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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 申命記7章 <偶像礼拝の罪>

2019-11-11 | 申命記

リース「むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ち壊し、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。」(申命記7:5新改訳)

物理的暴力で偶像礼拝は根絶できない。ある人の家に突然誰かが押し入り、仏壇や神棚を叩き壊し、こんなものを拝まないで聖書を信じろ、と強制したら彼は心を固くし、決して受け入れないであろう。人は人格の内部から溶かされ、愛によって心の壁がひとりでに崩壊したとき、はじめて偶像礼拝の愚かしさに目覚め、手を放す。そして人の心を内面から溶かすのは御聖霊の働きであり、このお方がイエス・キリストと十字架の真相を示される時、それが起こるのである。▼神はキリスト者が愛と忍耐のうちに福音を伝えて行く時、救いの奇蹟が起きるように定められた。「それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです」(Ⅰコリント1:21同)とある以上、どんなに下手な言葉であっても、福音は人によって伝えられなければならない、天使によってではなく・・・。◆パウロは涙ながらに、ピリピ教会に書き送っている。「というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。」(ピリピ3:18,19同)◆すなわち、福音の光に照らされた偶像礼拝のほんとうの姿とは、①自己が抱く目的を至上のものとみなし、その実現のために生涯を送る事、②地上のことだけを考える生き方、永遠を除外した生き方をさいごまでやめない事を指すのである。となると、これは現代人、特に日本人のほとんどすべてが当てはまる生き方であることに気が付く。それで何が悪い?との反論が聞こえてきそうだ。しかしパウロによれば、「その人たちの最後は滅びです」となるのだ。だから彼は涙を流しているのである。◆あなたの生き方に、「永遠への備え」という大切な一事を入れなさい、聖霊は今日もそう呼びかけておられる。

 

 


朝の露 申命記6章 <律法を守れない苦しみ>

2019-11-07 | 申命記

柿熟す「私たちの神、主が命じられたように御前でこのすべての命令を守り行うとき、それは私たちの義となるのである。」(6:25新改訳)

律法を守り行えば、祝福を受け、幸せになり、地上で永く生きることができる。これが申命記ではくりかえし述べられる。だが新約聖書はそれに対し、こう叫ぶ。「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分るのです。私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:22~24同)▼つまりそれは、「神様、律法が正しく、幸せになる条件であることはわかります。でも事実、私には行えないのです。どんなに苦しみ、努力しても不可能なのです。私には絶望しかありません」との悲痛な叫びである。▼神がこの叫びにお答えくださった、それがイエス・キリスト、すなわち苦悩を喜びの叫びに変貌させてくださる生命の出現である。◆モーセが述べた律法は少しもまちがっておらず、その内容は神の聖と義を現すすばらしいものである。しかしそれは「いのちを与えることができる律法」ではなかった。悲しいかな、罪に支配され、悪魔の奴隷として心が鎖にしばられている人間にはどうすることもできないのだ。心の奥には霊があり、その霊は律法のすばらしさを感じ、あこがれ、ぜひともその命令を守りたいと願うが、人格のうちに住む罪がそうさせない。その苦痛は、パウロのように律法を完璧に守りたい、神の義に到達し、御国に入りたいと望んで一生懸命努力した者でなければわからない。◆必死の力で律法という絶壁をよじ登り、1,000mの地点に達すると、なおそこから1,000mの断崖がはるか天空まで続いている。信じられないような超人的努力で、さらに1,000mを上る。するとその地点からさらに1,000mの高さまで垂直の岩壁が続いているのである。罪はこちらの力に応じてさらに強大、凶暴になる。100、1,000、万、億と、力を入れれば入れるほど、はるかに勝る力で立ち向かって来る。絶対に勝てない相手なのである。パウロは幾夜、涙を流したことであろうか。「ああわれ悩める人なるかな、この死のからだより我を救わん者は誰ぞ」(ローマ7:24文語)との叫びの深さ、重さに、私たちは思いをいたさなければならない。そうしてこそ、次の節へと架けられた橋を渡ることが可能になるであろう。「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。」(ローマ7:25新改訳)◆キリストと共に、罪と律法の呪鎖にくくられ、呻吟していた私たち自身が死んだ。罪が私を苦しめようとしても、その私がキリストと共に死んでしまった以上、律法と罪は存在する意味を完全に失った。そしてその先に新しい私が活かされる復活の世界が幕を開けたのである。

 


朝の露 申命記5章 <焼き尽くす火>

2019-11-06 | 申命記

ガーベラ「今、なぜ私たちは死ななければならないのでしょうか。この大きい火は私たちを焼き尽くそうとしています。もしこの上なお私たちの神、主の御声を聞くなら、私たちは死んでしまいます。」(申命記5:25新改訳)

罪ある人間が直接、神の前に出ることは、灼熱の太陽に近づくより、もっと恐怖に満ちた経験であることをイスラエルの人々の告白が示している。だからこそ、我らの罪を負い、神と人との仲立ちとなられたイエス・キリストの出現が必要だった。モーセが人々に述べたとおりである。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。・・・これは、あなたがホレブでのあの集まりの日に、『私の神、主の御声は二度と聞きたくありません。この大きな火はもう見たくありません。私は死にたくありません』と言ったことによるものである。」(申命記18;15,16同)▼もし救い主が来られなければ、すべて人間は永遠に焦熱地獄(ゲヘナ)行きであった。◆ここで、イスラエルの人々が感じた戦慄と恐怖、その言葉から間接的に罪の本質を知ることができる。つまり、このような栄光と火に包まれた神を、堕罪前のアダムとエバは恐れることもなくエデンの園で仰ぎ、話をし、交わっていたのであった。しかしその子孫であるイスラエル人たちが抱いた限りない恐怖心、その落差と断絶こそが罪の持つ本質である。◆この落差と断絶を埋めるため、神の子は人となってこの世に来られ、最期に十字架につけられた。そこでいえるのは、まさに神と人との間にある恐怖の隔絶(神の側からいえば罪に対する比類なき怒りとなろうか)を負った姿こそ、ナザレのイエスといえる。イエスこそは、この落差と断絶が目に見えるかたちとなったお方、あの至聖所の前に分厚くおろされた隔ての幕にほかならない方であった。そして「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれ、父との無限の断絶に叫び声を上げ、息を引き取られた瞬間、この幕が二つに裂け、廃棄されたのである。そして新しい道がそこに出来たのであった。◆私たちが教会につどい、聖餐を感謝して受けるのは、神と人の間に立ち、恐怖と断絶そのものとなって十字架に死なれたお方、他のだれもが絶対にできなかった仲立ちとなられたお方に、すべての栄光を帰すためである。

 

 


朝の露 申命記4章 <御声だけであった>

2019-11-05 | 申命記

あでやか「主は火の中からあなたがたに語られた。あなたがたは語りかける声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。」(申命記4:12新改訳)

神はこの章で、イスラエルに偶像を作って拝んではならないと、きびしく命じられた。すなわち、男、女、動物、鳥、爬虫類、魚、日月星辰などいかなる存在も彫像にしてはならないと固く命じられたのである。▼悲しいことに、以後のイスラエルの歴史はすべて偶像礼拝の歴史となった。人は言うかもしれない。捕囚から帰還したあとの選民は偶像を作らなかったではないか、と。はたしてそうだろうか、彼らはヘロデ神殿を偶像にし、旧約律法から作り上げたユダヤ教を偶像とし、人々から搾取した上、安息日を守れといって苦しめた。そして挙句の果てに、人となって来られた「神のことば」そのものを十字架につけたのである。▼人は神の契約を破ることしかしない。この冷厳な事実を証明したのが、ほかならぬイスラエルの歴史である。ところが神は人間の反逆性の真っただ中に十字架をお立てになった。神のひとり子イエス・キリストは拒否され、なぶり殺しにされ、血潮が大地を染めたが、そのいのちが人の罪と反逆性を呑みこみ、愛とゆるし、聖潔へと変貌せしめた。キリストのはなよめの出現である。▼今の世界は見るも無残な堕落と破壊が占領しているように見える。しかしまもなく、復活と勝利が全世界を呑みこみ、新世界へ移行させるであろう。永遠のみことばがそう宣言しているからである。私たち、信仰によりアブラハムの子とされた者は、神にお会いする準備をしなければならない。「それゆえイスラエルよ、わたしはあなたにこのようにする。わたしがあなたにこうするから、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ。見よ、山々を形造り、地を創造した方。その御思いが何であるかを人間に告げる方。暁と暗闇を造り、地の高き所を歩まれる方。その名は万軍の神、主。」(アモス4:12,13同)

 

 


朝の露 申命記1章 <不信仰の罪>

2019-10-30 | 申命記

盛り花「このようなことによっても、まだあなたがたはあなたがたの神、主を信じてはいない。」(申命記1:32新改訳)

エジプトを脱出したイスラエルを、母が自分の子を抱くように神は大切に守り、導いてくださった。そして時が来た時、「さあ約束の地に上って行け、そこを占領せよ」と仰せられた。 ところが彼らは理屈を言い、まず斥候を派遣して探らせようと提案した。そして彼らが帰ってきて報告すると勇気をなくし、泣いて神に文句を言ったのである。▼人の心にある不信仰と反逆の性質は、わざわいである。どれだけ神の愛と慈しみを体験しても、感謝せず信頼しようとしない。そして「まだ足りない、もっと欲しい」と神に祝福ばかりを求める。よくよく眺めてみれば、旧約聖書は初めから終わりまで、人間の抱く不信仰が救いがたく、絶望的なものであることの実態報告書にほかならない。▼使徒パウロは、「それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです」(ローマ3:19同)と断じた。キリストと共に十字架で死ぬ、それが不信仰の罪から解放される唯一の道である。ちなみに、私たちも自分の生涯を顧みてみよう。口からどれだけ感謝の言葉が出て来るであろうか。おそらく人の一生を時間で測ってみれば、不平、不満、つぶやき、文句、怒り、非難中傷、それらが99.9パーセントを占めているのではないか。これが逆転すること、それがイエス・キリストの救いであり、御霊によるきよめである。なぜなら神の愛が心に宿ったとき、人は自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜ぶようになり、すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍ぶように、神によって変えられるからである。◆主イエスを家にお迎えしたザアカイの変貌ぶりを見よ。「ザアカイは立ち上がり、主に言った。『主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。』イエスは彼に言われた。『今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから』」(ルカ18:8、9同)