山本藤光の文庫で読む500+α

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向田邦子『思い出トランプ』(新潮文庫)

2018-03-04 | 書評「む」の国内著者
向田邦子『思い出トランプ』(新潮文庫)

浮気の相手であった部下の結婚式に、妻と出席する男。おきゃんで、かわうそのような残忍さを持つ人妻。毒牙を心に抱くエリートサラリーマン。やむを得ない事故で、子どもの指を切ってしまった母親など―日常生活の中で、誰もがひとつやふたつは持っている弱さや、狡さ、後ろめたさを、人間の愛しさとして捉えた13編。直木賞受賞作「花の名前」「犬小屋」「かわうそ」を収録。(「BOOK」データベースより)

◎日常を鮮やかに切り取る

向田邦子『思い出トランプ』(新潮文庫)には、13の短編が所収されています。そのなかの「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」の3作品が対象となり、直木賞を受賞しました。これらの短編は文芸誌「小説新潮」に連載途中の一部であり、選考委員のなかには連作が完結してから評価すべきとの意見もありました。

直木賞の選考過程のことを、山口瞳はつぎのように書いています。(『向田邦子ふたたび』文春文庫ビジュアル版より)
――向田邦子は、あきらかに、私より上手だった。その向田が落ちそうになっている。私に衝撃をあたえた数少ない作品のひとつである「かわうそ」が落選しそうになっている。(中略)水上勉は、向田邦子の3作のなかでは「犬小屋」を評価していた。

劣勢をはねかえして向田邦子は、志茂田景樹『黄色い牙』(講談社文庫)との同時受賞という形で、直木賞を獲得しました。通常、直木賞は30歳から40歳くらいの作家に贈られます。受賞当時の向田は51歳でした。連作途中の作品。しかも高年齢。向田邦子の直木賞は、異例づくめだったのです。

向田邦子は太平洋戦争の渦中に、青春時代をおくっています。戦後向田は実践女子専門学校に入学して、国文学を勉強しています。通常の選択なら、向田は国語の先生になっているはずでした。しかし彼女は、当時の花形産業である映画界への道を選びました。
 
向田邦子作品の原点は、この時点のチャレンジ精神と無縁ではありません。映画雑誌の記者として、新しい時代の最先端を駆けぬけていたのです。映画に熱狂する市民を通じて、向田は人々が楽しめるストーリーを学びつづけたのでしょう。やがて向田邦子は、シナリオライターとなり、さらに小説家としての基盤を固めました。
 
向田邦子作品の魅力は、映画のひとこまを見ているように写実的である点です。日常のなかのささいな事件を、これほど鮮やかに切りとって見せる作家はまれだと思います。
 
今回『思い出トランプ』(新潮文庫)『あ・うん』(文春文庫)『隣りの女』(文春文庫)のうち、どれを「山本藤光の文庫で読む500+α」で取りあげるべきか、ずいぶん悩んでしまいました。いずれも短編集です。そのなかには、捨てがたい作品もありました。

でも個人的な好みで、「かわうそ」「犬小屋」「はめ殺し窓」が収載されている『思い出トランプ』を選ぶことにしました。直木賞受賞から1年もたたないとき、向田邦子は不運な事故に巻きこまれて他界しました。数々の名作を残して。
 
◎ミステリアス・エッセイ 

『思い出トランプ』には、表題と同じタイトルの短編はありません。通常の短編集は、収載作のどれかを冠にするのですが。ここには向田邦子の崇高な仕かけが施されています。文庫の巻末にはつぎのようなメッセージがあります。

――小説新潮五十五年二月号から五十六年二月号にかけて掲載した十三篇を収めました。上梓にあたり順番は題名に因んで十三枚のカードをシャッフルしてあります。(著者)

『思い出トランプ』に収められた13枚のカードには、関連性がありません。異なる日常の断層を、活写したカードばかりです。私は友人たちに、向田作品を「ミステリアス・エッセイなんだよな」などと語っています。いままでには存在していなかった、新たなジャンルだと思います。

1枚のカードには、平凡な男女が描かれています。舞台もいたって平凡です。凡人が書いたなら、単なる日記になりそうな設定です。それを巧みな比喩を駆使し、ひとつの恐怖の世界を構築してみせるのが、向田流なのです。

「かわうそ」の冒頭と結末の文章を、ならべてみたいと思います。その間に、研ぎ澄まされた心理の動きが隠されています。それらを洗練された感性が、つむぎだすのです。

――指先から煙草が落ちたのは、月曜日の夕方だった。/宅次は縁側に腰掛けて庭を眺めながら煙草を喫い、妻の厚子は座敷で洗濯物をたたみながら、いつものはなしを蒸し返していたときである。(「かわうそ」の冒頭より)

夫婦がいます。一軒家に住んでいます。月曜日の夕方。その日は好天だったのでしょう。妻は洗濯物をたたんでいます。夫の「指先から煙草が落ち」ます。思わずナンダナンダと思ってしまいます。
 
向田邦子の魅力は、この文章に凝縮されています。モロモロの疑問は、しだいに明らかにされます。煙草を落とす、というささいなできごとが、ふくらみ熱を帯びてくるのです。くわしくは書きません。ぜひ読んで、確かめてもらいたいと思います。
 
そして結末部分は、こんな文章となります。

――宅次は、包丁を流しに落とすように置くと、ぎくしゃくした足どりで、縁側のほうへ歩いていった。首のうしろで地虫がさわいでいる。/「メロンねえ、銀行からのと、マキノからのと、どっちにします」/返事は出来なかった。/写真機のシャッターがおりるように、庭が急に暗くなった。

夫の宅次が包丁をもつ。それを煙草のときのように、落とす。地虫がさわぐ。庭が暗くなる……。うまいなと心底思います。

13枚のカードを、しっかりシャッフルしていただきたいものです。あなたならどのカードを選びますか?
(山本藤光:2010.09.06初稿、2018.03.04改稿)

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