goo blog サービス終了のお知らせ 

しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 申命記33章 <ルベン族>

2019-12-25 | 申命記

神戸ルミナリエ「ルベンは生きて、死なないように。その人数が少なくても。」(申命記33:6新改訳)

ここはモーセが十二の部族を祝福した箇所だが、長男ルベンについてはわずか一言だけで終わっている。本来なら、彼は長子として最大の祝福と相続にあずかる資格を持っていた。ところが、父ヤコブの妻、つまり自分の母を犯したのである。「イスラエルがその地にとどまっていたころ、ルベンが父の側女ビルハのところに行って、彼女と寝た。イスラエルはこのことを聞いた」(創世記35:22同)。ビルハはイスラエルの本妻ラケルの奴隷で、ダンとナフタリの実母であった。律法には「人がもし父の妻と寝たなら、父の裸をあらわにしたのである。二人とも必ず殺されなければならない」(レビ20:11同)とあるから、ルベンは死刑になって当然だったのに、神はあわれみのゆえに、「生きて死なないように」と仰せられた。しかし、長子の祝福を失ってしまったのである。モーセの祝福には、あわれみの神が栄光を現しておられる。このあわれみがキリストにより、私たちにも注がれていることに感謝したい。が、決して忘れるなかれ。「結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者をさばかれるからです」(ヘブル13:4同)とのおごそかな警戒を。

 


朝の露 申命記32章 <モーセの歌>

2019-12-24 | 申命記

さざんか「彼らの岩が彼らを売らず、主が彼らを引き渡されなかったなら、どのようにして一人が千人を追い、二人が万人を敗走させたであろうか。」(申命記32:30新改訳)

イスラエルが約束の地を征服できたのは神によるのであり、彼らの強さからではなかった。エリコの城壁が何もしないのに崩れ落ちたのはなぜだったか。ギブオンの上で、太陽が一日沈まなかったのは、だれによったのか。ギデオンが三百人で十二万以上を全滅させた力は、どこから来たのか。これらを静かにふりかえれば、神が共におられたからだったことは、あまりにも明らかであった。▼しかし「エシュルン(イスラエル)は肥え太ったとき」(15)神を捨て、救いの岩である方をないがしろにしたのである。悲しいことに、モーセ預言は的確に成就した。私たち信仰者は地上の成功と繁栄を手にした時が一番危ない。なぜなら肉性は、「お前は力ある者、優れて偉大だ」とのささやきに最も弱いからである。御霊と共に謙遜の道を行く者だけがこの誘惑を逃れる、と知ろう。◆それにしても何と雄大、荘重で霊感に満ちた歌であろう。「天よ、耳を傾けよ。私は語ろう。地よ、聞け。私の口のことばを」との呼びかけに、私たちは心ふるえる。モーセは天地創造の神、父なる神の前に原告として立っている。被告は同胞イスラエルである。そして天と地を証人台に呼んだ。モーセの弁論は永遠の過去から永遠の未来におよぶ全ての被造物が聞く前で繰り広げられる。神がいかにエシュルンを愛し、いつくしまれたか。そしてイスラエルがいかにそれを破ったか。モーセは天地に聞こえる声でその事実を述べるのである。◆現代人は宇宙の広さと長さを150億光年と計算し、分かったつもりでいる。宇宙を窮めたつもりでいる。しかしそれが神の法廷であることを知らない。霊的盲目だからである。自分たちが被告席に置かれていることが悟れない。無知なのに、賢者だと思い込んでいるからである。「わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。」(ヨハネ5:45同)

 


朝の露 申命記31章 <強くあれ雄々しくあれ>

2019-12-23 | 申命記

水仙「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(31:6新改訳)

いよいよこれから、カナンの地に入って行こうとするイスラエルに対し、神は約束のことばを与え励まされたのが本章である。▼主イエスも地上から天に挙げられるに際し、弟子たちを励まされた。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33同)▼イスラエルがカナンに入って行く時には律法が彼らと共にあった。しかし、内に罪の性質を持つ彼らはやがて肉欲に負け、世を慕って神を捨て去ったのである。だが主イエスが私たちと共におられるのはそれと異なる。罪はキリストとともに十字架につけられ、復活の主が聖霊によって私たちに宿り、新しい力といのちになって、世と悪魔に勝利させてくださるのである。モーセが語ったことばは、イエス・キリストにより、はじめていのちあるもの、人を本質から変貌させるものとなった。福音の恩寵にあずかっている人は幸いなるかな。


朝の露 申命記30章 <おごそかな警告>

2019-12-19 | 申命記

「しかし、もしあなたが心を背け、聞き従わず、誘惑されてほかの神々を拝み、これに仕えるなら、今日、私はあなたがたに宣言する。あなたがたは必ず滅び失せる。あなたがヨルダン川を渡り、入って行って所有しようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くことはない。」(申命記30:17,18新改訳)

残念なことにモーセの預言は正確に成就した。神は律法で、「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エジプト20:6同)と誓われたが、約束の地に住めたのは千代どころか、わずか三〇代ほどに過ぎなかった。▼それでも彼らは悔い改めず、エジプトに下った残留ユダヤ人たちは、「私たちは・・・天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはそのとき、パンに満ちたりて幸せで、わざわいにあわなかった」(エレミヤ44:17同)と言い張ったのである。▼人はキリストの救いにあずかり、生まれ変わらなければ罪の生涯から解放されず、滅びるだけなのだ。モーセの警告は今も世界に響く神の御声、と知ることが重要である。◆モーセの警告は単にユダヤ民族にとどまらず、人の心の奥深く横たわる罪とそこからきよめられることに光りを当てていることに注意しなければならない。「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる」(申命記30;6同)とあるが、この道を開いてくださったお方こそ主イエス・キリストであられた。しかしユダヤ民族は全体としてはこのお方を拒んだから、心に割礼を受けるという恵みから外された。ステパノが、「うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています」(使徒7:51同)と聖霊により語ったとおりである。◆その結果、心の割礼という祝福はペンテコステにより全世界に広がり、あらゆる民族からこれに入る者が起こされている。それが今の時代なのだ。ではユダヤ民族は捨てられっぱなしであるか、そんなことはない。モーセが語った祝福は本当の回心となってイスラエル全体に注がれるときが来るであろう。地上に出現する神の国、いわゆる千年王国がそれにほかならない。現在、キリスト者(真に生まれ変わり、聖霊を内に宿している人たち)はこの祝福を「先取り」することがゆるされた幸いな人々である。今、願わくはひとりでも多くの方々がこの祝福に入ることができますように!

 

 

 


朝の露 申命記29章 <モアブの地で>

2019-12-18 | 申命記

みかん「これらは、モアブの地で、主がモーセに命じて、イスラエルの子らと結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。」(申命記29:1新改訳)

ホレブで神の前に立ったイスラエル人たちは四〇年経って死に絶え、今モアブの地にいる人々は新しい世代になっていた。そこでモーセはあらためて神と結んだ契約を説明し、再確認させようと述べたのが申命記である。ホレブの契約と本質的に同じ内容で、「モアブの地で、モーセは次のように、みおしえの確認を行うことにした」(申命記1:5同)と記されたとおりだ。▼律法は、これを守れば祝福が与えられ、破ればそこに記された呪いが仮借なく臨むというもので、罪をもった人間にはまことにきびしい内容であった。はたせるかな、イスラエルの歴史は律法を破ってしまう歴史で、そのために恐るべき審判が下った。「私は自分の頑なな心のままに歩んでも大丈夫だ」(19)とあるが、結果的に見れば、律法を与えられたイスラエル民族の歴史は、人間の内に存在する罪性を万人に見えるように現わすものであった、ということができる。つまりこれにより、万国の民は「律法を遵守することは絶対に不可能なのだ」という真理を学んだのである。そして必然的にイエス・キリストへ導かれることになっていった。パウロが言っているのはこの事実なのだ。「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。」(ガラテヤ3:24同)▼律法が暴き出した罪の実体は生半可なものではない。選民は自分たちの中に送られた神の愛する子イエスをのろいの十字架に追いやったのであった。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから」(ヨハネ19:7)と言いながら・・・。律法は「人が神から与えられたすばらしい規範である律法を用いて、神の御子を死に至らしめた・・・それこそが、人の持つ罪の姿である」ことを、メッセージとして私たちに告げている。人がこの事実に目が開かれること、それが律法の使命、目的である。なぜならそのときこそ、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります」(ヨハネ6:56同)という福音の事実が私たちの内にいのちとなって生起するからである。