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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <従順を学び>

2025-03-23 | みことば静想
「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源(みなもと)となり、メルキゼデクの例に倣(なら)い、神によって大祭司と呼ばれました。」(ヘブル5:8~10新改訳)

昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)が詠んだ歌に「金剛石(こんごうせき)も磨(みが)かずば、玉の光は添(そ)わざらむ、人も学びてのちにこそ、まことの徳は現わるれ」というのがある。どんなすばらしい宝石でも原石のままでは輝くことができない。磨かれてこそ美しい光を放つことができる。そのように人は学んでこそ徳を積むことができる、との意味だ。▼キリストは神の子であるのに、人になったとき、さまざまな苦しみを味わうことによって「従順(じゅうじゅん)」を学ばれた。学ぶとは、たんなる知識や情報の習得(しゅうとく)ではない。人生の喜怒哀楽(きどあいらく)を通して父なる神に従うことを、人格全体で体得(たいとく)することである、と私は思う。考えてみれば、御子は本質的に全知全能の神であられるから、学ぶ必要はないはずだった。▼しかし人の姿をとられたとき、神の子にも「学ぶべき科目」が存在したのだ。これはじつにおどろきではないだろうか。それは人間という存在が本質的に持つ「弱さ」を、自分のものとして習得することだったと思う。人に対する真のあわれみと同情を抱く大祭司としての資格を得るために。
           
       まぶねの中に
①まぶねの中に うぶ声上げ 木工の家に人となりて
 まずしき憂い 生くるなやみ つぶさになめし この人を見よ
②食する暇も うち忘れて しいたげられし人を訪ね
 友なき者の友となりて 心くだきし この人を見よ
③すべてのものを与えしすえ 死のほか何も報いられで
 十字架の上に上げられつつ 敵をゆるしし この人を見よ
④この人を見よ この人にぞ こよなき愛は現れたる
 この人を見よ この人こそ 人となりたる 活ける神なれ
                                          <新聖歌99 詞:Ko Yuki,1896-1974>