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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 申命記28章 <祝福とのろい>

2019-12-17 | 申命記

アイリス「あなたの死体は空のすべての鳥と地の獣の餌食となり、しかも、これを追い払う者もいない。」(申命記28:26新改訳)

イスラエルが神を捨てた時、いかに悲惨な結末を迎えるかを詳述したのが15~68節。▼BC580年代、バビロン軍が聖地を占領したとき、このみことばどおりの光景になったことが詩篇79篇に記されている(1~3)。また主イエスはエルサレムのために、幾度も泣かれたが、ローマ軍が反乱を鎮めようとパレスチナを占領した際も、おなじようになった(AD70年代)。見せしめのため、死骸を埋葬することが禁じられたので、死屍累々、国中に腐臭が満ちたと記録されている。それは表現できないほどの惨状であった(26)。▼イエス・キリストのあがないにより提供された永遠の救い、これをあくまで拒むなら、その結果はこのようになる。もうしばらく恵みのとき、救いの日は続くであろうが、いつまでもそうではない。だからすべての人は心を閉ざすことをやめ、差し伸ばされている愛の御手をしっかり握らなければならない。◆主がゴルゴタの刑場に向かう時、多くの女性たちが泣きながら後をついて行った。あまりにも惨めなイエスの姿を見て、同情の涙があふれたのである。だが主は「娘たちよ、わたしのために泣くのではない。もっとはるかに悲惨なことがあなたたちの子や子孫にふりかかるのだ」と言われた(→ルカ23章)。私たちは主のおことばの重さをよく心に刻みつけなければならない。イエス・キリストはユダヤ人だけでなく、全世界の人々、しかもあらゆる時代の人々に言われたのだ。そのような終末のとき、形容する言葉もみあたらないほどの悲しみと苦しみの時代が来るのだ、ということを。◆ヨハネ黙示録にはそれが描かれる。淡々とした筆致で記されているため、多くの人々は注意をはらわない。「これは黙示文学だから」、「すべては象徴にすぎない」、「文字通り受け取る必要はない」と、わけ知り顔で言う人々も多い。だが、神はハッキリ言っておられる。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる」(21:5同)と。だから与えられた短い人生の中で、心の準備をすべきである。いつ神の審判の座に出ても後悔をしないように。

 


朝の露 申命記27章 <偶像礼拝>

2019-12-16 | 申命記

つわぶき「『職人の手のわざである、主が忌み嫌われる彫像や鋳像を造り、これをひそかに安置する者はのろわれる。』民はみな答えて、アーメンと言いなさい。」(27:15新改訳)

聖書には、偶像を造り、拝んではならないとの命令が満ちている。どうしてこれほどくりかえされているのであろうか。それは被造物にすぎない人間が、創造の神に対して抱く最大最高の反逆行為にほかならないからだ。つまりこれは、偶像を拝むなら永遠の滅亡が決定的となり、もはやいかなる弁明をしようとゆるされない、という意味なのだ。なぜか、神はその御本質が愛であられるから、人が自分に向かう神の御愛を否定し、拒むことは、神を殺すに等しい、つまり殺神罪(さつじんざい)に当たるのである。人を殺す殺人罪がゆるされないのなら、まして殺神罪が永遠の刑罰に当たるのは当然ではないか。▼神は私たち人間をご自分のかたちに造られた。それは人が人格の最奥に霊を持っているということである。ということは、人は神と交わり、会話し、その御心を知り、愛し愛される存在だということにほかならない。▼ところが人は反逆の罪を犯した結果、それを嫌がるようになった。自分の思い通り、望むままに生きたいとの願望を抱くようになったのである。それが偶像を存在させる動機にほかならない。偶像は人に向かってものを言わない。正邪を示さない。山も星も動物も人にものを言わず、正義と悪を示し、ただすことはしない。人はそのほうが都合が良いのだ。自分は信仰者だとの自己満足を持ちながら、思うままに生きられるからである。▼しかし「思うままに生きる」といっても、実は罪の奴隷であり、悪魔のしもべとされた、というのが真相である。その悲劇的な事実を偶像礼拝はカモフラージュしてしまうのである。その結果は永遠の滅びに落ちて行くことになる。創造主はその姿を知り尽くしておられるからこそ、偶像を拝んではならない、とくりかえし語っておられるのである。▼現代人は、偶像文化にあまりにも慣れ親しんでいるので、その忌まわしさ、罪深さに気がつかないが、聖書によって鋭敏な感覚を抱かないと、そのはては永遠の滅び以外にない。彫像や鋳像を国宝として安置し、至る所に飾り、一年を通じてお祭りをする。家、通り、ビルの屋上、山々、その他ありとあらゆる所に像を設け、その中に埋もれて生きている、このように多くの人々が自分から進んで滅亡への道を歩んでいるのが現代だ。私たちキリスト者はもっと涙を流し、隣人の救いを祈るべきである。

 


朝の露 申命記26章 <主の宝の民>

2019-12-12 | 申命記

コチョウラン「あなたは、あなたの神、主の前で言いなさい。『あなたが私に下された命令のとおり、私は聖なるささげ物すべてを家から取り分け、それをレビ人、寄留者、孤児、やもめに与えました。私はあなたの命令を一つも破らず、またそれらを忘れませんでした。』」(申命記26:13新改訳)

約束の地に入り、そこに住むようになったとき、彼らは心からの感謝をささげなさい、と命じられた。この章はその命令を記したもの。感謝と喜びのうちに律法を守るなら、イスラエルは「主の宝の民」、「主の聖なる民」として諸国の上に立ったはずであったが、悲しいことに事実は反対になった。▼人は物質的に豊かになり、地上での繁栄を享受すると、おごり高ぶり、結果として神の御心に従わなくなる。これは選民だけではなく、あらゆる人々に共通の堕落性があるためだ。そこから救われる道はただ一つ、キリストの贖いによって救われ、御聖霊を内に宿すことである。やがてイスラエルは患難期を通り、悔い改めて主イエスを受け入れるであろう。そのとき初めて神の宝、聖なる民へと変えられる。◆使徒パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ5:16~18同)と勧めている。イスラエル人は収穫の時や、特別の時にエルサレムに詣でて感謝をしたが、キリスト者はあらゆる時と場合において主に感謝する者へと変えられた。それは聖なる霊により、自分自身が神の宮とされたからである。◆パウロとシラスは福音のためにピリピできびしくムチ打たれ、投獄されたが(使徒16章)、内に満ち溢れる喜びと感謝を抑えきれず、真夜中の牢獄内で祈っては賛美し、賛美しては祈った。考えても見よ、ムチの傷生々しく、足かせをはめられた二人の男性が、暗闇の牢で顔を輝かせ、手をたたきながら力いっぱい賛美しているのだ。普通ではあり得ない光景である。この喜び・この感謝が福音の実質なのである。あなたや私はこのいのちを現実に宿しているだろうか。「見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21同)

喜びはわが心に 心に 心に 喜びはわが心に 心にあり 

おさえきれない平和あり 平和あり 平和あり おさえきれない平和あり 心にあり

<パウロたちが歌っていた賛美はこのようなものだったかもしれない>


朝の露 申命記25章 <アマレク人>

2019-12-11 | 申命記

まり菊「彼らは神を恐れることなく、あなたが疲れて弱っているときに、道であなたに会い、あなたのうしろの落伍者をすべて切り倒したのである。」(申命記25:18新改訳)

アマレクはヤコブの兄エサウの孫で、アマレク人はここから出た部族の名称である。イスラエル民族をはげしく憎み、どこまでも敵対し続けた。モーセに率いられた民が水不足に苦しみ、弱っていた時をねらって、アマレク人たちは後ろから襲いかかり、衰弱しているイスラエル人にねらいをつけ、すべて剣で切り倒した。▼卑怯で残酷な彼らには、主を恐れるということがなく、悪魔的な性質をもっていたため、神によって絶滅させられたのも当然である。 新約の光で見れば、アマレクは悪魔のひな型といえよう。ペテロは「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(Ⅰペテロ5:8同)と注意をうながした。教会生活と聖書に従う生き方を軽視し、信仰的に落伍すれば悪魔の好餌にされるのは必至、滅びは時間の問題となる。◆50年ほど前、私は二人の方と共に(つまり3人で)洗礼を受けた。だが今残っているのは私ひとりである。こういう例は他の教会でも見られるであろう。日本プロテスタント宣教170年、もし受洗者が全員残っていたら、クリスチャン人口は数百万をまちがいなく超えているはずだ。大部分が悪魔に「食われてしまった」のである。これほど悲しく残念なことはないのだが、肝心の私たちキリスト者がそれほど痛痒を感じていないことが問題であろう。この列島から涙と叫びが祈祷となって天に毎日昇って当然なのに、それがないのだから・・・。「王の命令とその法令が届いたどの州においても、ユダヤ人の間には大きな悲しみがあり、断食と泣き声と嘆きが起こり、多くの人たちは粗布をまとって灰の上に座った。」(エステル書4:3同)

 

 

 


朝の露 申命記24章 <いつくしみとあわれみの神>

2019-12-10 | 申命記

ペチュニア白「あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを覚えていなければならない。それゆえ私はあなたに、このことをせよと命じる。」(申命記24:22新改訳)

本章には、弱い立場におかれた者、貧しい者に対する神のやさしさがあふれている。しかも信仰者は生きる基本姿勢として、救われる以前のつらく悲しい生活を忘れてはならない、と二度も注意していることが心に迫る(18、22)。▼まことの神を知らない人生ぐらい、みじめで苦しいものはない。親子そろった家庭でも喜びと平和はなく、争い、不満、時には暴力までも飛び交う状態、あのような世界には二度と戻りたくない、と誰でも思う。この間も、家出した小学校6年生の少女が、家には戻りたくないと言っている様子が報道されていた。両親がそろっており、家も豊かな暮らしもあるのに、である。悲劇としか言いようがない。しかしこれが、今の日本社会の現実なのだ。▼だからキリスト者は喜びと平安の生涯に入れられたからといって、以前の生活を忘れるべきではない。そうすれば、いつでも救いに入れられた感謝が沸き上がり、初々しい信仰を保つことができるであろう。出エジプトしたイスラエル民族は、過ぎ越しの夜に苦菜をわざわざ食べるよう命じられたが、私たちも苦しかった未信者時代を忘れずに、そこから解放してくださった神の愛を賛美したい。◆さて、本章にはもう一つ、私たちをはっとさせるみことばがある。それは「隣人に何かを貸すとき、担保を取りにその家に入ってはならない。あなたは外に立っていなければならない」(10,11)である。いかに貧しい人の家でも、また彼に金を貸すという場合でも、許可なく家に入ってはならなかったのである。私は、ここに神に創造された人間というものの、人格の尊厳があると思う。人が神のかたちを持つということは「冒すべからざる人格の尊厳」を持つということに等しい。◆あえて冒険的言い方をすれば、神ご自身であられても、私という人間の許しと同意なしには、私の人格の内にお入りになられないのである。神はじつに、そのような存在として私をお造りになった。それが愛の交わりというものの姿である。ところが、なんということか。神ご自身のほうで、その在り方を破り、私たちをもっとも奥深い神格(神のふところ)まで入って来られるように、戸を開き給うたのであった。それがあがないの実相である。「神の愛が私たちに現れた」とはそのことである。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9同)