「あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」(29新改訳)
主イエスは、「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます」(ルカ6:38同)と言われたが、これは旧新約聖書をつらぬく愛の精神である。
モーセはイスラエル人に、三年ごとに収穫の十分の一を差し出し、それを町に積み上げることを命じた。そうすれば、レビ人など弱い立場の人々が自由に食べ、満ち足りることができる。結果として、ささげた人に天からの祝福が注がれることになる。
神の前に富むということは、他者への愛のわざに生きることにほかならない。なぜなら、神の愛はそのような本質をもっているからだ。収穫を独り占めしようとした金持ちは、その夜急死した。(→ルカ12:16~21)▼自分の財を自分のためにだけ用いるのは、正当な権利にみえるが、神の前では罪である。