「私は山々の根元まで下り、地のかんぬきは、私のうしろで永遠に下されました。しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを滅びの穴から引き上げてくださいました。」(ヨナ書2:6新改訳)
ヨナの受けた苦しみは深刻なものであった。おそらく歴史のなかで、このような経験をした人はいないのではなかろうか。彼は生きたまま深海に降り、滅びの穴を見たのである。人間的には豪胆なヨナだったと思われるが、生きたまま「永遠の滅びの門」を見、しかもうしろで二度と戻れないようにかんぬきが下ろされるのを感じたのである。彼はおびえ、はじめて神がおられる所、聖なる宮のすばらしさに目が覚めたことであろう。そして、息も絶え絶えの状態で、もう一度生かしてくださいと懇願したのであった。◆主イエスは、「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです」(マタイ12:40)と言われた。三日三晩という表現にこだわるならば、ゲッセマネの夜から土曜日の夜まで、主は実質的に「地の中」におられたことになる。アダムが罪を犯して以来、地はのろわれたものとなった(創世記3:17)が、御子はその呪いの中に自ら没し、それを復活によって打ち破られた。パウロも、「この『上られた』ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう」(エペソ4:9同)と記した。ヨナの体験は、キリストの死と復活の深遠な意味を象徴するものと言える。◆人は主イエスに救われることなく死んだとき、地の奥深く、よみの門まで下る。そして後ろで二度と戻れないよう、審判の日が来るまで獄の門扉が締められ、かんぬきが通される。それは名状しがたい恐怖であり、悔恨の情から泣き叫び、歯噛みする魂がいかに多いことか。ヨナが大魚の腹中で味わった苦しみ、絶望の深さを私たちは思うべきである。また、主がゲッセマネから十字架で味わった「御父の臨在から切り離されるという恐怖」を想起すべきである。私たちがもし神の選びに入れられた者なら、救いの恵みのすばらしさをその瞬間に意識することであろう。