しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 Ⅰ列王記7章 <レバノンの森の宮殿>

2020-07-08 | Ⅰ列王記

「彼は『レバノンの森の宮殿』を建てた。その長さ百キュビト、幅は五十キュビト、高さは三十キュビトで、それは四列の杉材の柱の上にあり、その柱の上には杉材の梁があった。」(Ⅰ列王記7:2新改訳)

ソロモンの宮殿は高価な杉材、石、純金が多量に用いられ、これ以上ない絢爛豪華なものであった。宮殿に含まれる建築群、柱の広間(6)、さばきをするための王座の広間(7)、王と王妃の住居(8)などは、我々がもし眺めたら圧倒され、言葉を失ったかもしれない。▼だがこれらの本体はイエス・キリストご自身である。その証拠に、ソロモンの建てた世界最高の宮殿や神殿は、21世紀の今日、すべて廃墟となり、あとかたもなくなってしまった。ただお一人、ナザレのイエスだけが今も天の宝座に着き、万物を統べ治めるお方として栄光に輝いておられる。「あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります」(マタイ12:6同)との御声が凛(りん)として世界に響き渡っている。それを私たちは信仰の耳でハッキリと聴き分けるものでありたい。▼人間歴史において、時の支配者たちは膨大な富と権力を駆使し、いつまでも残るようにとの願いをこめて巨大でみごとな建築物を造った。エジプトのピラミッド群、中国の万里の長城、インドのモヘンジョダロの遺跡、インカ帝国の建築群、ネブカデネザル王が自慢したバビロン城、ギリシャの神殿や数々の彫像、そしてソロモン、ヘロデなどが建てたエルサレム神殿・・・その他数え上げればきりがない。不思議にも、竣工当時の美をきわめた美しさを今に至るまで保持しているものは、ただの一つもない。あらゆるものが、土に帰って行く過程にある。◆これは、永遠の神が人間に対して下された審判とみるべきである。だから私たちはそのメッセージを読み取り、いつまでも存続するものは何かを真剣に考え、無益無駄なことに労力を費やすことをやめるべきである。使徒ペテロは断言する。「しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。」(Ⅱペテロ3:10,11同)◆さらに使徒パウロも述べる。「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。愛を追い求めなさい。」(Ⅰコリント13:13~14:1同)

 

 

 

 

 

 

 


朝の露 Ⅰ列王記6章 <音もなく>

2020-07-07 | Ⅰ列王記

「神殿が建てられたとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので、工事中、槌や斧や、いかなる鉄の道具の音も、いっさい神殿の中では聞こえなかった。」(Ⅰ列王記6:7新改訳)

天の父は、現在、新しいエルサレムを造営しておられる。それは、一辺が一万二千スタディオン(約二千キロ)の立方形をしていて、材料は最高の宝石とガラスのような純金で造られており、たとえようもなく美しい都である。▼建築の音はいっさい聞こえず、その姿も見ることはできない。天父のふところに隠されているからだ。主もその造営に参加しておられるにちがいない。それは「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」(ヨハネ14:3同)とおっしゃっていることからあきらかである。ソロモンの大神殿は、そのみごとさの故に周辺諸国に鳴り響いたが、永遠のエルサレムは新しい天地の中心として輝き渡るであろう。その光源は御父と御子であり、あがなわれた人々は都の民として歩み、喜びのうちに神を礼拝することになる。◆今から四千年以上前、アブラハムは信仰生涯のどこかで、この永遠に都を望見したのであった。彼は当時の繁栄せる都・カルデヤのウルで育った人である。その彼が惜しげもなくウルを後にし、どこに行くのかを知らずに旅に出たのはなぜか。それだけの価値あるものを神により「見せられた」からに相違ない。でなければ、176年の生涯にわたり天幕生活に甘んじた理由が説明できないではないか。すなわち彼は「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいた」のであり、その都の設計者にして建設者は神ご自身であられた。◆信仰によって、神から永遠の都エルサレムを見せられたとき、彼の生き方は180度変わった。そこに入ることに憧れ、そこに住むことに夢中になった。おなじように、モーセもパウロも無我夢中になった。エルサレムはそれほどの美しさと輝きに満ちた場所なのである。キリストご自身のからだなのだから・・・。ところが今、その都はヨハネが記した黙示録によって、あらゆる時代のあらゆる人々に開示されている。旧約の人たちが指をくわえ、よだれを垂らしながら、つまり垂涎(すいぜん)の眼差しで我を忘れてみつめた都が、私たちの目の前に(いつでもどこでも眺められるように)完璧なかたちで姿を現わしているのだ。それなのにどうして信じないのであろうか。どうして一瞥(いちべつ)もしないのであろうか。主の御招きを聞こう。「なぜ、あなたがたは、食料にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく。耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。」(イザヤ55:2,3同)

 

 

 


朝の露 Ⅰ列王記5章 <ツロ王ヒラム>

2020-07-06 | Ⅰ列王記

「ヒラムはソロモンの申し出を聞いて、大いに喜んで言った。『今日、主がほめたたえられますように。主は、この大いなる民を治める、知恵のある子をダビデにお与えになった。』」(Ⅰ列王記5:7新改訳)

ツロは昔から貿易都市として繁栄し、莫大な富を所有していたので、しばしば侵略の対象になった。たとえばネブカドネツァル王も、後にツロに進軍している。またエゼキエルもツロの王がイスラエルに敵対し、高ぶったために神に罰せられることを預言したが、これはソロモンの時代より、ずっと後のことである。▼ダビデ、ソロモンと友好関係を結んだヒラムは、主をほめたたえ、喜んで神殿建設に協力したことからみると、敬虔な信仰をある程度理解していたのであろう。シバの女王や、ヨナの時代に悔い改めたニネべの王なども、特筆に値する異邦人の王であった。主はシバの女王やニネべの王と市民たちが、世の終わりに行われる大審判のとき、キリストと共に人々をさばく側に立つと預言しておられる。「南の女王が、さばきのときに、この時代の人々(イエス御在世時代のユダヤ人たち)とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。・・・ニネべの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。」(ルカ11:29~32同)▼ツロ王ヒラムもそのうちのひとりとなるであろう。私たちが主のおことばから知るのは、最後の審判のとき、多くの旧約の信仰者たちが証言台に立ち、イエス・キリストを拒否した人々を有罪に定める側にまわる、ということである。旧約の諸聖徒たちは、キリストとその救いについては不完全な光しか与えられていなかったにもかかわらず、喜んで神をあがめ、自分の罪を悔い改めたのであった。シバの女王もニネべの人々もヒラムも、直接キリストにお会いしたのではない。それでも、神の御名をあがめたのである。ところが主イエスにお会いしたイスラエルの人々の大部分は、御子のお声、そのしるしと奇蹟、偉大な説教の数々を聞きながら、なお信じなかったのだ。これ以上大きな罪はない、彼らは最後にそのことをさばかれ、証人として神のさばきを正しいとするのが、旧約の信仰者たちなのである。

 

 

 


朝の露 Ⅰ列王記4章 <ソロモンの知恵>

2020-07-02 | Ⅰ列王記

「彼の知恵のうわさを聞いた世界のすべての王たちのもとから、あらゆる国の人々が、ソロモンの知恵を聞くためにやって来た。」(Ⅰ列王記4:34新改訳) 

ソロモンはあきらかに、やがて世界を王として治めるキリストのひな型である。ダビデは武人として名を上げ、ネブカドネツァルは巨大都市バビロンを建てた王として有名になった。だが、知恵のすばらしさで世界を風靡(ふうび)したのはソロモンだけである。もっとも、彼の知恵は神のゆるしのもとに与えられた限定的なもので、キリストとは比較にならない。「野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。」(マタイ6:28,29同)▼いったい、イエスのような審美のまなざしを、人間の中で誰が所有したことがあるだろう。そのような人間は今に至るまで、ただの一人も存在しなかった。国家でも個人でも、最後にため込むのは純金であり宝石であり、希少価値のある宝物ではないか。それが証拠である。むろん世界最大の知恵者といわれたソロモンも例外ではない。それがいまだに人類が盲目の罪人である証明だ。▼父なる神の至宝はそのようなものではない。神の持っておられる永遠の宝、至宝中の至宝は、人となられた御子、すなわちナザレのイエスである。私たちキリスト者ですら、そのことがまったく見えていない。「あれはヨセフのせがれで、大工あがりの青年ではないか」と言ってつまずいたナザレの人々と同じだ。「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています」(コロサイ2:3同)と証ししたパウロのことばに、ほんとうにそのとおりですと心からアーメンを言う者、そこまで変えられる必要が私たちにはある。▼ともあれ、キリストが再臨されると、主を知る知識が大海のように世界をおおう。エルサレムに着座された王なる祭司を拝し、その教えを聞こうとして、すべての国の人々が、あたかも太平洋の黒潮のごとく流れ集まって来る。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう」(イザヤ2:3同)と言いながら。それまで莫大な費用をかけて作られていた武器は廃棄され、恒久平和が実現する。その日を想像するだけで胸がおどる。

 


朝の露 Ⅰ列王記3章 <ソロモン王の祈り>

2020-07-01 | Ⅰ列王記

「わが神、主よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。」(Ⅰ列王記3:7新改訳)

神がソロモンに現れ、ほしいものを何でも求めよと仰せられたとき、答えた言葉がこの聖句である。ソロモン王朝の初期は、神にひじょうに祝されたものとなったが、理由は、彼が子どものように謙遜な態度で御前に出たからであった。▼何百万もの民をかかえるイスラエル王国の頂点に立つ王となれば、得意満面になってもおかしくはなかった。だが彼は、自分が無力、無知な神のしもべにすぎないと告白し、国を治める正しい判断力をくださいと願ったのだ。これは神の子イエス・キリストの心に通じるものであった。なぜなら主は神の御姿であるのに、自分を空しくしてしもべの姿をとり、十字架にまで従われたからである。もしソロモンが生涯この生き方を貫いたら、繁栄はさらに長く継続したであろう。しかし晩年は惨憺(さんたん)たる有様になった。◆7節に続いてソロモンは「善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください」(9)と祈った。神の御声をはっきり聞く心と同時に、国民の声に真摯に耳を傾けることができる心、もしほんとうにソロモンがこの祈りのとおりに謙遜に生きていれば、王国はもっともっと繁栄したであろう、だがそれは、彼の霊性では無理であった。本当の謙遜が啓示されていなかったからである。それはイエス・キリストの受肉により、初めて世に現れた。「我は心柔和にして謙遜者なれば我軛(わがくびき)を負て我に學(まなべ)なんぢら心に平安を獲(う)べし」(マタイ11:29元訳)◆謙遜とはたんなる心のもち方、あり方を指すのではなく、御子イエスの生命の御本質である。したがってこのお方に内住していただくとき、人ははじめて謙遜の何たるかを知り、喜びにあふれて主について行くようになる。ペンテコステの霊を受けるとはそのことである。