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つつじ寺?へ・・・ ~塩船観音寺と里山民家、そして『グラン・トリノ』

2009-05-04 01:55:00 | オートバイ春夏秋冬

ツツジと人、どっちが多い?


 翌日(3日)の憲法記念日は、JR青梅線河辺駅から徒歩30分(ぐらいかかったと思う)のところにある塩船観音寺へ行ってきました。去年は電車+バス(帰りは歩いて、駅前温泉「梅の湯」に浸かった)でしたが、今年はもちろんアオガエル君に跨ってお参りです。 *塩船観音寺のHPは、 → ここをクリック

 この日の予定は、まず羽村市動物公園に行って、「おかか」や「こまち」に会ってから塩船観音寺に向かうつもりだったのですが、チケット売り場(券売機)に長蛇の列ができていたのでパスすることにし、さっさと塩船観音寺へとバイクを走らせました。ところが、ここも去年以上の人が訪れていました。
 というのも、5月3日は、11時より年中行事の「火渡荒行厳修」がとり行われ、一年の無病息災を願って「火渡り(裸足で駆け抜けるアレです)」にチャレンジする参詣客もまた大勢訪れていたからです。プラス、すり鉢状の境内を彩る1万5千本の「ツツジ」や「火渡」を狙ったアマチュアカメラマンに、「GWは皆、高速道路に乗っているはずだから空いてると思った」人々が入り乱れて、広い境内の一部では通勤ラッシュ並みの混雑も起きていました。

 ニワトリさんの目的は、5月1~3日の間だけ開扉される十一面千手千眼自在菩薩像(寄木造の木造立像で、鎌倉時代の作。個人的にもこの時期に造られた仏像が好き)を拝顔することでした。去年は見られなかった仏像の前で足が痺れるまで対坐し、去年以上に美しかった境内のツツジを(人混みで)汗が出るまで見られて、大満足~! 


色とりどりのツツジが本当に綺麗でした~♪


     

(左)本堂に上がる人が非常に少なく、千手観音像や二十八部衆(京都の三十三間堂に行かなくても全員集合!)、脇侍の毘沙門天像とじっくり向き合うことができた。
(右)招き猫のお守り=【中吉】=「吹く風に 沖辺の波の 高けれど 心静けき 我港かな」
最近、あまり意味があるとは思えない波風に立たされている自分の取るべき態度を教えてくれる和歌が詠まれていた。そうそう、「心静けき我港」でいれば良いんだよね~!


(左)茅葺き屋根の本堂と、本尊を安置する厨子は室町時代の建築。内側右扉には普賢菩薩、左扉には文殊菩薩が描かれている。塩船観音寺は、大化年間(645~650)年、八百比丘尼が紫金の千手観音像を安置したことに始まり、周囲の地形が小丘に囲まれて船の形に似ていることから、仏が衆生を救おうとする「弘誓の舟」になぞらえて、行基(またしても!)が「塩船」と名付けた、と伝えられている。本堂は、向かって左手に名物のツツジをやや見おろす位置にある。
(右)本堂の中では写真撮影禁止だったので外から・・・仏像好きのニワトリさんだけど、中でも千手観音は「私の御仏」で守り神(仏)らしい。それを教えてもらったとき、「だから三十三間堂や唐招提寺が好きなんだ」と、妙に納得した。色々なことに手を伸ばす性格は、(仏とは違う意味で)「千手」だと思うし。もしも自分に千の手があったら・・・なんて夢想すると楽しい。世界も救える?


(左)360度ツツジに囲まれて、どこを切り取ろうかさっぱりわからない。無駄なことをやめて適当にシャッターを切った後は、目に焼付けることにした。
(右)ツツジの斜面を見おろす鐘楼も、ツツジに彩られていた。


(左)どこから見ても、どこを見ても、綺麗だなあ~♪
(右)人が映っていないカットが1枚だけあった!


(左)塩船観音寺を後にすると、近くの岩蔵温泉を偵察して(隠れ家的なスポットでした!)、岩蔵街道から青梅街道(いつも走るバイパスの青梅街道じゃなくて)経由で帰宅。久しぶりに、武蔵村山の里山民家を訪ねて、竹馬にも乗った(小さい頃は得意中の得意だった)。
(右)国立にも保存民家があって、つい先日縁側で読書&昼寝をしたばかりだけど、こちらの方がふたまわり(庭はさらに広い)はでかい・・・!


(左)国立の「つるべ」式の井戸は埋め立てられているが(貞子が出てきたら大変!)、こちらのポンプ式井戸は生きていま~す! その後ろの森も魅力的!
(右)里山民家の裏はこのとおり、森と水田。狭山丘陵は、『となりのトトロ』のモデルになった場所。豊かな自然が一部残されている。そろそろ田植えの季節かな?

 二日間でトータル281km走り、燃費=28.57km/ℓ。1500kmの慣らし運転も終わりました。15時に帰宅して、畳の上で1時間少々昼寝。夜は、立川まで自転車漕ぎ漕ぎ、イーストウッドの『グラン・トリノ』を観てきました。最高の映画を観た後は、夜風に気持ち良く吹かれながら自転車を走らせ、あるものを見つけたので、カメラを取りに一度家に戻りました。良い映画を観た後は、目に映るもの全てがとても美しく見える。夜なのでなおさらだ。暑くもなく寒くもなく、足もよく動き、いつまでも散歩していたいニワトリでした。明日から仕事だけど、それほどブルーじゃない~!


センチメンタル・ジャーニー? ~剱崎&城ケ島

2009-05-03 08:40:15 | オートバイ春夏秋冬

 城ヶ島方面に向かうときは、横浜横須賀道路を終点まで走る必要はないのですが、観音崎からスタートしたかったのと、「横横」を全線走りたかった?から・・・一般道に降りると、この交差点(ヤシの実ロードの直線が終わるところ)に出た!(日本一高いと言われる「横横」道路の通行料金はETC割引二輪で計600円)。


 5月2日は、先日のツーリングの続きです。観音崎をスタート地点に定め、剱&城ヶ島と(過去を)旅してきました。8時に出発し、9時半には観音崎に着いたので(「第三京浜&横横」は空いてましたが、「東名」は合計70kmの渋滞表示が・・・お疲れ様でした)、今日は楽勝で三浦半島を一周できると思ったのですが、海岸線を歩いたり、数十年前の記憶と殆ど変わらない懐かしい道を歩いたり、思いもかけない場所で時間を取られているうちに日が沈んでしまい、油壺も葉山も逗子も鎌倉も寄ることができず、急ぎ足で帰宅(横浜に住んでいる妹の家に寄って・・・)することになってしまいました。数十年ぶりの城ケ島も、先日の観音崎同様、未消化のまま終わってしまった感じです。そういえば、城ケ島を歩いて一周するだけで丸々一日かかったのだから、数時間で見つくそうなんて無理無理・・・。
 この日は日差しが強烈で、青空を出すために露出補正を多めにかけたのですが、やりすぎて単に暗い写真ばかりになってしまいました。妹の家に着いて、顔がヒリヒリするな~と思ったら、ヘルメット越しに思い切り日焼けしていました。
 次回は油壺からスタート?


好きな鉄道路線があるように好きな道路もある。海沿いを走る134号線もそのうちの一つ。左手に海が広がり、前方に三浦海岸が見えてくるこのあたりも、特に好きなこところ。


 剱埼灯台へ向かうジグザグ道(帰りだけど)。電信柱を辿っていくと、灯台に着く? このあたりもトンビが大変多い。風を利用して空中に停止していた。


 入りくんだ江奈湾あたりもお気に入りの場所だ。京浜急行のバスに乗り、適当なバス停で下車して、海岸線を歩いている人も結構いた。


 海からの強風にさらされる城ヶ島の自然。城ヶ島が「風の島」だったことをすっかり忘れていた(ウミウの繁殖地だったことも)。詳細はのちほど・・・。

 今朝も顔がヒリヒリしますが、さて今日はどこへ行こうかな?(前日の走行距離=220km+21659歩。燃費はまだ不明)


ETCが付きました! 

2009-05-02 06:06:16 | オートバイ春夏秋冬


待ち時間に、西郷さんのお店の近くの根川緑道で散策&昼寝!


 29日の夜22時25分、まだお仕事中の西郷さんから「ETC車載器入りました」とのメールが届き、5月1日の夕方取り付けてもらうことになりました。GWに間に合うとは正直思っていなかったのですが、3、4、5日がお休みになったので、早速1000円で奈良まで行ってこようと思いました。飛鳥の民宿「吉田正次郎」に泊まれるだろうか? 
 ところが、「棚から牡丹餅」な状況を喜んでいられたのは昨日(30日)の午後3時から6時までの短い時間でした。電話がかかってきて、4日の夜勤に入って欲しいと言われてしまいました。その代わりに、2~3日(1日も半日)が休みになりました。
 GWはどこへ行っても混んでいるので、三連休がなくなったところで痛くもかゆくもないのですが、明日と明後日をどのように過ごそうか、考えがまとまりません。「大多喜レンゲまつり」が今週なら「いすみ鉄道」に乗る手もあった・・・パノラマカーがGW中に走ってくれれば名古屋までバイクで行けたのに・・・今が満月だったら姨捨の棚田を見に行ってもよかった・・・などなど、レバやタラばかりでちっとも行き先が決まらず、つまるところ、この間の続きになりそうです(観音崎から先を走る)。まあ、天気は良さそうだし、今度こそ波の音を聴きながらのんびり昼寝したいものです。




(右)ところで、妖精( or 鹿)の棲んでいる(頻繁に「ピー」と甲高い声で鳴く)ガソリンタンクは非常に繊細で、上着のジッパーなどがこすれると、すぐ傷がついてしまいます(ひっかき傷が見えるかな?)。最初に発見したとき、何者かが10円玉や鍵で傷をつけたのかと思いましたが、そうじゃなくて、柔なつくりだったみたいです。いずれにしてもショックでした・・・。
(左)タンクパッドとか貼りたくないので(刺青入れてるみたいじゃん)、引っ越しなどの養生に使うテープを買ってきて、バイクに乗る際その都度貼ることにしました。簡単にはがせて傷もつかない、同じ緑だから遠目だとわからないと、良いことづくめ。そうそう、貼ると言えば、奈良に行ったときに「奈良の鹿」支援ロゴシール(↓)を買って貼るつもり!

3.7×2.7 センチと小さい。どこに貼ろうかなあ~♪



    

(左)ここで暮らしているカルガモが10羽ほどいた。ハクセクレイやカワセミもいる。
(右)息を吹きかけて「やらせ写真」を撮ろうとしたけど、しっかりついていて、パラシュートは飛ばなかった・・・。


 「日向ぼっこも終わったことだし、そろそろ水の中へ帰ろうか?」
 ちょうどそのとき、多摩モノレールが通り過ぎ、オレンジ色の影を水面に落としていった。

 

    

(左)シロツメクサの明かりが次々と灯る。這いつくばって撮影。
(右)左足が膨れ上がってしまったハト。一本足でぴょこぴょこ動き回る姿は痛々しかったが、健気に頑張っていた。


(左)18時過ぎにETCの取り付けが完了。メインスイッチを入れると、まず赤くランプが点灯する。
(右)赤と緑が交互に点滅したあと、最後に緑が点灯して、ETCが読み取り可能になったことを知らせてくれる。カードを入れないと赤のまま。カード車載器は盗難を防ぐため別体式になっている。面倒だが、安心だ。

 家に帰る途中で「1234.5km」になった! 


観音崎えとせとら ~海辺の生きものたち

2009-04-27 11:35:35 | オートバイ春夏秋冬


 観音崎の磯だまりで少し遊んだら、のんびり昼寝でもして・・・なんて考えていたニワトリさんでしたが、観音崎周辺を歩き回っているうちに夕暮れが近づいてしまいました。それでも、砲台跡を回り切れなかったし、自然博物館にも行かれなかったし、ゴジラの足跡も見過ごしたし、ボードウォーク(海岸線の遊歩道が板張りになっている)も歩けませんでした。今度来るときは、サンダル&短パンに小さな網&バケツを持って行こうかな?


(左)磯だまりの海藻たち。誰かがきれいに並べたのかな?
(右)ゆらゆら揺れる磯巾着(このあと、イソギンチャクをつつきました!)


(左)バケツの中を見せてもらいました。カニが3匹、透明なエビが2匹、小さなヤドカリが1匹・・・ジョウロの中では、何かの幼魚が無邪気に泳いでいました。
(右)上空ではトンビもパトロール旋回中。何羽も見かけました。林の中を歩けば、あちらこちらでウグイスが縄張りを主張中! とても賑やかです。


(右)多々良浜にある観音崎自然博物館。次回はチェックするつもり。多々良浜のどこかに、ゴジラが上陸したときの?足跡があるそうです。これも見てみたいな~♪
(左)博物館の向かいにバイクを停めて、案内図に描かれたコースを歩き回りました。おや、バイクの手前に写っている柱は?


 歩道をガードする柱が、観音埼灯台の形をしていました。なかなかの演出です。


(左)帰途につきながら、椰子の実が立ち並ぶ馬堀海岸に寄ってみました。こういうとき、魚眼レンズがあると面白い写真が撮れそうです。
(右)サルというよりマッコウクジラに見える猿島。ここでも一日遊べそう~。三笠公園から猿島行きの船が出ていて、約10分で無人島へ!(往復=1200円)。


最後は馬堀海岸の偽ハワイ写真で幕を閉じます。といっても、また行くけどね~♪
(今回のツーリングの走行距離=199km+2万歩。燃費25.13 ℓ/km)

 観音崎公園のHPは、 → ここをクリック (予習したから、今度こそ・・・)


観音崎えとせとら ~近くて遠い過去

2009-04-26 23:50:02 | オートバイ春夏秋冬


 写真は、観音崎内の北門第三砲台跡から眺めた太平洋(東京湾入口)で、右隅の煙突は東京電力横須賀火力発電所のものです。
 観音崎には観音埼灯台があり、隣接しているタワー(東京湾海上交通センター)から浦賀水道を行き来する船舶の動きを管制しています。観音崎が東京湾の海上通行の安全を図る上で重要な地点にあるということは同時に、仮にここを制圧されてしまうと極めて不利な立場に追いこまれてしまうことを意味しています。司馬遼太朗の『竜馬がゆく』を読むと、江戸の千葉道場に剣術修行に来た坂本龍馬が、現在防衛大学校のある横須賀市小原台の高台(観音崎の近く)から黒船を眺めるエピソードが記されていますが、ここを国防上の重要な拠点と考えた明治政府は、前述したように観音寺を移転させ、砲台を設置して観音崎を要塞化し、海上に築いた第一~第三海堡と共に浦賀水道に砲口を向け、睨みを利かせていました。今では自然公園となった観音崎だけど、今でもその一部が防衛省の管轄区域になっているのは、そうした理由によるものでしょう。

【補足】 富津沖の第一&第二海堡に対して、観音崎沖の第三海堡はニ番目に規模が大きく、完成までに30年の年月を要しながら、完成から二年後に生じた関東大震災で崩壊し、暗礁と化してしまいます(魚たちには天国だと思う)。海難事故の原因になっているとの指摘を受け、2000年から撤去工事が始まり2007年に工事終了、引き上げた構造物の一部は安全な場所に再投棄して漁礁として再利用、一部を陸揚げして当時の土木技術の調査を行い、兵舎や弾薬庫などを国土交通省の展示施設で一般公開しているそうです。長崎県の沖合に浮かぶ(通称)軍艦島が35年ぶりに一般公開されることになりましたが、足元に興味津々な人工島が存在しているのですから、機会があったら是非見学してみたいものです。


    

(左)灯台入口に近い岩がこのように切り通しになっている。誰が作ったのだろう。
(右)西脇順三郎の「灯台へ行く道」に出てくるトンネル。トンネルの中に小部屋?が幾つもある(コンクリートで蓋がされているが・・・)。


 多々良浜側から国道を歩き、先ほどのトンネルをくぐって観音崎の中に入ると・・・太平洋戦争が終わるまで、観音崎は旧軍の要塞だった。現在も、5か所の砲台跡が残されている。このようにコンクリートで塞がれているのは元弾薬庫?兵員室? 


(左)多々良浜側から遊歩道になっている坂道を登り、煉瓦造りのトンネルを抜けると北門第三砲台跡に出る。
(右)トンネルの正面に現れてくる砲台跡。砲台跡は5か所残されているらしいが、この日は1か所しか回れなかった。

(右)砲台跡の内部。苔むし、木々が生い茂り、古代遺跡のようにも見える。
(左)同じ砲台跡を横から眺めると・・・塞がれていない空間もあった。掩蔽壕かな?



(左)砲台跡の近く、一番見晴らしの良い丘の上に、先の戦争で亡くなった船員を供養するための「戦没船員の碑」がある。突端の石碑には、大きな字で「安らかに眠れ わが友よ 波静かなれ とこしえに」と刻まれている。確かに、ここから見おろす海は素晴らしい・・・。
(右)山の上に投錨された錨(あるいは、こんなところまで打ち上げられた沈没船の錨だと想像することもできる)。石碑に刻まれた文字と同じことを語りかけている。


    

戦没船員の碑。約六万人が犠牲になった・・・。

 昨晩遅く書き始めたのですが、やはり眠気には勝てず翌朝に・・・29日を乗り切れば休みだあ~♪ 


観音埼灯台

2009-04-25 23:50:00 | オートバイ春夏秋冬



 まだ夏が終わらない灯台へ行く道 岩の上に椎の木のくろずんだ枝や いろいろな人間や小鳥の国を考えたり 「海の老人」が人の肩車にのって 木の実の酒を飲んでいる話や キリストの伝記を書いたルナンという学者が 少年の時みた「麻たたき」の話など いろいろな人間がいったことを考えながら歩いた やぶの中を「たしかにあるにちがいない」と思ってのぞいてみると あの毒々しいつゆくさの青い色もまだあった あかのまんまの力も弱っていた 岩山をつきぬけたトンネルの道にはいる前 「とべら」という木が枝を崖からたらしていたのを 実のついた小枝の先を折って そのみどり色の梅のような固い実を割ってみた ペルシャのじゅうたんのように赤い種がたくさん 心のところにひそんでいた 暗いところに幸福に住んでいたかわいい命をおどろかしたことは たいへん気の毒に思った その暗いところにいつまでも かくれていたかったのだろう 人間や岩や植物のことなどを考えながら また灯台への道を歩きだした(西脇順三郎 『灯台へ行く道』)


    

 西脇順三郎の詩碑がある地点から、観音埼灯台へ登るかなり急な坂道が始まりますが、そこに至るまでの道は二通りあって、一つは横須賀側から岬を巻くように歩く磯伝いの遊歩道で、もう一つは反対側の多々良浜(ゴジラが上陸したらしい)から岩山のトンネルを抜け坂道へ至る道です。『灯台へ行く道』が書かれた頃は、後者の道が一般的で、その後に磯伝いの道が整備されたそうです。ニワトリさんは前者の道から坂道に入っていきました。坂道はそう長くは続きませんが、一気に崖の上まで登るため、結構息が切れます。でも、ご覧のようにいい道ですよ~♪


 観音埼灯台は、明治元年(1868)にフランス人のヴェル二―が設計した日本最初の洋式灯台で、三浦半島の東端に位置しています。初代の灯台は右写真のような四角い煉瓦造の建物で、起工日(1868年11月01日)は「灯台の日」に制定され、その日に限り全国の灯台が公開されるそうです。初代灯台は何とも素敵なつくりだったのですが、大正11年(1922)の地震によりひびが入り、翌年コンクリート造りの二代目に建て替えられました。完成から半年後の関東大震災で倒壊してしまい、現在の三代目が建てられました。
(観音埼灯台の下の磯に、倒壊した二代目灯台の残骸が今も残っているそうですが、残念ながら見ないで帰ってきてしまいました。やっぱり予習は必要かな?)


 

 観音埼灯台は、高さ19m(海上から灯火まで56m)。八角形の白亜の美しい灯台は日本の灯台50選に選ばれています。映画『喜びも悲しみも幾歳月』の頃は人が常駐していましたが、現在は完全無人化されています(灯台守という職業はなくなってしまった)。『ウルトラセブン』第46話では、サロメ星人がここに住みついて(にせウルトラセブンを作り)地球征服をたくらんだとか・・・(この話も後から仕入れた。残念)


 観音埼灯台のてっぺんから見た観音崎(左端の白い丸塔は、海上保安庁東京湾海上交通センターの管制塔)。観音崎の「さき」は岬を意味していて、陸から見たときは「崎」を、海から見たときは「埼」を当てるそうです。灯台は普通、海から見るものなので、「観音崎」灯台ではなくて「観音埼」灯台になるのだとか・・・全然知らなかった~! (「漢検」の愚劣さはおいといて)漢字って奥が深いですね。


    

 灯台の見晴らし(左写真)は最高で、スリルも味わえます。浦賀水道を通行する一日700隻!の船舶の安全に寄与しているフレネル式レンズ(写真右)も素敵。
 日本の灯台は全部で3384基!もあるのに、内部まで見学できる灯台は、本州12、九州=1、沖縄=2の合計14基しかないそうです。ニワトリさんはたまたま観音埼灯台と犬吠埼灯台に上ったので、普通に見学できると思いこんでいました。観音埼灯台の入場料は200円。内部を見学できるだけでも貴重なのに、その上資料館も常設されているのだから、ここは見学するしかない! ここまで坂道を登りながら、入口で写真を撮って引き返す人が多かったのは何とももったいない話・・・ニワトリさんも、しぶしぶ200円を払いましたが、今は大いに反省! 11月01日の「灯台の日」に休みを取って、普段は見られない灯台を見学しに行こうかな?


(左上)磯の潮だまりで遊ぶ人々たち。イソギンチャク遊びがした~い!
(右中)浦賀水道を行き交う船や鳥(黒い点)を眺めながら昼寝の予定でしたが・・・。
(左下)灯台の真下の突端にあたる部分は防衛省の敷地(海上自衛隊管轄)になっていて、立入禁止の柵が張られていました。観音崎のもう一つの顔については改めて・・・。

 睡魔に負け今朝UPしましたが、日付は昨日のままです。続きは仕事が終わってから書くつもり。夜中になるかな?


観音崎にて ~灯台へ行く道

2009-04-24 23:56:15 | オートバイ春夏秋冬



 記念艦「三笠」を後にして、椰子の樹が立ち並ぶ海岸通りを走っているうちに、やっぱり海はいいなあ~と、気持ちが雄大かつ穏やかになっていきました。
 観音崎に着き、バイクから降りました。観音埼灯台へと続く散策路や、太陽の下に横たわる青い海、磯だまりで楽しそうに遊んでいる子供たち、波打ちぎわの浜辺で花を咲かせている植物、その隣で海を見つめている大人びた少女・・・そうした光景が目に入り、潮の香りを胸に吸いこんでいるうちに、ひたすら走るだけで終わりそうな半島一周を中止して、夕方までここで過ごしたくなりました。
 時刻は13時。「先に三崎口まで走って、おいしい海の幸でも食べてからここに来れば良かった」と思いましたが、これから三崎口まで走ると食事が14時近くになってしまいます。観音崎には食堂が1件しかなかったので、他に選択肢はないものかと、来た道を戻ってみたのですが・・・。


 やっと見つけた二店のうち、一店に入りました。一番安い!刺身定食(千五〇〇円)に、サザエの壺焼(合計二六五七円)を奢ってしまいました。海が近いせいか、さすがにおいしかったです。小さなグラスに入った濃厚な梅ジュースはサービス品!


     

(左)満ち足りた気分で観音崎へ戻り、灯台へ続いている海辺の道を歩いた。崖下に海に浸食された洞窟が現れる。奈良時代の僧=行基がこの地方で漁業を営む人々の安全を祈願して十一面観音像をこの洞窟に収めたことから、観音崎の地名がついたとされている。「行基」の名は全国の至る所でお目にかかる。実績を考えると、弘法大師以上のスーパー僧侶かもしれない。
(右)観音埼灯台が見えてきた。心が走り出す!(誤記だらけの「にわとりブログ」ですが、観音崎の表記に関して、あることに気づいた方がいるかしら?)



(右)観音寺跡。行基が十一面観音像を奉納してから、観音堂が創建され、江戸時代には大きな信仰を得ていた。明治に陸軍の砲台が築かれ、観音寺は鴨居の亀崎に移転し、1986年に焼失してしまった。
(左)灯台に続く石畳の坂道にさしかかる頃に、詩人=西脇順三郎の石碑があった。
石碑には、『灯台へ行く道』の最初の一節が刻まれていた。

 ~まだ夏が終らない灯台へ行く道 岩の上に椎の木のくろずんだ枝や、いろいろな人間や小鳥の国を考えたり 「海の老人」が人の肩車にのって 木の実の酒を飲んでいる話や キリストの伝記を書いたルナンという学者が 少年の時みた「麻たたき」の話など いろいろな人間がいったことを考えながら歩いた~

 碑に刻まれた文章を復唱しなら、自分も灯台へ行く道を登り始めた。
(全文を読みながら歩いたら、さらに散策が楽しくなると思います。帰宅してから『灯台へ行く道』を探して、音読してみました)


三笠記念公園

2009-04-23 13:14:25 | オートバイ春夏秋冬


 レストラン=ドルフィンがまだ健在なのを確認してから、最初に予定していた横須賀の三笠公園(写真。中央の銅像は日本海海戦の指揮をとった東郷平八郎元帥)に向かいました。国道16号は空いていて、途中、京浜急行の電車と並走しながら(うっしし)金沢八景を経て横須賀に着きました。トンネルを抜けて坂道を下ってゆくと、左手の港に海上自衛隊の護衛艦が2隻並んで停泊していました。以前、レインボーブリッジをくぐってゆくイージス艦をたまたま目撃したことがありますが、1隻はイージス艦だったかもしれません。公園の入口にバイクを止めると、雲一つなくよく晴れた空の下に海上に浮かんでいるかのように佇む(海辺にあるけど、地上に上がっている)戦艦「三笠」の姿が見えてきました。数十年ぶりの再会です。


(左)公園入口付近にバイクを駐車する。奥に三笠のマストが見える。時刻は12時を回っていたが、この時点でも城ケ島まで行くつもりだったので、内部は見学しなかった。日露戦争での被弾状況や、実際にここで何人が戦死したなど、子供の頃に見学した際に、意外なまでの生々しさにショックを覚えたことも、見学を中止した理由の一つだったのだが、帰ってきてから公式HPを閲覧したところ、展示内容が当時と様変わりしているように思えた。現物を見学していないので何とも言えないが、戦闘に伴う「死」について、HP上ではオブラートで包んでいる印象を受けた。
(右)記念艦「三笠」を見学する場合は、後部上甲板までこのタラップを上がる。入口には三笠の30cm主砲弾と、被弾して欠損した砲口、戦利品のガトリング機関銃(旅順攻略戦で陸軍が悩まされたロシアの機関銃。多くの人命が奪われた)、戦艦「大和」「武蔵」に搭載された46cm砲弾が飾られていた。


 昔と違って、周りが住宅地になっているので、ちょっと場違いな気が・・・。三笠は前後甲板に連装式の30cm主砲を2基、計4門搭載していた。射程は1万メートル。


 舷側から突き出た副砲群。15cm砲を片側7門=計14門、8cm砲を片側5門=計10門を搭載している(現役時、8cm砲は計20門。舷側の8cm砲は見学者が動かすことができる)。当時の海戦は、船が舷側を見せ合い、全ての砲を使って撃ち合うことが多く、司馬遼太朗の『坂の上の雲』を読むと、海戦の凄惨さがよくわかる。あたかも絵画を観ているような気がしたものだった。


港の見える、見えない・・・ ~横浜寄り道

2009-04-22 23:48:48 | オートバイ春夏秋冬


 憧れの地「横浜」で、いの一番に行きたかった場所は、何を隠そう(別に隠さなくてもいいけど)「港の見える丘公園」と「フランス山」でした。写真か何かで実物を見たのではなく、単に言葉の響きだけで惹かれただけなのですが・・・。
 初めて「港の見える丘公園」を訪ねたときは、正直がっかりしました。空は広くても、ほんの少ししか海を見ることができなかったからです。とはいえ、公園内の大佛次朗記念館やローズガーデンなど、うたい文句とは違った側面も見せてくれたので、それなりに満足することができました。
(公園は港を見下ろす高台にあって、きっと夜景も素晴らしいだろうと、勝手にイメージを膨らませていた自分が悪い? 確かに夜景は素敵みたい・・・)
 イメージを膨らませるといえば、「フランス山」です。これも勝手に「モンマルトルの丘」のようなものを想像していたので、「フランス山」を歩いていながら、「フランス山はどこだ?」と探し回るほどアホでした・・・。
 「港の見える丘公園」の展望台からは少ししか海が見えませんが、ベイブリッジができてからは以前よりもましな眺望になったのではないかと思います(写真)。


 「港の見える丘公園」の展望台から左端に目をやると、マリンタワー&氷川丸&大桟橋(三層の構造になっているのがわかりますね~)の三点セットが一応見えます・・・。



(左上)最初の写真のベイブリッジを、35mm換算157mmの望遠レンズで覗いてみると・・・!
(右中)大佛次朗記念館。その昔、現代国語の授業で「ダイブツジロウ」と音読した人がいて、大いに受けました。この人は島崎藤村のことも「シマザキフジムラ」と読み、普通に「フジムラは~」「フジムラは~」と読むものだから、先生もあえて誤読を指摘しませんでした。
(左下)公園内のローズガーデン。5月半ば頃から花が咲き出すのかな? これから芽を伸ばそうかといったところ。奥に見える洋館(イギリス館)も、いい感じです。今回、「フランス山」や「山手111番館」まで足を伸ばしませんでした。


(左)「港の見える丘公園」から目の前の「山手本通り」を歩いてゆくと、100mも行かないうちに「外人墓地」前に出ます。多磨霊園や谷中墓地などと違って立入禁止になっています。
(右)元町公園の方に足早に向かうと、明治時代の鉄道敷設に寄与した「外国人鉄道技術者」たちのお墓がありました。まとめてこの一角に埋葬されたのでしょうか? 「準鉄道記念物!」と彫られた石柱に、びっくりたまげた!


     

左)山手資料館。そうそうゆっくりもしていられなかったので、「イタリア山庭園」でトイレを借りた以外は素通りしました(「元町公園」を始め、この一角だけで一日過ごせる)。
(右)山手教会はイモ洗い状態。人々で溢れかえり、足の踏み場もなし! ヘルメットをかぶったまま、適当にフレーミングして先を急ぎます。(α700には、ライブビューの機能がない・・・)


(左)そして・・・「中央フリーウェイ」を歌いながら中央自動車道を走ったことがある人なら必ず訪れているレストラン=ドルフィンが、今もあるかどうか確かめに行きました。70年代後半から10年間、同時代的な感性で若者をリードしたシンガーソングライターがユーミンでした。荒井由実時代の名作「海を見ていた午後」に登場する「山手のドルフィン」は、山手本通りに面してはいるけれど、厳密にいえば山手ではなく「根岸のドルフィン」になる・・・この程度のデフォルメは致し方ない?
(右)テーブルの高さを考えると、「ソーダ水の中を貨物船が通る・・・」のは無理だと思いますが、全面ガラス張りの店内から確かに海が一望できました。バブル以降のマンションの建設ラッシュで、景観の半分が建物に変わったとか・・・。


横浜寄り道 ~あの日に帰りたい?

2009-04-21 17:05:05 | オートバイ春夏秋冬


 19日の日曜日は、ややお疲れ気味だったので、ゴロゴロしていようかとも思ったのですが(午後から映画を観に行くとか・・・)、とても良い陽気だったのと、この日を逃すと月末まで休めそうにないので(次のお休みは実習に行かねばならないし・・・)、予定どおり出かけることにしました。先週は「山」に行ったので、今回は「海!」を目指しました。
 小学生卒業の春休みに、一泊二日の行程で三浦半島を一周してきました。初日は、横須賀から観音埼灯台&剣埼灯台&城ヶ島灯台と、三つの灯台を回って城ヶ島ユースホステルに泊まり、二日目は、城ヶ島から船で油壺へ渡り、油壺から葉山、逗子と回って帰途に着きました(中学卒業の春休みも同じルートで出かけましたが、このときは剣埼灯台から城ヶ島まで海岸線を歩き、城ヶ島で連泊しました)。
 自分たちで計画を立て、ユースホステルの会員になって宿を予約、時刻表で鉄道やバスの時間を調べ、二万五千分の一の地図とにらめっこしながら、ときには道なき道を進みました。
 このコースは、ニワトリさんの旅の出発点です。ここで感じたことから全てが始まりました。二輪を手に入れたときも、このルートを走ってみましたが、それも遠い昔の話・・・なんて感傷に浸るのもいいけど、あれからどれくらい景色が変わったのか、あるいは変わらないでいるか、アオガエル君と訪ねてみることにしました。家を出たのが8時半、やや遅いスタートですが、昼過ぎには城ケ島に着くだろうと考えていたところ・・・(写真は、横浜「イタリア山庭園」にある「外交官の家」)


(左)東八道路から環八を南下して第三京浜「都筑インター」近くで、オドメーターが1000kmになりました。路肩に寄せて記念撮影? 第三京浜で初めて1万回転以上エンジンを回して見ました。4000回転では平和にのんびりと、6000回転も回せば交通の流れを十分リードできますが、8000回転を超える頃からパワーがグーンと盛り上がってきて、エキゾーストノートもレーシーなサウンドに変わります。快感! 
(右)第三京浜(二輪=200円)から横浜新道(150円)→横浜横須賀道路(3月20日に全線開通)を利用すると観音埼まで一気に走れるのですが、通行料金が高いことで知られる横横道路でも、ETC休日半額キャンペーンが行われていたので、ETCカードしか持っていないニワトリさんは大いに憤慨して、狩場インターで一般道に降りてしまいました。せっかくだから、ちょっとばかり横浜に寄っておこうと、数十年ぶりに「大桟橋」を訪ねてみたら、ずいぶんと景色が変わっているじゃない! 青春時代は赤煉瓦倉庫しかなかったのにね・・・(ランドマークには何回か行ったことがあるけど)


 激変した「大桟橋」だけど、それ以前の姿を覚えていないことに愕然とした? 屋上には芝生とウッドデッキが張られ、非常に気持ちのいい空間が出来上がりました。公募で決まった愛称が「くじらのせなか」。確かにそんな感じがします。『白鯨』のエイハブ船長か、クジラに飲みこまれる前の『ピノキオ』になった気持ち? このクジラ、背中じゃなくてお腹を上に向けてるようにも見えますが・・・黒い服の女の子がいい感じで佇んでいました(クリックすると現れるよ~)。


(左)大変広い「くじらのせなか」。クイーンエリザベスⅡ世号など、豪華客船もここに泊まります。ベイブリッジも見えますね!
(右)ウッドデッキは、非常に複雑な構成になっていて、微妙に角度を変えながら階段状に張られています。未来的なデザインですが、ウッドデッキに芝生というのが人肌に心地良い~♪


 ランドマークタワーと「みなとみらい21」。夜景が美しいことでも有名ですね。手前に見える赤レンガ倉庫は、昔から有名でした・・・


 その昔、横浜といえば、「くじらのせなか」を挟んで「みなとみらい21」の反対側に見える氷川丸&マリンタワー&山下公園が定番だったのですが・・・氷川丸&マリンタワー共に、2006年12月25日をもって閉鎖されてしまいましたが、氷川丸はリニューアル工事を施し08年4月から一般公開再開となり、置き去りにされていたマリンタワーもリニューアル工事が決まり、来月23日に再び明かりが灯る運びになりました。よかったね~。


 今年は、開港150周年の節目を迎えていますが、19世紀後半から20世紀初頭にかけての建物も、ちらほら残っているようです。この二棟なんか、いいですね~。横浜に来ると、いつも思いながらなかなか実行できないのが、街歩き。今度じっくり歩いてみようかな?

 青春時代、多摩の田舎者にとって、横浜は憧れの土地でした。松任谷になる前のユーミンを聴きながらこの街を流すと、ますます感情移入できるような、そんな気持ちになりました。激変したとはいえ、大桟橋を訪ねてしまったら、それだけでここを去るわけにはいかなくなったニワトリさんは、最低限必要と思われる場所を回ってから横須賀に向かいました。昨日、夜勤前にチマチマ書いて、夜勤明けにさらに書きこんでUPさせるつもりでしたが、ここで一度切りますね。泣きながら写真はちぎらなかったけれど、あの日に帰りたい~♪