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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く15 その8 「徳宿本郷集落です!!」

2015年03月11日 | 大洗巡礼記

 徳宿城跡に鎮座する稲荷神社への参道は、北に隣接する徳宿本郷集落からもまっすぐつけられています。城の廃絶後に、堀や土塁などを破壊してつけられた道ですが、それによって土塁の断面などが逆に分かるので、どのようにして築かれたかが一目で理解出来ます。
 上写真は、堀b付近の参道より、1郭の方向を見た図です。手前の少し盛り上がっている場所が2郭、そして堀aは2郭の陰に隠れています。正面奥に見える高い盛り上がりは1郭の土塁です。


 堀b付近の参道にて語り合うオカアキさんとナガシマさん。二人の前方に参道がずっと伸びています。オカアキさんの右側に見える高壇は3郭です。


 参道を歩くお二人。その背後に見える窪地が堀bです。その奥に1郭の高い土塁も見えますので、城跡の規模がこの写真からもうかがえます。


 参道の途中で右に行く枝道がありました。ナガシマさんが「ちょっと行ってみましょう」と提案し、そちらへも回りました。この枝道は3郭の北辺土塁に沿って東へ進み、祠の手前で南へ折れています。その先には、3郭や堀bを崩して造成した農地の跡が広がっていました。微傾斜地になっていて、堀bのあった場所で最も低くなっていました。


 参道に戻り、その終点にあたる集落内道路との合流点にやって来ました。ここから北の徳宿本郷集落に入るので、城跡の広義的な範囲はここまでと推定されます。お二人が歩いている道が参道、左下の道が集落内道路ですが、この集落内道路は城跡の東麓から尾根を断ち切る堀底道の面影を残しており、古くから機能した道であった可能性が考えられます。


 徳宿本郷集落に入ると、すぐ右手に寺堂があります。一見すると民家の車庫か納屋のように見えますが、宝形造の屋根は一般民家には有り得ないので、寺院のお堂であると分かります。城跡の大手に位置して道に接するので、城主の菩提寺だった可能性が考えられます。

 中世戦国期の城下には、多くの場合、城主の館に関連する会所や付属施設などが置かれましたが、それらの施設は寺院や神社の形で整備されることもあり、同時に城主の信仰の場として、城を護る神仏の祭祀の場として運営されるケースがほとんどでした。奈良県をはじめとする近畿地方の城跡においても同じような様相が見られます。


 寺堂の前には農地が広がっていますが、この範囲がかつての境内地にあたっていたと思われます。その範囲が城への大手道に接している点も、城主との関連性の高さをうかがわせます。
 このように、城の大手口の広場やスペースが、寺院境内地の形で確保されている事例も多く、戦時には城主以下の軍勢が集結し、菩提寺に戦勝祈願を行なって出陣式を催す、といった光景がみられたことでしょう。


 寺堂の前に残る中世石造物の残欠です。五輪塔や宝塔の部品を寄せ集めて積み上げてあります。古いものは鎌倉時代末期から室町時代にかけてのものと思われます。徳宿氏が滅亡して城が廃絶すれば、その関連寺院も衰微し退転するしかなくなりますから、墓石などの石造物もいつしか多くが失われてしまいます。そんな厳しい歴史の流れを象徴するかのような、風化磨滅の激しい残欠でした。


 徳宿本郷集落は、中世戦国期当時の言葉で「根小屋」と呼ばれた城下集落の後身であるとされています。集落内の道は各所で屈折し、交差点は喰い違いとなり、宅地の敷地にも方形が少なく、地割は大まかに分けられて民家の庭がどこも広々としています。このあたりも中世戦国期の集落の様相の名残であり、こうした古い集落の風景というものは、現在ではなかなか見られなくなっていますので、貴重な歴史的遺産の一つです。城跡と集落とが一体となって地域共同体としての歴史を持っていた様子がよく理解出来ます。

 上写真は、集落内のほぼ中央部の西寄りを南北に通る旧街道ですが、集落内では屈曲して遠くまで見渡せないようになっています。これは「遠見遮断」と呼ばれる当時の防御の工夫の一つで、屈曲点に接する敷地に大きな家が建つのも、かつての城主一族または家臣の宅地の配置をうかがわせ、その場所が街道筋の防御拠点の一角を担っていた可能性が考えられます。
 また、写真の右端に道路の脇のスペースが見えますが、これは戦国期当時の街路防御エリアの一種である「物陰」の名残かもしれません。道路の屈折点からは死角にあたるので、ここに伏兵を配置すれば、街道筋を進んでくる敵に対して迎撃をしかけることが出来ます。


 集落内のほぼ中央部を南北に通る旧街道の分岐点には、いま徳宿本郷集落の公民館があり、かつての会所の存在を示唆していますが、その向かいに辻堂があります。この種のお堂は、集落の出入り口に配置されて宗教的結界の要となったケースが多く、辻堂の位置が集落と街道との接点を教えてくれます。
 そこにまつられる仏は、中世戦国期当時は阿弥陀如来や薬師如来が多かったようですが、江戸期から地蔵菩薩に転じるケースが多いです。前者は死後の安穏や疫病退散のための仏、後者は道中安全や無病息災を祈る仏ですから、中世戦国期と江戸期の信仰の差がよく表れています。
 その辻堂の内部をのぞいて見学するナガシマさんでした。


 徳宿本郷集落の公民館の横から車道を西へと進み、大きな谷間を経て西の台地に上がりました。すぐに県道114号線の信号交差点に出ましたが、その角に上写真の看板が立っていました。徳宿本郷集落への連絡路の入口なので、徳宿駅から徒歩で行く場合は、この看板を目印にして東へ行くと良いです。


 ナガシマさんに、徳宿城および徳宿本郷集落の印象、感想などを書いていただきました。
「初日の城跡巡りの感想です。
 ぼくは実際に城跡を歩いたのは、初めてと言っていいくらいでした。
言われなければわからないような地形ですが、ホシノさんの解説のおかげで理解が深まりました。
竹は軍需物資なので、竹を植えるなど興味深いです。
 人間が一回作った地形は時代を経てもそんなに変わらないんですね。重機で崩してしまえばそれまででしょうが。
 当時の地割のまま、集落が残っているのも感慨深いです。鎌倉?時代の石塔?、城の方向を向いた結界のための社(?)、遠見が効かない道…。
 これも言われなければわからない、すーっと通り過ぎてしまいそうですが、意味がわかるのは楽しいです。

 ホシノさん一族に男子がいるのですか?などと、あの時聞きました。人間の一生は限られたものなので、遺伝子や記憶、血…。受け継がれていかなければなりません。業績や思い、知恵なども、受け継がれなければ消えてしまいます。アフリカのどこかの民族では、老人が死ぬと図書館がひとつ無くなる、などと言うそうです。
 家族と言った細い糸がより合わさり、やがて地域になり、また束ねられてやがて民族という太い綱になる。それが未来へとずっと続いて行くのでしょう。それが歴史になるのかもしれません。
 徳宿本郷集落も血が受け継がれ、あのままの地割であって欲しいですね。」 (続く)

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