気分はガルパン、ゆるキャン△

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く15 その2 「廃線跡の標杭です!!」

2015年03月02日 | 大洗巡礼記

 2015年1月31日から、二泊三日の行程にて大洗に出かけました。朝8時過ぎに水戸駅改札口にてガルパン仲間の二人と合流しました。同行者は、昨春に親子連れで同道したナガシマさん、昨夏および昨秋の二度にわたって大洗巡りを共にしたオカアキさんでした。

 実は、この三人で大洗巡りを楽しもうという企画は、昨秋にもあったのですが、事情によってナガシマさんが参加出来なくなり、その時はオカアキさんと二人で行きました。なので、リベンジの意味もあって、今度の企画は色々と事前調整を重ね、トリオでの大洗行きが実現しました。


 水戸駅での合流時に、オカアキさんが場所を勘違いして少し遅れたり、ホシノが鹿島臨海鉄道の券売機で間違えてJRの切符を買ってしまって交換をしてもらったりと、色々と手間取りました。それで予定の8時21分発の列車に乗れませんでしたが、結果的には良かったようです。次の8時44分発の列車が、乗って楽しいガルパンラッピング車輛だったからです。最初からテンションが上がり、三人三様に写真を撮りました。


 予定より一本遅れの列車に乗ったことで、この日の行動計画も変更となりました。まず午前中に新鉾田駅まで移動してタクシー利用で徳宿城跡を訪ねる予定でしたが、乗った列車が大洗駅止まりなので、徳宿城跡行きは午後に回し、午前中は大洗巡りに切り替えて昼食休憩までを楽しむことになりました。

 オカアキさんとナガシマさんは、今回が初対面でしたが、それまでにメールや電話で交流していたこともあってか、すぐに打ち解けて色々と話をしていました。情熱的に語るナガシマさん、熱心に聞き入るオカアキさん、の構図が早くも定着しつつありました。土曜日にしては乗客も少なく、のんびりとした車内の雰囲気も、お二人の会話を弾ませたようです。


 大洗駅に着きました。やっぱりいいですねえ、とナガシマさん。前回来られなかっただけに、やっと来られた、という深い感慨があったのでしょう。
 当初の予定では午後にゆっくり大洗巡りをする積りでしたが、午前と午後の行程を入れ替えたので、時間的にちょっと余裕が無くなってしまいました。そこで大洗での移動はレンタサイクルを利用することを提案し、それでいこうと決まりました。


 大洗駅のインフォメーションコーナーも開いていたので入りました。その頃の大洗では「スタンプラリー道復刻版」が開催されていて、ガルパンブームが始まった頃に最初に実施されたスタンプラリーがもう一度楽しめるようになっていました。そのスタンプ用紙も配布していました。ついでだからこれも楽しみましょう、とのオカアキさんの提案で、用紙をもらってチャレンジすることにしました。
 前回もそうだったのですが、オカアキさんはスタンプ集めがけっこう好きなようです。スタンプ集めと言えば、ナガシマさんの娘さんのSちゃんも一生懸命打ち込んでいましたね・・・。


 大洗駅前のイルカのオブジェです。近づいて見るのは初めてだったような気がしますが、造形品としてもなかなかのもので、近づくにつれて躍動感が増してきました。モデルはアクアワールドにて飼育されているイルカなのでしょうが、それを回りの水流まで捉えて再現しているような出来でした。


 大洗駅から徒歩で出発、レンタサイクルを借りるために榎澤輪業商会さんに向かいました。お二人は歩きながら会話で盛り上がっていました。ナガシマさんは立川、オカアキさんは練馬の方なので、同じ東京都民ということで相通じるものが大きかったのでしょう。
 大洗駅までの行程については、オカアキさんのブログ「けんごぶ!」でも「2015年 初大洗の1」と題して熱くレポートされていますので、併せてお楽しみ下さい。こちら


 榎澤輪業商会さんに行く途中、水浜電車の廃線跡を案内しました。オカアキさんとは以前に曲松エリアにて廃線跡の一部を一緒に見学していましたが、最もよく遺跡の雰囲気を残すエコスの北側の軌道跡は初めてなので、ここですか、と感慨深げでした。
 ナガシマさんは廃線跡は初めてでしたが、私の以前のレポートを御覧になっているので予備知識は充分にあったようで、ここがいかにもそんな雰囲気ですねえ、と話していました。上写真の左側、軌道跡の脇に立つのがナガシマさん、右側の軌道跡の舗装路の端に立つのがホシノです。
(写真撮影 オカアキさん)


 水浜線のコンクリートの標杭の位置を示すと、ナガシマさんは興味深そうに眼を近づけて観察し、石ころ混じりのコンクリートであるのを確かめていました。戦前戦中のコンクリートはどういうものだったのか、という話をしました。
 ホシノには、石ころ混じりのコンクリート、というのは粗悪品というイメージがありました。戦中戦後の物資不足の時期にコンクリートも欠乏し、石ころを混ぜてかさ増ししたのだろうか、と思い込んでいました。
 ところが、ナガシマさんの話を聞くと、実態は少し異なっていて、それなりの事情が背景にあったことが分かりました。
(写真撮影 オカアキさん)


 ナガシマさんの話はこうでした。ナガシマさんの高校の先輩にセメントを扱う企業の社長さんがおられ、その方から詳しい内容を聞かせてもらったそうです。その内容を抜粋させていただきました。

「戦時中のセメントは当初重要物資ではありませんでした。 日本は原石の山(石灰岩)が数多く存在していました。セメントは豊富であったはずです。工場も山ろくにあったため、米軍爆撃目標の対象にもなりませんでした。
 戦争後半から終戦近くは飛行場建設のため重要物資になったようですが、それまでの徴兵で人手不足のため原材料は豊富でも生産量は伸びなかったようです。 
話は現代に飛びますが、中東では石灰石がほとんどとれません。原油はあってもセメントはほとんど輸入だそうです。日本もクエートなどへ輸出しています。」

 これを聞いて、目から鱗の気分でした。そういえば戦跡巡拝および遺骨収集事業に参加した頃に見た軍施設のコンクリートはみんな立派なもので石ころなど混じっていなかったな、と思い出しました。奈良県天理市にあった海軍の飛行場跡の関連施設跡を回った時にも、軍が直轄した施設はみんなコンクリートもしっかりしていました。これらに対して民間建設会社が請け負ったコンクリ道路や掩体壕などは石ころ混じりのボロボロのコンクリートでした。
 要するに、戦時中もセメントは豊富だったが、人手が足りなくて生産量が落ち、ほとんどは軍に優先的に回されていたために、そうなったのだろう、と理解出来ました。
(写真撮影 オカアキさん)


 昔のコンクリートのことが分かってみると、いま大洗に残る水浜線跡の標杭の状態にも、それなりの背景が介在していたことが理解出来ました。廃線跡に対する感慨も、より深まりました。
 同時に、ナガシマさんの知識の豊富さに改めて感心させられました。これからがもっと楽しくなりそうだ、と感じたことでした。 (続く)

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