真を迎えてピンチに陥った阪神タイガースの心境に陥りつつも、仕方なく「何ですか・・・」と問い返すと、先方は得意そうに「いとしのハリーや」と言い放ってきました。
「いとしのハリー?高見まこの漫画の事?それ、いとしのエリー、ですよ」
「何を言っとるんやお前は、「いとしのハリー」つうたら聖グロのダー様の名セリフやろうが」
「そんなセリフは聞いた事ありませんが・・・」
「それはお前が記憶力減退になっとるからやろうが。確かに存在する名セリフというか格言である!」
「どこが格言なんですか・・・、そのセリフの示すところをもうちょっと具体的に言って下さいよ・・・」
「しょうがねえ奴やな・・、軽戦車マークⅧ、ハリー・ホプキンスや」
「ああ・・・」

 やっと思い当りました。ダージリンのセリフは正しくは「私のハリー君」でした。「リボンの武者」第6巻75ページ1コマ目にて、ダージリンがローズヒップに「私のハリー君のほうはどうかしら?」と聞いています。このセリフによってダージリンがタンカスロンイベント「大鍋」に参戦する意志があること、およびその搭乗車輌が初めて明らかになったのでした。
 アンドー氏はその後もずっと「いとしのハリー」で通していましたが、訂正を再度要請するのも面倒なので放っておいて、とりあえずはハリー・ホプキンスという車輌について調べ、聖グロリアーナ女学院チーム車輌の連続制作の五番目にあて得るかどうかを模索してみました。

 

 ハリー・ホプキンス軽戦車は、「リボンの武者」にてダージリンおよびアッサムらが「大鍋」の試合に参加するべくチーム「ガイ・フォークス」として乗り込む車輌です。アニメ本編には登場せず、上図のように「リボンの武者」のみに出ます。その作中ではダージリンの本来の搭乗車であるチャーチルが描かれませんので、彼女の搭乗車といえばハリー・ホプキンスのみとなります。これに乗って「大鍋」の三つ巴どころか四、五つ巴の激しい乱戦の渦中にて行動するわけです。

 このハリー・ホプキンスについて、ローズヒップが「マニアックですねー あんな子」と表現していますが、模型的にも「マニアック」過ぎました。1/35スケールの適応キットはおろか、ガレージキットすらも存在していません。「あんな子」どうやって作るんだ、と困惑せずにはいられませんでした。

 

 ですが、正直なところ、コレもなんだか面白そうだな、と感じました。「適応キットもガレージキットも無い対象車輌を作ってみる」というのは、既にACV-IPの製作にて意外にも面白味に満ちたテーマとして実践し経験したばかりでした。過去には新潟ビゲン高校のStrv m40Lの製作も行なっていますので、適応キットもガレージキットも無いから作れないという発想には、私の場合はあまり向かわないのでした。

 考えてみると、ガルパン車輌のプラモデルを楽しむ上では、このような適応キットもガレージキットも無い対象車輌というのも幾つかあります。これらを完全に避けてゆくというのは、選択肢としては有りますが、私個人の中では「避けるよりも、自身なりに取り組んでみて可能性を探りたい」気持ちのほうが強いです。と言うか、それもガルパン車輌プラモデル制作の醍醐味の一つだろう、と思うのです。

 そして、このハリー・ホプキンスの場合、上掲の「リボンの武者」作中の車輌の元ネタが大体分かる、というのも大きなポイントでした。

 

 作中車とほぼ同じ外観を示す実車の画像です。左右のトランクボックスが外されていますが、あとは作中車と同じに見えます。

 

 ハリー・ホプキンスは、諸事情により戦線に投入されることはなかったそうですが、1942年から1945年にかけて約100輌が生産され、大まかに3種類のバージョンが存在したとされています。現存車輌もイギリス他の博物館などに数輌があり、別にレストアで甦った車輌も存在しているとのことです。

 

 調べてみると、設計当時および戦時中の画像も豊富にあって、模型製作に必要な基本的情報はほぼおさえられることが分かりました。御覧のように複雑な形状を呈する車体ですが、ほぼ全部にわたって曲面が無く、全て平面で囲まれていますので、プラ板の組み合わせをうまく再現出来れば、製作は可能だろう、という感触がありました。

 

 御覧のように、丸い部分つまり曲面が存在するところが車輪と砲盾と排気管の3ヶ所だけで、あとは平面で囲まれるという外観です。これらの平面を的確にプラ板にトレースして切り貼りすれば、車体の殆どは再現出来るわけです。

 

 加えて決め手になったのが、足回りがテトラークと共通する点でした。上図の上がテトラーク、下がハリー・ホプキンスですが、足回りだけでなく車体や砲塔の基本的な輪郭も似ています。

 それもそのはず、ハリー・ホプキンスは、テトラークの代替としてビッカーズ・アームストロング社がテトラークの設計を流用して開発した車輌です。車体の再設計と装甲強化に重点が置かれ、足回りにおいては操行システムのみを強化したのみで外観はほぼ同じままです。
 なので、テトラークの足回りを使用して車体および砲塔をプラ板で組み上げるという形での再現製作が可能となります。足回りを他キットから流用して残りをプラ材で作るという、以前にACV-IPの製作で採った手法がそのまま援用出来ることが分かりました。

 

 したがって、上図のテトラークのキットがあれば、再現出来ることになります。そのことをリモート会話でアンドー氏に報告したところ、なんと二日後にそのキットを宅配便で送ってきたのでした。聞けば、京都ヨドバシで買ってきたとの事でした。
 こういうことは何故か無駄に迅速な氏です。添付のメモには「いとしのハリーを宜しく」とだけ書かれてありましたが、訂正する気すら無く、深い落胆に包まれて何もしたくない気分に襲われました。

 なにしろ、このテトラークは、私の長いガルパン車輌プラモデルの製作において唯一の「絶対に2度と作りたくないキット」だったからです。昨年9月から10月にかけて製作しましたが、独特の複雑なトラス状の足回りの組み立てに予想外のカロリーと時間を費やし、足回りを片方やっただけで集中力が枯渇して布団に潜り込むという状態だったのでした。

 あれをまた作るのか、と思うだけで、何か全てがどうでもよくなってきて、有馬温泉か城崎温泉に一週間ほど隠れて湯治で籠りたい気分になってくるのでした。  (続く)

 


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大洗女子学園チームの試合ステージ

2021年01月20日 | ガールズ&パンツァー

 上図の最終章第3話の予告編のラストシーンを見て、改めて気づいた事が一つありました。上図の景色は、おそらく試合会場のそれだろうと思われるのですが、これまでの試合の会場とはどう違うのか、それとも同じような場所なのか、と疑問が出てきたのでした。

 テレビシリーズから最終章に至るまで、大洗女子学園チームは幾つかの試合に出て、色々な試合会場での対戦を重ねています。試合会場の地理や状況を生かしての作戦をとったことも一度や二度ではありませんでしたから、これからの試合会場がどのような場所であるかは、重要なポイントなのだ、と考えます。

 そのうえで、上図の最終章第3話の予告編のラストシーンを見ますと、こういった場所での試合は果たしてあったかな、と考えこんでしまいます。雪が舞っているが積雪はさほどになく、平原の向こうに横たわる森林も広葉樹林なのか針葉樹林なのかは見分けがつきませんが、今までにこのような場所が出てきた試合は無かったように思います。

 そこで、これまでに大洗女子学園チームが対戦した試合の会場を、テレビシリーズより順に振り返ってみました。


1 初の練習試合    森林および平原、川に架かる鉄橋
2 親善試合(対聖グロリアーナ女学院)    荒涼とした山地の谷間、大洗町の市街地
3 全国大会1回戦(対サンダース大付属高校)   森林、ブッシュ交じりのゆるやかな丘陵地、平原および段丘
4 全国大会2回戦(対アンツィオ高校)    森林、林間の平地、荒涼とした原野、崖のある地形
5 全国大会3回戦(対プラウダ高校)    雪原、雪中の村落
6 全国大会決勝戦(対黒森峰女学園)    森林、平原、山地、川、橋、団地を含む市街地
7 エキシビジョンマッチ(対聖グロリアーナ女学院およびプラウダ高校)    大洗ゴルフ場、大洗町内、アウトレット施設、サンビーチ、大洗海岸、アクアワールド前
8 対大学選抜チーム戦    草原、沼地、森林、山地、丘陵地、廃遊園地
9 無限軌道杯第1回戦(対BC自由学園)    平原、川、木造の橋、ポカージュ、牧草地
10 無限軌道杯第2回戦(対知波単学園)    密林、池、渓谷

 続いて、無限軌道杯第1回戦の他校の試合で描かれた会場の景色を挙げます。


11 コアラの森学園対知波単学園    丘陵地、草原
12 青師団高校対サンダース大付属高校    荒涼とした山地および丘陵地、平原
13 ワッフル学院対対聖グロリアーナ女学院    鉄橋
14 ボンプル高校対アンツィオ高校    市街地
15 ヴァイキング水産高校対プラウダ高校    雪原
16 マジノ女学院対黒森峰女学園    平原、要塞施設
17 ヨーグルト学園対継続高校    砂漠


 以上の17試合の会場の景色を並べました。最終章第3話の予告編のラストシーンに似ているのは5ですが、詳しい様子が不明なので、これ以上は何とも言えません。
 ただ、こうして概観してみますと、大洗女子学園チームがまだ経験していない試合会場は、砂漠と要塞施設の2種類しかない事も分かります。ですが、建物の密集地という点で要塞施設は市街地や廃遊園地と同じ性格の試合会場であると見なされます。したがって、残る砂漠が、大洗女子学園チームにとっては未経験のステージであることになります。

 そうなると、今後は砂漠での対戦試合というのが有り得るのでしょうか。第二次大戦中の史実において、砂漠での戦車戦といえば、アフリカ戦線における独軍と英軍のそれが知られます。この両軍のティストを有する黒森峰女学園と聖グロリアーナ女学院は、いずれも無限軌道杯のトーナメント戦において大洗女子学園との対戦の可能性を持っています。

 仮に大洗女子学園が第3回戦も制して決勝に進んだ場合、その相手は黒森峰女学園と聖グロリアーナ女学院のいずれかになる筈です。ひょっとすると、その試合ステージは、アフリカ戦線へのオマージュよろしく砂漠になるのかもしれません・・・。
 ですが、それは置いといて、第3話で描かれるであろう第3回戦の試合ステージのほうを何とかイメージしてみたいわけですが、どうもなかなかハッキリとは浮かんできません・・・。

 


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中世上京を歩く その5 小川通の本法寺

2021年01月19日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 扇辻子すなわち清蔵口の交差点より南に進んで小川通を進みました。道幅は狭くなり、各所で折れています。豊臣秀吉の洛中街区再編による宅地の拡張により、多くの通りがこのように細くなりました。さらに近世期にも宅地拡張の動きが続いて、どんどん道が細くなってゆきましたので、平安京の頃には大路であったのが今では路地裏道になっているケースは少なくありません。

 

 小川通を進みました。右手には二階建ての長屋のような建物が続きます。位置的には本法寺の東側にあたりますので、寺の関連施設でしょうか。もともとは、この位置に小川が流れていたのですが、埋め立てて暗渠化しているため、その上に建つ施設は細長い形になります。

 

 南へ進むと、やがて右手にかつての小川の跡が見えてきます。水はすでに流れておらず、空堀のような形になっていますが、これが中世戦国期に小川通に沿って流れていた小川の痕跡です。

 

 この小川跡を正面とする寺が、本法寺です。現地はもとは足利将軍家の息女が入寺する尼寺であった大慈院の所在地で、「洛中洛外図」にも「南御所」と記されます。天正十五年(1587)に豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備の一環として多くの寺院の移転および整理が行われ、一条戻橋付近に在った本法寺がここに移されてきました。

 

 本法寺は山号を叡昌山といい、室町期に創建された日蓮宗の本山です。永享八年(1436)に東洞院綾小路に設けられた「弘通所」を開闢の地とし、その後破却と再建を繰り返し、位置も四条高倉、三条万里小路、泉州堺、一条戻橋付近と転々としたのちに現在地におさまっています。
 上図は小川通に面する山門の仁王門で、江戸期の建築です。この仁王門も含めて寺の主な建物はみな京都府指定有形文化財に指定されています。

 

 仁王門をくぐり、ちょっと境内を歩いてみました。十数年ほど前に塔頭の教行院が何かの催しで特別公開されたのを見に行った記憶があります。長谷川等伯ゆかりの地のひとつで、宝物館にも彼の作品の複製が展示されています。
 本法寺の公式サイトはこちら

 

 今回は寺の見学が目的ではないので、すぐに引き返して仁王門を出て、その前の石橋を見ました。これが小川に架かっていた石橋で、そのまま往時の姿をとどめています。かつての「南御所」大慈院の遺構とする説があるようですが、橋そのものはそこまで古くはないと思いますので、本法寺の移転整備にともなう新造の橋だろうと推定されます。

 

 小川通より石橋、そして本法寺仁王門を見ました。小川通は上京のメインストリートの一つで、東の室町通と並ぶ西側の南北路であったため、多くの寺院や屋敷はこの小川通に正面を向けています。本法寺も例外ではなく、東に正面を向けて小川通に面しています。

 

 本法寺からさらに南へ進むと、左手に表千家不識庵の表門があります。文政五年(1822)に紀州10代藩主徳川治宝の不審庵御成りにあたって紀州徳川家が建てたもので、櫓門の形式を示します。徳川治宝は利休茶道の皆伝を受けるほど茶道に通じており、表千家9代の了々斎の晩年には治宝を家元とし茶事を催していたほどに親密な関係でした。

 ですが、個人的にはこの表千家不識庵の敷地が室町期には細川典厩家の屋敷地であったことのほうに関心があります。細川典厩家は、管領細川京兆家と並ぶ細川氏の嫡家で、代々の官途が右馬頭(うまのかみ)であったため、所轄の馬寮(めりょう)長官職の唐名である典厩を称しました。

 その細川典厩家の屋敷地の中心部が平成十六年に発掘調査され、溝や柵列や通路とみられる空間の痕跡が確認されました。出土遺物は室町後期の土器、磁気類が主でしたが、中国製の陶磁器類が多く、青磁大皿などの優品が含まれていました。これによって有力者層の邸宅跡であることが確かめられ、「洛中洛外図」にも描かれる細川典厩家の屋敷地の一端が明らかになりました。
 その南隣が室町幕府の管領職をあずかった源氏の名門中の名門、足利氏支流の細川京兆家の屋敷地でありましたが、その範囲での発掘調査事例は、残念ながらまだ無いようです。  (続く)

 


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聖グロリアーナ女学院 モーリス軽装甲車 作ります!! その5

2021年01月18日 | ガルパン模型制作記

 組み立てが完了した状態の説明の続きです。斜め後ろから見下ろしてみました。キットについている多くの積載品のパーツが劇中車には無くて不要となりますから、上図のように外観もスッキリしたものとなります。

 

 ガレージキットとしては細部までよくモールドされている良品ですので、劇中車では省略されている車体各所のリベットなどもしっかりと造形されています。最初は劇中車に合わせて不要のリベットも削ろうかと考えましたが、全体的にみると不要リベットの数は10にも満たないため、削ってもあまり意味がないことに気付いて、やめておきました。

 

 それよりも、劇中車のシーンを再確認していて、もう一つ重要なパーツを付けなければならないことに気付きました。上図の左端、オレンジペコの向こうに、車体背面部にセットされる予備車輪の一部がかろうじて見えます。

 

 そこで予備車輪のパーツを同位置にセットしました。タイヤの一部にポスカ黒が付いているのは、洗浄後に離型剤がちゃんと取れたかをポスカでつついてチェックしたからです。

 

 これで改めて、組み立て完了と相成りました。

 

 薄くサーフェイサーを吹き付けてみました。離型剤は完全に洗い落とせているようでした。

 

 問題がありませんでしたので、修正などは不要となりました。塗装は日をあらためて他のキットと共にまとめて行ないますので、それまでは暫く保管しておくことにします。  (続く)

 


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最終章第3話の外れるかもしれない予想 その5 島田愛里寿の転校先は?

2021年01月17日 | ガールズ&パンツァー

 最終章第3話の公開前の、外れるかもしれない予想を引き続き楽しんでゆきましょう。

 今回は、ネット上においても大洗においてもよく話題にのぼっている、島田愛里寿の転校先について予想というか、妄想を拡げてみたいと思います。本当に転校するのか?と訝る意見もあるようですが、既に劇場版の円盤のOVA「愛里寿・ウォー!」で大洗女子学園への転校を模索して取り止めています。その理由が「みほさんともう一度戦いたい」でありますから、転校そのものを止めた訳ではないことが明らかです。
 さらに、最終章第2話でもこの件は再度描写されており、島田愛里寿が西住みほに訊ねられ、まだ転校先が未定であることを明かしています。

 したがって、この島田愛里寿の転校というのは、単なる冗談話とか希望的観測とかではなく、島田家にとっての重要課題であることが伺えます。愛里寿だけの問題ではなく、母の島田流家元島田千代も関与している件である、と捉えてよいでしょう。
 なにしろ、島田千代は、劇場版の段階でも対大洗支援連合との試合を、西住流との対決試合とみなして娘に相手を叩き潰せと命令しています。それで敗北したにもかかわらず、試合後に「次からはわだかまりのない試合をさせて頂きたいですわね」と西住しほに伝えています。

 なので、愛里寿が西住みほとの再戦を希望するのは、本人の意向もあるでしょうが、母千代の意向もかなり反映されているのではないかと推察します。どうもガルパンの世界観においては、戦車道の二大流派の対決というストーリーも一つの流れとして意識されているように思われます。
 どのみち、もう一度試合をしたいのならば、愛里寿が高校生になって大洗女子学園以外の高校の戦車道チームに属しないと実現出来ないわけですから、やはり転校の件というのは、第3話以降にも何らかの展開が描かれるだろう、と予想出来ます。

 ただ、個人的には、それが無限軌道杯の試合期間中になされるのかどうか、と疑問に思っています。優勝チームが確定して試合が終了した後に、劇場版のエキシビジョンマッチのような形式で西住流と島田流との対戦が行われるというのもアリではないかな、と思っています。

 いっぽう、サークルのガルパン仲間のT氏は、無限軌道杯の試合期間中に愛里寿が継続高校に転校して第3試合で大洗とあいまみえるのではないか、という予想をかなり以前から主張しています。確かに無限軌道杯の試合期間中であれば、大洗との対戦があと1、2回は実現するので、この予想も魅力的です。ただ、T氏の予想の根底には、継続高校のミカは苗字が島田でつまりは愛里寿の姉である、といういわゆる姉妹説が横たわっているようです。

 この姉妹説、やたらと各方面で聞くのですが、要するにけっこう期待しているファンが多いんでしょうね・・・。もし、第3話以降に本当の設定になったら、どういうことになってゆくんでしょうか・・・。

 

コメント (2)
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