気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ボンプル高校 自走砲アーチャー 作ります!! その2

2021年02月28日 | ガルパン模型制作記

 ステップ1では車体下部を組み立てます。ステップ2およびステップ3では運転席を組み立てます。今回のタミヤキットは劇中車との差異もごく僅かですので、大体はストレート組みで進めることが出来ます。ですが、オープントップ車輌なので運転席および戦闘室の空間は上から見える状態になります。組み立てた後では塗るのが難しい箇所が少なくないため、インテリアに関するパーツは塗装も行ないながら組み立てます。

 

 ステップ1で組み立てるパーツ類です。

 

 組み上がりました。左に運転席があります。

 

 ステップ2で組み立てるパーツ類です。

 

 組み上がりました。左右の履帯操作レバーのようです。

 

 ステップ3で組み立てるパーツ類です。

 

 組み上がりました。この時点で運転席の空間がほぼ出来上がっています。

 

 運転席を拡大撮影しました。細かいところまでよく再現されています。塗装もそろそろ行っておかなければ、と思いましたが、「リボンの武者」の作中車は第15巻に至ってもカラーページが無くて車体色や内装色が不明なままです。
 そこで、とりあえずはタミヤキットの塗装指示に沿ってボンプル高校チームらしいカラーにまとめることにして、車体色はなるべくダークグリーンに近い色、内装色は車体色より明るいグリーン系の色にしようと決めました。  (続く)

 


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ゆるキャン△の聖地を行く14 その2  蓬莱橋とやくなし茶屋

2021年02月27日 | ゆるキャン△

 蓬莱橋の北側には、もと番小屋がありましたが、平成30年3月に改築されて島田市の物産販売所と番小屋に生まれ変わっています。物産販売所の名称は「蓬萊橋897.4茶屋」(ほうらいばしやくなしちゃや)と言います。蓬萊橋の長さが、897.4mであるのに因んでいます。

 この「蓬萊橋897.4茶屋」も、ゆるキャン原作コミック第11巻147ページ以降に登場しています。各務原なでしこ、志摩リン、土岐綾乃の3人が蓬莱橋を渡って楽しんだ後、この店先でお茶を飲んでいます。

 

 「蓬萊橋897.4茶屋」の店内にあった蓬莱橋の模型です。模型を楽しんでいる身としては、こういう模型があるとじっくり見入ってしまいます。ガルパンファンならば戦車を渡らせたりするのでしょうが、そこまでいくともう病気ですね。

 

 店内で販売されている各種の飲み物のなかに、上図の透明カップ仕様の緑茶や紅茶がありました。あ、これか、と気付きました。原作コミック第11巻149ページ2コマ目から各務原なでしこ、志摩リン、土岐綾乃の3人が飲んでいる「蓬莱茶屋」ロゴのカップティーのモデルがこれです。早速、右のSサイズを購入しました。

 

 とりあえず購入記念に撮りました。

 

 各務原なでしこ、志摩リン、土岐綾乃の3人が腰を下ろしていた縁台はこれですね。

 

 そして大体このアングルで原作コミック第11巻149ページ4コマ目に出てきます。志摩リンが「吊り橋とは違うけどここも風情があっていい橋だ」と褒めています。アニメ化してこのセリフを志摩リンに言って貰えれば、地元島田市としてはバンザイでしょう。

 

 実際に、なかなか風情があって見応えがあります。大井川の川原に降りて、少し離れた所から眺めてみました。周囲にあまり人工物が見当たらないので、江戸時代あたりにタイムスリップしたかのような気分にもなれます。時代劇や映画のロケにもよく使用されているわけだ、と納得しました。
 このような木造の橋を見ると、京都府民としては、木津川に架かる木造の流れ橋である「上津屋橋」を連想します。

 

 近づいて見上げて見ました。完全に木造の橋であるようです。鉄骨とかは入れていないようです。川原を吹き抜ける春嵐の横風に揺さぶられるのか、キシキシと音が響いていました。

 

 とりあえず記念の自撮り。なんで「ゆるキャン」の聖地に来るとテンション上がってしまうんでしょうか。とにかく嬉しくなってしまい、写真を撮る際にもどうしても笑ってしまいます。この癖は何とかしたいです。

 

 川原から「蓬萊橋897.4茶屋」へ戻りました。付近は河川敷公園として整備中であるようで、まだ各所で工事が進められていました。

 

 「蓬萊橋897.4茶屋」と公衆トイレの間にあった車輪のようなオブジェです。大井川改修110周年の記念碑だそうですが、なんで地方自治体はこういう変なものをやたらに建てたがるのでしょうか。普通に石碑や石標の形で造れば、税金の無駄遣いにもならないと思うのですが・・・。

 

 こちらは平成9年12月30日に蓬莱橋を「世界一の長さを誇る木造歩道橋」として認定したイギリスのギネス社の碑です。撮影する私の姿が映っています。

 蓬莱橋は、向こう岸まで渡って、引き返してくるまでに約30分ほどかかるそうです。橋からは富士山も望まれるのですが、この日は快晴にもかかわらず上空に霞がかかっていて、富士山の姿は全く見えませんでした。  (続く)

 


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ボンプル高校 自走砲アーチャー 作ります!! その1

2021年02月26日 | ガルパン模型制作記

 ガルパンコミック「リボンの武者」に登場するボンプル高校チームは、第14巻からの大洗女子学園との練習試合にて「強襲戦車競技連合」チームに4輌を送って参戦しましたが、そのなかで最強の火力を誇るのが上図のアーチャー対戦車自走砲でした。第14巻152ページ2コマ目に初めて登場しています。

 

 第15巻から描かれる試合にて、この17ポンド砲を擁する重戦車キラーに、隊長ヤイカ自ら搭乗して指揮を執っています。

 

 試合開始後から積極的に牽制の砲撃をしかけ、大洗女子学園チームの対応と出方を見極めてゆくヤイカ隊長。車内に入れないので車外に陣取って果敢に指揮を執り、単眼鏡で敵情を素早く捉えてゆきます。頼もしい限りです。こんなカッコいい姿を見せられたら、プラモデルも作りたくなってくるというものです。

 

 アニメの最終章シリーズではチームの指揮を執っていたマイコも、ここではヤイカの指揮下にあって上図のごとく7TP軽戦車部隊の一翼を担っています。このマイコの7TPもいずれ作って、「強襲戦車競技連合」チーム10輌を揃えてみようと考えていますが、そのためにもこのアーチャーは再現製作する必要があります。

 

 第14巻154ページ4コマ目で、アーチャーがオープントップである様子が描かれますが、このアングル、この姿に既視感を覚えたのは、私だけではない筈です。

 

 御覧のように、タミヤのキットのボックスアートを連想させます。そのまんまだな、と思います。ですが、作中車はこのタミヤキットがモデルかというと、厳密にはそうでないかもしれません。アーチャーの1/35スケールキットはタミヤの他にブロンコモデルからも出ていますが、作中車はどちらかといえばブロンコモデルのキットに近いようです。

 

 今回はタミヤの製品、ミリタリーミニチュアシリーズの356番のキットで再現製作してみます。最近の製品なので、市場にはまだ豊富に出回っているようで、京都でも大抵の模型店の店頭にて見かけました。ブロンコモデルのキットが入手困難な現在においては唯一の選択肢となりましょう。

 

 中身を出しました。アーチャーは、バレンタイン歩兵戦車のシャーシを元に開発された対戦車自走砲であり、足回りは共通しています。かなり大型の車輌ですが、タミヤらしくパーツ数も抑えて組み立て易いようにまとめています。その揺るがぬ安定感がいつもながら心地よいです。  (続く)

 


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ゆるキャン△の聖地を行く14 その1  大井川の蓬莱橋へ

2021年02月25日 | ゆるキャン△

 2021年2月20日、ほぼ半年ぶりの「ゆるキャン」聖地巡礼に出かけました。京都府は再度の緊急事態宣言下にあったものの、感染動向数値が下降し続けて大阪、兵庫とあわせての関西三府県の宣言解除前倒し要請が発議され、早ければ2月いっぱいで解除をとの空気が強まりつつありました。

 それを見越しての見切り発車、ではありませんでしたが、現時点で私が最も注目していた静岡県の「ゆるキャン」企画の第一弾である富士山静岡空港でのパネル展示が2月28日で終わってしまうのにはどうしても諦めがつかなかったのでした。これだけは見送ると後で色々と後悔するだろう、山梨県に続いて気合を入れてきた静岡県のアニメ観光スタンスの一端だけでも見て触れておかなければ、今後に予定している静岡県各地への聖地巡礼への基礎観点も定まらないままとなるだろう、との思いが強かったのでした。

 同時に、個人的にも思い入れの強い国鉄二俣線の後身である天竜浜名湖鉄道にてコラボ企画がスタートして「ゆるキャン」ラッピング車輌が運行を開始したとのニュースに接したことで思いが衝撃的に強まりました。よくやった天浜線、この情勢下にもめげずに積極的に仕掛けるとは流石、と感動してしまい、即座に巡礼旅行の実施を決めました。

 そうなれば、あとはノリと勢いで一気に突き進むのみでした。ガルパンの大洗へ行くのと違い、静岡方面には浜松に縁戚が居る関係で子供の頃から何十度と訪れて親しみが深いです。新幹線を利用すれば京都から2時間で行けるという近さもあり、最初は日帰りで富士山静岡空港でのパネル展示を見る、という案を考えましたが、2月20日から23日までが4連休となったため、泊りがけで天浜線の企画も楽しんでみようと決めました。

 検討の結果、20日から22日までの二泊三日で富士山静岡空港と天浜線の「ゆるキャン」企画を見る、という内容にまとまりました。20日に富士山静岡空港へ行き、21日と22日は天浜線を回る、という計画でした。天浜線に2日をかけたのは、企画のひとつ「ゆるキャン2天浜線1日フリーきっぷ」が2枚組で販売されており、1枚ずつ2日間使えるのならば、このチャンスに最大限活用して天浜線を乗りつくそう、と考えたからでした。

 

 かくして20日の8時前に家を出て、8時20分には京都駅の新幹線ホームに入りました。

 

 まずは8時30分発ののぞみ92号東京行きに乗りました。

 

 半年ぶりの新幹線でした。ワクワクしました。感染対策もしっかり頑張る積りでしたが、それ以上に時期が早まると予報にあった花粉飛散への懸念がありました。花粉症持ちで毎年深刻に悩まされている身としては、コロナよりも花粉のほうが非常な恐怖の対象でありました。
 今回のタイミングで出かけたのも、今なら花粉飛散の直前期で飛散量も少ないから、まだ間に合うだろう、との判断があったからでした。

 

 名古屋駅で9時8分発のこだま708号東京行きに乗り換えました。静岡県内ではのぞみが停まらない事が多いからです。

 

 10時8分に掛川で下車しました。京都からほぼ1時間半、あっという間でした。

 

 掛川駅にて東海道線のホームに移動しました。10時17分発の静岡行き列車に乗りました。

 

 車体にオレンジの帯が入った、JR東海の普通列車です。これは山梨の身延線でも見かけますから、「ゆるキャン」聖地巡礼の鉄道利用者にとっては定番とも言えましょう。

 

 島田駅に10時35分に着きました。富士山静岡空港への連絡バスは、掛川、金谷、島田、藤枝、静岡の各駅から発着していますが、掛川からのバス便は飛行機利用客専用となっています。距離的に近いのが金谷と島田ですが、それぞれに時刻が異なっており、今回の巡礼では島田市にある「ゆるキャン」聖地のひとつ蓬莱橋もついでに見る予定でしたので、島田からのアクセスを選びました。

 

 まず、島田駅から徒歩で蓬莱橋に向かいました。島田駅から空港へのバスは12時5分まで無いため、先に蓬莱橋を見ておく計画でした。駅から蓬莱橋への公共交通は無く、駅から徒歩20分、と観光案内にはありますが、各務原なでしこ並みの脚力を持つ私ですので、約12分で蓬莱橋の北詰に着きました。

 上図のアングルが、原作コミック第11巻147ページ4コマ目にそのまま描かれています。各務原なでしこ、志摩リン、土岐綾乃の3人が大井川橋めぐりのラストとしてここに訪れています。
 いま放送中のアニメ2期では、おそらく大井川キャン編までは描かれないとみられているようですが、近く予定されている劇場版には入る可能性が指摘されており、いずれにしてもここ蓬莱橋もアニメ化されるのだろうな、と思います。

 

 大井川に架かる蓬莱橋です。原作コミック第11巻148ページにそのまま描かれています。もちろん渡れますが、周囲に大勢の観光客が来ているにもかかわらず、誰ひとり橋を渡っていませんでした。

 有料で100円かかるから、ではなくて、この日は春嵐のものすごい横風が終始吹き付けていて、誰かの帽子やマフラーなどを吹き飛ばしていたりしていて、普通に立っているのもやっとという状態でした。木造の橋もギシギシ音を立てていて、とてもじゃないけど危なっかしくて渡る気がしないのでした。

 近くに居た島田市観光協会のジャケットの老人が、似たような老人の観光団体客に向けて「ちょっとこれはね、風が強すぎますんでね、もう少し強まれば、橋は通行止めになりますからね、渡るのもちょっと止めといた方がいいですね」と説明しているのが風の音の中でかすかに聞こえました。
 「当たり前やが。渡ったらすぐに飛ばされて最短で墓に行けるで」とジョークで応じる声も聞こえたので、笑ってしまいました。

 

 この蓬莱橋は、全長897.4メートル、通行幅2.4メートルの木造歩道橋です。初代は明治12年(1879)に地元の牧之原開墾者たちによって農業用として架けられました。その後は大井川の氾濫で幾度も流失してその都度架け直していますが、昭和40年に橋脚部分だけをコンクリート製に換えました。しかし、最近でも台風や集中豪雨などによる橋脚流失が相次ぎ、平成年間だけでも9回の通行不能に見舞われています。

 農業用の橋なので、現在も農道として利用されており、島田市役所農林課の所管となっています。同時に貴重な歴史的土地改良施設でもあり、国内でも数少ない有料の賃取橋(ちんとりばし)として有名です。平成9年12月には「世界一の長さを誇る木造歩道橋」としてギネス社に認定されました。

 長い木=長生きの橋、全長897.4(やくなし=厄無し」の語呂合わせで縁起のいい橋として人気を呼び、デートスポットとしても知られ、県内外から多数のカップルや観光客が訪れています。これが「ゆるキャン」の聖地に加わったのですから、人気はさらに上がることでしょう。

 個人的には、映画「超高速!参勤交代」に登場する橋、と覚えていましたので、内藤政醇以下になりきって渡ってみようかと思っていたのですが、ものすごい横風にあおられて普通に歩けない状態では危ない、無理だ、と諦めたのでした。
 島田市の公式サイトの蓬莱橋の案内はこちら。  (続く)

 


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中世嵯峨を歩く その8 招慶院跡

2021年02月24日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 丸太町通との交差点より長辻通をさらに北上しました。この道は平安期には「朱雀大路」と呼ばれて当時の嵯峨地区の南北の主軸路でありましたが、その第一の機能は大井津からの材木の運送路でした。なので、現在のように清凉寺門前まで繋がっていたかどうかは分かりません。

 ですが、清凉寺の位置には九世紀の時点で嵯峨天皇の皇子にして臣籍降下した左大臣源融の別荘「栖霞観(せいかかん)」がありました。源融の一周忌に当たる寛平八年(896)に子息が阿弥陀三尊像を造立して「栖霞観」内に阿弥陀堂を起こし棲霞寺と号しました。いま清凉寺霊宝館に収蔵される国宝の阿弥陀三尊像が、その棲霞寺草創時の本尊です。
 さらにその後、天慶八年(945)に、醍醐天皇皇子重明親王の妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置しました。いま清凉寺を俗に「嵯峨釈迦堂」と呼びますが、その「釈迦堂」の名の起こりがこの時であったとする説があります。重明親王の妃が祀った等身大の釈迦像は、もちろん現在の本尊である「三国伝来の釈迦像」とは別です。

 そのような「栖霞観」および棲霞寺が九世紀の段階で存在していましたから、「朱雀大路」はたぶんその門前まで繋がっていた筈です。中世に「三国伝来の釈迦像」への信仰が盛んになってから、「朱雀大路」は「出釈迦大路」とも呼ばれて「嵯峨釈迦堂」への参詣路となりました。いまでもこの道を俗に「すさか道」と呼ぶ場合があるそうですが、「すさか」とは「出釈迦(しゅつしゃか)」の訛りです。

 

 途中の道端にある道標です。右は鳥居本、左は嵐山、とあります。嵯峨街道のルートを端的に示しています。嵯峨街道は中世戦国期の「出釈迦大路」から西へ延びる鳥居本への支道を江戸期に丹波国への往還路の一つとして再整備する形で成立したものとされています。

 もちろん、嵯峨街道のルーツは古代以来の山道であっただろうと思いますが、それよりも大堰川を経ての舟便による交通のほうが便利で時間もかからなかったからか、中世戦国期までは大堰川経由の水上ルートがよく使われたようです。戦国期に管領細川氏の家臣として山城国半国守護代も務めた香西元長が、嵯峨統治の拠点として嵐山に城を築いたのも、眼下に大堰川の水上交通を掌握出来る位置にあったからでしょう。

 

 長辻通をさらに進むと、道の突き当りに建つ「嵯峨釈迦堂」こと清凉寺の仁王門が見えてまいりました。中世戦国期には清凉寺も含めたこの範囲も、都市地区に含まれて大路の両側には十数の寺院が甍を並べていました。

 

 清凉寺仁王門を望遠モードで撮影しました。かつての「朱雀大路」、「出釈迦大路」である長辻通が右に幅を狭めていますが、これも中世戦国期の名残であるようです。室町期の応永三十三年(1426)に描かれた「山城国嵯峨諸寺応永釣命絵図」でもこの大路が釈迦堂の門前で幅を狭めて描かれるからです。

 

 長辻通を嵯峨小学校の横まで進み、校門の鉄柵の間より中を見ました。上図のように、樹木の下に一本の石標が見えました。

 

 デジカメの望遠モードで引き寄せて撮影しました。

 

 御覧のように、「天龍寺塔中 招慶院旧址」と刻まれています。「山城国嵯峨諸寺応永釣命絵図」にも記載される天龍寺の塔頭の一つで、江戸期嘉永三年(1850)の「天龍寺文書」の「絵図目録」に42ヶ寺が列挙されるなかに含まれています。その位置は天龍寺境内地の外であったため、「処々散在塔頭分」とされています。

 招慶院は、もとは霊松院といい、室町期の応永八年(1401)に夢窓国師の高弟の絶海中津が住したと伝えられますが、詳細は不明で、明治初年同じ塔頭の喜春院と合併して廃されました。四年後に喜春院も廃止されましたから、法灯は完全に絶えてしまったわけです。
 そして招慶院の敷地と建物は、明治五年に創設された上嵯峨校へ転用されて教育施設として使用されました。上嵯峨校の後身が、現在の嵯峨小学校です。

 時計を見ると既に16時を過ぎていました。気温も下がってきたかな、と思いましたので、今回の散策はここで切り上げて終わりにしました。もうこれ以上の見るべき史跡、場所も無かったからです。
 かくして、近くの「嵯峨瀬戸川町」バス停から市バスに乗って帰りました。  (了)

 


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ワッフル学院 ヴィッカースT-15 作ります!! その5

2021年02月23日 | ガルパン模型制作記

 足回りをタミヤのパーツで組み上げた後は、各所の小部品を取り付けました。履帯や車輪は不良品が多かったですが、その他のパーツは問題無かったため、取り付けは指示通りに進めました。
 上図は前照灯、バックミラー、警笛、操縦手ハッチなどを取り付け終わった状態です。

 

 右フェンダー後方にて排気管および排気管カバーを取り付けました。

 

 背面部においてはナンバープレートやフック、ハンドルなどを取り付けました。

 

 続いて砲塔の据え付けに移りましたが、元のモールドは御覧のように薄いので砲塔がすぐに外れてしまうのでした。そこで外れないように適当なパーツを中に仕込むことにしました。角材だとうまくいかないので筒材をカットして上図のようにセットしました。

 

 砲塔がうまい具合にはまってセット出来ました。

 

 左フェンダー上に装備される車外装備品類は、折れたり欠けたりしていたため、似た形のパーツをジャンクから調達して改造し、形を合わせました。これらは塗装後に組み付ける予定です。

 

 前照灯の裏面のコード部分をプラ材で補完しました。キットにそれらしいパーツは見当たりませんでしたが、実車の画像を見るとコードが付いていますので、再現しておきました。

 

 とりあえず、塗装前の全ての組み立てが完了しました。足回りはタミヤのパーツに置き換えていますが、ほぼ同じ形状なので違和感もありません。ただ、履帯だけは劇中車のパーツと形状が異なりますが、元のパーツが破損不良で不足していたため、仕方なくタミヤの履帯パーツで代替します。劇中でも遠景しか出ていない車輌ですから、履帯の差異ぐらいは割り切っておくことにしました。

 

 塗装は、暖かくなってから他のキットと一緒にまとめて行う予定です。  (続く)

 


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戦車工場、作ります!! その7

2021年02月22日 | ガルパン模型制作記

 補強用パーツの調達をケイから託された西住まほ、迅速に手配を完了。さすがは西住流!

 

 組み立てはローズヒップが担当したようです。

 

 据え付けもローズヒップが担当したようです。

 

 とりあえず屋根を支える虹梁材も補強パーツによって据え付けが完了しました。

 

 思ったよりも大きな建物です。特に天井が高いのが予想外でした。もともと鉄道工場のキットですから建物が大型なのでしょうけれど、機関車とかを入れても余裕があるようです。西住まほが「我々の機関車」と言っていますので、どうやら補強用パーツだけでなく機関車も手配したようです。  (続く)

 


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中世嵯峨を歩く その7 毘沙門堂の辻

2021年02月21日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 野宮神社から小径を東へ回って長辻通りに行きました。長辻通エリアに近づくと御覧のように観光客でごった返していました。まだコロナ流行前の、外国人観光客も大勢来ていた頃の風景です。狭い道はどこでも人混みであふれ、真っ直ぐに歩くこともままなりませんでした。

 

 長辻通に出ました。北へ進みましたが、同じように歩いている観光客も少なくありませんでした。大部分は北の清凉寺または北西の二尊院や常寂光寺、鳥居本へ向かってゆくのでした。

 

 丸太町通との交差点に着きました。その南西隅に上図の毘沙門堂があります。かつては臨川寺の寺領に含まれた境内地結界の要所を占め、天龍寺のかつての旧境内地の鬼門に位置します。中世戦国期からの位置をとどめて現存する、数少ない寺院の一つです。

 

 現在は小堂一宇を残すのみですが、「山城国臨川寺領大井郷界畔絵図」では出釈迦大路に面した短冊型の細長い敷地に描かれます。現在も細長い境内地のままですので、雰囲気は中世戦国期と余り変わらないのではないか、と思います。
 かつては西に「大日堂」、南に「願成就院」が隣接し、出釈迦大路つまり現在の長辻通をはさんで向かいには「梅谷」とあります。「梅谷」についてはよくわかっていません。

 

 毘沙門天を祀る小堂の傍らには、中世期の石仏が集められています。かつては嵯峨の各所の寺院にこのような石仏が祀られていたことと思われますが、いまに伝わる遺品は少なく、天龍寺や臨川寺の境内地でもあまり類例を見かけません。毘沙門堂そのものが中世から存続して現在に至っているからこそ、当時の石仏も辛うじて残され得たのでしょう。

 

 丸太町通との交差点も賑わっていました。人力車も通っていたし、大して広くない長辻通へ大型観光バスや市バスが連続的に曲がってきますので、歩道も最低限の幅しかないこの辺りは、ちょっと歩行者には危ないかなと思います。

 

 丸太町通を見ました。ちょっと前までは丸太町通の延長部分ということで新丸太町通と呼ばれていましたが、最近はあまりそういう呼び方を聞かなくなりました。この近所に家がある職場の同僚の方も、普通に「丸太町通」と呼んでいます。

 かつては大井津で荷揚げした材木を、平安京へ運んだルートが大体この通りに重なるようです。材木を丸太を運んだ通りだったから丸太町通、というのは大変に分かりやすいです。
 他に梅津で荷揚げして四条通または五条通を運ぶルートもありましたが、平安京における大型の建設事業というのは内裏があって寺院や貴族邸宅が集中していた丸太町通沿いに最も多かったわけですから、やはり大井津からの運送ルートというのは最重要だったのだろう、と思います。  (続く)

 


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ワッフル学院 ヴィッカースT-15 作ります!! その4

2021年02月20日 | ガルパン模型制作記

 細かいパーツの切り離しと整形、および洗浄を行ないました。

 

 洗浄後に乾かしてトレイにおさめましたが、欠けているもの、破損しているものもありました。プラ板などで補完してゆきます。

 

 砲塔関連のパーツです。上図の3点です。洗浄し、バリを取り、ヤスって表面を綺麗に均しました。

 

 組み上がりました。ハッチはピットマルチ使用にて開閉自在にする予定です。

 

 劇中シーンにおける砲塔の描写です。よく見ますと、天板全体が回転するようで、劇中車のハッチも向きが反対になっていますが、ハッチのヒンジが実車には有り得ない位置にあります。半円形のハッチの直線部分にではなく、反対側の曲縁部に付いているので、おそらく描画ミスの一つだと思われます。今回のキットを作っていて初めて気づいた点でした。

 

 タミヤのパーツで作った車輪類を取り付けました。モールドがしっかりしているので、足回りの印象がメリハリあるものになってきました。

 

 起動輪、誘導輪もタミヤのパーツを使用しました。履帯は厳密には形状が異なりますが、パーツの三分の一が欠けてて使い物にならないうえ、起動輪の歯数に合わせる必要があるため、タミヤパーツを使わざるを得ませんでした。Mさんもそのことを承知の上でタミヤにパーツを請求して共に揃えていたのだろうと思います。  (続く)

 


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戦車工場、作ります!! その6

2021年02月19日 | ガルパン模型制作記

 工場の壁と床を繋いで接着しました。ですがパーツが薄いプラ板ですから、強度が常に不足して壁はグラグラします。何らかの補強が必要です。壁パーツは外側の外壁もいずれ造る予定ですので、どう補強するかは外壁を作る段階になったら考えてみます。

 

 一応、柱のパーツを取り付けますので、壁のグラつきは抑えられますが、完全ではありませんからもう少し補強する必要があります。こうした建物のキットがむやみに大きいのも、ある意味では考え物です。

 

 柱の補強は、いちおう上図の梁材によってある程度は出来ます。ですが、梅原屋のガルパンジオラマ芸術家Nさんの指摘によれば、ガントリークレーンのレール基台でもあるようなので、ガントリークレーンも作るとなれば更に重量が増して柱や壁への負担が増します。ガントリークレーンの種類によっては別の梁材が必要になるかもしれませんが、適応したパーツがあるわけではないので、おそらくは自作になるでしょう。

 

 屋根を支える虹梁材は片側のみでパーツ化されています。今回のキットが建物の半分に相当するため、もう1個同じキットを確保して組み合わせれば、完全な建物として仕上がるわけです。
 なので、この虹梁材は片側の柱に接着するだけで、もう一方の端は宙ぶらりんになります。接着してもパーツ自体の重みでポロリと外れて落ちてしまいます。

 

 なので、これも補強用の別パーツが必要になります。この時点では手元に材料が無かったため、その調達が西住まほに託されました。最も頼れる黒森峰の隊長、ですから、皆も全幅の信頼を寄せているようです。  (続く)

 


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中世嵯峨を歩く その6 野宮神社界隈

2021年02月18日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大堰川河畔の散策路を亀山殿跡よりぐるりと北へ回り、天龍寺境内地の外側の園地の中を進むと、大河内山荘の手前の交差点に出ました。そこで右折すると、上図の有名な「竹林の小径」に至ります。この道も中世戦国期には既に存在した、小路のひとつであったようです。

 

 現在は天龍寺北門付近の竹林で、その美観および景色が海外にも知られて人気スポットの一つになっていますが、かつては平安期から存在した寺院のひとつ舎那院への連絡路であったようです。

 中世の古絵図を見ますと、例えば「山城国亀山殿近辺屋敷地指図」では浄金剛院の関連施設が並んでいた区域にあたり、道の北端には「大湯屋跡」や「六僧坊」などが位置しています。「山城国臨川寺領大井郷界畔絵図」ではもう少し詳しく描写されていて、「野宮」の南から西へと延びる小道となっています。この小道の西には「臨川寺延寿堂 遮那院」とあって、平安期に存在した寺院のひとつ舎那院の区域が存在したようです。

 ですが、舎那院の敷地を描いた鎌倉期の「山城国嵯峨舎那院御領絵図」には前述の小道は描かれていません。鎌倉期にはまだ小道が存在しなかったのでしょうか。

 

 「竹林の小径」を東へ降りていって、野宮神社に着きました。平安期から鎮座が知られ、「山城国臨川寺領大井郷界畔絵図」でも「野宮」と記されて位置も現在地と変わりません。

 野宮とは、皇女および女王から選ばれて天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王が、伊勢への出立前に身を清める祭祀地です。当時は黒木鳥居と小柴垣に囲まれた聖地であり、その様子は源氏物語の「賢木」においても描写されています。

 

 鳥居脇に立つ案内板です。斎王の制度は北朝時代、つまり南北朝期に廃絶したとありますが、野宮そのものは神社として室町期に再興されており、狩野永徳筆の「洛外名所遊楽図屏風」にも野宮社が描かれます。

 いまも神社の前を通る南北路は、中世戦国期の「野宮大路」にあたり、「山城国亀山殿近辺屋敷地指図」や「山城国臨川寺領大井郷界畔絵図」にも描写があります。嵯峨エリアの寺院群への連絡路の一つとして機能したようです。

 

 その「野宮大路」の南端の分岐の角に、上図の古い石標が建てられています。亀山公園道の道標の一つです。

 

 下に「此附近」と続けて「檀林寺の旧址」および「前中書王の遺跡」と刻まれています。檀林寺は、嵯峨天皇皇后の橘嘉智子が承和年間(834~848)に建立し、唐の禅僧義空を招聘して開山とし、日本最初の禅学道場として設けた寺です。その後延長六年(928)に焼失して程なく廃絶したため、いまでは正確な位置すら分かっていません。
 ですが、付近の発掘調査で平安前期の遺構群が検出され、九世紀の土器や瓦が出土しています。瓦のなかには「大井寺」銘の軒平瓦が多く含まれており、同様の瓦が天龍寺境内地の発掘調査でも見つかっています。「大井寺」と「檀林寺」の関係は不明ですが、位置的にはほぼ同じ範囲にあるようなので、両者は同一の寺院である可能性も否定出来ません。

 前中書王は、醍醐天皇の皇子兼明親王の別称です。源姓を賜って左大臣に達した高級官僚でしたが、関白藤原兼通の計略により親王に復されて閑職の中務卿に補任されたため、嵯峨野の山荘「雄蔵殿」に隠棲しています。その住まいの跡がこの辺りにあったのでしょうが、これも正確な位置は分かっていません。
 ですが、野宮神社を含めた嵯峨北部の地域には、「山城国嵯峨舎那院御領絵図」でも描写されるように、摂関家および院近臣の所領が幾つかあった事が知られます。九世紀初頭の時点で桓武天皇の皇子伊予親王の「大井荘」があったことが知られるように、皇室の所領もかなり存在していたようです。前中書王こと兼明親王が隠棲した「雄蔵殿」もそうした事例の一つであったのでしょう。

 

 野宮神社の辻から朱雀大路つまり長辻通への道を歩きました。一度振り返って野宮神社の方向を撮影したのが上図です。この辺りには中世戦国期には左手に浄金剛院、右手に西禅寺が甍を競っていましたが、いまでは全てが廃絶して竹林が広がっています。

 多くの観光客は、「竹林の小径」エリアは昔からずっと竹林だったと思っているようです。実際にはこの辺りも寺院や民家が立ち並ぶ中世都市嵯峨の一角でありましたから、その全てが失われた廃墟のうえに、竹林が広がって行った結果がいまの景観であるわけです。  (続く)

 


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ワッフル学院 ヴィッカースT-15 作ります!! その3

2021年02月17日 | ガルパン模型制作記

 細かいパーツ群の切り離し作業を進めました。御覧のような状態で入っていましたが、パーツの一部に欠けが見られました。それはプラ板で補完することにしました。

 

 履帯のパーツです。上図では使えそうな状態に見えますが、使えるパーツだけを抽出して整理した状態です。約4分の1のパーツが欠けや不良品でしたので、取り除いてあります。いずれにしても履帯全体が出来上がらないので、困ってしまいました。

 

 さらに車輪のパーツの一部にも欠けがありました。サスペンションアームに至っては4個のうちの1個が、成形不良で半分ほどが欠けていました。パーツの欠けや不良は、ガレージキットではよくある事ですが、今回のはちょっと酷いなあ、と感じました。

 

 そのことは、キットを1000円で譲って下さったAFV部会のMさんも把握していたとみえて、譲渡時に「コレも必要になると思う」と上図の別キットのランナーも一緒に付けてくれていました。
 何のパーツですか、と聞いたところ、「タミヤのブレンガンキャリアー(MMシリーズ175番)のものだ」と教えられました。今回のT-15軽戦車とは足回りの部品がほぼ共通するのだそうです。それでMさんは、このキットを作る機会にそなえてタミヤより該当パーツも取り寄せていたのでした。

 

 御覧のように、今回のガレキのパーツとはモールドひとつをとっても雲泥の差があります。サイズもガレキのほうがやや大き目なので、そのまま使用するとフェンダーとの間の隙間が詰まるのです。
 それで履帯を付けるとフェンダーにくっついた不自然な姿になってしまいます。しかもハブキャップのパーツが欠けてしまっているので話になりません。それをMさんも把握していたようで、「タミヤのパーツのほうがサイズが適正なんで交換したほうが良い。履帯もブレンガンキャリアーのを取り寄せてあるんで、まあガルパンのとは異なるかもしれんが、割り切って交換して使ってやってくれよ」と話していました。

 

 ということで、足回りは全てタミヤのパーツで代替するべく、上図のように組み立てました。

 

 そうなると、車体との接合もタミヤパーツに合わせる必要が生じます。起動輪および誘導輪の軸部はそのままだと使えませんので調整しました。上図の起動輪の軸部はタミヤパーツに置き換えました。サスペンションアームの取り付け穴も小さいので、ピンバイスで拡げました。

 

 誘導輪の軸は、削って細くしました。タミヤの誘導輪のダボ穴がやや小さいため、それに合わせました。  (続く)

 


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戦車工場、作ります!! その5

2021年02月16日 | ガルパン模型制作記

 カットした各種のパーツのうち、壁のパーツには窓があります。その窓部分も切り抜きます。

 

 窓は上下に2つあり、いずれも窓本体つまり窓枠のパーツもありますが、切り抜きが大変なのと、窓枠の形が単調なのとで、使用をいったん保留にしました。デザイン的にもう少し良い感じのものが欲しい気がしますので、プラ棒などで自作してみるほうが良いかな、と思います。

 

 とにかくカットした面は丁寧に綺麗にヤスリがけして、切断面を整えます。切断面がそのまま接着面になりますので、均一にならしておかないと、接着がうまくいかなくなります。

 

 バキュームキットのパーツは薄いうえに強度も不足気味です。もともと薄いプラ板を熱で変形させてプレスして引き延ばしていますから、引き延ばされた範囲はさらに薄くなっています。接着面も最低限ですから、接着後にテープなどで補強しておくと良いです。

 

 相変わらずひねくれてるミカさんです。この壁も、戦車道にとってちゃんと意味があるんですよ。戦車工場なんですから・・・。  (続く)

 


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中世嵯峨を歩く その5 渡月橋と大堰川

2021年02月15日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 天龍寺門前から長辻通を南下して、渡月橋に至りました。橋の前で左折して、桂川の流れをしばらく眺めました。
 この渡月橋は、中世期には現在位置より約100メートルほど東に架けられていたことが、古絵図などから知られます。そして現在の橋の位置には、古代より「大井津」と呼ばれた川港がありました。嵯峨嵐山は今は観光地ですが、もともとは平安京へ運ぶ材木を川から荷揚げする材木集積地であり、その「大井津」の施設や付帯街区が中世戦国期の都市の骨格のもとになったとされています。

 

 現在の福田美術館の前あたり、上図の位置が中世戦国期の橋の位置です。その向こうの桂川の水面上に「葛野大堰」とよばれる堰が見えますが、その下に古代の大堰の段差が残っています。古代の葛野地方における秦氏集団によって築かれたとされています。桂川の呼称の一つであった「大堰川」の名もそこから来ています。

 

 かつての橋の位置から渡月橋を見ました。古代から中世戦国期に至るまで「大井津」と呼ばれた川港があった場所です。
 「延喜式」の第34木工寮には「車載」として材木を平安京に運送する際の費用が記載されます。それに関連する運送ルート上には「山城国」では「前瀧津」と「大井津」とが記されます。「前瀧津」は宇治川流域ですが、位置が特定出来ていません。そして「大井津」は上図の渡月橋の位置にありました。材木の供給地であった丹波国の瀧額津(現在の亀岡市保津)から大堰川を筏流しして、「大井津」で荷揚げし牛車などで平安京の木工寮まで運んだことが分かっています。

 この材木供給ルートを開発したのが、古代の葛野地方における秦氏集団であろうとされています。天暦十年(956)8月16日の「山城国山田郷長解」によれば、「大井津」の下流にあったもう一つの川港「梅津」(現在の右京区梅津地区)にて秦阿古吉なる人物が「修理職梅津木屋預」として活動した事が知られます。秦氏は葛野川流域の開発を行ない、その水上交通も担っていたわけです。木屋とは今でいう材木集積所にあたりますので、「梅津」もまた「大井津」と同じく平安京への材木運送ルートであったわけです。

 ちなみに、「大井津」からの材木運送ルートは、中世戦国期においては現在の丸太町通にほぼ近いコースであったようです。これは平安京の春日小路および中御門大路に相当するルートですが、従来はこの通り沿いの西堀川に材木商が多かったため、丸太町通の名がついたとする説が知られています。
 ですが、古代の「大井津」からの材木運送ルートにほぼ重なっていたのであれば、丸太町通の語源もそれに因んだものと解釈するほうが自然ではないかな、と思います。丸太を運んだ平安京内の道だから丸太町通、そのまんまです。

 

 なので、かつての橋の北詰にあった墳丘というのも、「大井津」の秦氏に関連する遺跡か、もしくは「大井津」に関係した何らかの遺跡であったのかもしれません。いつのころからか、その墳丘が高倉天皇の寵姫であった小督の墓であるとか縁の地であるとか言われて、石標まで建てられています。小督は平清盛によって追われ、一時期この嵯峨に隠棲したとされますが、確証はありません。

 墳丘自体は既に開発工事で消滅していますから、今は上図の石標のみが道路脇に移されているだけです。古墳であったのならば、秦氏との関連を考えるのが自然なように思います。

 

 すぐ近くには二つの石標が並びます。ひとつは建長七年(1255)10月に後嵯峨天皇が造立した「亀山殿」つまり亀山離宮のそれです。亀山離宮は後に寺とされて天龍寺となりますが、本来の規模や施設の様子はほとんど分かっていません。

 ですが、これまでの嵯峨地区での発掘調査の成果により、現在の嵯峨嵐山文華館の位置に当時の庭園遺構が確認され、またその東側でも大型建物の基礎地業が検出されています。これらは現在の天龍寺境内地より南側、大堰川寄りに位置していますので、亀山離宮の主要部は現在の天龍寺境内地とは重なっていないのかもしれません。
 そういえば、「仙洞御移徙部類記」の「京槐記」では亀山殿に関して「御所眺望最も殊勝、亀山大井河の契機は崑崙に類するもの也」とあります。つまりは大堰川を見渡せる場所に離宮があったわけですが、発掘調査の成果とも矛盾しないのが興味深いです。

 

 もう一つの石標は、上図の道昌顕彰の標です。秦氏の出身である道昌(798~875)が秦氏の建設した葛野大堰を修復し,大堰近くに創立された葛井寺を整備して法輪寺とした経緯を示しています。この石標はもとは道昌が造った大堰の跡の近くに建てられていましたが、川岸道路の再整備により現在地に移されています。

 ちなみに法輪寺は現在も「嵯峨の虚空蔵さん」と呼ばれるように、本尊を虚空蔵菩薩とします。この尊像は密教では鉱物および鉱脈の神格化ともされ、実際に鉱脈がある地に祀られることが多いので、嵐山の法輪寺ももともとは秦氏が鉱脈を把握して採掘を行ない、その安全と成功を祈念して信仰の地とした経緯によって成立したのだろうと思います。

 かつて、前の会社にて平成10年から13年まで葛野四条の事業所に勤務していた頃、同僚に西京区樫原在住の鉱石マニアの方が居て、休日に二度ほど誘われて嵐山の岩田山へ鉱石採集に連れて行って貰った事があります。場所的には法輪寺の裏山にあたりますが、そこに希少な鉱物の鉱脈が露呈している場所が数ヶ所あって、色々な珍しい鉱石を崖面などに見つけることが出来ました。近くに辰砂(しんしゃ)の鉱脈もあったのですが、辰砂は古代では「丹(に)」と呼ばれて寺院や宮殿の朱柱の顔料の原料とされた鉱物でした。
 秦氏はそうした鉱物の採掘も行なっていましたから、いまの法輪寺ももとは有力な鉱脈の所在地であったのだろう、ということは前述の体験からも実感出来ます。

 

 いまでは単なる観光行楽地として知られる嵯峨、桂川沿いの公園地区ですが、古代からの長くて奥行きの深い歴史があちこちに横たわり、眠っています。それらを知っておくと、単なる散策も知的冒険の色彩を加えてより味わい深いものとなるでしょう。  (続く)

 


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ワッフル学院 ヴィッカースT-15 作ります!! その2

2021年02月14日 | ガルパン模型制作記

 キットの説明書です。組み立て指示図もありますが、手描きの大雑把な図です。

 

 組み立て指示図を拡大すると、こんな感じです。この図が全てですが、キットの車体や砲塔などのパーツの組み立て指示がどこにもありません。

 

 それでレトロモデルのホームページにアクセスして、関連ファイルを検索したら、上図の完全な組み立て指示図がありました。これが使えそうなので、プリントアウトして今回の組み立てガイドとして利用しました。

 

 参考までに、上図のカラー側面図もネット上で見つけてプリントアウトしました。劇中車のカラーに似ていますので、塗装時は概ねこのカラーを採ることになるでしょう。

 

 中性洗剤で洗浄して乾かして、パーツを分類してトレイに整理しました。

 

 御覧のように、最初からパーツの欠け、不良が散見されました。特に履帯のパーツは半分ぐらいが割れたり、成型ミスで歪んだりしていて使い物になりませんでした。

 

 車体の左右フェンダーの欠けや歪みはなんとか治せましたが・・・。

 

 車体の底面部分が成形不良で大きくはみ出し気味になっており、左の底板パーツが全く入らない状態でした。はみ出し部分が大きいため、削るにしても相当の作業量を必要とします。車体パーツに繋がって一体成型のようになっているので、下手に削ると車体本体も削ってしまいかねません。
 そこで、しばらく考えた末に、底面の正位置までいちおう削っておくだけにして底板は貼らないことにしました。車体の底面ですから、完成後は見えなくなります。  (続く)

 


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