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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 申命記24章 <みなしごの権利>

2015-05-21 | 申命記

伊豆急行「在留異国人や、みなしごの権利を犯してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを、そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。」(17、18新改訳)

モーセ当時の社会的弱者といえば、在留異国人、みなしご、やもめだったが、わが国でもこれらの立場にある人は待遇上に差があり、就職や給料の面で苦労することが少なくない。▼しかし神は天からこれら弱い人々に特別の愛と配慮をしておられる。その証拠に、ご自身を「みなしごの父、やもめのさばき人」(詩篇68:5同)とまで呼んでおられる。

もし私たちが神の祝福を受け、豊かな生涯を送っているなら、よりいっそう、弱い立場の人々を友とすべきである。やがて再臨された主が私たちに向かい、「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40同)と言われるときが来るのだから。


朝の露 申命記23章 <逃げて来た奴隷>

2015-05-20 | 申命記

君子欄「主人のもとからあなたのところに逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない。あなたがたのうちに、あなたの町囲みのうちのどこでも彼の好むままに選んだ場所に、あなたとともに住まわせなければならない。彼をしいたげてはならない。」(15、16新改訳)

本章にも、神の憐れみといつくしみが満ちている。▼主人のきびしい扱いに耐えかね、逃げて来た奴隷を人々は受け入れ、その町に住まわせてやらなければならなかった。たとえ主人が取り戻しに来ても引き渡してはならないとは、奴隷にとって力強い励ましだったにちがいない。

イスラエル人はつい四〇年前まで、エジプトで奴隷であり、言語に絶する苦しみを受け、天に向かって叫んだ経験を持つ。だから奴隷の苦しみを誰よりも理解できたし、そうすべきだったのだ。▼主イエスは、自分にしてもらいたいことは他人にもそのとおりにしなさい、と言われた。また、それが律法を完全に守ることなのだ、とも。モーセ律法の神髄は神の愛そのものである。


朝の露 申命記22章 <婚約中の女性>

2015-05-19 | 申命記

JR大阪駅「ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。」(23、24新改訳)

イエスの母となったマリヤは大工ヨセフと婚約していた。▼それは近隣に知られていたろうから、聖霊により身重になったとき、この律法規定が適用される危険があった。心やさしいヨセフが心配し、ひそかに去らせようとした気持ちがわかる。神は関係者たちとナザレの町の人々の上に働かれたが、とりわけヨセフの心を守られた。こうして救い主の処女降誕という奇蹟が成就したのである。

結婚は夫婦にとり、あらゆる幸福の出発点である。ここが崩れると子々孫々まで悪影響がおよぶ。神をおそれ、その清きを守るべきは当然だし、年配者は、若者たちが罪を犯さないよう神のあわれみと保護を求め、祈るべきである。

 


朝の露 申命記21章 <女性捕虜>

2015-05-18 | 申命記

橙色花「あなたが敵との戦いに出て、あなたの神、主が、その敵をあなたの手に渡し、あなたがそれを捕虜として捕らえて行くとき、その捕虜の中に、姿の美しい女性を見、その女を恋い慕い、妻にめとろうとするなら、その女をあなたの家に連れて行きなさい。」(10~12a新改訳)

対ローマ戦争(AD70年)のとき、捕虜になったユダヤ人女性の多くが、戦利品としてゲルマン人兵士に与えられ、故郷に連れて行かれて子どもを生ませられ、現在のヨーロッパ系ユダヤ人が形造られたといわれている。

人類の歴史は戦争の歴史ともいわれるが、弱い立場の女性たちは悲惨だった。悲しいことにそれは今もつづいている。モーセは、イスラエル人が捕虜女性を妻にするなら大切に扱い、決して奴隷のように見下げてはならないと命じた。当時としては実に慈悲深い定めといえよう。▼エリコの城壁に住んでいた遊女ラハブは、捕虜になったが、神をおそれたため大切にされ、ダビデ王の先祖サルモンの妻となった(マタイ1章)。モーセ律法が守られた結果だと思う。


朝の露 申命記20章 <すべての忌みきらうべきこと>

2015-05-14 | 申命記

ダルメシアン「それは、彼らが、その神々に行っていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主に対して罪を犯すことのないためである。」(18新改訳)

ここでモーセはイスラエルに聖絶の義務を与えた。つまり、約束の地にいる原住民はひとりも生かしておいてはならない、というものである。それは罪の持つ腐敗性、伝染性を断ち切るためだった。そうしないと、イスラエル自身が約束の地から断たれるのであり、事実、歴史はそうなった。

今日、70億の人間が犯している数々の罪は、もとはといえば、たった一組の夫婦(アダムとエバ)から始まった。そこに罪の広がる力の底知れない恐ろしさがある。旧約聖書はイスラエルの歴史を通し、人の罪は聖絶などによって解決できるものではない、という事実を私たちにつきつけているのである。

自分の体内にガン細胞が一個でもあれば、それをなくそうと思わない人はいないだろう。しかるに、自分の生涯に罪が存在するのを嫌悪し、どんなことがあってもそれを霊的に聖絶していただきたい、とキリストの十字架に来る人はごく少数である。永遠の運命がそのことにかかっているのに。  [写真:ダルメシアン]