「それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは『ここに何か食べ物がありますか 』と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。」(ルカ24:41~43新改訳)
復活した主イエスのお体は、やがて私たちが持つ「天上のからだ」を暗示させるものである。来たるべき千年王国で、復活栄化したキリスト者たちは、天上の民として地上の人々を支配することになろう。▼この人々は王として人々を治め、現われるのも消えるのも自由、それでいながら地上の民と食事も会話も自由にできる不思議な存在となるにちがいない。主イエスが、「それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです」(ルカ22:30同) と言われたのは、千年王国のことと思われる。
天と地を自由に行き来でき、しかも骨も肉もあるからだを持つ新しい民、あがなわれた信仰者たちを待つ未来はかくもすばらしいものだ。「血肉(けつにく)のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。・・・私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。」(1コリント15:44~49同)▼私は牧師として45年、何十回という葬儀を見、臨終の一部始終を目の前で見たことが3回ある。そのたびに、なんと多くの涙が流されたことか。今日も世界のいたるところで、この涙が流れているにちがいない。イエスの再臨と死の消滅、人の復活が起きない限り、今の世界があと何万年続いても、この悲しみがなくなることはない。その意味で、聖書が約束している復活の到来は、もじどおり人類の希望なのである。