「神の国は・・・からし種に似ています。ある人がそれを取って自分の種に蒔くと、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」(ルカ13:19新改訳)
私の住むアパートで、おとなりの若夫婦に赤ちゃんが生まれた。まだ顔を拝見していないが、なき声は毎日のように聞こえて来るので、自分たちの子育てを思い出し、妻と「なつかしいね」と話している。▼それでふと気づいたのだが、赤子のなき声が日に日に変わっていくのだ。どう変わっていくのかというと、しっかりした声というか、よりハッキリした声というか、日々生長していく様がなき声に現れているのである。いのちは人であれ動植物であれ、決して歩みを止めない。それが感動的だ、と思う。神のひとり子イエスも、この世に来られたとき、人間の成長過程を通られたことが記されている。「幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった。」(ルカ2:40同)「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。」(同52)▼キリストのからだである教会もまた「いのち」をもっている。しかもそれはキリストご自身のいのちだというのだから、なんとすばらしいことであろう。この二千年、あらゆる地域、あらゆる民を通して教会は成長し続けてきた。むろんこれからも続く。植物が根や枝の先端細胞に成長点を持っているように、教会の肢である私たちひとりひとりの地上生涯こそ、成長の最先端にほかならない。▼そのことを確信し、喜びと希望にあふれて、今日という一日を生きよう、キリストの日に向かって。