5年ほど前になろうか。とある仏式の葬儀に出席する機会を得た。日本では少数派に属する禅宗の一派、祭壇の花も色とりどりで綺麗だった。僧が詠む経文はほとんどわからなかったが、お聞きしていて、ほんの一部だけ分かった箇所があった。それはおそらく次のような漢字を当てるのであろう。
散華寂滅之即楽也
この意味は、私の想像だが、「人はあたかも花が散るようにその一生を終え、消えて行く。さびしく滅びていくのであるが、さまざまな苦しみ、生きる悩みから自由にされるのだから、それはそれで楽になることだ」といったものではないだろうか。 読経の際、伴奏のようにたたかれる木魚と鐘鉢の音がまた、私にはもの寂しく聞こえた。
使徒パウロは言う。「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」(Ⅰコリント15:14新改訳)と。死の力を無力にしたイエス・キリストの復活、これがいかに輝かしい希望であるか、キリスト者は改めて心に刻むべきだ。そしてその実質を伝えてやまない証人となるべきである。私は読経しておられる僧侶のうしろ姿をながめながら、そんなことを考えていた。
[東京の空はきのうも今日も夏日]