「イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠(しょうこ)をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。」(使徒1:3新改訳)
復活された主イエスのおからだは、私たちの常識を超えたふしぎなものであった。第一にそれは閉じられた部屋に自由に現れ、また一瞬のうちに消えることもできたからだで、現在の空間の法則を超越(ちょうえつ)していた。第二に、それは霊であるとともに物質でもあり、弟子たちが触(さわ)ると肉も骨もあり、共に食事をすることもできた。もちろん会話も自由に交わすことができたのである。「血肉のからだで蒔(ま)かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」(Ⅰコリント15:44同)とあるが、まさに主のおからだは御霊のからだであられた。▼たぶんこれは、来るべき千年王国の姿をあらわしている。千年王国において、地上に来られた主イエスと花嫁なる教会はエルサレムに栄光をもって住まうことになるであろう。同時に、花嫁たちは「天の民」として、艱難時代を通って地上に生きている諸国民を統治支配(とうちしはい)することになる。その時の姿は40日間弟子たちに現れた主イエスそっくりのからだを持っているのであろう。あのミナのたとえにおいて、主人から評価され、「あなたは10の町を治めなさい」と言われたしもべは地上のそれぞれの地域を受け持って統治するはなよめたちのことを指していると思われる。▼いずれにせよ、私たち教会とキリスト者を待ち受ける未来は、想像しただけでも胸おどる栄光の世界である。悪魔が底知れぬ牢獄(ろうごく)に幽閉(ゆうへい)され、自然界はのろいから解放され、地球全体が昔のエデンの園を凌駕(りょうが)する楽園となるとは、なんというよろこびであろうか。人間だけではない、大自然もまたその日の到来を待ち続けているのだから。▼「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無(きょむ)に服したのは、自分の意思からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛(そくばく)から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。」(ローマ8:19~23同)