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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く15 その13 「城跡での武術談義です!!」

2015年03月22日 | 大洗巡礼記

 小館館跡の現状は、半分ほどが藪や竹林となっています。前回の見学で時間が無くて見られなかった、1郭の東側の張り出し部も、笹竹に覆われて入りにくく、かきわけて何とか行きました。上写真のような状態で、歩き回るのは困難でしたが、土塁に囲まれた方形の張り出しの様子は何とか掴めました。左端に写っているのはナガシマさんの肩です。(写真撮影地点7)


 北側の土塁の切れ目から、後世につけられたとみられる細い登り道をたどって北側に降りました。(写真撮影地点8)


 細い道なので、オカアキさんも慎重に降りてきました。このような道では滑りやすいので、足場を確かめつつ、木につかまったりしてゆっくり降りるのがベストです。(写真撮影地点8)


 道を降り切ると、北側の横堀から平坦地へと繋がる段差の近くに出ます。先導のホシノは前回の見学時の記憶と合わせつつ、遺構の状態を確認しながら木々の間を抜けました。(写真撮影地点9)
(写真撮影 オカアキさん)


 北側の横堀から平坦地へと繋がる段差の辺りで、1郭の北側の切岸面と下の平坦面の様子をともに見学し撮影するオカアキさんとホシノ。(写真撮影地点9)
(写真撮影 ナガシマさん)


 1郭の北側の切岸面の高さが5メートル以上あること、その下の平坦面が後世に削平された可能性があること、その部分の土塁が無くなっていること、その下は急斜面であること、などを一つ一つ指差しながら説明するホシノ。(写真撮影地点9)
(写真撮影 ナガシマさん)


 ホシノが指差して説明していた、1郭の北側の切岸面です。その下の平坦面には、錆びた一輪車が放置されていました。かつては農地か何かに利用されていたようです。(写真撮影地点10)


 色々話しながら城跡の景色を眺めるオカアキさんとホシノ。オカアキさんは何度かカメラを構えていました。(写真撮影地点10)
(写真撮影 ナガシマさん)


 西側は草薮になっていて入れませんでした。そこから1郭の高い切岸面を右手に見上げました。重い鎧をまとい、武器を持って攻め上がるのはとても難しいことが容易に理解出来る、急な傾斜の切岸面です。(写真撮影地点11)


 尾根を断ち切って遮断する東側の堀切へ回り、1郭の東の張り出しの下をクランクする堀底を進みました。右手を見上げると、1郭土塁の東側の切れ目がありました。これが本来の出入り口で、木橋を架けて堀切をまたいだものと推定されます。(写真撮影地点12)


 木橋の推定位置をお二人に説明し、その出入りのルートに1郭の東の張り出し部から監視または横矢がかかることを遺構を示しつつ話しました。連絡ルートをたどってくる敵に対しては、横からの攻撃が最も有効かつ確実であったことを話しました。
 これはオカアキさんが学んでいる中国武術、ナガシマさんが研究している古武道においても同様であるようで、本来人間は横方向からの攻撃に弱い、武術の有効打も横からのものが多い、というような話題に発展し、しばらく盛り上がりました、ナガシマさんは、こうした話が大好きで、とにかく身振りを交えて情熱的に語り続けるのでした。(写真撮影地点12)

 それで、あらためてナガシマさんに、語っていた内容を文章にまとめていただきました。現地にてホシノが「中世戦国期の合戦や攻城戦などで、武術や武道は役に立ったのかどうか?」と質問したのですが、それに対する答えも含まれています。

「現在、我々が目にする事が出来る、武術・武道は、良くも悪くも洗練され、先鋭化された物だと思います。馬術、弓術、柔術、槍術、泳術、抜刀術…すべて内包した総合的な物だったと思います。
 ぼくらがイメージする武術、武術家同士の戦いは、テレビや映画、様々な物が作り出したイメージが強いです。ぼくが居合を習い始めたきっかけもテレビや小説です。オカアキさんが中国拳法を習い始めたのも映画だと言われていましたね。その影響力は無視出来ませんし、影響を受けていない人はまずいないと思います。
 例えば刀を持った剣士同士の一騎打ちがあったとします。ぼくの居合の先生も含めて、実際に刀で人を殺傷した経験がある人は、まずいません。強いて言えば、大東亜戦争の前線で刀を抜いて戦った人、むかーしのヤクザで長ドスで戦った人くらいが精々だと思います。

 剣士同士の一騎打ちに戻ります。本当は勝つか負けるかわからない、個人の実力次第の一騎打ちなんて状況にはなりたくありませんが、そういう状況になってしまったとしましょう。携帯兵器の太刀や打刀での戦いは、相手の足を踏みつけるくらいの間合いまで接近しないと、自分の刀の切っ先が届きません。
 肉を斬らせて骨を絶つ、などと言いますが、それは自分もヤラれる覚悟で戦わなければならない事です。刀同士の攻防は、一瞬の差で勝敗が決まります。ミッドウェー海戦の折の空母同士の戦いに似ています。得物を振りかぶって後、振り下ろし、スピードが乗ったところに相手の身体があって、初めて相手を斬れます。しかし振りかぶった時や空振りした時は一旦得物のスピードがゼロになります。そこをパッと抑えられたら負けです。
 それだけ近いと言う事は、当然相手の得物に自分が斬られるかもしれません。

 日本の剣士は盾がないので、基本相手の得物を防げません。映画などでは刀同士でクリンチ状態になったりしますが、現実ではまずないと思います。これも映画などの刷り込みが大きいですが、刀の戦いは即死しなかったと思います。ズバッと斬ると相手がバッタリ(綺麗に)死ぬ、時代劇の影響は果てしないです。相手も丸腰ではないし、素人ではありません。実際は小さな傷を与えて受けて、どちらかが先にマイるのだと思います。とてもイヤな話です。赤穂浪士や新選組みたいに鎖を着込んでるかもしれません。
 坂本龍馬の最期を我々がつぶさに知っているのは、龍馬と一緒に遭難した中岡慎太郎が、数日生きていたからです。刀傷が膿んで感染症などで死んだのでしょう。相手の急所(動脈)を狙えと教わりますが、そんな場所には当たらず、なかなか即死しなかったと思います。

 ホシノさんの槍術やオカアキさんのお話にもありましたが、まずは相手の目を潰して戦闘困難にした方が手っ取り早い勝ち方でしょう。現代ならボタンひとつで点灯する強力なライトを手に持っていて、難癖付けられた相手の目を潰して、逃げるのが上策でしょう。
 土、石ころなど何でも使ったと思います。正々堂々の勝負なんて戯言です。あらゆる手を使って相手を無力化したことでしょう。

 誰しも斬られるのはイヤです。無事に家に帰りたいです。ましてどこの誰かわからないヤツに斬られたくありません。
 ご存知のように戦場の武器は、より間合いの大きい長槍、弓矢、鉄砲になります。特に鉄砲は何十年も修行をした剣士を、一週間訓練した百姓女でも勝たせる事が出来ます。戦場の大革命だけに終わらず、社会全体が変わったと思います。
 例によって何を言いたいのかわからない文章になりましたが、我々現代人がイメージする武術家同士のスマートな戦いは、現実には発生せず、ひたすら泥臭い、散文的な戦闘の繰り返しだったと思います。

 とは言え、武術とは戦場で生き残る術とも聞きます。相手が集団だろうがひとりだろうが、効率良く無力化するテクニックは当然あった事でしょう。
 ひとりの敵を倒せばオワリではないので、なるべく省力化した殺人術があったと思います。その片鱗が細分化され、ブラッシュアップ(スポイル?)されて今に伝わるのだと思います。
 兵法は平法とも言いますから、まずは戦わなければならない状況に追い込まれないのが、兵法の第一だったのではないでしょうか。」


 小館館跡の見どころの一つ、クランクする堀切です。奥に見える盛り上がりは1郭東の張り出し部で、堀切はそれに沿って右に折れています。その手前の堀切の上に木橋が架けられ、東の2郭から出入りしたものと思われます。その連絡ルートが唯一であったと推測すれば、1郭の土塁の他の切れ目が、後世の破壊跡だろうと考えられることになります。(写真撮影地点12)


 ぐるりと一周する形で、もと登ってきた場所に戻りました。その東側の櫓台とみられる場所に上がって、1郭の南側土塁の切れ目を見ました。あまりにも開けっぴろげなので、土塁上の虎口では無いと分かります。本来、虎口とは防御上の重要ポイントなので、外からは目立たない位置に設けるのが一般的です。(写真撮影地点13)


 前回に引き続き、本文中に併記した写真撮影地点の見取り図を載せました。ほぼ見学可能な範囲の大部分にわたっていますので、、レポート初回の城跡解説記事と併せて参照いただければ、城跡探訪の目安になるでしょう。 (続く)

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