「タヤマ石油」から大貫商店街のコースに進んで、「ガルパン街なか戦車せいぞろい」の戦車パネル巡りを再開しました。29番の豆腐店の「日野屋商店」に行きました。
戦車パネルは、もとはウインドー内にあったのですが、お店の方に挨拶すると、わざわざ外に出して下さいました。御礼を述べて撮影させていただきました。プラウダ高校チームのソ連製戦車IS-2です。全国大会の準決勝戦にて、副隊長のノンナが途中でこれに乗り換えて、大洗女子学園チームの戦車2輌を撃破しています。
次に、向の30番の精肉店「松澤精肉店」に移りました。創業から100年近い老舗で、建物も創業以来変わっていないそうです。古民家建築としても立派なもので、文化財級の価値があるでしょう。
店先には、ウサギさんチームのM3中戦車リーがありました。親善試合時のピンク色の車体色が目立っています。
店内には、井澤詩織さんのサインが飾ってありました。カモさんチーム関連のキャラや戦車のパネル設置店だけでなく、どこでもよく見かけるサインなので、御本人がかなり街なかを楽しんで回っていたのでしょうか。
「松澤精肉店」の横に設置されているガルパン自販機です。前回の訪問時に通りかかって見つけました。
この自販機は、あんこうチームとⅣ号戦車D型の組み合わせです。今回の7基目です。残る1基はどこにあるのか分かりませんでしたが、北端のアクアワールドまで行って見当たらなかったのですから、たぶん南側の大貫商店街のどこかにあるのではと推測しました。大貫商店街の全域をまだ踏破していなかったからです。
「松澤精肉店」と空き地を隔てた隣に、31番の金物屋の「釜屋金物店」があります。建材、工具、金属製品などを取り扱っており、ホームセンター並みの品揃えを誇っています。模型用工具もあるのかな、と思い、店の御主人に挨拶して入らせていただきました。模型用工具自体は見当たりませんでしたが、工作用の精密工具の中には模型用にも使えそうなのが沢山ありました。
店先には、プラウダ高校チームのソ連製戦車KV-2がありました。劇中では、大洗女子学園チームにあっけなく撃破されています。
続いて32番の石材店「小野瀬石材店」に行きました。石材を加工する作業所で、従業員の方が忙しそうに動き回っていたので、道路から遠目に見るだけにとどめました。このお店が製作されている「ガルパン校章文鎮」を見たかったのですが、諦めました。
作業所の道路側に吊るしてあるパネルは、黒森峰女学院チームのティーガーⅡです。副隊長の逸見エリカの搭乗車で、全国大会の決勝戦にて大洗女子学園チームを追撃中に車輪と履帯が故障し外れるなど、実際の機動力の低さが劇中でも再現されています。
33番の米穀店「島屋米穀店」です。クリーニング店も併設しています。お店の方が大貫商店街の歴史に詳しい方だったので、後に訪ねる予定の西光院のことなどを教えてもらいました。西光院の名を出したとき、「ああ、お大師さんね」と応じてこられたので、この寺が真言宗で高野山の直系末寺であることが理解出来ました。地元では「大貫のお大師さん」と呼ばれているそうです。
それで、大洗には真言宗の寺もあるんだなあ、と思いました。なぜそう思ったのかというと、江戸期の元禄期に水戸藩が支配地域内の真言宗寺院を集中的に神道化するという極端な宗教政策をとったことが知られるからです。さらに明治期の廃仏毀釈においても真言宗寺院が多く処分されているため、その後の再興箇所を合わせても現存する寺院が少ないのです。
店先には、アヒルさんチームの八九式中戦車甲型がありました。発見から練習試合までの時期の姿です。
パネルの左上には、声優の中村桜さんのサインもありました。八九式中戦車甲型の愛称となっている「はっきゅん」は、アヒルさんチームによって命名されたことになっているようですが、実際には中村さん辺りの発案ではないか、という噂を聞いたことがあります。
八九式が「はっきゅん」なら、九七式中戦車の愛称は「きゅんな」になるのでしょうか・・・。
34番のコンビニ「セイコマート島忠」です。北海道札幌市に本社を置き、北海道全域に店舗を展開していますが、埼玉県と茨城県にも店舗がたくさんあります。大洗町ではこのお店が唯一となります。
出入口の左側のウインドー内に、黒森峰女学院チームのⅢ号戦車J型のパネルがセットされていました。劇中では「戦車道入門」の案内映画に登場したほか、前年の全国大会でのプラウダ高校との対戦時に川に転落する事故を起こし、大洗女子学園チームとの決勝戦ではマウスの護衛支援任務につきながらも序盤で撃破されています。けっこう登場回数が多いのは、実際の戦史でも電撃戦やアフリカ作戦に活躍して多くの戦績を残しているからでしょう。
「セイコマート島忠」の隣は、諏訪神社の境内地となっています。諏訪神を祀っていますから、もとは大洗磯前神社内の寄木神社と関連があったのだろうと考えましたが、後で調べてみたらその通りでした。
この諏訪神社は、江戸期までは大洗磯前神社の末社に列していたそうです。その後、水戸藩政下における近世の一村一鎮守制度によって大貫村の鎮守に改められ、大洗磯前神社との関連が無くなりました。明治期までは、すぐ裏にある真言宗の西行院とは神仏混交の関係にあったもののようです。上画像は拝殿で、その奥に本殿があります。
境内には多くの石祠が並んでいますが、いまでは祭神も定かではありません。近畿地方ではこの種の石祠はほとんど見かけないので、こういうのを見ますと、別の歴史文化圏にいるのだなという実感がわいてきます。石祠だけでなく瓦製の円柱状の祠もあり、仏教の木造塔婆を陶製にて造る「瓦塔」の実例が多い関東地方ならばでの遺品だなあ、と興味深く見ました。
本殿(右側)と摂社です。摂社の社殿には何も表示が無く、祭神も分かりませんでした。位置的には別当寺院の堂宇が置かれる場所なので、神仏分離以前には本地堂のような施設があったのかもしれません。
諏訪神社の横の交差点から西へ曲がって登っていくと、真言宗西行院の寺号標があります。山号が「古内山」であると分かります。
参道を進むと、近年に建てられた楼門形式の山門があります。
門の左右を守護する金剛力士立像の吽形です。近年の作ながらも藤末鎌初期のような作風を基調にしてまとめられ、穏やかな雰囲気の憤怒像に仕上げられています。参考例は高野山金剛峰寺大門の像あたりではないかな、と思いました。
広い境内地の一角に、昭和37年に県指定の天然記念物となっているお葉付イチョウがそびえ立ちます。案内板によれば、樹高24メートル、幹囲り4.4メートル、樹齢は約400年ということです。寺の創建が室町期の応永年間(1394〜1428)とされるので、寺が成立してから境内地に植栽されて成長した木であるようです。
境内の諸堂はすべて近年までに建て直されたらしく、真新しく立派なものです。ゆったりとした配置にも、結界空間の重要性を尊ぶ高野山真言宗の気風がよく示されています。金剛峰寺の壇場伽藍の壮大さには及びませんが、大洗町の社寺のなかでは際立った面積を有していて、とにかくその広さに驚かされました。
奥にあるコンクリート造りの大きな建物が、本堂のようです。地元の方が三人ほど参拝に来られ、この建物に向かって拝礼していました。その横に弘法大師の銅像がありましたので、お大師さんだなあ、と納得しました。
今回は「ガルパン街なか戦車せいぞろい」の戦車パネル巡りの最中であり、昼前には五十鈴華誕生日イベントも覗いてみる予定でしたので、ゆっくりと見学する余裕がありませんでした。寺務所の方にも行ってみましたが、お留守のようでした。いずれ機会をみて、改めて参拝に行きたいと思います。 (続く)