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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 申命記13章 <あらゆる神々>

2019-11-20 | 申命記

pink rose「あなたと母を同じくする兄弟、あるいはあなたの息子、娘、あるいはあなたの無二の親友がひそかにあなたをそそのかして、『さあ、ほかの神々に仕えよう』と言うかもしれない。これはあなたも先祖たちも知らなかった神々で、地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの周りのあらゆる民の神々である。」(申命記13:7新改訳)

モーセはここでも偶像に仕えることをきびしく禁じている。わが国は東の果てに位置し、吹き溜まりのように諸民族の偶像が集まっている。神々のオンパレードと誰かが揶揄したとおりだ。インドや中国、遠くはギリシャやエジプトの神々、北方のシャーマニズム、南方系の神々など、ありとあらゆる像やしるしが山に丘に、町や村に祀られていて、八百万(やおよろず)の神々と呼ばれて来た。▼ある人は言う、日本は信仰に寛容であり、平和を愛する民族だからこそ、このように多神教が栄えているのだ、と。だが決してそうではない。ゴミの山に埋もれて暮らす人が幸福ではないのとおなじで、そこから迷いのない明瞭な生き方が生まれることはなく、最後はほろびに至るしかない。「神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。」(使徒17:30同)


朝の露 申命記12章 <偶像>

2019-11-19 | 申命記

黄色花「あなたがたが追い払おうとする異邦の民がその神々に仕えた場所は、高い山の上でも、丘の上でも、また青々と茂るどの木の下でも、それをことごとく破壊しなければならない。」(申命記12:2新改訳)

ユダ王国にはすぐれた信仰の王が何人か現れ、宗教改革を行い、国内の偶像を破壊して回った。しかしそれにもかかわらず、少し期間が過ぎると偶像礼拝は回復し、民はふたたび堕落してしまった。まさにイタチごっこである。▼原因はあきらかで、人の本性には肉欲を慕い求め、まことの神の御心を嫌がる原罪が根を張っているからである。すべての人は生まれながらにして、この罪の力に占領支配され、救われなければ滅びに行くしかない。モーセ律法はそのことに気づかせようとして神がお与えになったものであった。その結果、罪を自覚した人はすべて救い主キリストに導かれ、そのあがないにより、生まれ変わることができるのであった。悲しいことに、そうする人はきわめて少数で、今なお世界には偶像礼拝が満ちている。パウロが涙して書いたとおりだ(ピリピ3:18同)。◆もともと人間は神のかたちを持つ存在として創造された。三位一体の神の御本質は愛であるから、人間が神のかたちに造られたということは、神と愛の交わりをすべく造られた存在であることを意味する。ところが、人はそれをいやがり、もっと自由になりたい、神を愛する、愛さないは自分の自由であると考えている。それが動機となって偶像が作られたのである。◆しかし、何を信じようとその人の自由、何を神としようとその人の自由、というのは「人格の自由」を意味しない。なぜなら、いかにそう思いながら生きても、人の心は絶えず「何かに束縛されて生きている自分」を感じながら生きているからである。主イエスが言われるとおりだ。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:34同)◆そのお方が真の自由について語られた。「ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです」(同36)と・・。イエス・キリストこそ、私たちをほんとうの意味で、永遠に自由にすることができる唯一のお方である。だから主のみもとに一刻も早く来ようではないか。

 

 


朝の露 申命記11章 <気をつけなさい>

2019-11-18 | 申命記

虹菊「のろいとは、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道から外れて、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行った場合である。」(申命記11:28新改訳)

イスラエルが偶像礼拝に歩んだとき、いかに悲劇を招くか、モーセはこんこんと説く。もちろん、その反対の祝福も説いているのだが、その後の歴史でイスラエルはモーセの忠告に従わず、偶像礼拝とのろいの道を選び取った。どんなに言葉をつくし、神から離れる恐ろしさを説明されても、人間の堕落性はそれを行ってしまう、つまり旧約のイスラエル史は、神に反逆して止まない原罪の事実を語る証言記録でもある。▼乳と蜜の流れる豊穣の地、カナン。天よりの雨と地よりの泉にうるおされ、耕す必要もない祝された国土、さながらエデンの園のようなところに住まわせられた人々であったが、肉欲には勝てなかった。今の日本もこれと似ていないか。しかしたった一つ、これに勝つ道がある。それは私たちのためにのろわれた者となり、十字架にかかってくださったお方を仰ぐこと、さらにその御霊を内にお迎えして生涯を歩むことである。◆イスラエル人は「わたしのことばを心とたましいに刻み、それをしるしとして手に結び付け、記章として額の上に置きなさい」(18)に従って、みことばを納めた革製の箱を文字通り、腕や額につけている。しかしいくらそのようにしても、心に存在する罪は消えないし、かえって猛悪さを増すのみである。使徒パウロがローマ書7章に記しているのはその葛藤にほかならない。ただ、キリストの贖いにより、私たちの内にお出で下さった聖霊のみが、神のことばを心とたましいに刻み、罪から自由にできるお方なのだ。

 

 


朝の露 申命記10章 <心の割礼>

2019-11-14 | 申命記

緋色シクラメン「あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない。」(申命記10:15新改訳)

割礼は陽の皮を切り取る儀式だが、真意は神への反逆性と頑なさを、心から切り捨てることであった。すでに旧約時代から、それは強調されている。たとえばエレミヤは、「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け」(エレミヤ4:4同)と叫んで、そのために迫害されたのであった。▼だが何度叫ばれても、心の割礼はイスラエル人にとり、不可能であった。古き人の死が実現していなかったからである。こうしてイエスがお出でになり、十字架の全き贖いが実現、ペンテコステの聖霊傾注となった。▼いみじくもパウロは言う、「文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです」(ローマ2:29同)と。キリストを主と仰ぎ信じる人には御聖霊が内住し、十字架の真相を示し、彼の罪がキリストと共に死んでいることを教えたもう。かくてその人をきよい神のみこころによって満たされるのだ。こうして人ははじめて罪の欲望から解き放たれ、喜びのうちにホーリネスの道を歩むよう変えられる。◆ところで本章と前章を読むと、興味深い事実がわかる。最初に神の山から降りて来たモーセは、すべてが神の作である石の板2枚を持っていたが、民の酒宴を見、怒って砕いてしまった。2度目はモーセ自身が板を作り、神がそれに十戒を刻印し、さらに山から降りたときに「木の箱」に納めた。つまり二度目はかなり違ったありさまであった。◆この箱は受肉された神の子イエスを象徴していると私は考える。第一回目、神の栄光を現す十戒の板をイスラエルは受け取れなかった。そこで二回目は木の箱に入れられ、直接目にふれることがないようにされた。こうして十戒はイスラエルの中に存在することになったのだ。ナザレのイエスは天の父を内に宿したお方であった。見栄え無き一ユダヤ青年だったが、その御人格の内側には天の父が栄光をもって住まわれた御方である。「見栄え無き」ということが重要な意味を持つ。それは私たちの内に宿ることが可能な御姿である、と言う事実を物語っている。◆この御姿であればこそ、主は(御霊によって)私やあなたに内住することができるのである。そして主の内には栄光の父が御住まいになっておられるから、結局、私や貴方の内に三位一体の神が内住されるということになる。これこそが新しい契約時代である今、私たちに実現している恩寵の中の恩寵なのである。

 

 


朝の露 申命記9章 <モーセのとりなし>

2019-11-13 | 申命記

黄色花「私があなたがたを知った日から、あなたがたは主に逆らい続けて来た。それで私は、その四十日四十夜、主の前にひれ伏していた。それは、主があなたがたを根絶やしにすると言われたからである。」(申命記9:24,25新改訳)

イスラエルが神に選ばれた民とはいえ、本質は神への反逆性に満ち、その行為は神を怒らせることばかりだった。モーセは本章でくり返し、その事実を指摘する(6~8、13、23)。神の怒りと憤りはあまりにもはげしかったので、モーセは恐怖にふるえた(19)が、御前に立ちはだかるようにして嘆願する。主よ、この民をゆるしてください。先祖の信仰を思い起こし、世界であなたの御名がそしられないためにも思いとどまってください、と。▼全知全能の神が「本気で怒った」とき、モーセはその怒りの前に立った唯一の人間であった。「その怒りと憤りが、私には怖かった」(19)と述懐しているが、想像もできない恐ろしさであったろう。彼は40日40夜、飲まず食わずで神の前に出、もう一度、とりなしをするために40日40夜、神の前に出た。飲み食いなどとてもできない緊張と恐れ、そのなかで計80日80夜過ごしたのであった。罪を持つ人間が、そのままで神の前に出る、それがいかにすさまじいことであるかを、モーセのあり方が示している。▼それでもモーセは死ななかった。そこに怒りの中にもモーセをあわれみ給うた神の御姿をみることができよう。だが、十字架の主は違っていた。主イエスは父なる神の御怒りを、あわれみを受けることなく完全に飲み干されたのであった。その証拠に、イエスの心は激しき怒りの炎に焼かれ、溶けたとある。かたちを保つことさえできなかったのだ。「水のように 私は注ぎ出され 骨はみな外れました。心はろうのように私のうちで溶けました。」(詩篇22:14同)▼一点の罪すら持たない神のひとり子さえ、神の怒りの前には心が溶けたのだ。その炎熱のはげしさを思うべきである。その中から発せられたのが、「父よ、彼らをおゆるしください」である。キリストのお心が溶け去ったと同時に、私たちの罪も溶け去ったというべきではないだろうか。だからこそ私たちはキリストにあって父なる神の御前に立つことができるのである。