「丸五水産」の次は精肉店「ウスヤ」に立ち寄りました。おやつに串カツをいただきたかったのですが、「武山」のざる蕎麦や「森屋」のシベリアを食べたばかりなので、もう少し後にしようと考えました。
いつ見てもすごい外観です。精肉店の店先、というよりガルパングッズの販売店みたいな雰囲気になっています。
ウインドーに貼ってあるイラストは、少しずつ替えられているみたいです。前回の訪問時に見た覚えのない絵や写真が幾つかありました。なかでも上画像の二点は、画風が私好みです。冷泉麻子を包む風の動きの表現が絶妙です。
ももがーのパネルの足元にあるこの砲弾、75ミリ砲の砲弾の実物大レプリカだということですが、私は呉や江田島や舞鶴などで旧海軍の艦載砲の砲弾を見慣れているせいか、戦車の砲弾は小さく見えてしまいます。旧海軍では「豆鉄砲」などと呼ばれた海防艦クラスの主砲でも127ミリですからね・・・。
ももがーもサンタコス姿でしたが、あまり違和感を感じないのは、もともと赤ブーツをはいているからでしょうか。
串カツを食べるためにもう一度立ち寄ることに決め、ひとまず先へ進みました。旧街道筋の面影を残す街並みの風景が楽しいです。
まもなく左手に見えてきた接骨院の「さまた接骨院」です。「ガルパン街なかかくれんぼ」の47番で、前回の訪問時には定休日だったお店です。
戦車道西住流の師範、西住しほです。西住まほ、みほ姉妹の母親で、戦車道に関しては一切の妥協を許さない厳しさを貫きます。それでいて、西住流にて新たな信念を生み出したみほの渾身の戦車道に、ひとつの到達点を感じとってゆきました。一時は勘当を考えたものの、最後にはみほの戦車道を認めています。
前回見られなかったパネルの最後でしたので、これで54人のキャラクターパネルを見ることが出来ました。
「さまた接骨院」の駐車場の脇に、ガルパン自販機がありました。前回は何度も前を通っていたのに、全く気づきませんでした。生徒会カメさんチームと38t戦車の組み合わせですね。これで5基目です。残る3基のうち、1基は大貫地区の「松澤精肉店」の横にあることを前回の訪問時に確かめてありますが、あとの2基は分からないままです。
このアサヒの青色の自販機は、大洗町内のあちこちに配置されていて、ガルパン自販機の8基はそのごく一部だと聞きました。なので、青色自販機を見つけて「これかな?」と近づいて行っても、普通の自販機であることが多いのです。
続いて「新屋酒店」に寄りました。茨城サイダーを買おうと思ったのですが、売り切れでした。店の主人が、「きょうはガルパンファンのお客さんが沢山来てるからねえ、みんな売れちゃったよ」と笑っていました。翌日の五十鈴華誕生日イベントに参加すべく、前日から大洗入りしているファンが多いようです。
山郷あゆみも、すっかりサンタモードでした。帽子はいいのですが、キラキラモールはクリスマスツリーに巻きつけるべきですね。
パネルの脇には、「1年なめんな!!」と書いてありました。劇中での、黒森峰女学院チームのヤークトティーガーとの一騎打ちのシーンでの名セリフでしたね。「1年なめんな!!」と叫んで主砲を放ち、再び「なめんな!!」と言って副砲を撃っていましたね。あのシーンには感動しました。
このサインを書いたのは、山郷あゆみの声を演じた中里望さんですかね?
続いて酒店の「さかげん」に行きました。この辺からプラウダ高校の雰囲気を感じてゆくのは、私だけでしょうかね・・・。
カチューシャは、もともと校旗も赤色で、プラウダ高校のインテリアの基調が赤色系なので、赤いサンタコスが自然に似合います。校章のマークは遠くからみれば完全にソ連ですよ・・・。
大洗磯前神社の一ノ鳥居です。まっすぐ進めば神社の正面に至るのですが、今回は交差点を左折しました。
お馴染みの赤い橋をくぐる、県道2号線の長い登り坂は、とても自転車では登り切れませんでした。赤い橋の手前で降りて、押してゆきました。
赤い橋をくぐってから振り返ると、鹿島灘の青い海面が望まれました。
県道をたどっていくと、左手に迷彩の軽自動車が駐車していました。大洗女子学園の校章が貼られ、屋根には戦車砲をかたどったレプリカが載せられていました。横にある宿泊施設「民宿 勝村荘」の営業用車のようですが、おそらくあんこう祭などのイベントに際してガルパンモードに仕上げたのでしょう。ノリノリ感がまったく桁外れですね・・・。
奈良県でこういう車走らせたら、ただちにパトカーに停車を命じられて、恐い顔の警官が職務質問をしてきそうですよ・・・。
次の目的地、「幕末と明治の博物館」に着きました。今回の大洗行きにおいて見ておきたいスポットの一つでした。幕末維新期の歴史はけっこうドラマチックで人気があるのですが、それをテーマにした博物館施設というのは全国的にも余り無いという気がします。土佐高知や長門萩、長府など何度も行っているのですが、そういう関連施設といえば功山寺資料館ぐらいだったと記憶しています。なので、その手の博物館施設行くのは、今回が初めてでした。
「幕末と明治の博物館」の公式サイトはこちら。
入ってみて、敷地が広い事、松林であることに驚かされました。敷地の大半がキャンプ場としても利用されているという事に再び驚きました。
敷地内の右手には藤田東湖の銅像があります。手塚治虫の漫画「陽だまりの樹」で読んで親しんでいた歴史人物です。幕末の水戸藩士にして、水戸学藤田派を創生した学者であり、烈公徳川斉昭の腹心として尊皇思想の展開に大きな影響を及ぼしましたが、安政二年(1855)の大地震にて亡くなりました。
博物館は、平成9年に増築した新館と、昭和4年創立以来の別館から成り立っています。主な展示スペースは別館の方にあり、四つの展示室があります。幕末維新期の皇族や志士たちの遺品や史料などが多く収蔵されて見ごたえがあり、一時間の予定を二時間に増やしてじっくりと見学しました。
特に興味深かったのが、第四展示室の、大洗の歴史に関する展示品の数々でした。大洗町には歴史民俗資料館クラスの施設がありませんので、郷土の歴史について学ぶ場はこの「幕末と明治の博物館」のみと言えます。明治期から戦前までの大洗の姿をしのばせる展示資料はどれも面白く、那珂川に架かる海門橋の架け替えの変遷などがよく分かりました。
この展示にて、大洗という地名が、戦後の昭和29年の行政区合併に伴って生まれたものであることを確認しました。それ以前は、大貫町、磯浜村と呼ばれていたわけですから、前回泊まった大勘荘のおばさんが「大貫の」や「磯浜村の」というような呼び方を連発されておられたのが、改めてよく理解出来ました。
博物館の外には創設者の田中光顕伯爵の銅像が立っています。若年期には、土佐藩の尊王攘夷運動に傾倒し、土佐勤王党に参加した人物です。大和五條にて決起し東吉野にて壊滅した天誅組の那須信吾は叔父にあたります。維新後は新政府に出仕し、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもちました。
司馬遼太郎の小説集「幕末」に収録される「土佐の夜雨」では、田中顕助の通称にて登場し、「浪華城焼打」や「最後の攘夷志士」でもその人となりが細かく描写されています。そのためか、幕末維新の歴史ファンの間ではよく知られた歴史人物で、「ご存じ田中顕助」などと言われますが、その元ネタが「最後の攘夷志士」の冒頭の句、「すでにご存じの田中顕助。」であることは周知の通りです。
私自身は、大和の天誅組の生き残りである市川精一郎つまり三枝蓊と、田中顕助のやり取りの経緯がとても印象に残っています。 (続く)