しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <すべての営みには時がある>

2016-01-31 | みことば静想

こうこえん「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」(伝道3:1新改訳)

私たちには、神が立ち上がってみわざをなしてくださる時を、信仰と忍耐によって待ち望む態度が必要である。とくに人の目に遅いと思われるような場合に、待ちきれずに肉的行動に走ってしまう場合があるから注意しなければならない。▼アブラハムは約束の子イサクの誕生を待てなくなり、人間的手段によってイシュマエルを設け、後々までわざわいの実を刈り取ることになった(創世記16章)。イスラエル人は、モーセが神の山からなかなか下りて来ないのでしびれを切らし、アロンを説き伏せて金の子牛を作り、偶像礼拝を行った(出エジプト記32章)。サウル王は師であるサムエルの到着が遅れるように見えたのであせり、祭司以外にささげてはならないいけにえを自分でささげ、神の祝福を失った(Ⅰサム13章)。これらはいずれも、神の時を待つことが出来ず、自分から行動を起こしてしまい、取り返しのつかない結果を招いた例である。▼信仰の別名は忍耐である。時は神の御手にある以上、決してあせらず、じっと耐え忍んで待つことだ。わが国にもかならず主の大いなる顧みのとき、リバイバルが来ることを信じて。 

時は神が定められたのであるから、人間が動かしてはならず、また動かせないものである。弟子たちがイスラエルの回復について、復活の主に質問したとき、主は、「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています」(使徒1:7同)と言われた。▼しかし罪深い人間は、しばしば自分で時を変えようとするため、平安を失う。つまり神の時が待てず、神が時を定めておられることに承服できないのだ。キリスト者の日々の生活において、すべてが神の時に従って運ばれているのを信じるなら、私たちはあせることも、イライラしたり、不安にさいなまれることもなくなるだろう。こうして、明日の心配は無用です、と言われた主イエスのおことばを心から喜べるようになるのである。