goo blog サービス終了のお知らせ 

しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 申命記23章 <陣営の中を歩む神>

2019-12-09 | 申命記

ベゴニア「あなたの神、主が、あなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれるからである。こうして、あなたの陣営は聖でなければならない。主があなたの中で恥ずべきものを見て、あなたから離れ去ることのないようにしなさい。」(申命記23:14新改訳)

陣営を教会と読み替えると、このみことばは私たちにとって非常に意味深いものになる。▼教会は人々のたましいを悪魔から取り返すため、いつも世の力と戦っており、そこにもっとも必要とされるのが聖きであることはいうまでもない。なぜなら御聖霊はその名のように聖であられ、私たちが主の血潮により潔き歩みを続けているところに、喜んで働き給うお方だからだ。▼イスラエル軍はエリコを攻めた時、神の大いなる奇蹟のうちに大勝利を博した(→ヨシュア記6章)。ところが次のアイ攻略では、最初に惨めな敗北をなめたのである。原因は陣営の中に盗みの罪が持ち込まれたからだった。教会とキリスト者個人もこれと同じで、御霊が共に喜んで歩んでおられなければ、決して世に勝利することはできないであろう。▼「わたしは、あなたの行い、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている。また、初めの行いにまさる、近ごろの行いも知っている。けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは、あの女、イゼベルをなすがままにさせている(容認している)。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて惑わし、淫らなこと(性的悪徳)を行わせ、偶像に献げた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は淫らな行いを悔い改めようとしない。見よ、わたしはこの女を病(苦悶)の床に投げ込む。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めないなら、大きな患難(苛烈な苦しみ)の中に投げ込む。また、この女の子どもたち(彼女のほんとうの信奉者たち)を死病で殺す。こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者である(思想と感情と意志と最も奥深い心情を探る者である)ことを知る。」(黙示録2:19~23同、カッコ内は詳訳聖書)


朝の露 申命記22章 <慈しみのまなざし>

2019-12-05 | 申命記

シクラメン「必ず母鳥を去らせて、子を捕らなければならない。それは、あなたが幸せになり、あなたの日々が長く続くようになるためである。」(申命記22:7新改訳)

大洪水が世界をおおったとき、「神は、ノアと、彼とともに箱舟の中にいた、すべての獣およびすべての家畜を覚えておられた。神は地の上に風を吹き渡らせた。すると水は引き始めた」(創世記8:1同)とある。つまり百五十日間増し続けた水もようやく引き始めたのであったが、その理由は、神が「ノアたちだけでなく、舟の中にいた全生物をおぼえ、慈しみの眼を向けておられたからだ」と、創世記は記す。▼たしかに人間は神のかたちに造られた特別の存在だが、天の父はごく小さな小鳥やその家族にまで愛を注いでおられ、主も「二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません」(マタイ10:29同)と仰せられた。一羽の小鳥にも主にあるやさしい心で接することは、結局キリスト者生涯を平安と祝福で満たす秘訣である。▼ある人が、「私たちは宇宙船地球号に乗っている仲間だ」といったそうだが、この世界に存在する膨大な生物は、互いに依存し合って生きている事実を認識しなければならない。しかしそれは、天の父と私たちをかぎりなく愛されるイエス・キリストの存在を受け入れてこそ、はじめて生じるものである。人の心をゆがめ、腐敗させる罪と欲望は愛による共生を踏みにじり、自然を破壊し、生物を消滅の危機に追い込み、今日では生態系どころか人類の存続まであやうくしかねないところまで来てしまった。▼それでも破壊は止まるところを知らず、殺し合いと奪い合いはエスカレートするばかりだ。見えない霊の世界が見えていたパウロは証ししている。「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。・・・私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。」(ローマ8:19~22同)▼ある人は言う、神を持ち出すな、人類が力と心を合わせれば、まだ食い止められる。すぐ行動すべきだと。しかし、それは思い上がりである。傲慢である。宇宙の全被造物は、人間に期待できないことを知っているからこそ「ともにうめき、ともに産みの苦しみをしている」のではないのか。神はなぜ、聖書の最後に黙示録を置いておられるのか。終末の大破局をなぜ告げておられるのか。全能者の御前に跪こうとしない人間のあり方こそがこの破局をもたらす元凶なのだと、そう告げておればこそではないのか。▼人は今ただちに救い主キリストの御前に崩れ落ち、ひれ伏すべきである。そうすれば自分が何をすべきかを告げられるであろう。

 

 


朝の露 申命記21章 <親不孝者>

2019-12-04 | 申命記

紅葉並木「町の人はみな彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。イスラエルはみな聞いて恐れるであろう。」(申命記21:21新改訳)

これは十戒の五番目、「あなたの父と母を敬え」(出エジプト記20:12同)を守らなかった者に下される刑罰の規定。▼神が両親を敬うということをいかに重要視しておられるか、それは十戒のうち対人関係の最初に挙げられていることからもあきらかである。御子イエスは人として地上を生きられた間、天の父をこよなく愛し敬い、その御心を実現するため、ご自分のすべてを燃焼されたお方であった。神殿では「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」(ヨハネ2:17同)と記されたとおりに行動され、サマリアでは、「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです」(ヨハネ4:34同)と弟子たちに証しされた。▼天父と御子の美しい関係は、天地に燦然と輝いていることを忘れてはならない。地上の親子関係はその反映となるべきであるから。しかもさらにおどろくべきことは、これほどまでに父を愛しうやまい、その御心に従うことを無上の喜悦とされた御子を、父は十字架につけ、供え物とされたという事実である。天の父の御心を満たしている愛は、人間の知識や頭脳では絶対に理解できないものだ。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3:16同)とヨハネは記した。この一節にこめられた意味、その深さ、長さ、広さ、高さを私たち人間は永遠に窮めることはできないであろう。▼人は天に携え挙げられ、神の前に出た時、このお方から輝き出る愛という虹を永遠に見つめることになろう。その光が新世界のありとあらゆる被造物を包み、つらぬき、満たしていることを知るが、その全容の果てに行くことはできないことを知るであろう。しかしその虹の中心に人の子がいますことを認め、神の愛がかたちとなってそこから発光していることを知り、讃嘆の声を上げずにはいられないであろう。▼私たちの地上生涯、線香花火にひとしい一瞬のひらめきにしかすぎないもの、しかしその中ですら、いやその中のたった一日を切り取っただけですら、神のいつくしみと御愛の花が無数に咲き乱れている花園を見るのである。地上のひとときでさえ、これほど美しく測り知れない神の御愛を体験するのであれば、永遠の復活に入れられたとき、私たちはいったいどれだけ無限の御愛に囲まれるか想像もつかない。それが私たちを待ち受ける世界なのである。「ハレルヤ。神の聖所で 神をほめたたえよ。御力の大空で 神をほめたたえよ。・・・息のあるものはみな 主をほめたたえよ。ハレルヤ。」(詩篇150)

 

 


朝の露 申命記20章 <恐れてはならない>

2019-12-03 | 申命記

南天の実「彼らに言いなさい。『聞け。イスラエルよ。あなたがたは今日、敵との戦いに臨もうとしている。弱きになってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおののいてはならない。』」(申命記20:3新改訳)

神のひとり子イエスがこの世に来られたときは、あたかも戦場にいるかのようであった。悪魔が人々の心を支配し、贖いのみわざを成就させてなるものかと、ありとあらゆる手段を使って主を攻撃し、いのちを奪おうと迫って来たからである。▼四面楚歌という熟語があるが、真の意味において御子の心を理解し、「戦友」となれる人間は皆無であった。十二弟子すらまったく主を理解せず、勝手な事ばかりして争う始末であった。イエス・キリストの孤独と寂しさは想像できないほど深く、強いものであったに相違ない。そのような中で主はひたすら天の父を仰ぎ、その御声を聞きながら、十字架への孤独な道を歩まれたのだ。このお方ほど真の勇気にあふれた存在はない。それは共におられる御聖霊により、天から注がれた勇気でもあった。▼その主が今、あなたとともにおられる。私やあなたの弱さ、もろさを知り尽くしておられるお方が、あなたをつばさでおおっておられるのだ。少しも恐れることはない。主に目を注ぎ、ひとあし、ひとあし、前進しよう。


朝の露 申命記19章 <咎のない者の血>

2019-12-02 | 申命記

ブルースター「あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地で、咎のない者の血が流されることがなく、また、あなたが地の責任を負うことのないようにするためである。」(申命記19:10新改訳)

咎のない人を殺すことは、神の前に大きな罪であった。モーセはその犯人を絶対にゆるしてはならない、と命じる。ただ、何ら憎しみを持たず、あやまって殺した場合、その当事者は罰せられてはならず、特別な場所、つまり「逃れの町」で一定期間を過ごす必要があった。これは無益な流血を避けるためで、神が殺人に対し、いかに関心をお持ちであるかを示す規定といえる。▼御子イエスが現れ、神としての奇蹟と愛のわざを行われたとき、指導者たちは彼を激しく憎み、なんとしても殺そうと計画を練った。これは明白な律法違反で、彼らこそ死に価する罪人であった。ダビデは彼らについて、「衣のように彼は呪いを身にまとい、水のようにそれは彼の内臓に、油のように骨にまでしみ込みました」(詩109:18,19同)と預言している。最大最高の流血殺人はイエスの十字架である。