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中脇初枝『魚のように』(新潮文庫)

2018-03-02 | 書評「な」の国内著者
中脇初枝『魚のように』(新潮文庫)

ある日、高校生の姉が家を出た。僕は出来の悪い弟でいつも姉に魅かれていた。バラバラになった家族を捨てて僕も、水際を歩きながら考える。姉と君子さんの危うい友情と、彼女が選んだ人生について…。危うさと痛みに満ちた青春を17歳ならではの感性でまぶしく描く坊っちゃん文学賞受賞作(「魚のように」)。ほか、家庭に居場所のないふたりの少女の孤独に迫る短編「花盗人」を収録。(「BOOK」データベースより)

◎鮮烈なデビュー作『魚のように』

中脇初枝は高校在学中の1992年に、『魚のように』で第2回坊ちゃん文学賞を受賞。17歳でデビューしました。河出文庫になっていましたが、ずっと絶版でした。2015年7月に新潮文庫となって復刊されましたので、紹介させていただくことにしました。

当初は児童虐待をテーマとした、『きみはいい子』(ポプラ文庫)で発信するつもりでいました。話題にもならなかった、中脇初枝が再ブレークした作品だからです。中脇初枝は本書で、坪田譲治文学賞を受賞しています。

再ブレーク後の中脇初枝作品は、もちろん読んでいただきたいと思います。しかしその前にぜひ、鮮烈なデビュー作『魚のように』に触れていただきたい。そんな思いから、急きょ紹介作を変更しました。新潮文庫の中脇初枝の「あとがき」を読んで、意を強くしました。

――あれから二十年以上がたちました。あのころ書いた小説を文庫化してもらえることになり、あらためて読み返しました。今であれば書かない文章の、その拙さに赤面しながら。/けれども、それはそのままで残すことにしました。今なら書かない文章。それは同時に、今では書けない文章なんだと思うからです。(新潮文庫「あとがき」より)

中脇初枝自身が書いているように、『魚のように』には、17歳でしか書けない瑞々しさがあります。ストーリーは単純で、むしろエッセイに近いものです。タイトルの魚の名前は、本文中に一切でてきません。河出文庫の解説で、早坂暁(小説家、脚本家、坊ちゃん文学賞選考委員)が「香魚」(四万十川の鮎)であろうと推察しています。そしてこんな風に書いています。

――十七歳というのは、もっとも感覚を研ぎ澄まされる年令だという。まさに清流だけに棲むことができる繊細な感覚と、鋭敏な身のこなしを持っている香魚こそ似つかわしい。つと素早く、鋭く身をくねらし、水の流れを全身で感じながら、流れそのものになってみたり、流れそのものに逆らったり、流れそのものを楽しんだりして、水を飲みこみ、身体の内を水にさらし、肉体を水そのものに近づけていく。(早坂暁。河出文庫「解説」より)

できれば中脇初枝作品は『魚のように』(1993年)から読みはじめて、『稲荷の家』(1997年)までを先に読んでいただきたいと思います。本書は改題されて『こんこんさま』として文庫化(河出文庫)されています。それから『きみはいい子』(初出2013年、ポプラ文庫)『わたしをみつけて』(初出2013年、ポプラ文庫)と読みつないでいただくと、17歳の作家の成長過程が理解できます。

◎川上弘美と重なる

『魚のように』の舞台は、四万十川のほとりの町。そこに4人家族が住んでいます。語り手は高校生の弟・有朋。弟には多感な女子高生の姉・清文がいます。父親は単身赴任しています。物語は冒頭から、姉・清文の出奔で幕が上がります。

――姉が家を出た。闇夜に紛れて家を出た。姉がいなくなると朝が来た。それから皆で大騒ぎをした。けれど姉はみつからなかった。(本文の冒頭より)

この畳み掛けるような短い文章は、その後にデビューした川上弘美の文体と似ています。こうした瑞々しい文章を書けるのは、おそらく中脇初枝と川上弘美くらいだと思います。川上弘美の2作品の冒頭文を並べてみます。

――このごろずいぶんよく消える。いちばん最近に消えたのは上の兄で、消えてから二週間になる。(川上弘美「消える」の冒頭。文春文庫『蛇を踏む』所収)

――少し前から、逃げている、一人で逃げているのではない。二人して逃げているのである。逃げるつもりはぜんぜんなかった。逃げている今だって、どうして逃げているのかすぐにわからなくなってしまう。しかしいったんにげはじめてしまったので、逃げているのである。(川上弘美「溺レる」の冒頭。『溺レる』文春文庫所収)

私は歳の離れた2人の女流作家の文章に注目しています。早熟の中脇初枝(1974年生まれ)は17歳でデビューしました。いっぽう遅咲きの川上弘美(1958年生まれ)は、36歳のときに『神様』で第1回パスカル短編文学新人賞を受賞してデビューしました。川上弘美はその後芥川賞作家となり順調ですが、中脇初枝はしばらく脚光を浴びることはありませんでした。

『魚のように』のストーリーを紹介します。弟・有朋は姉を追いかけるようにして家出をします。ひたすら四万十皮を上流に向かって歩きます。その間に、姉・清文や姉の友人・君子のことを回想するだけの展開です。

若いころは何かに依存して過ごしています。語り手「僕」(有朋)は出奔した姉に依存していました。ところが依存しているものがなくなると、たちまち日常は危うくなります。これは川上弘美が好んで描く世界です。そうした意味でも、文体と同様2人の女流作家が描く世界も似ています。

ただし中脇初枝は、社会派の作家へと転身中です。稚魚だった鮎の飛翔する銀鱗が、やっと陽の光を受けて輝き出しました。まずは『魚のように』をご賞味ください。

◎『稲荷の家』が『こんこんさま』に化けた
(ここからは追記:2015.10.30)
『稲荷の家』は大好きな作品です。ずっと文庫になるのを待ち続けていました。先日未読の『こんこんさま』(河出文庫)を読みはじめて驚きました。なんと改題された『稲荷の家』だったのです。「山本藤光の文庫で読む500+α」は、文庫本の紹介を原則としています。そんな関係で、紹介をためらってきました。

『こんこんさま』は、家族をめぐる味わい深い作品です。胸を張って、紹介させていただきます。

中脇初枝は、「家」にこだわります。「家族」にこだわります。『こんこんさま』(河出文庫)も文字どおり、家と家族がテーマになっています。

物語は夜の出勤をしようと、大船駅のプラットフォームにいた「はな」が、飛び込み自殺に遭遇するところから動き出します。失神した「はな」にようやく血の気が戻ってきたとき、下りの列車が入線してきます。「はな」は北鎌倉にある、丸1年半ほど帰っていない家を思い出します。
 
――はなは家が嫌いだった。家がきらいなのははなだけではなかった。はなの父も母も家を嫌っていた。家に残っているのは、家から出ていく能力のない、祖父とまだ小学生の妹だけだった。(本文より)

北鎌倉の家は「廃屋と見まがうほどに朽ちかけ」ています。「近所の人たちは稲荷の家と呼」んでいます。「茫漠と広がる」「庭のどこかに稲荷が祀られているからだというが、現在の住人は誰もその社を見たことがな」い。ある日、末娘の「さち」が「家を幸せにするという占い師」を連れてきます。

足を踏み入れられないほど、荒れ放題の広大な庭。誰も中へ入ったことのない2つの蔵。以前猫の死骸が浮いていた池。古い便器が放り込まれたどぶ川。

占い師は、敷地内を流れるどぶ川を清めること。池を埋めること。椿の木を切り倒すこと。2階の部屋を取り壊すこと、などを次々と提案します。

占い師の提案で、ばらばらだった家のパーツが整いはじめます。家を仕切っていた「石」(祖母)が他界してから、はじめて家族がまとまりかけます。

やがて庭の奥に、稲荷の社を発見します。そこには「石」が檻に閉じ込めた、お稲荷さまがありました。家族と「さち」の唯一のともだちである隣家の「たっくん」が力を合わせて、お稲荷さまを開放しようと汗を流します。          

――それから六人がかりで鉄の檻を壊した。さびているとはいえ、神様を束縛するだけに、鉄の檻は頑丈だった。(本文より)

翌日、家族の団欒が北鎌倉の旧家に戻ってきます。祖父の「甲子」は自室でテレビを見ています。「はな」が目覚めたとき、「さち」も同じ居間で眠っていました。

母親の「都」は「石」が死んでからはじめて寝坊をして、昼にお供えをしたことを明るく悔います。父親の「主計」はテレビショッピングを見て、高枝切りばさみを買おうと発言します。
 
――「あれならぼくでも庭の手入れができるだろう。」/主計の意図がつかめて、やっとはなはうなずいた。/「そうね。」/都もつぶやいた。/「手伝うわ」(本文より)

「さち」が連れてきた占い師は、死んだ「石」の化身だったのかもしれません。
(山本藤光:2015.08.01初校、2018.03.02改稿)

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