山本藤光の文庫で読む500+α

著書「仕事と日常を磨く人間力マネジメント」の読書ナビ

ゴーゴリ『鼻』(岩波文庫、平井肇訳)

2018-02-28 | 書評「カ行」の海外著者
ゴーゴリ『鼻』(岩波文庫、平井肇訳)

ある日、鼻が顔から抜け出してひとり歩きを始めた…写実主義的筆致で描かれる奇妙きてれつなナンセンス譚『鼻』。運命と人に辱められる一人の貧しき下級官吏への限りなき憐憫の情に満ちた『外套』。ゴーゴリ(1809‐1852)の名翻訳者として知られる平井肇(1896‐1946)の訳文は、ゴーゴリの魅力を伝えてやまない。(「BOOK」データベースより)

◎ロシア写実主義文学の開祖

「山本藤光の文庫で読む500+α」の掲載作を、「外套」と「鼻」のどちらにしようか、迷いました。迷ったすえに、該当(外套ではありません)作を「鼻」としました。

ゴーゴリは、ロシア写実主義文学の開祖です。ゴーゴリは演劇俳優を目指しましたが、挫折して役人になります。在職中に著作を自費出版しましたが、これもまったくかんばしくありませんでした。 

当時ゴーゴリはたくさんの作品を書いており、それらをまとめて「ペテルブルグ物」と呼ばれています。翻訳本がないので読んではいません。ゴーゴリ研究所によると、不安、奇妙な幻想、超自然を描いた作品が多いようです。
 
『鼻』は、ユーモアと諷刺のきいた空想譚小説です。貧乏な床屋が朝食のパンを食べようとします。そのなかから「鼻」がでてきます。よくみると、週2回髭剃りにくる8等官コワリョーフのものだとわかります。驚いた床屋は、自分が誤ってそり落としたのではないかと錯乱してしまいます。

鼻をボロ布に包んだ床屋は、鼻の捨て場所を探します。こっそりと落としたふりをしましたが、「おーい、なにか落としたぞ」と警察に注意されます。あっちこっち迷い歩き、床屋は鼻の始末に悩んでしまいます。

このあたりから、ゴーゴリの筆は滑らかに進みます。なにしろ作者の独白まで、挿入されています。いいな、と思いました。
 
――そこで彼(註:床屋のこと)は、何とかしてネヴァ河へ投げ込むことは出来ないだろうかと思って、イサーキエフスキイ橋へ行ってみようと肚をきめた……。ところで、このいろんな点において分別のある人物、イワン・ヤーコウレヴィッチについて、これまで何の説明も加えなかったことは、いささか相済まない次第である。(本文P77より)

このあと、イワン・ヤーコウレヴィッチが飲んだくれで、自分の髭はそったことがない、などの記述がつづきます。読んでいて、彼が主人公だと思ってしまったほど、ていねいな記述が連なるのです。
 
◎シュールレアリズムの世界

ところがつぎの章になると、鮮やかに場面が転換されます。8等官コワリョフが目を覚まします。鏡を見る。自分の鼻がないことに気がつきます。そして再び、著者の独白が挿入されます。
  
――ところで、これが一体どんな種類の八等官であったか、それを読者に知らせるために、この辺でコワリョフなる人物について一言しておく必要がある。(本文P81より)

ハンカチで欠けた鼻を隠し、コワリョフはいつもの散歩にでます。彼はマントに身を包み、鼻血でもでているように装います。ある街角で、彼は上等な服を着た5等官に出会います。それはコワリョフの鼻をつけた男でした。
 
なぜコワリョフの鼻をつけた男なのかは、説明がなされていません。このあたりが、ゴーリキらしいところなのでしょう。
 
――馬車が玄関前にとまって、扉があいたと思うと、中から礼服をつけた紳士が身をかがめて跳び下りるなり、階段を駆けあがって行った。その紳士が他ならぬ自分自身の鼻であることに気がついた時のコワリョフの怖れと愕きとは如何許(いかばか)りであったろうう!(本文P84より)

鼻男は寺院に入っていきます。追いかけながら、コワリョフは声をかけることをちゅうちょします。やがて勇気をだして、「もし、貴下」と声をかけます。これから先の場面は、読んでのお楽しみとさせていただきます。読者はシュールレアリズムの世界へと、誘われることになります。
 
「鼻」は、もっともゴーリキらしい作品だと思います。これから紹介する「外套」と同じカッコでくくる論評が多いのですが、「鼻」は下級官僚を諷刺している作品ではありません。笑いと諷刺という意味では、のちほど紹介する「外套」の方が優れています。

芥川龍之介の『鼻』が、発表されたのは1916年です。ゴーゴリの『鼻』は、それよりも80年前の1836年に発表されています。芥川龍之介が『鼻』の下敷きにした「池尾禅珍内供鼻語」(『今昔物語』所収)、「鼻長き僧の事」(『宇治拾遺物語』所収)が成立したのは、それぞれ平安時代末期(1100年代)、鎌倉時代初期(1200年代)ですから、ゴーゴリよりも700年以上前になります。
 
私は『21世紀版少年少女古典文学館9・今昔物語』(講談社)で、「世にもふしぎな鼻ものがたり」を読みました。吹きだしてしまいました。『宇治拾遺物語』は手元にないので、まだ読んでいません。
 
夢野久作に「鼻の表現」(「夢野久作全集11」ちくま文庫に所収)という著作があります。少し長いのですけれど、とにかくまじめで愉快な考察です。もちろん有名なフレーズ「クレオパトラの鼻が、今すこし低かったならばローマの歴史を通じて世界の歴史に変化を与えただろう」にもふれられています。
 
◎「外套」も「査察官」も読んでもらいたい

ゴーゴリ「外套」は社会からしいたげられた、下級小役人の悲劇的な運命を諷刺した作品です。苦い笑い、突き刺さる棘、いやみったらしい諷刺、悲哀感が、全編に満ちあふれています。岩波文庫も光文社古典新訳文庫も、「鼻」と「外套」は併載されています。読みくらべて、堪能してもらいたいと思います。
 
ドストエフスキーは、「われわれはみなゴーゴリの『外套』からでたといっています。人道主義小説のゴーゴリの思想は、ドストエフスキーはもちろん、トゥルゲーネフやチェーホフに受けつがれています。

そのゴーゴリは、プーシキン(推薦作『スペードの女王』岩波文庫)から大きな滋養を得ています。本多秋五『物語戦後文学史(下)』(岩波現代文庫)に興味深い記述がありますので引用させていただきます。
 
――ゴーゴリは、『検察官』の主題にしても、『死せる農奴』の主題にしても、プーシキンにもらったといわれる。彼はプーシキンにあてて「お願いです、何か主題をあたえてください、滑稽なものでも滑稽でないものでも結構です。ただ純ロシア的なアネクドート(註:逸話、奇談のこと)をあたえてください。喜劇を書きたくて書きたくて手がぶるぶる震えています……どうかお願いです、主題をあたえてください……」という、有名な手紙を書いた。(上記P116を引用した)
 
「外套」の舞台については、朝日新聞社編『世界名作文学の旅』(朝日文庫下巻)で紹介されています。本書は書店の棚で、見かけなくなっています。世界名作文学を読んでいる方は、常備しておく名著だと思います。私はしばしば未知なる場所へ、空中遊泳させてもらっています。
 
「検察官」は、社会風刺の喜劇です。現代の日本にも通じる、官僚世界が描かれています。この作品でゴーゴリは、ロシア文学のなかで確固たる地位を固めました。

「鼻」「外套」「検察官」を読んでいただくなら、光文社古典新訳文庫をお薦めしたいと思います。この3作品を読んで、ぜひドストエフスキーらの作品のなかに、ゴーゴリの影を見つけてもらいたいものです。
(山本藤光:2010.02.08初稿、2018.02.28改稿)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿