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島尾敏雄『死の棘』(新潮文庫)

2018-02-28 | 書評「し」の国内著者
島尾敏雄『死の棘』(新潮文庫)

思いやりの深かった妻が、夫の「情事」のために突然神経に異常を来たした。狂気のとりことなって憑かれたように夫の過去をあばきたてる妻、ひたすら詫び、許しを求める夫。日常の平穏な刻は止まり、現実は砕け散る。狂乱の果てに妻はどこへ行くのか?―ぎりぎりまで追いつめられた夫と妻の姿を生々しく描き、夫婦の絆とは何か、愛とは何かを底の底まで見据えた凄絶な人間記録。(「BOOK」データベースより)

◎『「死の棘」日記』と『死の棘』

古書店で『「死の棘」日記』(新潮文庫)を見つけました。カバーには島尾敏雄と妻・ミホが、肩を寄せ合っている写真がありました。島尾敏雄『死の棘』(新潮文庫)は、大学時代に読んでいます。その暗く重い内容に、辟易させられた記憶があります。しかし『「死の棘」日記』のカバーは、幸せそうなほほえみで飾られていたのです。調べてみると、妻ミホが国府台病院入院中のものでした。島尾敏雄38歳が見舞いに行って、中庭で写した写真だったのです。

『「死の棘」日記』の扉には、島尾ミホの文章があります。なぜ島尾敏雄没後18年で、日記の公開に踏み切ったのかが説明されています。そして次のような文章で結ばれています。

――「日記」を読み返しながら、几帳面に書かれた文字の跡にさえ、当時の夫の苦衷が偲ばれて、涙が降る降る零れました。その時私は精神異常の状態にあったとは申せ、顧みて自分の姿が悲しく慚愧に堪えません。(本文P5)

『「死の棘」日記』を毎朝4、5日分読みました。そしてたちまち、日記に引き込まれました。記憶のなかの小説『死の棘』よりも、精緻な文章に圧倒されたのです。

島尾敏雄は1944年、第18震洋特攻隊長として、奄美群島加計呂麻島へ派遣されます。しかし発進の命令がないままに終戦を迎えます。その間、島尾はミホと熱烈な恋愛をします。島尾とミホは、1946(昭和21)年に結婚しています。そしてミホは1953(昭和28)年ころから、心因性の神経症状をきたします。『「死の棘」日記』は、1954(昭和29)年からはじまります。

『死の棘』発表以前の島尾敏雄は、『夢の中での日常』(講談社文芸文庫、初出1956年)に代表されるシュールリアリズム作品を書いていました。それが妻の発病により、惨憺たる現在と対峙しなければならなくなりました。日記と併走する形で、小説『死の棘』は執筆されています。

◎悲惨さではなく滑稽さ

日記を読み終えてから、小説『死の棘』を一気に読みました。展開は日記と同じなのですが、重い病から解放されたミホを知っているだけに、以前のような暗い読後感にはなりませんでした。小説『死の棘』は、日記と同様の1954年から9ヶ月を描いたものです。

死を覚悟していた夫は、いわば拾った命をないがしろに考えています。文学に傾倒する一方、外に女をつくり家庭を顧みることをしません。妻ミホの嫉妬は激しく、それが狂気へと突き進みます。ミホは奄美大島で純粋無垢に育ちました。不慣れな環境のなかで、頼れるのは夫だけだったのです。

夏の日の終わり、私(トシオ)は外泊から帰宅します。家には2人のこどもと妻の姿はなく、部屋中に血糊のようなインクがふりまかれていました。日記帳も放り出されています。私(トシオ)は予期していた、破綻の時期がきたと身震いします。

この日から狂的で執拗な、妻・ミホの尋問がつづきます。私は平謝りしますが、妻の狂乱はおさまりません。私はさまざまな誓いを妻に告げます。

――もう外泊はしません。ひとりでは外に出ません。外にでるときは妻やこどもを連れて出ます。妻のほか、女とは交渉をもちません。(本文P9-10)

しかしミホの粘着質な糾弾はおさまりません。私は本書を、リアリズム小説としてうけとめました。しかし読後にたくさんの、『死の棘』をめぐる論評を読んで、自分の考えの甘さを感じました。

――この病妻物は、それまでのシュルリアリズムの作品とはちがい、リアリズムそのものの私小説のようにみえる、それが文壇にうけて、島尾の作家としての地位を確立したゆえんであろう。が、よく読めば、この作品群もまた、実は現実から隔離したところで成立していることに気づくにちがいない、(百目鬼恭三郎『現代の作家一〇一人』新潮社P106)

『死の棘』の読みどころについて、渡部直己は「悲惨さではなく、むしろ滑稽さにある」と書いています。

――この「地獄絵」を目の当たりにして、一度も笑い声を立てないような読者は、たぶん小説とは永遠に無縁な存在である。この世には確かに、笑いこけずにはいられぬほどの悲惨さがあることを痛感させる逸品のモデルたちになってみれば、むろん辛いことなのだろう。だが、人生相談じゃあるまいに、小説の読者たる者、そんなことにいちいち同情している暇はないのだった。(渡部直己『必読書150』太田出版P186)

両親の狂乱に翻弄される2人のこどもは、現実ではそれぞれ立派に活躍しています。島尾ミホも正気をとりもどして、社会復帰しています。それでも残念ながら私は、渡部直己のような読み方はできませんでした。

無頼派をきどる売れない作家が、狂いはじめた妻と併走する場面は、確かに笑えます。しかしミホやこどもたちの悲惨さには、笑いを凍結させる狂気がありました。ところが小川洋子も、本書を「笑ってしまう」と書いています。

――最初はホラー小説かと思うほどに、人間の恐ろしい面をこれでもか、これでもかと見せられていくのですが、それを突き詰めていくと、ある地点からだんだん滑稽に思えてくる。怖さが極まって、つい笑ってしまうところまで達している作品です。(小川洋子『心と響き合う読書案内』PHP新書P229)

――「私」こと夫のトシオは三九歳。妻のミホは三七歳。作家の実体験に基づく私小説だが、痴話ゲンカと呼ぶには壮絶すぎる問答につい笑っちゃうのは、誰しも「身に覚え:あるせいか。(斎藤美奈子『名作うしろ読み』中央公論新社P287)

笑えなかった私は感度が低いのと、「身に覚え」がないせいのようです。主人公・トシオの平身低頭ぶりは笑えたのですが、全般にはとても笑える代物ではありませんでした。

◎究極の夫婦愛小説

私と同様に柴門ふみも、本書を再読しています。そして再読後に、まったくちがった小説としてとらえています。

――今回読み返してみて、『死の棘』は、恐い奥さんとそれに逆らえない気の弱いダンナの話なんかではなく、凄絶な夫婦愛の話であることに、ようやく気づいたのだった。(柴門ふみ『恋する文豪』角川文庫P195)

芳川泰久は編著『純愛百選』(早美出版社)の1冊として、『死の棘』を選んでいます。そしてその理由を次にように書いています。

――現代の大方の日本人たちから見れば、この二人がどうして別れないのか、とんと理解できないということになるのではないか。とりあえずは、このわからなさが、じつに純愛なのではある。そもそも純愛なるものはどれも、どうしてその人を、そこまで? という問いかけに対する答えを準備していない。対象設定の理由が深い謎に包まれていることが、純愛の必要条件なのだ。(本文P185)

1955年、ミホの療養のために夫婦は奄美大島に移住します。島尾敏雄は図書館館長の職につきました。そこへ若い瀬戸内寂聴が訪問します。島尾に館内を案内してもらうのですが、窓の隙間から射るようなミホの視線をあびたようです。ミホの嫉妬はまだ止んではいなかったのでしょう。その日の宴席での場面を、瀬戸内はこんな文章で結びます。

――島尾さんも程なく現れて席についた。昼間のきりっとした白いスーツ姿とちがい、青い半袖シャツのぺらべらしたのを着ていた。その色と形が、およそ島尾さんに似合わなかった。接待役の女の人が笑いながら、「ミホさんが嫉もちやきで、夜の席にはおよそ似合わないものばかり着せるんですよ」と囁いた。(瀬戸内寂聴『続・奇縁まんだら』日本経済新聞社P319)

これを読んで笑ってしまいました。島尾敏雄を語るエピソードとして、これに勝るものはないと思います。2人は愛し合っていたのです。私の書棚に、島尾敏雄『東北と奄美の昔話』(創樹社、初出1973年)があります。ソノシートつきの本なのですが、残念なことに聞くための機材がありません。民話吹込み・島尾ミホとなっています。なお本書の挿絵は息子さんの島尾伸三が手がけています。そして「あとがき」には、島尾敏雄のこんな文章があります。

――この本は私たち家族の共同作品であり(後略)

(山本藤光2013.12.06初稿、2018.02.28改稿)


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