「もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」(エステル4:14新改訳)
私は60年前、19歳のとき救いにあずかったが、喜んで教会に通うようになって数年、次第に直接献身したいとの思いが心にわき上がって来た。当時の私は理科系の大学に通っており、両親も長男である私の将来に期待していた。そんなとき、冒頭(ぼうとう)のおことばが響(ひび)いてきたのである。▼エステルはみなしごから抜擢(ばってき)され、ペルシア帝国の王に見染(みそ)められ、妃(きさき)になった娘である。ところが折悪(おりあ)しく、ユダヤ人撲滅(ぼくめつ)の命令が王命で発布(はっぷ)されることになった。晴天の霹靂(へきれき)とはこのことだろう。しかし彼女の出自(ユダヤ民族出身)は秘密にされていたので、クセルクセス王にだまっていれば、正室(せいしつ)であったから安全に切り抜けられたはずだった。▼しかし目の前で同胞が滅びていく、それを眺(なが)めているだけでよいのか?育ての親・モルデカイは娘のエステルに「いのちをかけて、王にユダヤ民族の助命嘆願(じょめいたんがん)をしなさい」と手紙を送ったのであった。それが冒頭のエステル記4章14節である。▼私には主イエスの御声が次のように聞こえて来た。「わたしはおまえを牧師として召している。今までの生涯はその目的のため、すべてわたしが導いて来たことだ。すべてをささげ、従って来なさい。しかしここでもし、おまえが献身を避(さ)けるなら、わたしは代わりの者を起こすであろう。だがわたしの心を拒み続けたお前の生涯はどうなるのか、よく考えなさい」というお声であった。主はそのようにして逡巡(しゅんじゅん)する私の背中を押してくださったのである。▼それから約60年、あのとき主に従って本当に良かった、と今思っている。もしそれを避けていたら、親もまわりも安心し、ホッとしたかもしれない。だが私は一生迷いと後悔、この世の生き方にずるずると妥協(だきょう)したまま空しい日々を送り、心もからだも「くずれていた」に違いないと思う。▼すべてのキリスト者には、各自背負うべき十字架の道が備えられている。それはゴルゴタに向かった御子イエスのように神のお心に沿(そ)って歩んでいく道である。恥じと非難、軽蔑(けいべつ)と誤解を受けるかもしれない道だ。しかしそれ以外に、あふれる喜びと満ち足りた幸福を手にする道は決してないのである。