「淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。」(Ⅰコリント6:18新改訳)
コリント教会の人々が、罪についてルーズな考え方をしていた背景(はいけい)には、当時のギリシア社会に蔓延(まんえん)していた道徳的堕落の深刻(しんこく)さがある。本章9~10節にパウロが列挙(れっきょ)した「不道徳の一覧表」を見ると背筋(せすじ)が寒くなるが、これが当時のギリシア社会の現実だったのだ。▼コリント教会の信者たちは、このような罪からキリストの血潮によって救い出されたのだが、中には福音の自由をはきちがえて解釈し、平気で罪にふける者たちがいたのだろう、そこでパウロはあらためて「そんなことをしていれば、神の国を相続(そうぞく)することなど絶対にできない」と警告(けいこく)したわけである。▼とくに使徒が強調したのは、淫行の罪のおそろしさであった。それはほかの罪とちがい、自分自身のからだを汚し、内に住まわれた御聖霊を真向(まっこう)からはずかしめる重い罪である。このするどい指摘(してき)は現代社会にも向けられている。私たちは心の底から淫行を憎み、聖化されなければならない。神の国に入れてもらうために。