しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <律法の下で>

2024-08-30 | ガラテヤ
「信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視(かんし)され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。」(ガラテヤ3:23新改訳)

高校時代、電車通学をしていた私は、K刑務所(けいむしょ)が見える近くを毎日通過して眺めたものである。高い塀(へい)だけが見え、中は知る由(よし)もなかったが、ひときわ目立ったのが監視塔(かんしとう)だった。それはとびぬけて高く、窓が全方向に設けられ、夜は水銀灯の明かりが煌々(こうこう)と塀の中を照らしていた。「あのようにして脱走犯(だっそうはん)を見張っているのだ」と思いながら見ていた。▼イエス・キリストが出現する前、旧約聖書の律法時代は、いわばこの刑務所のようなものだったと思う。律法の学徒だったパウロは、人一倍その息苦(いきぐる)しさを感じていたと思う。そこにはいつも「するどく見つめる目」があり、苦労して掟(おきて)を守ってもほめる言葉はなく、びくびく、おどおどしながら日々を過ごす生き方しかなかった。▼こうして心の刑務所生活にあえいでいたパウロは、その中でキリストに出会い、初めて信仰による自由を得たのである。私たちはその喜び、その感動を深く思うべきである。▼私を信仰に導いてくれたT師は三年四か月、思想犯として獄中生活を強いられた。キリスト教の牧師であったため、治安維持法違反に問われたのであった。だが日本は無条件降伏し、同法は廃止され、1945年10月8日に釈放された。「出獄の 日や コスモスの咲き乱れ」と先生は詠んだ。刑務所の門を後にし、花壇の花々と秋の青空を仰いだ先生の喜びが伝わって来る。いわんや、律法という絶望の牢獄から解放された使徒パウロの喜びはどんなであったか。