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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 申命記34章 <モーセよりも>

2015-06-09 | 申命記

学院「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。」(申命記34:10新改訳)

旧約時代における最大の預言者がモーセであることは、誰しも認めるところだろう。▼ しかし主は、「キリストによる生まれ変わりに預かった人は、旧約のどんな聖徒たちより偉大である」と仰せられた。キリスト者が想像を絶する恵みのうちに置かれている事実を、私たちはよく味わわなければいけない。

かつて、あの変貌の山で栄光のうちにモーセとエリヤが現れ、主イエスと親しく話し合っていた(ルカ9:30、31)が、話題はまもなく起きる主の十字架の死だった。これからもわかるように、旧約時代における諸聖徒たちの関心は、こひつじの死なのである。ということは、モーセより、エリヤより、はるかにすぐれたお方は神の子イエスをおいて他にはない、ということだ。▼私たちは救いにあずかり、このお方のそばにはなよめとして、侍(はべ)ることをゆるされた。なんたる光栄、喜びであろうか。


朝の露 申命記33章 <主の来臨>

2015-06-08 | 申命記

グラウンド「彼は言った。『主はシナイから来られ、セイルから彼らを照らし、パランの山から光を放ち、メリバテ・カデシュから近づかれた。その右の手からは、彼らにいなずまがきらめいていた。まことに国々の民を愛する方、あなたの御手のうちに、すべての聖徒たちがいる。彼らはあなたの足もとに集められ、あなたの御告げを受ける。』」(申命記33:2、3新改訳)

モーセによる最後の祝福祈祷で、イスラエル各部族についての預言でもある。2、3節は荒野においてイスラエルに臨んだ崇高きわまりない主の臨在を描写したものだが、キリストの地上再臨の光景を暗示している。

かつて世の罪を負い、人の子としてマリヤの胎から来られたお方が、今度は栄光と御稜威(みいつ)に満ち、恐るべき審判者として来られるのである。しかも、主のみそばには、栄化と携挙によって天に携え挙げられた聖徒たちがつき添い、御使いの号令の響く中を、天の万軍と共に降って来る、その圧倒的な有様をモーセは最後に見たにちがいない。▼主の日が近いことを思い、私たちは祈りのうちに目をさまし、身を整えているべきである。


朝の露 申命記32章 <モーセの死>

2015-06-04 | 申命記

学院林「あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に加えられたように、あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民に加えられよ。」(申命記32:50新改訳)

いよいよモーセの天に召される日が来た。すこし前、兄のアロンはホル山で死んだが、モーセはネボ山で死ぬのである。彼はイスラエル全会衆の見ている前で、山に登って行った。四〇年前、火で燃えるシナイ山に登って行ったときと同じように。

厳粛であり、神秘的でもある。▼モーセ、ダニエル、エレミヤ、パウロ、ペテロ、彼らの最後は神秘のヴェールに包まれ、その墓もわからない。が、それでよいのだ。もし偉大な聖徒たちの死の有様と墓がわかっていたら、数多くの信仰者たちがそれを偶像視し、まねただろうから。

ただひとつ、たしかなことがある。千四百年後、あの変貌山で、モーセはエリヤとともに栄光の中に現れ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネに目撃されたことだ。そのように、人間にとって地上の死よりはるかにすばらしいのは、からだをもって神の御前に生きていることである。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」(ルカ20:38同)


朝の露 申命記31章 <あかしの書>

2015-06-03 | 申命記

ジェラニウム赤「モーセは、主の契約の箱を運ぶレビ人に命じて言った。『このみおしえの書を取り、あなたがたがの神、主の契約の箱のそばに置きなさい。その所で、あなたに対するあかしとしなさい。』」(申命記31:25、26新改訳)

このみことばから、モーセ五書(創世記~申命記)の最後の書である申命記は、至聖所にある契約の箱のそばに置かれたことがわかる。つまり、契約の箱の内部には十戒の石板、外側には申命記があったと想像する。

この巻き物こそ、八百年後、ユダ王ヨシヤが涙ながらに聞いた書にちがいない(Ⅱ列王記22章)。おそらく誰も注目しなかった申命記を大祭司ヒルキヤが見つけ、ヨシヤ王に渡し、王はその内容を知って愕然とし、悔い改めた結果、ユダ王国最後の信仰復興が起こったのだ。▼ルターによる宗教改革も「みことばの発見」から起きたし、アウグスティヌス、ジョン・ウェスレー、中田重治、みなそうである。神は聖書を用いて歴史を変えられる。昔も今も、そしてあなたの生涯も例外ではない。


朝の露 申命記30章 <イスラエルの回復>

2015-06-02 | 申命記

くちなし「あなたの神、主に立ち帰り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。」(申命記30:2,3新改訳)

今日、イスラエルは約二千年ぶりに聖地へ帰還し、人口は五百万を超え、ダビデ、ソロモン時代より多くなった。▼だがよく冒頭の聖句を読むと、主に心から立ち帰ったといえる霊的状態にはない。安息日を守る人々は一部であり、首都テルアビブでは毎年、ゲイ・パレードが行われているという。にもかかわらず、イスラエルが真の回復への途上にあることは、たしかである。

この後、「ヤコブの悩み」といわれる大いなる苦難が全土に臨むだろう。そこを通り、「心を包む皮」(6)が切り取られ、主イエスへの涙の悔い改めがなされ、回復が完成していくにちがいない。彼らの回復を祈ってきた私たちが、主をほめたたえ、賛美の声をあげるのはその時である。