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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <友の道案内>

2022-04-05 | 箴言

「正しい人はその友の道案内。悪しき者の道は自らを迷わせる。」(箴言12:26新改訳)

ヨハネ福音書は冒頭で「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」(ヨハネ1:9同)とキリストについて証言している。まことの光であるキリストのことばは福音書となり、あらゆる時代の人々を照らし続けている。さらにそれは御霊によってキリスト者の内に宿り、人生の道案内として生涯を照らしつつ、消えることがない。なんとすばらしい事実であろう。▼箴言でソロモンは、「正しい人はその友の道案内」と言うが、唯一人の義人イエス・キリストこそ私たちの友として、いかなる難局に際しても、逃れる道、救われる方法を示して助けてくださる最高最大のガイドであられる。もしソロモンが心から律法を愛し、神を畏れる生涯を送っていたら、イスラエル王国の歴史は栄光がいつまでも輝いていたはずだが、残念ながら行いは主の道をはずれてしまった。箴言や伝道の書を記した最大の知恵者、賢人中の賢人も、キリストによる生まれ変わりを体験しなかったため、空しい人生を終えるしかなかったわけである。▼「まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。」(マタイ11:11同)


朝の露 <御怒りの日>

2022-04-04 | 箴言

「財産は御怒りの日には役に立たない。義のわざは人を死から救い出す。」(箴言11:4新改訳)

 世界の歴史が最後に迎えるのは創造主による審判である。パウロは言う、「その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです」(Ⅰコリント3:13同)と・・。▼その昔、神の栄光は荒野にあるシナイ山に火と共に下った。その峻厳(しゅんげん)な有様に接したイスラエル人たちは恐怖におびえたと記されている(出エジプト記20章)。まして、全世界が迎える神の御怒りの日はどんなに恐るべき日であろうか。天は崩れ、地は裂け、海は荒れ狂い、星は空から落下する。その日、地上にいる人々は聖なる第三の天とそこにおられる神の御顔を直接見ることになる。▼人間という人間は地上で逃げ回り、あらゆる洞穴や地下空間を探して逃げ込むに違いない。神のあまりに聖なる御顔を見ることができないからである。そして言う、「神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう」(黙示録6:17同)と。その日、地上で蓄えた財産は何の役にも立たないことが明らかになる。

いま地上で富を蓄えることに夢中になっている人よ、神の御怒りの日を静かに考えよ。将来が不安で夜もまんじりできない人よ、イエスが十字架で何をしてくださったかを静かに思い、聖書に目を留めよ。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。愛を追い求めなさい。」(Ⅰコリント13:12~14:1同)

 

 


朝の露 <正しい人の口>

2022-03-31 | 箴言

「正しい人の口はいのちの泉。悪しき者の口は不法を隠す。」(箴言10:11新改訳)

この章は正しい人と悪しき者を、対句的に表現している。たぶん暗唱しやすいよう構成されたのであろう。▼いうまでもなく、新約の光で見れば、正しい人とは神ご自身が人となって来られたイエス・キリストを指している。なぜなら人間社会には相対的にいえば正しい人がいるが、「義人はいない、ひとりもいない」とあるように、神の前ではすべての人が罪人であることを免れ得ないからだ。そこでいのちの泉を真に所有しておられるのは主イエス御自身だけ、ということになる。というより、いのちの泉の御実体は主イエス・キリストなのである。▼福音書を読めば、御子の口から出たことばにより、無数の人たちが救われ、癒され、立ち上がったことがわかるであろう。しかもそれを記した聖書のみことばは二千年にわたり、世界中にあふれ流れて人々を救い、癒し、生涯を新しく変容して止まることがない。なんと驚くべき泉であろう。山なす金銀が人を救うというなら、あるいは世界に二つとない宝石や貴石が人を救うというなら話はわかる。しかし聖書のことばは、黒い墨で紙に書かれた文字にすぎない。それが数千年以上にわたって数えきれない人々を救い、養い、いのちを与え続けて来たとは、まさに神の叡智ここに極まれり!である。べつの表現でいうなら、キリストという「正しい人の口」が聖書となって、多くの人々を救う泉の働きを続けているのである。

 


朝の露 <知恵の呼びかけ>

2022-03-30 | 箴言

「知恵は自分の家を建て、石の柱を七本、切り出し、いけにえを屠り、ぶどう酒を混ぜ合わせ、その食卓も整え、侍女たちにことづけて、町の最も高い所で呼びかけさせた。」(箴言9:1~3新改訳)

ここにある知恵とは福音により私たちを招いておられる神、いけにえとは主イエス、ぶどう酒は聖霊のことと容易に理解できるだろう「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。・・『私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください。』」(マタイ22:2~4同)。▼神は祝宴を開こうと何もかも用意し、完全に準備を整えた上で全ての人を差別なしに招いておられる。しかも二千年にわたって、である。私たちは何も準備する必要がない。ただ自分のからだ一つでそこに行けばよいのだ。これはなんという感謝でありがたい招待であろう。それが福音の恵みという言葉の意味するところである。▼ところが反対に、悪魔も罪の快楽という女性(本章13節以下では愚かな女とよばれている)を使って全世界の人々を招待している。今も大都市の夜、繁華街には通行人を引き込もうと、あちこちに若い男女が立つ。そしてその網にかかって入って行く人たちが数多い。主が「滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多い」(マタイ7:13同)と言われたのは、なんと正鵠を射ていることか。▼この社会で富、地位、名誉などをきわめ、いわゆる成功者、立派な人物と賞賛されても、「夜の顔」を持ち、快楽と肉欲にふけるなら、それは知恵とは正反対の道を歩んでいることになる。天の父の愛の招きを拒んで生きるからである。心から悔いて一刻も早く正道に立ち返るに如くはない。


朝の露 <わたしを見出す者は>

2022-03-29 | 箴言

「なぜなら、わたしを見出す者はいのちを見出し、主から恵みをいただくが、わたしに背を向ける者は自分自身を痛めつけ、わたしを憎む者はみな、死を愛するからだ。」(箴言8:35,36新改訳)

ここで言われる「わたし」とは神の御知恵のことだが、実体はイエス・キリストである。それはパウロが「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています」(コロサイ2:3同)と断言していることから明らかだ。▼この天地宇宙を成り立たせている知恵と知識の総量は、人類がどのように科学を発達させても決して窮め得ないものであろう。一つの命題が解決されると、さらに次の未知の命題が現れて果てしがない、というのが科学の歴史であったし、それは今日も続いている。▼だが聖書は言う、すべての知恵がひとりの人間となって地上に出現された、それがすなわちナザレのイエスなのであると…。そしてこれが奥義中の奥義、知恵中の知恵であると聖書は述べている。ところが、この事実を人は信じないし、嘲笑するのである。これがまた不思議というしかない。ただごく少数のへりくだって生きる人だけがこの知恵に気がつき、キリストを心に受け入れて救われる。なぜなら、神はこの啓示を信じる者が永遠のいのちを得るように定められたからである。福音とはそのことなのだ。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12,13同)