寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

想い出話 「ミュンヘンで(6) 囲碁対戦あれこれ(20140116)」

2014年01月16日 12時17分36秒 | 日記・エッセイ・コラム

 囲碁というものを知ったのは大学3年生のときであった。当時私はインフルエンザ香港A型に罹患しそれをこじらせて1年留年してしまった。そのお陰というのも変だけれども付き合いの幅が広くなった。当時入っていたクラブ(囲碁クラブでは無い)活動の仲間の他学部の人たちとの付き合いが増えた。工学部、人文学部、法経学部の人たちであった。自分の所属している学部学科の人たちとはいやでも生涯付き合っていくことになるので、出来るだけ他学部の人たちとの付き合いを大事にした。その中の1人に黒田某と言う男がいた。彼とはどんな縁で付き合うようになったのか忘れてしまったが中々面白い人だった。ダジャレが好きで付き合っているうちに囲碁を教えてやると言うことになり初めて碁石に触ることになった。彼もそれほど強くなく、私は直ぐに彼と同等に戦えるようになった。それがどのくらいの棋力か解らないが、とにかくこんなに面白いゲームがあったことを発見した思いだった。 
 そういえば高校2年の時に隣町から同じ高校へ通学していた遠藤 久君というのが用務員室で面白いことをやっているので見に来ないかと誘われたことがあった。用務員室へ行ってみると先生方や学生が縦横50cmほどの罫線を引いてある板の上に白と黒の丸い石を並べていた。板の上の隙間が無くなるとゲームは終わりのようで隙間の×点の数を数えて勝ったとか負けたとか言っていた。遠藤君は君もやってみるかと行ったが、その頃の私には遊ぶ時間をほとんど持てない状態だったので断ってしまった。それが囲碁だったことを後になって思い出した。
  私の囲碁歴は大学3年生の頃からだが就職して仕事が忙しくなってほとんど石を持たなかったので実質10年くらいだろうか。その間もたまに打ったりした程度なので上達はおぼつかなかった。それでも強いときには出張先の碁会所で5段とか言って打ったこともあった。札幌市の碁会所でそこの亭主と対戦して快勝したときには私ももしかすると実力5段以上かなと夢を見たこともあった。
 想い出に残る対戦は、ミュンヘンオリンピック競技場の選手控え室にあったミュンヘン囲碁クラブへ行ったときの打ち碁である。対戦相手はミュンヘン工科大学の大学院生でかなり強かった。相手は初段と言うことで3子置いてもらって始めた。激しい責め合いの碁になり私の一路のミスを突いた彼に僅少差で負けてしまった。その後彼とはしばらく付き合っていたがお互いに忙しくなり疎遠になってしまった。
 囲碁の話としての想い出は、東京都立大学元学長の沼田稲次郎先生の話である。沼田先生は囲碁はかなり強く当時6段くらいは打っていたと思う。沼田先生は、渋谷の東急会館脇にあった碁会所に行ってたまに囲碁を楽しんだという。その碁会所に一人の小学生がいて、彼は非常に強く沼田先生もたじたじの状態だったそうである。ある日その小学生と2回ほど打って連敗してしまったとき、小学生は“おじさん2子か3子置きなよ”と言いだしたという。先生は俺を何様だと思っているかと言いそうになってぐっと堪えたという。勝負の世界はこんなに厳しいことを知った瞬間だったと沼田先生が話された。大学教職員と囲碁部OB会との親善囲碁会の後の宴会での話であった。


想い出話 「ミュンヘンで(5) 差別」(20140115)

2014年01月16日 00時03分14秒 | インポート

 外国へ行ったとき一番不愉快なことはふとしたことで差別されることである。初めてヨーロッパへ行ったとき、ロンドン空港へ夜中に到着した。たまたま機内で臨席にいた若い方が、京都R大学仏教学科の大学院生であった。彼も初めての外国旅行だった。大学の生協で旅行の手続きをしてきたとかで運良く同じホテルに宿泊することになっていた。彼は事細かにいろんなことを調べてきたメモ用紙を持っていた。それのお陰で彼を迎えに来ていたリムジーンという自動車に初めて乗ることが出来た。そしてホテルに到着することが出来た。宿泊手続きをして翌朝一緒に朝食を食べに行く約束をしてそれぞれの部屋に入った。
 そして翌朝、2人で食堂へ行った。さすがに立派な食堂だと思って感心していたところ、ウェイターがつかつかと寄ってきて”ルームキーを見せろ”というので鍵を見せた。するとウェイターはお前さん達の行く食堂へここではなくこの通路を行ったところだと言って暗いローカを示した。今見た食堂は背広をきちんと着たりドレスを着た紳士淑女が静かに食事をしながら小さな声で話をしていた。
 仕方が無いので我々はウェイターに指示したローカを歩いて行った。そこはなんだか薄暗い食堂だった。そこにいる人たちはそれと解る有色人種だけであった。私は何故か納得してしまった。イギリスはもっと自由の国だと思ったがとんでもない話だと言うことを知った瞬間だった。
 私は初日のホテルを予約していただけなので次の日から泊まるところを探さなければならなかった。ホテルのフロントで聞いて3カ所ばかり探してもらった初めのホテルへ行った。ピカデリーサーカスと言うところにあったそのホテルはありふれたビジネスホテルのようで気さくなおばさんが受付にいて快く宿泊させてくれることになった。そこで5日ほど滞在した。ただ閉口したのは数え切れないほどの数のネコがいることだった。初めてヨーロッパへ着いた翌日に人種差別にあい気分を害したのは事実であった。
 数回ヨーロッパへ行った経験からフロントマンの話を良く聞いておかなければならないということを肝に銘じてミュンヘンへ行った。ミュンヘン駅の直ぐ脇にあるユーロスターズグランドセントラルというホテルを予約しておいた。宿泊手続きをしたときに朝食は6階のレストランでとるように言われた。翌朝、6階のレストランで食事をしようと食堂へ入った。非常に明るく静かな雰囲気の食堂であった。すると東洋人と思われるボーイが急いでやって来て「お前さんが入る食堂は7階の食堂だ」という。私は昨日チェックインの時に6階だと確認してあるというと、少し待ってくれと言ってルームキーをもってフロントへ行った。少時してフロントマンと2人でやってきた件のボーイは申し訳ないことを言ってしまった。許してほしいとフロントマンの前で謝った。ちなみに7階の食堂は東洋系の人たちでごった返すように騒々しかった。そのとき、はからずもロンドンでのことを思い出してしまった。
 ボーイの頭の中には何か自ら差別するあるいはされる習慣があり、それに従ってしまったのかも知れない。こうして私は世界の国には未だに平然と差別が日常的に行われている現実を見た。
 最近の報道によると、ある宗教に属する人たちは厳格な身分制度に縛られていて、下の身分の人との結婚は大変困難であるらしい。身分違いの結婚相手が行方不明になってしまうことがしばしば起こるという。科学技術の発達した世の中で身分の低い階層の人たちも収入が増加して収入に見合った生活(上層階級の人と同じかそれ以上の生活)をしているというのに、結婚というのは別の考えをもった年配者に多くいるようである。過去の習慣を乗り越えられる日はいつ来るのだろうか。
 私は与論島の海岸で夜空に輝く無数の星を見ながら学生に人間の世界から戦争を無くすことができるかと問うたことがある。これを読んだ皆さんはどうだろうか?
 世界に本当の平和が来るのはいつの日だろうか。若い人たちの希望を叶えてあげたい。