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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <霊において冷静な人>

2022-04-13 | 箴言

「ことばを控える人は知識を持つ者。霊において冷静な人は英知のある者。」(箴言17:27新改訳)

人は霊、魂、体から成るが、霊は神と交わることができる部分である。したがって、霊において冷静とは、人格のもっとも深いところで常に主の御声を聞き、奪われない平安を持つ状態をいうのであろう。▼主イエスは捕縛され、総督ピラトの前に引き出されたときでも泰然自若、どちらが裁く側かわからないほど落ち着いておられた。それにはピラト自身が驚いた、とある。前夜ゲッセマネで苦祷し、悪魔に完全勝利された主は天の平安に満ち、さながら明鏡止水の境地であられたに相違ない。▼本当の英知とは、多くの書物から学び、情報や知識にあふれているということではない。父なる神の御顔を仰ぎ、その声に聞き従われた主のように歩むことを指している。それが聖書のいう知識人なのである。▼王ソロモンはあらゆる知恵に満ち、世界中からその知恵を聞こうとエルサレムに人々が集まって来たという。だが栄華は長続きせず、晩年はあわれなものであった。一本の野百合にも及ばない「この世の華やかさ」に惑わされてはならない。十字架を負われたお方に従おう。「南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。」(マタイ12:42同)

<きのうもきょうもとわに>

①昨日も今日も永遠に変わりなき イエスのみことばの慕わしさ ゆるしと癒しを今日もなお イエスは変わりなく与えたもう

②われも汝が罪を裁きせじ 再びせざれと宣給いし やさしき声もて罪びとを イエスは変わりなくゆるしたもう

③信仰の手をもて御衣に さわりし女を立たしめし 癒しの力を誰にても イエスは変わりなく示したもう

④この世にふたたび来たるまで エマオの途上にありし如(ごと) 我らの傍(かたえ)を歩みつつ イエスは変わりなく語りたもう

*折返し*

よし世のすべては変わるとも 変わりなきイエスに栄えあれ  栄えあれ 栄えあれ 変わりなきイエスに栄えあれ

                                                                                      <聖歌602 詞:A.B.Simpson,1890>


朝の露 <白髪は栄えの冠>

2022-04-12 | 箴言

「白髪は栄えの冠。それは正義の道に見出される。」(箴言16:31新改訳)

高齢者の中には、わざわざ髪を黒く染める方々もおられるが、白髪はむしろ高齢者にとって誇らしく、栄えの冠である。▼ヨハネがパトモス島で復活のキリストにお会いしたとき、その姿について「頭と髪は白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった」(黙示録1:14同)と記している。またダニエル書には「見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた」(ダニエル7:13同)とあり、父なる神が白髪の御方を暗示させる表現になっている。▼人生を神とともに歩み、成熟した高齢者が白髪で微笑む姿は、それだけで信仰の豊かさを無言のうちに物語る。キリスト者の白髪はただ髪の色が白いということを意味するのでなく、内なる魂の輝きにつながっているからこそ貴重だ、と私は思う。願わくは私たちが、年を重ねれば重ねるほど髪はもちろん、心においても白さが増すように。

<罪の世人らに>

①罪の世人らに救いの泉を 開きて救いを現わししイエスよ 

おりより離れて迷いし我をも 白くなしたまえ きよき血潮にて

②わが罪のために茨をいただき 十字架を背負いて 苦しみしイエスよ

罪を悲しみて来たれる我をば 白くなしたまえ きよき血潮にて

③主よ我しばしばみもとを離れて もはや救わるに よしなき身なれど

今み約束に再びすがれば 白くなしたまえ きよき血潮にて

*折返し*  雪よりも 雪よりも 白くなしたまえ きよき血潮にて

                                                       <新聖歌378 詞:E.R.Latta 1839-?>

 

 

 


朝の露 <主の目はどこにもある>

2022-04-11 | 箴言

「主の目はどこにもあり、悪人と善人を見張っている。」(箴言15:3新改訳)

信仰者であれ不信仰者であれ、すべての人間は天の父に完全に知られている。この事実を認めない生き方は、その人をまちがいなく滅びに至らせるであろう。▼アッシリアのセンナケリブ王はユダ王国に攻め寄せ、エルサレムを包囲したとき、ヒゼキヤ王と住民をあざ笑い、馬鹿にし、天の神をさんざんののしった(イザヤ三六~三七章)。それに対し、神は答えておられる。「おまえが座るのも、出て行くのも、おまえが入るのも、わたしはよく知っている。わたしに向かっていきり立つのも」(イザヤ37:28同)。すなわちはるか昔から、神は偶像に仕える異邦の王センナケリブの心の中まで知り尽くし、その行いや計画まで知り、見張っておられたのであった。▼創造の神は人間の知恵など遠く及ばない方であり、聖と義に満ちた存在である。だから無知とはいえ、傲然(ごうぜん)とうそぶくぐらい愚かで危険なことはない。有史以来、いったい何人が王位から落とされ、滅びの火に呑まれて行ったことであろうか。私たちはこの事実を心にきざみ、神をおそれ、キリストの救いに心から感謝して日々を送るべきである。

「いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。口先だけのことばが、戦略であり戦力だと言うのか。今おまえは、だれに拠り頼んでいるのか。私に反逆しているが。・・・ヒゼキヤが、『主はわれわれを救い出してくださる』といっても、お前たちは、そそのかされないようにせよ。国々の神は、それぞれ自分の国をアッシリア王の手から救い出しただろうか。ハマテやアルパデの神々は今、どこにいるのか。セファルワイムの神々はどこにいるのか。彼らはサマリアを私の手から救い出したか。これらの国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出したか。主がエルサレムを私の手から救い出したとでもいうのか。」(イザヤ36:4~20同、アッシリア王の高官ラブ・シャケの降伏勧告)

「その夜、主の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな死体となっていた。アッシリアの王センナケリブは陣をたたんで去り、帰ってニネベに住んだ。彼が自分の神ニスロクの神殿で拝んでいたとき、その息子たち、アデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺した。」(Ⅱ列王記19:35~37同、センナケリブ王の最後)

 


朝の露 <終わりが死となる道>

2022-04-07 | 箴言

「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。」(箴言14:12新改訳)

この聖句は箴言の中でも特に有名である。▼互いに百キロ離れた飛行場から、飛行機がコンパスを真北に向け同時刻に出発したとする。まったく平行に飛ぶから、同高度、同速度でどこまでいっても離れたままだとふつうは思う。ところが両機は北極点上空で衝突するのだ。それは地球上の空が「曲がっている」からである。▼人生もこれと似ている。自分の目には完全にまっすぐ見える正しい道と思っていても、やがて永遠の滅びに落ちていく道が沢山あるのだ。ならば、どうしたら正しい道を歩めるのか。聖書、すなわち神のことばを唯一絶対の指針として生きることである。パウロは「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」(Ⅱテモテ3:16同)と、愛弟子テモテに書き送った。数十年間イエス・キリストにあって歩み、最後にローマで殉教したパウロ、その彼が絶筆といわれるこの手紙で弟子に与えた教えはこの上ない価値を持っている。

アブラハムは百歳で与えられた約束の子イサクと幸せに暮らしていた。が、あるとき神から「愛しているひとり子イサクを、モリヤの山で全焼のいけにえとして献げなさい」と命じられた(→創世記22章)。▼最初こう言われたとき、アブラハムは理解に苦しんだだろう。というのは以前から神は、あなたの子から海辺の砂のように、また空の星のように子孫を増やす、と約束しておられたからだ。それなのにこの愛するイサクをいけにえとしてささげてしまったら、すべてが水の泡になってしまうではないか(そのときイサクはまだ結婚していない少年であった)。なぜ神はこのように不思議な命令を私に下されたのか?どうしても理解できない、これがアブラハムの実感だったにちがいない。▼ただ、明らかなことが一つある。それは間違いなく神ご自身が私にそう語られた。この命令は疑い得ないたしかな事実であった。彼の目の前には二つの選択肢があった。一つは、たとえ神の命令でもそれに従わないこと。彼の理性はそれを支持した。なぜなら子孫が限りなく生まれるとの約束が確かなものになるから。もう一つは理解できないが、神が語られたという事実に従い、イサクをささげることであった。理性はそれを支持しない。そんなことをしたら、子孫が絶えてしまうではないか。誰が見てもそうだ、まさに合理的で完全に納得できるのは、最初の行動をとることであった。▼しかしアブラハムは、「神のことばに従う」道を選んだのである。理性も感情もすべてがそれに反対したであろうが、彼は神のことばに従えばまちがいはない、と確信したのである。これが信仰である。「人の目にはまっすぐに見えない道」だが、神のことばに従うことだけが、真直ぐな道を行くことだと信じたのであった(ヘブル11:17~19同)。アブラハムは信仰の父と称されるが、その理由がわかる。

 

 


朝の露 <自分の口を見張る>

2022-04-06 | 箴言

「自分の口を見張る者はたましいを守る。唇を大きく開く者には滅びが来る。」(箴言13:3新改訳)

エバは蛇に誘惑されたとき、口を閉じたままそこを去るべきであった(創世記3:2同)。そうすれば今日のような世界の悲劇はなかったかもしれない。またアダムが「どうしてこのようなことをしたのか」と神から問われたとき、「ごめんなさい。すべて私の責任です」と言ったなら、その後の罪の歴史は食い止められていた(創世記3:12)。▼人間は良きも悪しきも、口から出す言葉によって、自分と世界の運命を決める立場にある。これはなんと重く、かつ厳粛な事実だろう。私たちキリスト者も、日常の生活において常に聖なる神の御顔を仰ぎながら、その時その時における言葉を発するものでありたい。なぜなら永遠の救いに入れられるのも、永遠の滅びに落ちるのも、口から出す言葉(信仰告白)によって決定されるからだ。▼主イエスは地上でのあらゆることばを御父から授けられてお語りになられた(ヨハネ14:24)。まさにその名のごとく「神のことば」であられたのだ。そのお方がキリスト者一人一人に、御霊によって内住し給う。