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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く15 その1 「三ヶ所の城跡です!!」

2015年03月01日 | 大洗巡礼記
 2015年1月31日から2月2日にかけて、数えて15回目の大洗行きを、二人のガルパンファン仲間と二泊三日の行程にて楽しんできました。今回の見学のメインは、大洗町および南隣の鉾田市にある三ヶ所の城跡でした。
 同行した二人は、いずれも以前に大洗行きで同道したことがあり、メールや電話でも交流を続けています。以前のレポートにて報告した中世戦国期の城跡にも興味を示しておられたので、今度の訪問計画に際して私から誘いかけ、快諾を得て、三人揃っての道中が実現しました。

 それで、これからの巡礼レポートも、お二人に頂いた写真や文章またはリンク情報などを交えて多彩に綴らせていただくことが出来ました。お二人とも私と同じようにブログを運営されておられるので、今回のレポートにおいてはブログ上のハンドルネームをそのまま呼称に使わせていただきました。それに合わせて、私自身もホシノと表記しています。

 レポートに先立ち、今回訪れた三ヶ所の城跡について図面と概要を紹介します。レポート本文においては、現地での足取りや見学した範囲などを述べるにとどめるため、あらかじめ全体像をざっと示しておく必要があると考えたからです。
 三ヶ所のうち、鉾田市にある一ヵ所は初訪問で、大洗町にある二ヶ所は昨年12月に続いての再訪となりました。同道のお二人は、城跡そのものが初めての体験だということでした。


 まず、一日目の1月31日の午後に、鉾田市の徳宿城跡を訪ねました。上掲の地図を御覧下さい。鹿島臨海鉄道の徳宿駅の南東約800メートルに位置し、北は徳宿本郷集落に接しています。城跡は、現在は神社境内地になっており、西麓に遺跡標柱および案内板が設置され、鉾田市の指定史跡として誰でも自由に見学出来ます。
 現地へは、徳宿駅から徒歩で約25分ぐらいですが、時間的余裕が無かったので、行きは新鉾田駅からタクシーを利用し、帰りは地図を頼りに徒歩で徳宿駅へ向かう、という方法を取りました。


 上図は、昨年12月の訪問時に茨城県立図書館にて閲覧した、茨城城郭研究会の「茨城の城郭」の253ページに掲載される縄張図を参考にして、私なりに立体的に描いたものです。原図は北を上にして描かれますが、私の描図では大手からみた城跡のイメージを表すべく、南を上にしてみました。


 徳宿城は、南北に伸びる低丘陵地の北端に位置し、南北約150メートル、東西約100メートルの規模を持ちます。東と南と西は丘陵地形を生かした高い切岸に囲まれますが、北では細尾根によって徳宿本郷集落と繋がっています。徳宿本郷集落も丘陵上に位置していて、その原形は徳宿城の城下集落であったと推定されています。

 城の中心は1郭で、土塁に囲まれています。現在は稲荷神社などの境内地となっていて、南側土塁上には徳宿氏の顕彰碑および供養塔があります。1郭の北側は堀aによって広く遮断され、堀aは南側で帯郭となって1郭の背後を守ります。堀aの北には2郭があり、北端の3郭とは堀bによって隔てられていました。堀bは、西では大きく尾根を断ち切る堀切としての形をとどめていますが、東側では3郭の改変にともなって埋められています。3郭も東側で3分の2ほどが削平されて微傾斜地に転じています。

 現在、城跡へは西麓の車道脇のaから入ります。城跡標柱および案内板が建てられ、1郭にある神社への参道入口として階段がつけられますが、切岸面を大きく断ち割ってあるので、後世の破壊道とわかります。1郭へ上がる階段の終点となるbも、城の廃絶後に神社が勧請されてからの改変であるようで、遺構の原状が大きく損なわれています。cの土塁上には、徳宿氏の顕彰碑および供養塔があります。
 1郭の東側の張り出し部分は、現在は草薮になっていますが、神社の正面広場から北へと続く参道のあたりは下草も無く自由に歩き回れます。参道も後世に追加されたもので、徳宿本郷集落と連絡していますが、この参道によって城跡の遺構がかなり破壊されています。dでは土塁を崩し、eでは堀aを埋めて土橋状になっています。堀bでも同じように土橋状になっています。

 2郭は、もとは土塁で囲まれていたようですが、後世の農地化にともない土塁の半分ほどが失われています。3郭においては、遺構面が比較的保たれているのはfの区域のみで、東側のgでは農地化で大きく削平され、それによって本来は東端へ通っていた堀bも埋められています。
 3郭は、北側では土塁だけで守られていますが、その土塁は低く細い造りで、板塀の土台のような感じです。おそらく3郭には城主の館が置かれていたのではないかと推定されますが、その場合は堀bから南の2郭および1郭が、有事の際の防御エリアとしての城郭にあたるでしょう。
 3郭から2郭そして1郭へどのように連絡したかは、現存の遺構からは読み取りにくいです。神社への参道によって遺構が破壊されている所もありますが、虎口とみられる箇所が見当たらないので、どこかで木橋を架けて堀aおよび堀bを渡った可能性が考えられます。

 3郭の北にはhの空間があります。現在は農地になっていますが、城域の周縁部として何らかの施設、たとえば会所のような建物が置かれた可能性があります。その北では、尾根筋を大きく断ち切る堀切道のような感じで、東麓からの車道がカーブしながら徳宿本郷集落へとあがってきますが、これは中世戦国期からの道を踏襲している可能性が高いです。

 また、図面には描きませんでしたが、北の徳宿本郷集落も古い形態を示しており、低丘陵上に占地する高地性集落のような状況に加え、寺や神社が集落を囲むように配置され、いわゆる宗教的結界が張られて集落防御の意識を内包していた状況がうかがえます。
 近辺には中世期の石造物の遺品も散見されるほか、集落の地割と街路が中世期の様相を色濃く残しています。集落への入口は、現在の徳宿本郷公民館の脇の分岐路あたりに推定されますが、そのあたりの道が屈折して視界が狭められており、いわゆる「遠見遮断」が図られています。その屈折路の起点に辻堂が置かれ、これも宗教的結界の一方を担っていたと思われます。集落の北端には沼尾神社が位置しますが、このあたりの地割は小さくなっており、中世戦国期当時は「根小屋」と呼ばれた城下集落の周縁部にあたっていたものと推測されます。

 なお、集落内の道や民家敷地脇の各所には、二、三人ほどが入れる細長い空間がみられます。これは奈良県をはじめとする近畿地方の中世期の環濠集落などに見られる「物陰(ものかげ)」と呼ばれる防御用空間にあたるとみられます。有事の際に集落内部での戦闘となった場合、道からは死角になっていることを生かしてここに伏兵を配置し、侵入する敵を狙撃または横討ちの形で迎え撃つためのスペースです。こういうスペースが残されている事例はあまり無いので、徳宿本郷集落もまた城跡とともに中世戦国期からの歴史的景観をよく残していることが理解されます。


 二日目の2月1日の午前中に、大洗町の小館館跡および大館館跡を訪ねました。上掲の地図を御覧下さい。鹿島臨海鉄道の涸沼駅の北北東約400メートルに大館館跡、約450メートルに小館館跡が位置しています。涸沼駅から県道16号線をたどっていきました。徒歩で10分ぐらいでした。
 大洗町には他にもいくつかの城跡が残りますが、駅に近くて徒歩で気軽に行けるところは、この二ヶ所ぐらいです。


 上図が小館館跡です。昨年12月の訪問時に茨城県立図書館にて閲覧した、茨城城郭研究会の「茨城の城郭」の104ページに掲載される縄張図のほか、「大洗町史」の236ページに掲載される小館遺跡の発掘調査概要図を参考にして、私なりに立体的に描いたものです。
 現在は、赤い点線で記した範囲が鹿島臨海鉄道の線路の切通しに転じて遺構の東半分ほどが失われているので、今回の描図によって全体像の復元も試みました。


 こちらは大館館跡です。これも昨年12月の訪問時に茨城県立図書館にて閲覧した、茨城城郭研究会の「茨城の城郭」の104ページに掲載される縄張図参考にして、私なりに立体的に描きました。
 原図では、小館館跡と大館館跡とを並べて地図上に表現してありますが、ブログ上での表示スペースの関係で、両者を同一スケールで一緒に描くのが難しかったため、別々に描画しました。


 小館館跡の現状を紹介します。城跡は、涸沼の東に位置する丘陵地域の西端に突き出た支尾根の一つに位置します。全体の規模は、東西は約80メートル、南北で約50メートルを測りますが、東側の約30メートルの範囲が鹿島臨海鉄道の建設によって消滅しました。

 城跡へは、南麓を通る細い道の途中のA地点から山に入れば、簡単に到達出来ます。その中心部は1郭で、これに次ぐのが2郭でした。1郭は土塁横堀状の堀aで囲まれますが、北側では後世の削平を受けて土塁が消滅、帯郭状になっています。堀は尾根をも遮断しつつ、1郭の複雑な塁線に応じて屈曲しています。

 堀aの東には、地山が土居状になって残されますが、2郭との間には堀bが横たわっています。この堀bは南側で分岐して二本の堀切となっています。
 2郭は土塁で囲まれていたようで、北に土塁の屈折をともなう開口部があり、これが虎口とみられます。南側には土橋と方形堀が検出されましたが、その東側は地形的には切岸状となっているので、2郭の範囲は発掘調査範囲から少し東に広がる程度であったようです。

 遺跡の現状をみてゆくと、1郭においては後世の農地化による改変が各所にみられます。周囲の土塁がaとdの二ヶ所で切られていますが、ここに下からの登り道がつくので、農地化に際して土塁を崩し出入り口を設けたものと察せられます。cだけが土塁の上半分に開口し、かつ堀aをはさんで反対側の地山jとほぼ同じ高さにあります。おそらく木橋を通して連絡した箇所ではないかと思われます。

 1郭の北東部には、bの張り出しがあります。先行報告類では桝形としていますが、土塁の切れ目aを虎口と見なす前提に立ってのものです。私見では、土塁の切れ目aは後世の破壊でこれにつく登り道も不自然なほどに直線的であるため、これも後世の追加とみられます。
 bの張り出しは、2郭の大手虎口方向をも視野に入れた監視スペースとして機能したほか、木橋を経て出入り口cに至る連絡路への監視および牽制の役目も担ったものと考えられます。bの南側の土塁上は幅広に造られ、櫓などの施設があった可能性を示しています。

 堀aにおいては、内部に高低差がみられます。南麓の道のA地点から登ると唯一の開口部が右手の高台gに監視される形で見られますが、開口部から入るとfの堀底へ進みます。fは堀内の南側では最も低い地点であり、西には現在は土橋に使われている障壁状のe、東には堀内の段差があって、一種の窪地になっています。高台gは櫓台とみてよく、ここに櫓があれば、南側と東側への防御効果が期待出来ます。
 堀aの南側から西側にかけては、外周土塁もよく残りますが、北側のiでは後世の削平を受けて土塁が消滅、堀底面も一段掘り下げられて、現在は帯郭状になっています。
 fから右に進んで堀内を進むと、1郭のbの張り出しの塁線に沿って堀も右に屈折し、やや高いh地点を経て、北側のiへは下り坂になっています。その辺りの外周土塁はかなり削られたりしていて、後世の山道の出入り口もつけられていますので、原状があまり分かりません。

 地山のjから東側は、発掘調査時の図面でしか状況が分かりませんが、前述の通り、2郭との間に堀bが置かれて遮断効果を高めていたようです。堀bは南側で分岐し、間に土塁状のkがありました。2郭の南側には方形堀があり、その北側のlは土橋であったと報告されています。この土橋lが、1郭への連絡路の起点であったものと推察されます。


 ここで、城内の連絡ルートを私なりに推定してみました。図に描き入れた三つの茶色の太線は、木橋をイメージしています。
 まず、城の大手口と推定されるBから2郭に入ります。2郭から土塁上にあがって、1郭の方向へ進むlの土橋からスタートすると仮定した場合、堀bの南側で土塁kを介して二ヶ所に木橋を架けて渡ることになります。そして土居状のjに進みますが、それまでに高台gから監視されています。敵がこのコースで侵入してきた場合、高台gは最初の迎撃拠点となるでしょう。
 続いて土居状のjから1郭のcへ木橋を架けて堀aを渡ります。これで1郭に入れるわけですが、その木橋ルートは常に1郭の北東部の張り出しbから監視されています。戦時には張り出しbが第二の迎撃拠点となり、木橋を渡ろうとする敵を横撃するわけです。城郭研究の用語では「横矢」と呼ばれる、防御上の工夫の一つです。

 以上がこの城跡における連絡ルートの推定案です。全て木橋によっているため、堀や土塁の遮断効果が最大限に発揮出来ます。この推定に立てば、1郭は完全な土塁郭であって、堀内から登って出入りする部分はもとは存在しなかったと思われます。同時に1郭の北東部の張り出しbの存在理由、そして高台gの機能も見えてきます。

 このように、建物を全て失って地面に刻まれた遺構しか残らなくても、ある程度かつての状況を推定しイメージすることは可能です。遺跡の状況を観察しながら謎解きをして、城跡の構造を可能な限り考えてゆくという、城跡巡りならばでの面白さがあると思います。


 次に、大館館跡の現状を紹介します。城跡は、涸沼の東に位置する丘陵地域の南西端に突き出た広い尾根の先端部に位置します。全体の規模は、東西は約100メートル、南北で約200メートルを測りますが、当時のこの種の城としては大規模な方に属します。東側の地下を、鹿島臨海鉄道のトンネルが通っています。

 城跡は、大部分が農地として利用されており、農道が南と東からつけられていますので、入るのは容易です。茨城城郭研究会の「茨城の城郭」の解説にしたがえば、城内は1郭から4郭までの四つの空間に分かれていたとされます。農地化による破壊や改変が多く、元はどのような構造であったのかが今一つ分かりにくいです。1郭から4郭までの四つの空間のうち、3郭と4郭は段差が無いので一つの空間であったかもしれません。

 遺構は北側と西側と南側に残りますが、北側が最もよく旧状をとどめているようです。土塁をともなう横堀状の堀aおよび堀bが並行して二重堀の形となっています。西側では土塁のほかに堀cがクランク状になって残存、南側では堀dが小さな屈曲をみせています。堀dの西には竪堀のような形が見えますが、竪堀かどうかは分かりません。後世の崩落跡の可能性も考えられます。
 また、東側は農地化による改変が大きく、土塁も切岸も余り残っていませんが、現状でも段差があって切岸を構成するには充分な高さがとれるので、土塁があれば相当の防御線が構築出来たものと推定出来ます。

 城内各所のポイントを紹介します。aは土塁の切れ目で、先行研究では虎口とされていますが、その下は急な切岸面であるので、単なる土塁の切れ目かもしれません。小館館跡の南側から尾根筋をたどって谷間をまっすぐに進むとbの辺りに出ますので、bの方が大手かもしれません。
 aから堀aを進んでcに入ります。堀内の屈折点にあたって堀底が広くなっています。さらに進むと左手の土塁の先端部の櫓台dに監視される形で南の堀bに入ります。そのまま進むとeまで行きます。ここから2郭に出入りした可能性が考えられます。

 fは、2郭と3郭の間の段差ですが、窪んだ状態になっていますので、堀cの東側部分が農地化によって埋められてしまった可能性があります。gでは農道が東裾の旧道に降りてゆきますが、高い切岸面を無理に切ってつけているため、急坂となっていて、本来の出入り口とは無関係であるように思えます。
 hは、南から登る農道を進んで右手下方に見えてくる竪堀状の部分です。堀dの西端の下に繋がっている感じですので、竪堀かもしれませんが、この一ヵ所だけに竪堀があるというのも不自然です。後世の崩落跡かもしれませんので、ここではあえて竪堀とはしませんでした。
 iは、城域の南東隅に位置して堀dに接する防御監視スペースとしての櫓台であったとみられます。麓を巡る旧道の監視も兼ねていたものと推定されます。


 上図は、大館館跡の復元試案です。失われたとみられる土塁を茶色の線で推定し追加してみました。現状でも堀aおよび堀bが城内連絡路の機能を果たしていたことが理解出来ますので、同様な規模をもつ堀cも城内連絡路の一つであったと仮定しての案です。

 これでいくと、北の小館館跡と尾根続きの位置にある北東部からのルートも無理なく推定出来ます。小館館跡の南から地形に沿って南へ登ると、b地点に着きます。bから帯郭状の部分を進むと土塁が見えるaに入ります。今回の見学では同行者二人と共にaのすぐ横から入りましたが、去年12月の初訪時にbからの帯郭状の部分を確認していますので、その西に現在も通る旧道との関係からこのあたりに大手があったものと推定しています。
 そこで、b地点を起点として1から11まで順番に数字を並べてコースを推定してみました。11が終点となりますが、この案でも3郭と4郭は一つの空間として把握出来、かつ城内の中心区域としてイメージ出来ます。同時に、後世の農地化による破壊改変がかなりの範囲にわたっていることが改めて理解出来ます。

 このように、残された遺構の様相と機能から、失われた部分の姿を推定して復元するという、謎解きの試みが出来る場合があります。他の城跡ではそれすら不可能なケースが多いですから、ここ大館館跡は比較的遺構が残っている方に属するとみて良いでしょう。
 小館館跡とともに、大洗町では代表的な中世戦国期の城跡として知られており、城郭研究者やマニアの間でも評価が高いそうです。涸沼駅から歩いて楽に入れるというアクセスの良さも魅力的です。

 以上、三ヶ所の城跡についてざっと述べました。現地の写真および見学レポートは、改めて本文にて紹介し綴らせていただきます。 (続く)

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