2015年4月22日、長く続いた雨や曇りの日々が嘘のような、澄み渡った青空が広がりました。中国自動車道美作インターを降りて国道179号線に進み、人形峠を越えて鳥取県三朝町に入り、まずは三朝温泉街を抜けて三仏寺に登りました。境内の山桜は、芽吹く若葉の中にまだ無数の花びらをとどめていました。
20年振りの参拝でしたが、寺の佇まいは全く変わっていませんでした。参道石段の手前に参詣受付があって入山料を徴収していたのが、唯一の変化でした。
役行者の三枚の散華の一つが所縁と言い伝える三仏寺は、開闢を白鳳時代の慶雲三年(706)と伝える山陰屈指の古刹です。上図は寺務所の壁のポスターで、現在は宝物殿に安置される本尊の蔵王権現像の姿も出ています。最近の調査によって鎌倉初期の仏師のひとり康慶の作と判明しています。有名な運慶の父にあたります。
他にも宝物殿には多くの仏像や什宝が展示されており、三徳山修験の長い歴史と実態を語りかけてくれます。それらの醸し出す神秘的な雰囲気に魅せられて、昔は何度も拝観に行きましたね・・・。
今回は麓の境内地のみに進んだだけで、山上の断崖内におさまる国宝の投入堂は、谷川沿いの遥拝所付近から遠望するにとどめました。
28歳の初夏に、一度だけあの投入堂の直下までの入峰修行登山にチャレンジしたことがあります。往復して二時間ぐらいでしたが、足の踏み場も限られるような急峻な岩峰や崖をたどり鎖につかまって必死に登った記憶があります。これが山岳修験の厳しさか、と愕然とする思いにかられたのを憶えています。
三仏寺の公式サイトは
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投入堂の模型です。細部まで忠実に再現してあります。驚くべきは、これが地元の女子高校生からの寄贈品であるという点です。卒業制作作品だと聞きましたが、すごいものです。
前述の本尊蔵王権現像は、もとはこの投入堂に祀られていましたが、文化財保存の観点から防災設備の整った宝物殿に移されたわけです。
三朝温泉街の中央を流れる三朝川です。源泉が開かれて以来、850年の歴史があると伝えられますが、それよりは世界屈指のラジウム温泉として有名です。国内でも稀なウラン鉱脈を埋蔵する人形峠の北麓に位置しますから、川の水にも高濃度のラドンが含まれています。
私はこの温泉に何度か浸かりましたが、他の温泉と違って血の巡りが良くなって体がポカポカする効果がよく実感出来ました。
三朝温泉の唯一の外湯「河原風呂」です。文字通り、三朝川の河原にあり、三朝橋のすぐ下なので、通行人や周囲の旅館街からはほとんど丸見え状態です。二方に簾の仕切りがありますが、そんなものは目隠しの役にも立っていません。それでも時々若い女性が堂々と入浴しているのを見かけました。
私自身は、日中に行くのはとても恥ずかしくて、仕事帰りの夜中にこっそり入りに行ったものですが、そういう時に限って小さな露天風呂が混浴芋洗い状態だったので、余計に恥ずかしかったです。今は懐かしい思い出の一つになっていますが、その「河原風呂」が昔のままなので、感動してしまいました。
私が鳥取に住んでいた時期に、両親も一度ここ三朝温泉に遊びに来ましたが、その時は温泉街の「
斉木別館」という旅館に案内して泊まってもらいました。
三朝温泉の街は昭和の香りがいまなおただようノスタルジックな空間です。夜には歓楽街のざわめきが遅くまで続き、浴衣姿の湯治客が行き来しています。街並み自体も、あんまり変わっていないので、少し驚きました。
三朝橋の南にある公衆浴場の一つ、「たまわりの湯」です。私が三朝温泉に通っていた頃は「菩薩の湯」という名前だったのですが・・・。隣の観光案内所で問い合わせたところ、七年前にリニューアルオープンして施設名も変えたとのことでした。
試しに入ってみたら、以前は狭くて岩風呂であったのが、広い檜風呂になっていました。湯は同じですが、浸かった際の安堵感がまるで違いました。
「たまわりの湯」の案内情報は
こちら。三朝温泉の案内情報は
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倉吉市街に移動し、最初に打吹山公園内の倉吉博物館へ行って、今回のメインである「フィギュア博覧会」を一時間ほど見学しました。その見学詳細は下編にてレポートさせていただきます。
博物館見学の後は、北側に広がる打吹玉川の古い街並みの散策を楽しみました。私が鳥取に居た頃は、普通の古びた街並みでしたが、平成10年に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されてからは、景観の修復および保全の整備が進められたようで、保存区域内は見違えるように綺麗になっていました。時代劇のセットのような感じでした。
でも、その周辺の街並みは、上図のような感じで昔のままでした。私はどちらかというと、こういう生活感ただよう街並みの景色の方がいいと思います。
倉吉打吹玉川重要伝統的建造物群保存地区の案内情報は
こちら。同地区の観光案内情報は
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街並みの一角にある曹洞宗寺院の大岳院です。昔、ここの住職さんに、正法眼蔵の歴史に関する解釈方法を教わったことがありますが、今は代が替わったようで、住職の名前は別人になっていました。もう20年も前のことなので、無理もありません。
大岳院の境内には、安房里見氏の最後の当主だった里見忠義とその八人の家来たちの墓所があります。江戸期に書かれた「南総里見八犬伝」はフィクションですが、そのモデルとなったのが、里見忠義とその八人の家来たちです。
史実によれば、慶長十九年(1614)に里見忠義は、妻の実家である小田原城主大久保義隣の謀反に連座したとの疑いを受けて領国の安房を没収され、伯耆倉吉3万石に転封されました。実質的には監視付きの蟄居に近い処遇であり、不遇のうちに忠義は元和八年(1622)に堀村(現在の倉吉市関金町堀)にて、29歳の若さで亡くなりました。後継ぎは無く、八幡太郎源義家の分流新田義重以来の名門であった里見氏は、伯耆大山の麓にて断絶しました。
その三ヶ月後に、8人の忠臣が後を追って殉死し、彼らの戒名に「賢」の文字が共通して刻まれたため、倉吉では彼らを「八賢士」と呼んで忠義ぶりを称え語り継いだのです。「南総里見八犬伝」の作者曲亭馬琴は、この「八賢士」をヒントにして物語の「八犬士」を創作したのでしょう。
鳥取に住んでいた頃に大岳寺を初めて訪ねた折、当時の住職さんに里見氏の哀しい末路の物語をうかがい、里見忠義の遺言によって寺に寄進された遺品などを見せていただいたことがあります。それらのなかで有名なのは中国北宋期の作とされる「三彩稜花刻花文盤」ですが、私には、念持仏であったという小さな十一面観音像の方が印象に残りました。
大岳院から玉川沿いの道に回って、重要伝統的建造物群保存地区に入りました。上図の場所からは打吹山が整った山容を見せ、赤茶色の瓦屋根が連なる歴史的景観に彩りをそえています。
この打吹山は、中世戦国期を通じて伯耆国の守護所が置かれたことで知られ、山陰の覇者として知られた山名氏が伯耆国守護職を担って山頂に城郭を構えていました。現在はあまり大した遺構は残っていませんが、郭などの平坦面などがみられます。
二度ほど登って、山頂の櫓を模した展望台にも上がったことがありますが、ハチがやたらに飛び交っていて、怖い思いをしたことを憶えています。
観光ガイドなどで必ず紹介される、白壁土蔵群のエリアです。その脇を流れる玉川は、かつての打吹山城の外堀として整備され、江戸期に改修されて流路を変更し現在に至っています。
私がよく遊びに行っていた頃は、川にも水草が繁り、水も少し濁っていたのですが、重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのちに環境浄化事業が行われ、川もすっかり綺麗になりました。白壁土蔵群も、昔は薄汚れてくすんだ感じだったのですが、文化財保存の修理を受けたようで、壁の白土も下見板も綺麗な色を取り戻していました。
街並みの西側にある大蓮寺の境内には、新田義貞の弟として南朝を支えた脇屋義助の墓所があります。南朝より中国・四国方面の総大将に任命されて四国で活躍しましたが、伊予国にて病没しています。
その脇屋義助の墓がなぜ倉吉にあるのか、その背景事情を少し調べたことがあります。伯耆国守護職の山名氏は新田氏一族であり、それ以前に倉吉は脇屋義助の直轄地の一つであったらしいことが分かりました。倉吉には面白い歴史があるんだなあ、と感心し、それがこの街に魅せられて何度も遊びに行った一因ともなりました。
景観保全事業を完了した範囲の街並みです。外観は江戸末期から昭和前期までの伝統的建造物のそれに復されており、江戸期に商業都市として栄えた倉吉のたたずまいを伝えています。平成10年の選定時に、伝統的建造物は約100棟を数え、多くは赤茶色の石州瓦を屋根に並べ、いまでは一部の建物が店舗などを営んで「赤瓦○号館」の通称で親しまれています。
重要伝統的建造物群保存地区の少し北には、かつての国鉄倉吉線打吹駅の跡地があります。現在は倉吉鉄道記念館の施設が置かれ、施設内には貨車移動用ディーゼル機関車、屋外には上図のC11型蒸気機関車の75号機が展示されています。
この鉄道記念館にも二回ぐらい行きましたが、その頃は倉吉線の廃線跡にレールがまだ残っていたりしていて、それをたどる廃線跡探索ウォークにも一度参加した思い出があります。開館当初から管理職員を置かず、見学者は自由に入って自分で室内の電燈を点けるシステムでしたが、今回もそのままでした。
快晴だったので日中はちょっと暑いぐらいに気温が上がりました。倉吉駅の物産品販売コーナーへ移動して知人に送る土産物などを購入しましたが、駅の建物がすっかり新しくなっているのにびっくりしたうえ、付属施設がNPO法人の運営になっているのに驚かされました。
上図の「くらよし駅ヨコプラザ」では、漫画やアニメにも縁が深い鳥取県ならばでの、アニメキャラクターグッズ販売コーナーがあり、「ゲゲゲの鬼太郎」や「名探偵コナン」はもちろん、鳥取発のアニメ系コンテンツ「
きみわた」などのグッズも扱っていました。倉吉博物館の博覧会のグッズも販売していました。近々、グッドスマイルカンパニーの商品も扱うかもしれない、という噂を聞きましたが、漫画王国を公言する鳥取県でのことですから、本当にやりかねませんね・・・。
「くらよし駅ヨコプラザ」の案内情報は
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ついでに買ってきた、「伯耆大山のおいしい牛乳モナカ」です。写真を撮り忘れましたが、モナカは牛乳瓶の形をしていて、中には蒜山高原牛乳をたっぷり使った濃厚なバニラアイスがつまっています。鳥取県の方なら誰でも親しんでいるという、大山乳業農業協同組合のアイスシリーズの定番です。
大山乳業農業協同組合の製品といえば、全国的に流通してコンビニでも買える「白バラコーヒー」が有名です。私自身は「白バラコーヒー」も好きですが、もっと好きなのは「白バラバニラ」ですね・・・。それも買おうとしたのですが、人気商品だけあってどこでも売り切れでした。
大山乳業農業協同組合のの公式サイトは
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倉吉の街並み散策は正午過ぎに切り上げて、午後からは古代の遺跡巡りを楽しみました。上図は、最初に訪れた伯耆国分寺跡の塔跡の復元基壇です。礎石の幾つかは本物のままですが、七重塔もしくは五重塔のそれにしては規模が小さいので、三重塔であった可能性も否定出来ません。
鳥取に居た頃の私は、山陰の古代史や古代仏教史に関心が高く、気高郡鹿野町(現在の鳥取市鹿野町)に本部があった歴史同好団体「因伯古代寺院研究会」なるものに参加して、二年余りの在住時期中は月一度の会合に欠かさず出席していました。奈良で古代仏教の歴史を勉強していた経歴を重宝がられて、鳥取県の古代寺院の見学勉強会の講師を務めたこともありました。
その頃は、伯耆国分寺跡が、鳥取県内では整備され公園化されていた唯一の古代寺院遺跡でしたので、三回ほど見学会もやりました。西伯郡淀江町(現在の米子市淀江町)の上淀廃寺で壁画断片が発見されて話題になった後でしたから、一般の歴史ファンもかなり古代寺院ブームに熱中していました。鳥取県は他県に比べて割合に古代寺院遺跡が多い方なので、あちこち見学に出かけるのも楽しかったです。
伯耆国分寺跡の案内情報は
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伯耆国分寺跡の遺跡公園の西側の竹林内には、苔むした中世の五輪塔がずらりと並びます。もとは近隣に散らばって分布していたのを、昭和61年頃に遺跡調査や圃場整理などの関係で伯耆国分寺跡の遺跡公園の一画に集めたものです。
総数は450基余り、中世期にも当地が伯耆国の中心エリアとして様々に機能してきた歴史を物語るものと言えますが、私が感動したのは、地元の社地区の住民が供養をかかさず、夏には「やしろ五輪まつり」と称する地域住民交流と慰霊行事を兼ねたイベントをやっているという点でした。
五輪塔の無縁仏を手厚く供養し、地域の子供たちの守り本尊になって見守って下さるように祈る、というのですから、初めて聞いた時は胸が熱くなりました。それで一度だけ、その「やしろ五輪まつり」に「因伯古代寺院研究会」の仲間と参加して、地元の方々や子供たちと一緒に盆踊りを楽しんだのでした。
伯耆国分寺跡の北に広大な範囲を占める「法華寺畑遺跡」の復元整備エリアです。当初は国分尼寺の跡ではないかとされていましたが、寺院の特徴の一つである基壇建物の遺構がまったく検出されなかったため、寺院ではなくて国府関連の政庁またはそれに準じた施設ではないかとする推定に落ち着いています。
遺跡の発掘調査は昭和46年に実施されましたが、現在のような遺跡公園となったのは平成になってからなので、私が鳥取に居た時期には公園の復元柱もまだピカピカでした。
それから20年、復元柱の色は褪せて灰色っぽくなり、上図手前の遺跡推定復元模型も白っぽく変色してしまいましたが、公園の行き届いた整備状況は、そのままでした。鳥取県の文化財行政がしっかりと機能していることが如実にうかがえますが、この遺跡公園が、日本の歴史公園100選に選ばれていることは余り知られていないと思います。
古代の伯耆国には色々な伝説や伝承があり、それらをたどるのも楽しかったです。伯耆国の貧しい人々を天空にいざなった白い鷹の物語などは、今でもよく覚えています。その白い鷹は、国分寺の御本尊の化身とも噂され、満月の夜にのみ、伯耆国府の空に美しい翼を広げたということです。
その白い鷹になりきってみました。全くバカなホシノです。背後に見える建物は、「法華寺畑遺跡」の西門を当時の建築様式で復元したもので、古代の四脚門としては最大級の規模を有しています。
一般的に古代の政庁などの施設は、南を正面としますので、南の門を正門として建物も大きめに造ります。しかし「法華寺畑遺跡」においては東西南北の四つの門が同じ大きさです。これは他に類例が見られない珍しい事例であり、この遺跡の性格を分かりにくくしています。
周辺に墓石が多く、発掘調査でもかなりの人骨が出土したことから、古代の葬送地もしくは処刑場だったのではないかとする意見も出されましたが、不浄や死穢を忌み嫌う国分寺のすぐ隣にそんな施設を配するのも不自然なので、これといった仮説はなかなか出てきていないようです。
法華寺畑遺跡の案内情報は
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国分寺跡遺跡公園と「法華寺畑遺跡」の間の農道を西に進んで少し戻った山林内に、国庁裏神社が鎮座しています。国庁跡の南側に位置して、国庁に背後をみせる形になっていることから付けられた社名でしょうか。由緒も歴史もよく分かっていませんが、社伝では伯耆国国造が大国主命を崇敬し、大国主命に協力した少毘古那命をもあわせて祀ったのが国庁裏神社の初めであるとしています。
大国主命といえば、出雲大社の祭神として知られますので、同じ神を祀る国庁裏神社の社殿が、出雲大社本殿と同じ大社造りであるのも頷けます。伯耆国は、歴史的にも文化的にも隣の出雲国と関係が深いので、出雲神の信仰においても同じ環境にあったようです。
国庁裏神社の案内情報は
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国庁裏神社を囲む山林の外へ出ると、広々とした農地および更地が広がります。この一帯が伯耆国国府の国庁の所在地です。今でいうと県庁所在地にあたります。国指定史跡として主な範囲は国有地になっていますので、遺跡が開発などで破壊されることは全く有り得ません。景色も古代以来のそれがある程度は残されているのでしょうか。
伯耆国府国庁跡の案内情報は
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国庁跡遺跡の広大な敷地から西には、はるかに伯耆大山の連峰が残雪を頂いて望まれました。私が大好きな山の一つです。
鳥取に居た二年余りの時期に、大山にもよく遊びに行きました。山に登ったのは一度だけですが、中腹に歴史を刻む大山寺や大神山神社奥宮などへは何度も参拝しています。
今回、倉吉に20年ぶりに来たので、次の機会には大山にも行ってみたいものです。懐かしい景色の数々に、また会えるでしょうか。
今回は日帰りだったのであまりゆっくりもしていられなかったのですが、遠路はるばると折角来たのですから、関金温泉にも立ち寄りました。この温泉にも何度か行きましたが、20年前と違って温泉街はどこか寂れた雰囲気がただよっていました。
歩いてみて、旅館が4軒ほど廃業していることを知りました。表通りに日帰り温泉施設「
湯命館」が出来て、観光客も日帰りでそちらへ行くようになったのが大きかったのでしょう。
関金温泉の案内情報は
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ですが、温泉街の一番奥にある共同温泉「関の湯」は健在でした。この温泉の源泉にあたり、かけ流しなので人気がありますが、湯船が一つしかなく、二、三人も入れば一杯になってしまう狭さです。駐車場もありませんから、近くの足湯の駐車スペースに停めていくしかありません。
ここへも20年ぶりに入りました。幸運なことに私だけでしたので、貸し切り状態で湯に浸かることが出来ました。ここも世界有数のラドン温泉ですので、三朝温泉と同じ効能があります。
入浴してさっぱりした後、向かいの地蔵院という寺に参拝しました。本尊の地蔵菩薩半跏像は、古くから関金温泉の守り本尊としてまつられてきたもので、地元では「関の地蔵さん」と呼ばれています。本堂以下の建物は江戸期の再建ですが、柱の修理銘文には寺が建久三年(1192)の創建である旨が記されているそうです。
いまはコンクリート造のお堂に安置されている本尊の地蔵菩薩半跏像です。建久三年頃の造立とみても違和感のない作風を示し、現存する数少ない丈六の巨像遺品として国重要文化財に指定されています。
関金温泉が開かれた時期については、奈良時代説、平安時代説、室町時代説など様々に言われていますが、源泉のある場所に鎌倉初期の地蔵菩薩像が祀られることから、鎌倉時代には既に知られていたことがうかがえます。
日本における地蔵信仰は、地蔵の名に示されるように、鉱山や温泉などの「地の恵み」が得られる場所のみほとけとして祀られた面が大きいので、温泉地に地蔵菩薩が祀られているケースは全国的にみられます。ただ、丈六クラスの大きさの仏像というのは、ここだけなので、必見の文化財と言えましょう。
仏前にて合掌して20年ぶりに来られたことに感謝し、帰りの道中安全をもお祈りして、長い帰路に着きました。全てか懐かしくて楽しかった倉吉での半日でしたが、やはり色々と変化がありますから、以前には無かった魅力も沢山加わっています。
なので、昔のように頻繁に遊びに行く、というわけにはいきませんが、機会があれば、新たな夢やロマンを追いかけて訪ねてみよう、と思いました。 (下編に続く)