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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <主は私の助け手>

2025-02-28 | ヘブル書
「ですから、私たちは確信をもって言います。『主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。』」(ヘブル13:6新改訳)

金銭は人がいちばん頼りにするもの、安心の土台である。が、ヘブル書は金銭ではなく、キリストが共にいてくださる事実こそ、信仰者の確信と安心の土台だと強調してやまない。▼悪魔は主イエスを荒野で誘惑したとき、全世界の富を見せ、私を礼拝するならすべてをあなたに上げようと言った。彼は人間が富(金銭)に対して最も弱いことを知りぬいている。しかし主は「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」(マタイ4:10同)と、これを断固(だんこ)拒否された。また、パウロも「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです」(Ⅰテモテ6:10同)と述べたように、この世は富みへの欲望とあこがれのために、みなサタンの奴隷となり、滅びへの坂道をころげ落ちている、というのが真相である。▼キリスト者は神の約束にしっかり立ち、悪魔に向かって「主は私の助け手だ。富をちらつかせ、迫って来るお前の誘惑など少しも恐れない」と宣言すべきである。事実そのとおりなのだから。

        神はわがやぐら   <新聖歌280 マルチン・ルター>
①神はわがやぐら わが強き盾 苦しめる時の 近き助けぞ
 おのが力 おのが知恵を 頼みとせる 陰府の長も など恐るべき
②いかに強くとも いかでか頼まん やがては朽つべき 人の力を
 我と共に戦いたもう イエス君こそ 万軍の主なる 天つ大神(おおかみ)
③悪魔世に満ちて よし脅すとも 神のまことこそ わが内にあれ
 よみの長よ 吠え猛りて迫り来とも 主の裁きは 汝が上にあり
④暗きの力の よし防ぐとも 主のみことばこそ 進みに進め
 わがいのちも わが宝も 取らば取りね 神の国は、なお我にあり

朝の露 <ヨアブの高ぶり>

2025-02-27 | Ⅱサムエル記
「さあ今、立って外に行き、あなたの家来たちの心に語ってください。私は主によって誓います。あなたが外においでにならなければ、今夜、だれ一人あなたのそばにとどまらないでしょう。そうなれば、そのわざわいは、あなたの幼いころから今に至るまでにあなたに降りかかった、どんなわざわいよりもひどいものとなるでしょう。」(Ⅱサムエル19:7新改訳)

ダビデの部下であり、軍の統率者だったヨアブの心には高ぶりが次第に成長していた。いつのまにか王よりも自分を上に置き、ダビデを精神的に支配しようとしていたことがわかる。▼陰険(いんけん)さと権力欲(けんりょくよく)に満ちていた彼は、王の思いに逆らってアブシャロムを惨殺(ざんさつ)し、なにくわぬ顔をしながらダビデをおどかした。そこには、自分こそユダの実質的なリーダーであるとの傲慢(ごうまん)さが見え隠れしている。▼神に油注がれたという事実をおそれ、どんなときにもサウルに逆らわなかったダビデと、なんと大きな違いであろう。このあとヨアブはアマサを殺し、アドニヤに組みしてユダの王にしようとたくらみ、結局、ソロモンに殺された。彼の結末は反逆罪に対する当然の報いであった。▼キリスト者がなによりも警戒しなければならないのは、いつのまにか心中に傲慢が成長することである。そこで、いつも意識して謙遜であろうと努め、他者の警告には進んで耳をかたむけなければならない。ペテロが身の程知らずに主イエスをいさめ、「主よあなたにそんなことが起こるはずがありません」と言ったとき、主はべテロを「サタンよ、退け!」と一喝された。神が信仰者を聖徒として天に迎えようとするために、最大のちからを注がれるのは、謙遜という学課を学ばせることにほかならない。そこで、この授業を受けつつあるキリスト者は、じつに幸いというべきである。 

朝の露 <アヒマアツ>

2025-02-26 | Ⅱサムエル記
「アヒマアツは王に『平安がありますように』と叫んで、地にひれ伏して、王に礼をした。彼は言った。『あなたの神、主がほめたたえられますように。主は、王様に手向かった者どもを引き渡してくださいました。』」(Ⅱサムエル18:28新改訳)

アヒマアツは純真(じゅんしん)な男で、戦勝の知らせを王に告げる役目はほかの誰にも渡したくない、と考えていたようだ。▼パウロはイザヤ書から「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と引用して福音宣教の栄光ある務めを強調している(ローマ10:15同)。イエス・キリストが十字架に宥(なだ)めの供え物となることにより、私たちすべての罪をゆるし、永遠のゲヘナから救い出したという知らせほど歓喜(かんき)に満ちたものはない。▼思えばキリスト者は全員がアヒマアツのようになり、自分の住む町々村々を喜びの足で駆(か)けめぐってもなお足りないほどの吉報(きっぽう)を持つ存在である。人は気にもとめないだろうが、天の諸軍勢(しょぐんぜい)は、地上をめぐり歩いて伝道にはげむキリスト者たちを、どんなに喜んでながめていることだろう。朝に夕に、手を休めず種を蒔(ま)く者になりたい。

朝の露 <アヒトフェル>

2025-02-25 | Ⅱサムエル記
「私は、彼が疲れて気力を失っている間に、彼を襲い、彼を震え上がらせます。彼と一緒にいるすべての民は逃げるでしょう。私は王だけを打ち殺します。」(Ⅱサムエル17:2新改訳)

アヒトフェルは冷徹(れいてつ)で、悪魔的知恵を持っていた。恐ろしい人物もいたものだ。もしこれが実行されれば、ダビデの生命はなかったが、「主よ、どうかアヒトフェルの助言を愚(おろ)かなものにしてください」(Ⅱサムエル15:31同)との祈りが聞かれ、助言は打ち破られていく。▼人間の知恵はいかにすぐれたものであっても、油注がれた者の祈りにはかなわない。なぜなら主ご自身が働かれるからである。本章には息づまるような霊の戦いが記され、その結果も劇的(げきてき)で、私たちへの大いなる警告(けいこく)となっている。▼使徒パウロは記した。「悪魔の策略(さくりゃく)に対して、堅く立つことができるように、神のすべての武具(ぶぐ)を身に着けなさい。私たちの格闘(かくとう)は血肉(けつにく)に対するものではなく、支配、力、この暗闇(くらやみ)の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ六11、12)と。だから私たちも、ダビデのように神に嘆願(たんがん)し、闇の敵に勝利する者となろう。

朝の露 <シムイ>

2025-02-24 | Ⅱサムエル記
「ダビデとその部下たちは道を進んで行った。シムイは、山の中腹をダビデと並行して歩きながら、呪ったり、石を投げたり、土のちりをかけたりしていた。」(Ⅱサムエル16:13新改訳)

ダビデの逃避行(とうひこう)は生涯最大の危機であった。このできごとをみると、人が心の奥に抱く思いや感情が赤裸々(せきらら)に現れ、多くのことを教えられる。ふだんは決して表面に出ない人間の心理が思いがけないかたちで示されるとき、私たちはおどろかされる。▼ベニヤミン人シムイもそうであった。彼はふだんから、ダビデに深い憎しみをおぼえていた。「王位をサウル一族からうばい、犠牲者を出しながら、目的達成(もくてきたっせい)のためには平気で血を流す悪人の典型(てんけい)、だからこそ今、自分の息子に殺されようとしている。いい気味(きみ)だ、神の刑罰(けいばつ)をとことん受けよ!」こうして感情を抑えきれなくなった彼はのろいの言葉を吐き続けた。▼たぶんベニヤミン人の中には、同じ思いを抱く人々がすくなくなかったのであろう。
ダビデ王国は決して一枚岩(いちまいいわ)ではなかった。詩篇に見るダビデの苦悩(くのう)の背景はここにあった。▼ただし、一歩下がって事態を観察すると、すべてはダビデの罪から出ている事実がみえてくる。彼がバテ・シェバ事件を起こしたとき、神は「今や剣は、とこしえまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしを蔑(さげす)み、ヒッタイト人ウリヤの妻を奪い取り、自分の妻にしたからだ」(Ⅱサムエル12:10)と言われたが、それが成就しているのである。犯すまじきは罪であり、神のことばをあなどることだと、深く思わされる。