goo blog サービス終了のお知らせ 

しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 申命記19章 <偽りの証人>

2015-05-13 | 申命記

東大阪「さばきつかさたちはよく調べたうえで、その証人が偽りの証人であり、自分の同胞に対して偽りの証言をしていたのであれば、あなたがたは、彼がその同胞にしようとたくらんでいたとおりに、彼になし、あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。」(18、19新改訳)

主イエスが大祭司の前で裁判を受けたとき、偽りの証人が何人も立ったが成功しなかったと記されている。指導者たちは「イエスを殺そう」とする決心をしており、そのために偽証人をこしらえた。つまり初めから律法違反の裁判であり、死刑に相当するのはむしろ大祭司たちのほうだったのだ。

十戒の第九番目は「偽証してはならない」で、人間社会が成り立つための最重要規範のひとつがこの戒めである。これが崩れると社会全体が崩れてしまう。その証拠にサタンは園で嘘をついて人をだまし、罪を持ちこみ、人類社会を死と悲しみに陥れたのである。「彼は・・・偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44同)

私たちの生涯から、神の恵みと聖霊の力によって、嘘を完全に除去すべきである。「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」(エペソ4:25同)


朝の露 申命記18章 <私のようなひとりの預言者>

2015-05-12 | 申命記

赤バラ「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」(15新改訳)

私のようなひとりの預言者とは、イエス・キリストを指す。そもそもモーセは神とイスラエル人の仲保者として立てられた。それは、彼らがシナイ山で神の栄光に接したとき、あまりの威厳におびえ、「私たちの代わりに、神と話してください」とモーセに頼んだからだった。

罪人である私たちもそれと同じで、絶対者にして太陽よりも激しく燃えるお方と直接話し、交わる事はできない。一瞬のうちに焼き尽くされ、滅びるほかないからだ。そこで神は、ご自身の独り子を仲保者として世にお遣わしになった。▼人の子イエスと間近で話し交わっても、弟子たちは焼かれず、滅びなかった。しかも彼は「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」(ヘブル1:3同)なのだ。人としてこの世に来られたイエス・キリストの不思議さ、すばらしさを、よくよく味わうべきである。


朝の露 申命記17章 <一生の間、これを読まなければならない>

2015-05-11 | 申命記

白つつじ「彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行うことを学ぶためである。」(18、19新改訳)

本章後半は、イスラエルの王として選ばれた者が、神の前にどうあるべきか教えたものである。

人はその堕落性のゆえに、ひとたび権力の座に着くと高慢になり、さまざまな欲望の奴隷になりやすい。はたせるかな、初代の王サウルは預言者サムエルの度重なる警告にも耳を貸さず、権力を乱用し、主から捨てられた。次の王ダビデは少年期から苦労を重ね、信仰を学び、理想的な王になったが、それでも誘惑に陥って恐ろしい罪を犯した。ソロモン王においては前半はともかく、後半はまことにみじめな有様だったことは、伝道の書にあるとおりだ。

理想中の理想は、再臨されるイエス・キリストである。彼は大祭司また王として、永遠の王国を統治される。その日が早く来ますように。「語り伝えよ、ふたたび主の地に現われたもうを、語り伝えよ、この世はみな主に帰する日近きを、帰りたまえ王なる主! 汝が民はこぞりて迎えん、帰りたまえ王なる主、切に待つはなよめに」(聖歌626)


朝の露 申命記16章 <主の憎む石の柱を>

2015-05-07 | 申命記

シェパード「あなたが築く、あなたの神、主の祭壇のそばに、どんな木のアシェラ像をも立ててはならない。あなたは、あなたの神、主の憎む石の柱を立ててはならない。」(21、22新改訳)

わが国では、神を数えるのに柱(はしら)という単位を使うが、これはアシェラから来たのではないかとの説がある。それはともかく、日本人も木を祀(まつ)ることが好きで、しめ縄を巡らしたり、祠(ほこら)を作ったりして礼拝する。

しかし私たちキリスト者には、目に見えない霊的な祭壇以外、礼拝の対象があってはならない。すなわち、神の子がご自身をささげられた十字架であり、福音である。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」(ガラテヤ6:14同)▼この「決して」には、「断じて」とか「絶対に」と訳される強い意味があることを心に銘記しよう。その理由は、主の祭壇のそばに肉的誇り、世を慕う思いなど、気づかないうちに偶像の柱を立てやすいのが私たちだからである。

今から半世紀ほど前、大衆伝道者として有名なビリー・グラハム師が、東京武道館で大会を開いたことがあった。そのとき、教職者、神学生を前にした集会で、「あなたの祭壇にしみはないか」とチャレンジされたことをおぼえている。内容はともかく、題名だけは今も記憶に残っている。私にとり、とても印象的なアピールであった。それはそれとして、いつも目をさまし、聖潔の姿勢をくずされないようにしたいものである。


朝の露 申命記15章 <奴隷であったあなたを>

2015-05-06 | 申命記

大阪駅「あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出されたことを覚えていなさい。それゆえ、私は、きょう、この戒めをあなたに命じる。」(15新改訳)

奴隷や負債者に対する扱いを命じたのが本章だが、神の愛とやさしさにあふれている。だれも好きで奴隷になったり、借金したりするわけではなく、やむをえない事情からそうなるのである。その気持ちを察すれば、過酷な扱いはできなくなるだろう。かつてイスラエルはエジプトで奴隷であり、あまりの苦しさから、神に向って叫んだ経験を持つ。そのことを忘れずに、虐げられている人に同情しなさい、とモーセは諭した。

「あなたがたの切り出された岩、堀り出された穴を見よ」(イザヤ51:1同)とあるが、私たちも救われる前、この世の力に支配され、苦しみ悩んでいた過去を忘れてはならず、そこから救い出してくださった愛の御手を、記憶から消してはならないのである。主イエスは私たちの生きる苦しみ、悩みを「経験する」ため、人となられたのだから。▼「馬ぶねのなかに産声あげ、たくみ(大工)の家に人となりて、貧しきうれい生くる悩み、つぶさになめしこの人を見よ」(賛美歌121)