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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 申命記29章 <不信仰の心>

2015-06-01 | 申命記

白花「あなたが、自分の目で見たあの大きな試み、それは大きなしるしと不思議であった。しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。」(申命記29:3,4新改訳)

荒野において、イスラエルは神のなさった大いなるみわざを四〇年間見続けたが、その心の性質は少しも変化しなかった。彼らの歴史は、罪が人の心をいかに固くするかという事実の例証である。▼キリスト者もそれとおなじで、自分の生涯に数々の恵みと奇蹟のわざが行われても、感謝も感動もなく、つねに不平とつぶやきが口からもれるというのでは、内なる御霊がどんなに嘆かれるだろう。

よく胸に手を当ててみたい。はたして自分の信仰生涯は、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16~18同)とのみことばが、そのまま表わされた生涯だろうか。▼もしそうでないなら、荒野を彷徨したイスラエルと変わらず、悔い改めが必要である。


朝の露 申命記28章 <木や石のほかの神々に>

2015-05-28 | 申命記

dog2「主は、あなたと、あなたが自分の上に立てた王とを、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった国に行かせよう。あなたは、そこで木や石のほかの神々に仕えよう。」(36新改訳)

約束の地で神に従ったとき受ける祝福と、そうしなかったとき受ける呪いについて、詳細に記したモーセの預言。呪いに関する記述が全体の八割に及んでいて、モーセはまるでイスラエルが後者を選び取ることを予知していたかのようだ。

事実、彼らはカナンに八百年ほど住んだが、そこから追い出され、アッシリヤとバビロンに捕囚となり、偶像文化に仕えさせられた。その後、一時的に帰還したものの、再びローマ軍による追放と離散、現在はイスラエル共和国を作ったが、彼らを追放せよとの大合唱は世界に満ちている。だがすべての人間は、罪を悔い改めなければイスラエルとおなじ道をたどる。▼その意味で、世界の諸民族は互いに非難しあう前に、ひとしく創造主とキリストの前に罪を悔い改める責務があることを知らねばならない。


朝の露 申命記27章 <書きしるしなさい>

2015-05-27 | 申命記

がくあじさい「あなたが渡ってから、それらの上に、このみおしえのすべてのことばを書きしるしなさい。それはあなたの父祖の神、主が約束されたとおり、あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地、乳と蜜の流れる地にあなたが入るためである。」(3新改訳)

ヨシュアに率いられた民は、約束の地に入ったとき、モーセの言葉に従い、シケム近くのエバル山に大石を立て、そこに律法の命令を刻んだ(ヨシュア記8:30~35)。

そこでヨシュアは律法を読み上げ、全イスラエルがそれを守ることを誓ったが、悲しいことに、その後の歴史は、彼らが律法をことごとく破った事実を明らかにしている。たとえ、神のことばを岩山に彫りつけ、何回読んでも聞いても、心が生まれ変わらないかぎり遵守(じゅんしゅ)することはできない、イスラエルは身をもって、その事実を証明したといえよう。

だが今や律法はイエス・キリストご自身として現われ、私たちの心の肉碑に、御霊によって刻みつけられた。喜びと感謝、希望のうちに律法を全うし、御国へと凱旋できる時代が来たのである。


朝の露 申命記26章 <すべての産物の初物>

2015-05-26 | 申命記

ポスター「あなたの神、主が与えようとしておられる地から収穫するその地のすべての産物の初物をいくらか取って、かごに入れ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所へ行かなければならない。」(2新改訳)

本章は畑からとれる初物を主にささげ、感謝の供え物とする規定を記す。

モーセの命令によれば、イスラエル人はカナンの地を所有したとき、それを私物化してはならなかった。約束の地はあくまで神のものであり、神を礼拝し、その栄光を現わす手段としてイスラエルに与えられるのである。だからゆたかな実りがもたらされたとき、その原因である主の御前に行き、最も良い初物を感謝の供え物としてささげなければならなかったのだ。

また貧しい人々、在留異国人などへの分配も怠ってはならず、いつも神の愛と恵みをあらわすことが期待されたのである。私たちキリスト者も、当然のこと、モーセ律法の「心」を引き継がなければならない。イエス・キリストの愛に根ざして。

〔写真:行きつけの歯科医院に貼ってあるポスター〕


朝の露 申命記25章 <大小異なる重り石>

2015-05-25 | 申命記

赤バラ「あなたは袋に大小異なる重り石を持っていてはならない。あなたは家に大小異なる枡を持っていてはならない。」(13、14新改訳)

昔は、二種類の重りを持ち、売る時と買う時に使い分け、儲けようとする悪人がいた。それをきびしく禁じたのが本章13~16節。

だがもっと悪いのは「心の量り」が二重であることだ。つまり、口では世辞追従(せじついしょう)を言いながら、腹では反対の思いを抱くこと、いわゆる偽善の罪に走ることである。イスカリオテのユダは、「先生。お元気ですか」と主に口づけし、それを合図に群衆は闇の中でイエスを捕縛した。史上最大のうらぎりである。

主イエスはパリサイ人に向かい、「災いなるかな偽善の学者よ」と、もっともきびしい言葉で非難された(マタイ23章)。神と人に対し、外側の量りと内側の量りを分けて使う偽善の罪、これこそ主が忌み嫌う最大の行為なのだ、ということを忘れてはならない。▼パウロも古い人を脱いだしるしとして、「あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい」(エペソ4:25同)と勧めている。