しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <淫らな行いを避けよ>

2024-05-24 | Ⅰコリント
「淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。」(Ⅰコリント6:18新改訳)

コリント教会の人々が、罪についてルーズな考え方をしていた背景(はいけい)には、当時のギリシア社会に蔓延(まんえん)していた道徳的堕落の深刻(しんこく)さがある。本章9~10節にパウロが列挙(れっきょ)した「不道徳の一覧表」を見ると背筋(せすじ)が寒くなるが、これが当時のギリシア社会の現実だったのだ。▼コリント教会の信者たちは、このような罪からキリストの血潮によって救い出されたのだが、中には福音の自由をはきちがえて解釈し、平気で罪にふける者たちがいたのだろう、そこでパウロはあらためて「そんなことをしていれば、神の国を相続(そうぞく)することなど絶対にできない」と警告(けいこく)したわけである。▼とくに使徒が強調したのは、淫行の罪のおそろしさであった。それはほかの罪とちがい、自分自身のからだを汚し、内に住まわれた御聖霊を真向(まっこう)からはずかしめる重い罪である。このするどい指摘(してき)は現代社会にも向けられている。私たちは心の底から淫行を憎み、聖化されなければならない。神の国に入れてもらうために。

朝の露 <主の日に救われるため>

2024-05-18 | Ⅰコリント
「すなわち、あなたがたと、私の霊が、私たちの主イエスの名によって、しかも私たちの主イエスの御力とともに集まり、そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」(Ⅰコリント5:4,5新改訳)

これはコリント教会の人々が礼拝や聖餐式その他の集会に集まる時、罪を犯しながら、なにくわぬ顔をしてそこに加わる者たちが、何かのかたちで「神のムチで打たれる」ようにと、パウロが祈ったことを現わすのかもしれない。もちろんパウロはそこにはいない。が、彼は日々、ローマ帝国中の教会が悪魔の攻撃から守られ、聖なる歩みを続けるようにと祈り願っていた。それでも言うことを聞かず、平気で罪を犯しているキリスト者たちが、周囲の兄姉たちを汚さないよう、聖なるムチを加えられるように祈るのは当然であろう。▼パウロは、神に打たれたキリスト者たちが永遠の滅びに行くようにとは願っていない。回復と悔い改めの機会が与えられるようにと懇願(こんがん)していたにちがいないのである。


朝の露 <奥義の管理者>

2024-05-17 | Ⅰコリント
「人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。」(Ⅰコリント4:1新改訳)

神の奥義の管理者とは、ここだけに出て来る表現だが、パウロがキリストから示され、ゆだねられた福音がどんなに広大無辺、崇高なものであり、それを人々に伝える務めがいかに尊いか、彼はそれを言おうとしたのであろう。▼ところが残念にも、コリント教会の人たちはギリシア人の常として知識的に高ぶり、パウロが伝えた福音をそれほど高く評価していなかった。むしろ使徒たちを低く扱い、社会の「かす」のような存在とみなしていたのである。これは、彼らが福音の奥義をほんとうには理解、把握せず、しるしや奇蹟、たまものなどに心がうばわれ、教会内で党派を作って競争していたことの証拠であった。パウロのはどれほど残念がっていたか。▼現代もこれとおなじである。神のひとり子が人の子として世界に来られたことを、おどろきと感動をもって受け止めているキリスト者は少ない。まして復活、昇天、再臨と神の国を現実のものと信じ、真実な信仰生活を続けてその救いにあずかろうと願うキリスト者はどれだけいるだろうか。私たちはその少ないひとりとされたのである。なんと感謝な事実か。


朝の露 <知恵のある者>

2024-05-11 | Ⅰコリント
「また、『主は、知恵のある者の思い計ることがいかに空しいかを、知っておられる』とも書かれています。」(Ⅰコリント3:20新改訳)

自分を知恵者と自認しているギリシア人たちを念頭(ねんとう)に置きながら、パウロはコリントの信徒たちに、キリストを御霊によって知ることの大切さを強調した。▼もしこの世的な知恵が最高の価値を持っているのであれば、知らないことは何一つなかった知恵者中の知恵者ソロモン王は、史上もっとも幸せな人だったろう。しかし、彼の著作である「伝道者の書」を見よ、そこに流れるさびしさ、空しさは深く、まるで漆黒(しっこく)の海をさ迷う小舟のようだ。自然界の秘密を知り、千人の妻妾(さいしょう)をかかえ、黄金と宝石に囲まれ、世界中からの見学者を謁見(えっけん)したソロモン、その彼が得た結論が「空の空」であったとは、おどろきではないだろうか。▼私たちはあざむかれてはならない。イエス・キリストとそこに現わされた神の愛こそが永遠の知恵であり、人はその愛をいただいたときに初めて満ち足りるのだから。

朝の露 <御霊に属すること>

2024-05-10 | Ⅰコリント
「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。」(Ⅰコリント2:14新改訳)

聖書は聖霊により記された神のことばである。もちろん直接の記録者は人間だが、彼らが自分の思考や能力によって書いたのではなく、御霊の感動によって書いたのである。したがって真の著者である御霊に導かれて読まなければ、真意はわからない。私たちが難解(なんかい)な本を読むとき、いちばん良い方法は著者自身に聞いてみることだが、それとおなじである。▼世には、聖書を歴史書、または文学作品か何かのジャンルに属する本として研究し、調査している知識人が多数存在する。だが、救い主イエス・キリストを信じ、その御前にぬかずいて読むのでなければ、ほんとうには理解できない、それが神のことばだからだ。▼神の知恵と人の知恵とは全く違うことを知り、謙虚(けんきょ)な態度で主の前にひれ伏すことが必要である。もし永遠のいのちにあずかりたければ。