「あなたと母を同じくする兄弟、あるいはあなたの息子、娘、あるいはあなたの無二の親友がひそかにあなたをそそのかして、『さあ、ほかの神々に仕えよう』と言うかもしれない。これはあなたも先祖たちも知らなかった神々で、地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの周りのあらゆる民の神々である。」(申命記13:7新改訳)
モーセはここでも偶像に仕えることをきびしく禁じている。わが国は東の果てに位置し、吹き溜まりのように諸民族の偶像が集まっている。神々のオンパレードと誰かが揶揄したとおりだ。インドや中国、遠くはギリシャやエジプトの神々、北方のシャーマニズム、南方系の神々など、ありとあらゆる像やしるしが山に丘に、町や村に祀られていて、八百万(やおよろず)の神々と呼ばれて来た。▼ある人は言う、日本は信仰に寛容であり、平和を愛する民族だからこそ、このように多神教が栄えているのだ、と。だが決してそうではない。ゴミの山に埋もれて暮らす人が幸福ではないのとおなじで、そこから迷いのない明瞭な生き方が生まれることはなく、最後はほろびに至るしかない。「神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。」(使徒17:30同)