今回は、先に小館館跡へ行きました。大館館跡は小館館跡の東側から尾根づたいに行くのが本来の入り方であるようなので、前回とは逆のコースでいくことにし、車道をまっすぐたどって小館館跡の丘に近づきました。
大館館跡の丘の切通し面の下を、語らいながら歩くオカアキさんとナガシマさん。お二人はいつも話題が豊富で会話が尽きることが無かったようです。
車道から右に折れて城跡の丘の南裾の細い道に進み、城跡への最短距離となる地点から山に入りました。先導するホシノ、後に続こうとするナガシマさん。(写真撮影地点1)
(写真撮影 オカアキさん)
一分もかからずに城跡の南側の空堀の端に着きました。ここからですよー、と説明するホシノ、後に続いてその方向を見るナガシマさん。(写真撮影地点2)
(写真撮影 オカアキさん)
城跡の南側の空堀端から城跡の姿を見回すオカアキさんとホシノ。昨日の徳宿城とは違った感じの所ですね、とオカアキさん。徳宿城は地域の生活拠点でもあった城ですが、こちらは完全な軍事用の拠点で規模も小さいですよ、と説明するホシノ。(写真撮影地点2)
(写真撮影 ナガシマさん)
説明の合い間に城跡の南側の外周土塁を撮影するホシノ。小館館跡の中心郭の周囲をめぐる横堀は、立派な土塁を伴いますが、その造りが盛り上げ部分と削り込み部分とに分かれているようです。前回の訪問時にその辺りをよく観察していなかったので、今回は写真も撮りながら再確認しました。
一般的に、土塁が盛り上げによって高く造られる場所は、城の防御上で重要なポイントになっていることが多いです。(写真撮影地点3)
(写真撮影 ナガシマさん)
その、土塁の盛り上げ造成部分の上に立つオカアキさんは、ホシノが宿で配った城跡の資料コピーを呼んでいました。その横で空堀や中心郭の景色を撮影するナガシマさんでした。
オカアキさんが立っている地点の土塁は、高さも幅もあってスペースが広く、城郭用語で「櫓台」と呼ばれる場所にあたります。物見用の施設などがあってもおかしくない場所です。(写真撮影地点4)
空堀の分岐地点にて、ナガシマさんの質問に応じるホシノ。オカアキさんは土塁の盛り上げ造成部分の上から二人を見下ろしつつ、障壁とみられる土橋を渡って中心郭に登ってゆきました。(写真撮影地点4)
(写真撮影 オカアキさん)
オカアキさんは中心郭である1郭の土塁の切れ目に上がり、空堀の中に居る二人に向かって手を振っていました。その際に撮影した図ですが、ホシノたちが小さく見えますので、1郭の高さが5メートルを超えていることがよく理解出来ます。この高低差を高い切岸と土塁とで構成し、容易に攻め上がれないように造ってあります。
地形からみて、敵はちょうどホシノたちの居る地点の空堀内に入ってきますので、オカアキさんの居る場所辺りから弓矢または鉄砲を撃ちかけて迎撃するわけですが、敵の横面へ射撃する格好になります。城郭用語で「横矢」と呼ばれるポイントです。(写真撮影地点5)
(写真撮影 オカアキさん)
オカアキさんは、さらに望遠モードで撮影しました。かえって距離感が感じられますが、このときの空堀底の二人の位置から1郭のオカアキさんまでの直線距離は20メートルを超えていました。
戦国期当時の武器で戦うならば、刀や長槍では届きませんので、弓矢または鉄砲といった間接攻撃用のものしか使えません。それでも有効射程ギリギリであるうえ、守備側は土塁に護られていますから、攻撃側がとにかく不利になります。攻める側をいかにして不利におくか、という点が城の防御の基本的な発想です。
小館館跡は、そのあたりがよく考えられていて、縄張りも発達した要素が多く、いま残る遺構の最終年代は戦国末期にあたると思われます。「大洗町史」では、南北朝期ごろの遺構、と述べていますが、それはおそらく城が築かれた時期を指すのであって、使用された最後の時期がいつであったかということではないと受け止めています。(写真撮影地点5)
(写真撮影 オカアキさん)
やがてホシノとナガシマさんも1郭の土塁上に登りました。ホシノが歩いているのが1郭の外周土塁の上です。後ろにナガシマさんが見えますが、その位置が土塁の切れ目にあたっています。後世に1郭を農地として利用した際に、出入り用に崩して破壊した跡とみられます。城の構造から見ても、本来の出入り口とは考えにくい切れ目です。(写真撮影地点6)
(写真撮影 オカアキさん)
上図は、本文中に併記した写真撮影地点の見取り図です。現状では城跡の西側が草薮になっていて入りにくいので、南側から入って1郭に登り、北と東と南の空堀を見るという形になります。見学可能な範囲の大部分を歩き回りましたので、レポート初回の城跡解説記事と併せて参照いただければ、城跡探訪の目安になるでしょう。 (続く)