「人が主に穀物のささげ物を献げるとき、そのささげ物は小麦粉でなければならない。」(レビ記2:1新改訳)
イスラエルでは、穀物のささげ物は小麦粉でなければならなかった。つまり、かならず臼で砕き、すりつぶし、細かい粉にして、はじめて神に受け入れられたのである。▼これは信仰者が神の前に出る時は、生まれながらの人間性を持ったままではだめで、古い自我(じが)が砕かれ、完全に明け渡した状態になる必要があることを示す。エジプトで多くの苦しみを受けたあと、宰相(さいしょう)になった族長(ぞくちょう)ヨセフ、信じられない不幸にみまわれ、ついに神にお会いし、高慢(こうまん)から謙遜(けんそん)に変えられたヨブ、成功と名誉(めいよ)の絶頂(ぜっちょう)にあったとき大罪を犯し、涙の悔い改めを通ってゆるされた王ダビデ、自分こそ一番弟子と思いながら、主をうらぎり、精神的谷底に落ちたペテロ、ユダヤ教の最高教師になろうとして教会に対する大迫害を加え、神の光に撃(う)たれて盲目(もうもく)となったサウロ(後の使徒パウロ)など数え上げればきりがないほど、「粒から粉」へと砕かれた人々が聖書には満ちている。▼原罪をお持ちではなかったが、砕かれた最大のお方こそ、天より地に下り、一粒の麦からその姿が見えなくなるまで父に従い通されたイエス・キリストであられる。「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。」(ヘブル5:7~10同)