「むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ち壊し、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。」(申命記7:5新改訳)
物理的暴力で偶像礼拝は根絶できない。ある人の家に突然誰かが押し入り、仏壇や神棚を叩き壊し、こんなものを拝まないで聖書を信じろ、と強制したら彼は心を固くし、決して受け入れないであろう。人は人格の内部から溶かされ、愛によって心の壁がひとりでに崩壊したとき、はじめて偶像礼拝の愚かしさに目覚め、手を放す。そして人の心を内面から溶かすのは御聖霊の働きであり、このお方がイエス・キリストと十字架の真相を示される時、それが起こるのである。▼神はキリスト者が愛と忍耐のうちに福音を伝えて行く時、救いの奇蹟が起きるように定められた。「それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです」(Ⅰコリント1:21同)とある以上、どんなに下手な言葉であっても、福音は人によって伝えられなければならない、天使によってではなく・・・。◆パウロは涙ながらに、ピリピ教会に書き送っている。「というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。」(ピリピ3:18,19同)◆すなわち、福音の光に照らされた偶像礼拝のほんとうの姿とは、①自己が抱く目的を至上のものとみなし、その実現のために生涯を送る事、②地上のことだけを考える生き方、永遠を除外した生き方をさいごまでやめない事を指すのである。となると、これは現代人、特に日本人のほとんどすべてが当てはまる生き方であることに気が付く。それで何が悪い?との反論が聞こえてきそうだ。しかしパウロによれば、「その人たちの最後は滅びです」となるのだ。だから彼は涙を流しているのである。◆あなたの生き方に、「永遠への備え」という大切な一事を入れなさい、聖霊は今日もそう呼びかけておられる。