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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 申命記18章 <相続地は主>

2019-11-28 | 申命記

好古園「彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持たない。主が約束されたとおり、主ご自身が彼らのゆずりである。」(申命記18:2新改訳)

イスラエル民族は世界の中で聖なる民、祭司の国として選ばれた存在であった。ところが、その中でさらに選ばれた部族がレビだったのである。そのため、彼らは主に仕えることに専念するため、相続地を与えられず、もっぱら幕屋での奉仕をするよう命じられた。だから「主ご自身が彼らのゆずりである」とは、この上なく名誉な宣告であった。▼新約のキリスト者は霊的なレビ部族である。私たちはこの世から選び出され、神のひとり子イエス・キリストの伴侶とされた。すなわち文字通り「キリストが私の相続地です」との告白をもって生涯をつらぬくよう召されたのだ。むろん職業を持ち、さまざまなこの世の務めにあずかるのだが、世にあって世から聖別され、神の栄光を現す、その目的のために生かされていることに変わりはない。使徒パウロが「私にとって生きることはキリストです」と告白して走り抜いたように・・・。▼残念にも、私たち今日のキリスト者は、その多くが、「私にとって生きることは〇〇です」とあるように、〇〇の中にキリストではない他の何かを入れている。つまりidol(アイドル:英語で偶像)を持っているのである。もしあなたが、主イエスから「その〇〇をささげて、わたしに従って来なさい」と言われたら「はい、そういたします」と即答できるであろうか。できなければ、それは偶像の可能性がある。偶像礼拝者はキリストのはなよめにはなれない。▼ラオディキア教会の人々は、「自己満足」というidolを持ち、それを拝んでいた(黙示録3章)。つまり、この世での境遇に満足し、自分を喜ばせていた。「たしかに私たちは富んでおり、力も才能も地位も名誉も持っている。でも神様、あなたがごらんになったときも、私たちはそう見えるのですか?」と尋ねなかったのだ。人の社会で相対的な自分しか見ない、神を仰ごうとしない、それが偶像を心に据えるということなのだ。その意味で、使徒パウロの告白はなんと厳粛なひびきを持っていることであろう。


朝の露 申命記17章 <馬を増やすために>

2019-11-27 | 申命記

もみじ「ただし王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない。主は『二度とこの道を戻ってはならない』とあなたがたに言われた。」(申命記17:16新改訳)

昔の戦争では、どれだけ強力な騎馬軍団を持っているかで勝敗が決まった。そこで、国々は優れた馬を数多くそろえることに、競って力を注いだのである。▼イスラエルがそれにならい、戦車と馬を多く持てば、神に対する信頼が弱まり、結局は滅亡を早めることになるであろう。モーセがそれを心配したのが16節だ。事実、王国時代の預言者イザヤは記している。「ああ、助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬に頼り、数が多いといって戦車に、非常に強いといって騎兵に拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。」(イザヤ31:1同)▼今も主は人間的な力や手段、方法ではなく、ただご自身を仰ぎ信頼する者を喜ばれる。だから勢いによらず、能力によらず、神の御霊によって、どこまでも歩みたい。◆本章の後半には王たる者がどうあるべきかについて、教えがある。冒頭の聖句をはじめとし、多くの妻を持ち、神への信仰からそれないこと、金銀を過剰に所有しないこと、みことばを一生のあいだ手元に置き、読むこと、王位についたからといって同胞の上に高ぶらず謙遜であること、であった。周知のごとくソロモン王はこれらすべてを破ったし、歴代の王も彼にならった。悲しい罪の歴史である。◆真にして永遠の王は再臨したもうイエス・キリストである。このお方こそ第一降臨により、全き謙遜を地上にあらわされたし、再び来り給うときには千年王国における恵みの支配者としてエルサレムに着座されるのである。「イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。」(ヨハネ13:4,5同)


朝の露 申命記16章 <主の前で楽しむ>

2019-11-26 | 申命記

ピンクの花「あなたはあなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みの中にいるレビ人、あなたがたのうちの寄留者、孤児、やもめとともに、あなたの神、主の前で、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ばれる場所で喜び楽しみなさい。」(申命記16:11新改訳)

この表現は申命記に幾度も記されている。レビ人、寄留者、孤児、やもめは当時の社会で弱い立場にあった。レビ人は例外であったが、その他は土地を持たない上に、身分的にも下だったからである。今でいえば社会的弱者にあたる人たちであった。▼神はその人々を何の差別もなしに祭に加え、いっしょに喜び楽しみなさいと、くりかえし命じておられる。なんと慈愛に満ちたご配慮であろう。また旧約聖書の多くの個所で、わたしはみなしごとやもめの神である、とも強調しておられる。考えてみれば、捨てられ見離された人たちへの神の愛と恵みの御心こそが、イエス・キリストによって福音がすべての民族に伝えられる「世界宣教の動力」になっているのである。◆もうひとつ注目すべきことは、イスラエルの子らが楽しみ喜ぶ三大祭(過ぎ越し、五旬節、仮庵)は主が御名を住まわせるために選ばれる場所、つまり神の都エルサレムで行わなければならなかったことである。その理由は、祭が俗的なものに堕すことから守られるためであった。人は心に罪の腐敗性を持っている。後にイスラエルはカナンの至る所、山の上や緑の木々の下で好き勝手に祭りをし、いけにえをささげて偶像礼拝と淫乱におちいった。そうならないため、神の都・エルサレムでの祭が定められたのである。◆私たちもそうである。人生でどれだけ楽しみ喜んでもよい、しかしそれは「主の前で」すべきである。神の御顔が見えるところ、そこでの喜びが続けられるところに、ほんとうの幸せが存在する。


朝の露 申命記15章 <欠陥品>

2019-11-25 | 申命記

桜と長瀬川「もしそれに欠陥、すなわち足が萎えていたり目が見えなかったり、何らかの著しい欠陥があれば、あなたの神、主にそれをいけにえとして屠ってはならない。」(申命記15:21新改訳)

私たちは心をつくして神を愛するよう命じられているから、どんな心でささげているかを、神に見られるのは当然である。▼預言者マラキの時代、人々は不敬虔そのものになり、もったいないとばかり、神殿にどうでもいい無価値な動物を持ってきて献げた。だから「あなたがたは盲目の動物を献げるが、それは悪いことではないのか。足の萎えたものや病気のものをささげるのは、悪いことではないのか」(マラキ1:8同)と神が怒られたのは当然だった。このように、モーセから千年後のイスラエルはすっかり堕落し、神を侮る信仰生活を送りながら、自分たちはきよい民、真の礼拝者だと思っていたのであった。▼だが、私たち現代のキリスト者はどうだろう。「いとも良きものを君にささげよ」(新聖歌388)と歌いながら、どうでもいい「くず」を主にささげていないだろうか。時、財、才能、力において・・・。「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ(約328g)取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」(ヨハネ12:3同)

 


朝の露 申命記14章 <水中生物>

2019-11-21 | 申命記

バラ飾り「水の中にいるすべてのもののうちで次のものを、あなたがたは食べてもよい。ひれと鱗のあるものはすべて食べてもよい。ひれや鱗のないものはすべて、食べてはならない。それは、あなたがたには汚れたものである。」(申命記14:9、10新改訳)

水中生物で、もっとも美しく、しっかりした動きをするものは、ひれと鱗を持った魚類であろう。見ていて感心する。それに比べると、タコなどの軟体動物、海底をはう甲殻類などは面白いが、ぶりやまぐろなどとは比べられない動き方だ。▼キリスト者の世界でも、はっきり救われて聖霊を宿し、その導きに従って雄々しく信仰生涯を送っている人々は、だれが見ても好ましくうらやましい存在である。ところが、救われているとは名ばかりで、いつも世のこと地上のことにへばりつき、不平不満で暮らしている者たちもいる。ベタニヤのマリヤ、ヨッパのタビタのように主への愛と奉仕に喜びいっぱい生きている信仰者は、天から見ていてもさぞ美しい姿をしているであろう。申命記が記す「きよい魚」とは、このようなキリスト者を象徴するにちがいない。主に喜んで食して頂ける者になろう。▼「あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。」(ヘブル5:12~14同)