「彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持たない。主が約束されたとおり、主ご自身が彼らのゆずりである。」(申命記18:2新改訳)
イスラエル民族は世界の中で聖なる民、祭司の国として選ばれた存在であった。ところが、その中でさらに選ばれた部族がレビだったのである。そのため、彼らは主に仕えることに専念するため、相続地を与えられず、もっぱら幕屋での奉仕をするよう命じられた。だから「主ご自身が彼らのゆずりである」とは、この上なく名誉な宣告であった。▼新約のキリスト者は霊的なレビ部族である。私たちはこの世から選び出され、神のひとり子イエス・キリストの伴侶とされた。すなわち文字通り「キリストが私の相続地です」との告白をもって生涯をつらぬくよう召されたのだ。むろん職業を持ち、さまざまなこの世の務めにあずかるのだが、世にあって世から聖別され、神の栄光を現す、その目的のために生かされていることに変わりはない。使徒パウロが「私にとって生きることはキリストです」と告白して走り抜いたように・・・。▼残念にも、私たち今日のキリスト者は、その多くが、「私にとって生きることは〇〇です」とあるように、〇〇の中にキリストではない他の何かを入れている。つまりidol(アイドル:英語で偶像)を持っているのである。もしあなたが、主イエスから「その〇〇をささげて、わたしに従って来なさい」と言われたら「はい、そういたします」と即答できるであろうか。できなければ、それは偶像の可能性がある。偶像礼拝者はキリストのはなよめにはなれない。▼ラオディキア教会の人々は、「自己満足」というidolを持ち、それを拝んでいた(黙示録3章)。つまり、この世での境遇に満足し、自分を喜ばせていた。「たしかに私たちは富んでおり、力も才能も地位も名誉も持っている。でも神様、あなたがごらんになったときも、私たちはそう見えるのですか?」と尋ねなかったのだ。人の社会で相対的な自分しか見ない、神を仰ごうとしない、それが偶像を心に据えるということなのだ。その意味で、使徒パウロの告白はなんと厳粛なひびきを持っていることであろう。