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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 申命記9章 <あなたはうなじのこわい民>

2015-04-27 | 申命記

黄色バラ「知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。」(6新改訳)

カナン侵入をひかえ、モーセはイスラエルを前にして入念な警告を与えた。「約束の地を与えるのは、あなたがたが正しいからではない。この地の民が、滅ぼされても仕方がないほど罪に染まっているからであり、またわたしが、アブラハムやヤコブと結んだ契約を守るためである」と。

このことばは、新約の祝福に生きる私たちにも当てはまる。私たちが御国に入るのは、自分が義(ただ)しいからではなく、イエス・キリストのあがないにより頼んでいるからであり、神の一方的な恵みと憐れみによる。よくわかっているつもりでも、目をさましていないと、毎日の歩みの中で、この意識が希薄になり、いつのまにか「自己の義」が頭をもたげてくる。そこから不平不満が生じ、喜びと感謝が後退していく。くれぐれも謙遜な信仰の姿勢を失うなかれ。


朝の露 申命記8章 <モーセの警告>

2015-04-23 | 申命記

寝屋川「あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。」(12~14a新改訳)

約束の地に定住した後の生活について、モーセはきびしく警告した。衣食住に満ち足りると神を忘れて傲慢になり、放縦に走る、悲しい人間の性(さが)である。イスラエルもご多聞に漏れず、諸国と同じ運命をたどった。ただし、彼らは律法と預言者、敬虔な王を与えられ、数々のしるしと不思議を体験しながら神を捨てたのだから、責任は重い。

ひるがえって私たちキリスト者はどうか。神のひとり子と聖霊を与えられ、すばらしい福音時代に生かされており、恵みの大きさからいえばイスラエルの比ではない。だからヘブル書も、「私たちがこんなすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう」(ヘブル2:3同)とおごそかに警告しているのである。


朝の露 申命記7章 <聖絶ということ>

2015-04-22 | 申命記

やなぎ「あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。」(2新改訳)

カナン原住民をひとりも生かしておいてはならないという聖絶思想は、イエスの愛が現された今、実行すべきものではないが、カナン征服戦では神の命令するところだった。▼その理由は、原住民が偶像礼拝とあらゆる不道徳に染まり、退廃の極にあったからだ。神は罪をかぎりなく怒り、憎まれるし、罪を放置するなら、その果ては人類が人類を滅ぼしてしまうからでもある。

御子イエスはその罪を負い、一身に神の怒りを受けられた。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との叫びは、神の罪に対する怒りが筆舌に尽くしがたい激しさ、深さをもっていることをあらわしている。しかし同時に、父の聖絶の刃(やいば)は私たちに振り降ろされないで、わが子に向けられた。▼この信じられないような神の愛を前にしたとき、憎しみが消えるのは当然でないだろうか。イエス・キリストの福音は私たちに告げる、聖絶とは、人の生命を断つことではなく、罪の生命を断つことなのだ、と。

 


朝の露 申命記6章 <律法と十字架>

2015-04-21 | 申命記

芝桜「主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。」(18新改訳)

罪とは「主が正しい、また良いと見られることをしないこと」である。▼モーセは心からイスラエルの幸福を願い、くりかえし、「律法を守りなさい」と命じ、勧めた。だが私たちは、この後のイスラエル史を読むとき、彼の言葉がすべて破られていく事実を見、暗澹(あんたん)たる気分になる。

人の生来の性質には律法を守れるだけの意志も力もない。それどころか、積極的に破ろうとする悪の性質がある。ダビデが言ったとおりである。「彼らは心の中で悪をたくらみ、日ごとに戦いを仕掛けています。蛇のように、その舌を鋭くし、そのくちびるの下には、まむしの毒があります。」(詩140:2、3同)▼イエスの十字架は私たちから、この毒を取り除くために立てられた。モーセ律法を心から喜び行うことができるのは、十字架の恵みを体験した時である。


朝の露 申命記5章 <律法と福音>

2015-04-20 | 申命記

江戸彼岸「あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。」(33新改訳) 

本来、律法は悪いものではなく、神の愛の御心を写したすばらしいものである。しかしイスラエル人には律法を守る力がなく、破ることしかできなかった。▼そこで神は、ご自分の御子を供えものとして十字架にささげ、違反行為の責めを人間に負わせずかえって聖霊をひとりひとりに与え、その力と恵みによって、律法を守るようにしてくださった。福音とはこのことを指す。

ユダヤ人指導者は律法に勝手な解釈を加え、神のお心をゆがめたが、主イエスは律法の真の意味をあらためてお示しになり、ご自身とともに歩むなら、喜びと感謝のうちに、完全な者にされることを教えて下さったのである。モーセは天でイエス・キリストの出現と福音時代の到来を、どんなに喜んでいることだろうか。今私たちは、モーセもうらやむ幸せのうちに置かれていることを、あらためておぼえよう。[写真:江戸彼岸桜]